Headline


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

黎星刻(リー・シンクー)を考える



「コードギアス」を久々に見たので、ちょっと気になった点。

R2後半では黎星刻(リー・シンクー)があんまり登場しないという印象を持っていた。しかし今回見てみたら、かなり映ってるし話してるし……。でもやはり影が薄いのだな。何故かというと、「見せ場」がほとんどないのだ。R2後半でも結構登場して戦ったりするんだけど、物語の鍵は握らないのである。

黎星刻(リー・シンクー)は典型的な主人公タイプのキャラだ。
この人物を物語の中に入れることは出来ない。
「コードギアス」はルルーシュとスザクの物語なのだから、ここに黎星刻(リー・シンクー)がいても仕方がないというか、話が壊れてしまう。

R2前半でリー・シンクーと天子様のエピソードがあるが、あのあたりは外伝のように見える。「コードギアス」の物語の本質に全然関係ないわけだ。

別にミステイクだったというわけではないだろう。日本でもブリタニアでもない第三国に優秀な指導者タイプを置くのはわりと妥当なように思える。そして、そういう人物を空気キャラにしたのも妥当だと思う。

この作品において「中華連邦」は少し邪魔というか蛇足に見える。
第一期は日本とブリタニアが対決するという単純なことで話が進んでいたわけだ。
まあ多少は第三国の描写も必要ということで、中華連邦を描くことにしたのだろう。

つまりこういうことだ。
話の単純性として言うと、ルルーシュとブリタニアの対決というのが一番面白い。
でも、世界の中で戦争をやっているからには、他の国も描かざるを得ないだろうと。
(実際世界全体に話は及ぶのだから)。
黎星刻(リー・シンクー)もそのためのキャラで、そして、こういう主人公タイプに活躍されても困るから、空気なのだな。
スポンサーサイト

シャルルがルルーシュを泳がせているのは



かなり久々だが、「コードギアス」に関してのエントリー。

父親のシャルルが主人公ルルーシュを泳がせているのは、不自然ではある。
第一期と第二期が分かれたために、やむを得ず、という部分もあるだろう。
(泳がせないのなら、第一期の後に処刑して終わりだから)。
ただ、第一期だけ見ても、泳がせているというのは、見て取れる。

これは決してストーリーとしては面白いとは思わない。
だが、親子関係の葛藤をそれなりに描いているのかな、とも思う。
エディプスコンプレックス的な関係において、父親は息子を虐待するのみではあるまい。
父親は息子に期待もするのだ。
その一方で、自分を追い抜くことは許さず、潰そうともする。
「巨人の星」なんかは、その典型かもしれない。

ともかく「コードギアス」におけるシャルルとルルーシュの関係は、ある種の”愛情”を持ちながらも、父親より優位に立つのは許さないという、わりと現実にありがちなものなのかもしれない。
あんまり素晴らしい描き方とは思えないのだが、権力的な父親の典型的な息子への態度とも思うのである。

「罰が欲しいだけの甘えん坊」というマオのスザク評の正しさ

コードギアス第一期第十六話「囚われのナナリー」にて。
マオがスザクに言う台詞。

「この死にたがりが。人を救いたいって。救われたいのは自分の心だろ。それに殉じて死にたいんだよね。だからいつも自分を死に追い込む。おまえの善意はただの自己満足なんだよ。罰が欲しいだけの甘えん坊め」

これは神経症的な自己処罰感情を非常に上手く言い表していると思う。自己処罰ってある種の「甘えん坊」なのである。問題に向き合えないから、自分を自滅させる方向に追い込む。それで心のバランスを取ろうとする。でも実際はそんなものでバランスは取れない。何度何度何度何度何度何度やってもバランスは取れない。反復強迫とはそういうことである。

罪を犯したとして、それに向き合えないから自己処罰。
恥があるとして、それに向き合えないから自己処罰。
他人に傷つけられたとして、自分の傷に向き合えないから自己処罰。

自己処罰感情って、複雑で。自分が加害者であることもあれば、被害者であることもある。罪悪感というよりは、どちらかと言えば羞恥心に近いかもしれない。傷つけたり傷つけられたりの羞恥。それに向き合えないから、自己処罰の反復強迫が起こる。

自己処罰感情は、別に責任を取っているわけではない。現実の自分を鞭打つことで、理想の自分を守ろうとしている部分もある。だから甘えん坊なのである。

スザクはその問題をうまく解決できたのか?
それは何とも言えない。
ユーフェミアから「私を好きになりなさい。その代わり、私があなたを大好きになります」と言ってもらったことで、解決に向かったのかもしれないが、その後にユフィが……。

まあユフィが死んでないと、ずいぶん都合良く自己肯定感をくれる人物が現れて問題解決されることになってしまうので、殺されることにしたのは自然だけど。

ルルーシュの去勢不安とナナリーの身体障害

人間という生物はある種のネオテニー状態で生まれてくるので、成熟するまでに時間が掛かる。
そしてそういう存在だからこそ、未成熟性に関する葛藤が生じやすいとも言える。
(つまり他の生き物みたいに、さっさと大人になるわけではないので)。


第一期第七話でのシャルルの発言。
「死んでおる。おまえは生まれた時から死んでおるのだ。身にまとったその服は誰が与えた。家も食事も命すらも、すべてワシが与えたものだ。つまりおまえは生きたことは一度もないのだ」

これは古典的な父親と子供の関係をうまく言い表しているでしょう。シャルルの発言は、日本風に言えば「飯を食わせてやっている」とか「嫌なら出て行け」という具合。俺が面倒を見てやってるからおまえは生きてられるんだ、ということ。

あるいは教育の問題でも、人間はネオテニー生物だから、かなり面倒でお金も掛かります。(このあたりはコードギアスと無関係なので長々とは述べません)。

ともかくネオテニーなので、育てるのにコストが掛かるから大変なのです。親子の葛藤というのも、このあたりの未成熟性の問題です。依存が必要であるがゆえの葛藤関係。

ともかくシャルルの発言は、ルルーシュの去勢不安を煽っているわけです。父親からこういう態度を取られうるのも、ネオテニー生物として仕方ないのでしょう。

そして古典的で暴君的な父親の衝動によりルルーシュは追放される。とはいえルルーシュが本当に去勢されてしまうとダメなので、片割れのナナリーが代役として身体障害者になったのです。基本的に「コードギアス」において、ナナリーはルルーシュの分身です。父親に「去勢」されたピュアな自分がナナリーなのです。男性主人公が「かわいそうな僕」という感じだと痛いですから、「かわいそうな妹」という構造にしたのでしょう。

スザクの父殺しの(制作者側の)意図は?

「コードギアス」について色々考えてきて、今ひとつわからないのがスザクの父親殺しです。

制作者はなぜ父親殺しのエピソードを設けたのか?
もちろん父親殺しは心理学の基本ではあります。
あまり深く考えずに、単純に受け取ればいいのかもしれません。

ただ父親殺しというのは、基本的に「願望」とか架空の原罪の問題だと思うので、「実行」は必要ないと思うのです。実行されないからこそ原罪であり、タブーなのです。スザクに「実行」させる必要があったのか?
もちろん願望とか、(ありもしない)原罪だと描きづらいので実行させてみたのかもしれません。

「原罪」に関して言うと、やってもないことに罪悪感を憶えるのはわりと自然かと思います。
現実の自分自身や他人を見てみれば、わりとわかるでしょう。

人間は実際に悪事を成せば結構居直れます。
悪事を自慢話や武勇伝にする人はよくいるでしょう。

逆に真面目にやっていて責められると人間は弱い。
道徳的であるというのは、やってもいない罪に対して罪悪感を持つ状態とも言えます。

少なくとも私はスザクの父親殺しは、この作品の中でのファンタジー的原罪として見てしまうんですが……。
物語の中で、スザクが父親殺人事件をやらかしたというよりは、ある種の(タブーの)ファンタジーとして受け取ってしまうのです。作品内でもスザクが父親を殺す場面はわりと幻想的に描かれている気もします。
(コードギアスは人を殺す場面がたくさんあるアニメであるにも関わらず)。

このあたりはいずれ、もう少し考えてみようと思います。

美少年は美少女より立場が上なので、「コードギアス」の女性キャラに萌えるのは不可能

暗黙の前提として、イケメン最強というのがあると思うのです。リアルでもフィクションでも、ある程度共通しています。

「コードギアス」に萌えがあり得ないのは、ルルーシュが美少年だからという単純な問題。
ルルーシュは"謎の少女C.C."からギアスという能力を与えられて、ゼロの仮面を被り活動を始めるわけです。ラノベとかアニメにありがちな出だしです。

もし仮にルルーシュの容姿が普通レベルだったら、C.C.との出会いは美少女が降ってくるという構図であり、C.C.は萌え対象として設定されます。でも実際はルルーシュが美少年なので、C.C.に萌えるのは不可能です。「我が儘な少女に振り回される」という基本は押さえてますけど、決して萌えではない。

シャーリーの扱われ方に関しても、ヒロイン以外の誰かが主人公に惚れるという三角関係構造ではない。(たとえば「ゼロの使い魔」のシエスタ的な立ち位置ではない)。ルルーシュくらいの容姿なら、女に惚れられるのは当然なので、シャーリーから好かれるのも、別に普通のことです。

スザクとユフィの関係は、古典的なラブコメっぽい部分はあるけど。
ユフィはスザクの視点から描かれている部分があるので、辛うじて萌えは可能かな?
でも今風の萌え方をするのは難しいです。

二期から出てくるアーニャが空気なのも、「コードギアス」が萌えを許さない構造だからというのもあるでしょう。アーニャはキャラデザ的にはかなりよかっただけに、空気化してしまったのが残念。
(構造的にアーニャが空気化するのは自然なんですけど)。

もちろんアニメは萌えのためだけにやっているのではないので、「コードギアス」に萌えがないのはいいのです。萌えがあるというのは、主人公が美少女より格下であるということですからね。美少女より格下扱いの主人公では「男同士のライバル関係」をやるのは難しい。ルルーシュとスザクのライバル関係を描くのが「コードギアス」の根幹ですからね。

「ローゼンメイデン」の主人公みたいなのがルルーシュの立場にいて、美少女からギアス能力を与えられて、他の美少女たちを手下として使いながら戦うという話なら萌えはあった。
そういう構図でアーニャがいたら、かなり萌えると思うのです。

まあゼロの仮面の下が美少年でないなら、別の意味で拍子抜けだけど。
それに前述したように、主人公が美少女の格下扱いだと、スザクとのライバル関係が成り立ちづらい。

ルルーシュの運動が出来ないのはコメディなので

「コードギアス」において、ルルーシュは運動が出来ません。でもこれはコメディなわけです。容姿からするとスポーツが出来そうだけど、実は出来ないというギャップをコメディにしているわけです。

「エヴァンゲリオン」の場合、碇シンジの身体スペックを低く設定して、コンプレックスを前面に出したため、制作者が意図した以上に深読み出来る作品になりました。コミュニケーションの障害みたいな問題を(制作者が描いている以上に)深読み出来る。エヴァの批評って、エヴァという作品が提示した普遍的なテーマをダシにした自分語りである部分も多いですからね。

「コードギアス」はそういう深読みがしづらい作品かもしれません。もちろん普通のアニメに比べると、遙かに語るべき内容のある作品なのだけど、「深読み」がしづらい。このあたりはルルーシュが美形であることも理由の一つ。美形キャラでも物語の面白さ的にはいいのだけど、人間の普遍的な苦悩を描くというか、視聴者に深読みさせる対象としてはふさわしくないです。
「エヴァンゲリオン」は主人公の身体スペックが低いから、人間の普遍的な悩みを刺激しやすいのです。




ルルーシュが運動出来なくてもコメディにしかならないのは、外見が万能キャラみたいならそれでいいからです。
スポーツが出来るよりは、スポーツマンに見える外見の方がいいと言えばいいかな?

つまり、次の二つをあなたが選択出来るとして、

(1)外見はスポーツマンに見える好青年だが、実はさっぱり運動が出来ない
(2)外見は運動音痴で鈍くさく見えるが、実はかなり運動が出来る

このうちどちらかを選べるとしたら、ほとんどの人が(1)を選ぶのでは?

ルルーシュの場合、運動が出来なくても外見がスポーツできそうだから、これはコンプレックスにならないと思うんですよね。だからコメディーなんだけど。

あと、ルルーシュは基本的に長身キャラです。ブリタニア貴族の身長設定がやたらと高いので、ブリタニア貴族の中ではルルーシュの身長は低いのだけど、普通に見ている印象として、ルルーシュは長身です。
長身で美形で王子様なら、親から見捨てられても大丈夫なような?
いや、大丈夫ではないし、だから「コードギアス」の物語は成り立っているのだけど、視聴者がそこに自分を重ねて深読みするのは難しいかと。

「ウソのない世界」に深い意味はあったのか?

「コードギアス」における仮面とかウソの意味。この作品では仮面というテーマが結構出てきますが、今ひとつ消化不良という印象を受けます。
(もちろん私の見方が浅いだけで、実際は意味があるのかもしれません)。

単純にいうと、この作品は仮面を被って復讐劇をやるという構図が王道的に面白いわけです。そうやって仮面を被ることを、ペルソナ云々のテーマに結びつけるのは、ちょっと無理があった。

この作品では「仮面=ウソ」という感じになります。ルルーシュのゼロの仮面もそういうイメージ。ただ、ゼロという仮面の「ウソ」を、人間の関係性の普遍的問題にまで結びつけるのはかなり飛躍になるかと。

たとえば「ゴルゴ13」において、暗殺とか人を殺すというのを哲学的テーマにして、人が人を殺さない世界を作る人類補完計画とかやったら、変なのではないかと。
「コードギアス」のウソとか仮面の問題も、(ラグナレクの接続あたりに話が行くのは)無理な接着があるような気がします。

この作品の「ウソ」とか「仮面」とかは演劇上のガジェットなので、深く考えてもそれほど意味はないと思います。ゼロの仮面もガジェットでしかないので、人間性の普遍的な問題ではないです。

スザクは他人の裏表が見分けられない人間で、だから嘘つきルルーシュに不信感を持ち対立するようになります。人間の裏表を見分けられるかどうかはコミュニケーションにおいて重要なので、このあたりは興味深いんですが、「ラグナレクの接続」の話にまで持って行くには無理があるし、そもそもスザクはほとんど無関係ですからね。一応あの場面にはいるけど。
(スザクとルルーシュの関係にしても、ユーフェミアの件の怨恨が大きいわけで、裏と表のコミュニケーションのズレの問題を深く扱ってはいないです)。

C.C.はシャルルとマリアンヌに「すまない。気づいてしまったんだ。おまえたちは自分が好きなだけだと」という台詞を言うのですが、これは仮面とかウソの問題よりは、マリアンヌの母性の欠如の問題を言っているのでしょう。
というかR2第二十一話のやり取りは、(制作者側が)マリアンヌのエゴを強調して描いてます。
(つまり仮面やウソが素晴らしいという話ではない)。
あくまで「仮面」や「ウソ」はガジェットであり、実際は親子関係の問題ですね。一般的な自分と他人ということではなく、マリアンヌが実の息子のルルーシュに対して母性を持ててないという問題です。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
アクセスランキング