Headline


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

個人の知見より、大衆の集合知が選択されたのが最近5年くらいの流れ

個人の知見。こういうワードを使えば失笑が漏れそうな昨今である。ひとりのブロガーが特別な見識を持っているという幻想からブログの歴史はスタートした。アルファブロガーと呼ばれる者達がブロゴスフィアでスター扱いされた時代もあった。しかし、そういう評論の至福の時期はせいぜい二年あったかどうか、という短さだった。2011年現在、そういう迷妄は誰も信じなくなっている。論客という意味でのアルファブロガーは表舞台から姿を消した。一個人の見解など誰も聞きたがらない。聞きたいのは「みんなの意見」だ。大衆による集合知である。俺はこの言葉をわりとニュートラルに使っているつもりである。大衆の集合知は悪くない。趣味の分野で素人が知恵を出しあって、それなりの見解に到達する。それは素晴らしいことであり、決してなじるようなものではない。一人の個人が特別な知見を持つという幻想を崩壊させたという点で、2ちゃんねるまとめブログの功績は大きい、という言い方をしてもよい。とはいえ、俺はかつて自己表現としてホームページを始め、論客ぶったスタイルが批判されつつも、(個人サイトの狭い世界で)一定の評価を得た。そういう(間違った)経験を持つだけに、一個人の綴る筆致の強度というのを否定したくはない。インターネットの世間の傾向として、大衆の集合知を求める方向に向かっているのは明らかなのだが、あえて両方とも試す実験体のようなブログを目指しているわけである。もちろんこのブログの主軸は「2ちゃんねるまとめブログ」である。評論めいたものは、時たま書かれる程度になる。詰まれていることを確認するために棋譜とにらめっこするような、あまりにも愚昧で頑迷な試みだが、失敗の実演をする馬鹿野郎が一人くらいいてもいいだろう。たとえば、まとめた内容に管理者の見解を加えないのが、まとめブログの基本的なスタイルだが、俺はまとめよりも長文になるくらいの見解を加えていくつもりである。
スポンサーサイト

更新頻度が高いまとめブログが嫌われる理由

まとめブログは更新頻度が高いと嫌われます。
読者に嫌われるのではなく、相互先に嫌われるのです。
まとめブログがこれだけ隆盛を誇っている鍵は、ページの上部にあるヘッドラインです。
「相互RSS」と言われます。
相互にする必要はないが、相互にするのが普通なので、相互RSSと呼ばれるのです。

普通に考えてみてください。
たとえば俺のような糞ブログが更新しまくったらどうなるか。
相互先のRSSの一番上の方に俺のブログが表示される状態が続くでしょう。
相互先から見れば、
「この糞ブログつまらないのに、いつも上の方にいるな。切ろうか」
という発想になります。

なぜこのようなことが気になるかというと、相互RSSはアクセスを送り合うシステムだからです。
更新し過ぎる糞ブログがあれば、アクセスの送り込みの問題として、そこに偏りすぎます。
満遍なくあちこちにアクセスを送りたいのに、うちのような糞ブログがRSSの上部にいつもいるのなら迷惑でしょう。

まとめブログで小ネタをまとめて末尾に「他」と付けるのはそういう理由なんですよ。
多更新にならないようにネタをひとつのエントリーにまとめるわけです。

しかし、敢えて言いたい。
更新頻度が高いのは気にするなと。
更新しすぎて相互先から切られても、それはそれで仕方がありません。
それに、地道に少しずつ更新するのは飽きませんか?
相互先から切られても、多更新が可能なら、勢いよくエントリーをたくさんあげるべきなのです。
たくさん更新するのも自由。
それをウザイと思ってRSSから外すのも自由。
お互い自由だと思うのです。

まとめブログで一日一万アクセスは簡単ですよ

まとめブログで一日一万アクセスを目指すと書いたら馬鹿にされたので書いておく。実態として、まとめブログで一日1万アクセスはさして難しくない。誰でも出来ることだ、と言っておこう。まとめブログのアクセスを普通のブログに換算するなら10分の1にするくらいでいい。もしくは100分の1くらいが妥当かもしれない。個人が文章を書くとして、それが血で書かれたような読み応えある文章だとしても、一日一万とか十万とか安定して集めるのはかなり困難である。個人の文章はもはや価値を持たない時代だ。まとめとして編集された大衆の集合知だけが持て囃される。大衆の寄せ集めた集合知に抗うように、個性の強い個を押し出したまさに個人としての個人ブログを書いて一日一万集めるのは至難の業であり、同じ基準でまとめブログと比較されるなら、車に乗ってる奴から足の遅さを揶揄されている違和感があるのだ。まとめブログであれば、画像とか貼っておけば、それに大衆が吸い寄せられてくるが、個人として個人の文章を血で綴るような場合、どこの誰が一日一万とか十万とか達成出来るのだろう。大衆的向けの情報として価値のない個人的なテキストの読み手を探すのはとても困難だ。
文化圏の問題についても触れておかなければならない。まとめブログは文化圏として最大のものである。ネットの歴史上かつてないほど最大規模の文化圏だ。まとめブログの大海に身を投げて埋もれて玉砕し塵芥になることもあるが、うまく波に乗り相互リンク・相互RSSで大きく展開出来れば、万単位の大衆的アクセスを獲得することが出来る。競争相手とは邪魔な存在である一方、相互リンク・相互RSSの潜在的味方なのだ。テキストはこういうのが無理である。かつてテキストサイト文化というのがあった頃は、お互いのまずい文章を読み合うような関係も作れたが、今では廃坑の中の坑夫として放浪しなければならない。捨てられた領域に逗留し個としての文章を書き続けていても、横の繋がりで輪が広がることはない。人語を解する人に出会うことさえ難しい。テキストにせよ、作品にせよ、それを作るのは一個人の自由だが、伝播の問題に関して言えば、基底となる文化圏が必要である。個人としてのテキストが誰にも届かず、大衆的なまとめサイトが大人気という現状に耐え難い思いをしているからこそ、まとめブログの文化圏に版図を広げてみせ、個人のテキストの書き手だってこれくらいは出来ると証明したいのである。そして一日1万アクセス集めたら、まとめブログのアクセスがいかに無価値かを毎日書き続けるのだ。このブログを、そういうプロパガンダを行う装置の基盤にするつもりだから、ひとまず自分が実行してみせて達成してから、まとめブログを読むような大衆を啓蒙しようという算段である。アクセスに対する価値観や解釈に楔を入れるために、実践と実証によるアプローチをしているのである。半年後に俺がアクセスの少なさに血涙を流し白眼を剥いて横たわっていたら、まとめブログで一万アクセスというのは誰にでも出来ることではないスペシャルなことだと不承不承認めてやろう。

デマは別腹なので、はてな匿名ダイアリーは本当の影響力がない

われわれはネット上のデマも楽しむ。
それによるダメージなど無い。
デマは別腹だからだ。
真相として了解している部分とは別の腹に入れている。

たとえば、はてな匿名ダイアリー。
これはデマとしてデマの腹に入れている。
だからデマで楽しませる装置でしかないのだ。

時たま真相があっても、はてな匿名ダイアリーに書いたのでは伝わらない。
はてな匿名ダイアリーはデマと決まっているからだ。
たとえば萌通がやらおんを脅して「やられやく」を乗っ取ったのは真実だと思われるが、このあたりの話ははてな匿名ダイアリーに書かれているから、誰も信用しないわけである。

真相を伝えるためにはてな匿名ダイアリーに書くくらい馬鹿なことはないのだ。
あくまではてな匿名ダイアリーはデマを流して相手にダメージを与える場所なのである。

一般サイトとまとめブログは同じ物差しでアクセス数を測るべきなのか

一般サイトのアクセス数とまとめブログのアクセス数を同列に語る人がいるのだが、それは正しいのだろうか。
俺だって無断転載しまくれば、一日一万アクセスくらいは軽く集まる、と先に宣言しておこう。
そういう認識を持っていることをあらかじめ表明し、その認識の正誤を後で確認するためだ。

要は、論証ではなく実証というアプローチです。

昔やっていた大手サイトの名前を出しても、アクセスがまったく増えなかったので、やけくそという要素も大きいです。
これから、普通ではあり得ないくらいに無断転載しまくる。
それでアクセスが増えたら、「まとめブログの連中は無断転載でアクセス稼いでるだけのクズ」と書いてやる。
FC2にアカウント剥奪されるまでやります。

はてブを有り難がるのは零細の発想

Togetter - 「nanapi 「けんすう」こと「古川健介氏」の反論」

最近ははてな匿名ダイアリーに権威があるようです。
デマだからこそ、真実性を感じるという心理が働くのでしょう。
何にせよ、はてな匿名ダイアリーを廃止するべきだと思います。
もしくは、はてなの近藤が名誉毀損の全責任を負うべきである。

けんすう君がはてなブックマークで自演していると思う人がいるとすれば、それは零細の発想でしょう。
零細にとってはてブほど有り難いものはないです。
アクセスの供給源がないところにとって、数少ないルートですからね。
大手はアクセス貰うルートが多数あるのが普通だから、はてブとか有り難くないですよ。

もちろん現状の私のブログであれば、はてブされるのはとても有り難い。
アクセスの供給源が乏しいブログにとってはてブは神様みたいなものですからね。
そういう貧困者の感覚を持ってる人が、はてブの自演云々という記事を書く。

バッシングされすぎて人間のクズになった東浩紀

このブログでの私のスタイルが昔の「2ちゃんねる研究」の頃とは違うと思われている方もいるかもしれません。それはですね、やはりバッシングされてサイトを閉鎖してますから、そのあたりでスタンスが変わってるのです。人間はそうなるのです。

わかりやすいのが東浩紀という人間のクズです。東浩紀を昔から見ている人なら知ってると思いますが、彼は昔は誠実な男性でした。10年前の彼はバッシングされても、一生懸命真面目に反論していました。そのうち、だんだん東浩紀から誠実さが消えました。人間のクズとしか言いようのない発言が増えました。これは私には理解できます。東浩紀はかなり真面目に議論するタイプでした。それが通用せずに、煽られまくった。それなら人間のクズになった方がいいと彼は考えたのです。だから今の東浩紀は、昔とは別人と思えるほどに横柄なクズなのです。もちろん私はエスパーではないから、東浩紀の脳内はわかりませんよ。自分に照らし合わせて書いてみただけです。真面目に議論することの不毛性に彼は逢着し他者への姿勢を考え直したのだろうと、私は推察しただけです。

サイト運営、そして文化圏への参加

2000年5月に2ちゃんねるでネオ麦茶が「ヒヒヒヒヒ」と犯行予告をした上でバスジャック事件を起こした。一ヶ月後、私は「2ちゃんねる研究」というホームページを立ち上げた。理屈で戦略を考えたのではなく、話題になっている2ちゃんねるをテーマにしてみただけである。話題になり始めた事象についてサイトを立ち上げるということを、意識することなく素朴に実行したわけだ。絶妙なタイミングだったが、まったく計算はなかった。(ちなみに私はそれ以前にホームページを作ったことがない)。最初に作ったホームページのわりには、アクセスは右肩上がりだった。
サイトを運営するとは、文化圏に参加することである。もちろん参加せずに孤島で書き続けるのも自由だが、サイトとして成り立たせるためには文化圏への参加というのが鍵なのだ。「2ちゃんねる研究」は文化圏に参加することが出来ていた。他ならぬ2ちゃんねるという文化圏である。2ちゃんねるが注目され始め肥大していくプロセスに参与出来たのである。
それを2002年末に閉鎖した。それから三年くらいサイトやブログはやらなかった。その三年くらいのブランクを経て、2006年から本格的にブログを始めた。だが、それがパッとしないのである。初めて作ったホームページである「2ちゃんねる研究」は2002年段階で一日1万アクセスあったのに、それ以降は閑古鳥が鳴くばかりである。
「つまらないから」という一言で唾棄するのは簡単だが、それだと「2ちゃんねる研究」のアクセス数の説明が付かない。面白いつまらないが話の焦点ではなく、文化圏にうまく参加できるかが問題なのだ。私の現在のブログはアニメ批評が多いと思うが、アニメ批評の文化圏に入り込めたとは言えない。
これはアニメ批評ブログの大手が排他的であるのと関係があるかもしれない。2ちゃんねるまとめブログなどは、ブログのトップの位置にヘッドライン(いわゆる相互RSS)を貼って、文化圏を形成しようとしているが、アニメ批評ブログの大手でそういうことをやる人はほとんどいない。こういうのは大手(あるいは中堅)が流行らせないと流行らないものなのである。うちのような零細がヘッドライン(相互RSS)を貼ってみても機能しないのは言うまでもない。他者が呼応し伝播し繁茂していくことが必要なのだ。それだけのインフルエンスのある人が発信源にならなくてはならない。
2ちゃんねるまとめブログの相互RSSに関して言えば、彼らはとてもアグレッシブだ。彼らは相互RSSしたいという願望が強い。もちろん相手のサイトが糞過ぎたり格が違いすぎたら断るだろうが、基本的にはウェルカムである。だから彼らは際限なく繁殖していく。相互するたびに線が繋がり、網の目が広がる。それが生い茂っていくのだ。こうやって2ちゃんねるまとめブログにネットを支配されるのもいいけれど、アニメ批評の大手の人も文化圏を作る努力をして欲しいものである。相互RSSを流行らせて欲しいというだけだ。流行ってくれればそれでいい。うちのような零細は身の丈に合ったところと相互するだろう。大手と相互したいと言っているのではない。われわれが塵芥として散逸することなく、群れとして前進する力学が欲しい。このインターネットという環境世界で網の目を張り巡らし文化圏を生成するコードがあればいい。相互RSSよりベターなものがあるならそれでもいい。バラバラに孤島で綴られているアニメ批評を文化圏として編成するものであれば、すべて受け入れる。
逆説的だが、アニメ批評サイトは数が多すぎて文化圏が形成できないのかもしれない。アニメは流行ってるし、アニメ批評サイトもたくさんあり、(数の問題として)文化圏形成の条件は整っているが、うちのような超零細が死ぬほどたくさんあるのかもしれない。数が多すぎて盛り上がらないという問題。どこも埋もれてしまうのだ。
もしくは身も蓋もないことを言えば、アニメ情報とアニメ批評では需要の度合いが違う。アニメ情報は需要があるから、文化圏形成のために人々が邁進する。アニメ批評には需要がないから文化圏を作りうるだけの求心力が無く、有象無象の愚にも付かない数多の感想が打ち捨てられる格好になるのかもしれない。盛り上がる要素がない文化に文化圏も糞もないですよね。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
アクセスランキング