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春原陽平の妹が嫌だなと思う



最近CLANNADのアフターがアニメ化されていたので、久々にこの作品に接したわけだが、春原陽平の妹が嫌だなと再び思った。

「昔のかっこいいお兄ちゃんに戻って欲しい」という春原妹の願いはピュアであるように思える。
だが、そういう願いは理不尽では無かろうか。
たとえば我々にとって、小さい頃父親は偉大な存在である。
でもだんだん普通のオッサンだと気づいていくわけだ。
別にヒーローでも何でもなく……。

春原と妹の関係は、他人にヒーローであることを要求する理不尽さに思えるのだ。
嫌な意味でのイノセントな感性だ。

もちろんノベルゲーム(アニメ)だから、春原陽平は妹の前で、ヒーローとしての姿を取り戻す。
フィクションだと、こうやって「解決」出来るわけだ。

ヒーローでない人間にヒーローであることを要求するというのが、このエピソードの肝である。
フィクションだから、綺麗な解決を見るのだが。。
イノセントな幻想への回帰として褒めることも可能なんだけど。

春原妹が嫌だというよりは、(私が)ヒーローになれなかった自分に自己嫌悪を抱く、と書いた方が正確かな。
春原妹のエピソードは、そういう苦みに向き合わされるのである。
小さい頃は誰でもヒーローになるつもりで……、でもなれない。
春原妹は、そういう古傷を抉ってくるのである。
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「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」は魔法で奇跡が起きない物語

「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」の退屈さは興味深いと思うのです。
失敗作ではなく、かなり意図的な退屈さなのです。
普通のアニメと違う文法で話が進んでいくので、逆に普段見ているアニメのパターンが陰画のようにくっきり見えてきます。

この作品の特徴は、魔法が社会的であることです。
反セカイ系と言ってもいいです。

通常の場合、登場人物が魔法を使えたら、現実のルールを超えられます。
そういうのが魔法なのです。
一般人がみんな従属しているルールを踏み越えられるのです。

この「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」は、そういう多くのアニメ作品とは全く逆なのです。魔法は社会的な技能であり、そして多少忌まれているもので、魔法遣いの方が一般人に頭を下げないといけないのです。

そして特徴的なのは、その世界観がそのまま続くことであり、その受容プロセスがテーマなのです。他人から拒まれたらギアス能力を使って世界をぶちこわすという作品とは対極です。

2003年に放映された「魔法遣いに大切なこと」では魔法のエキセントリックな使い方というのも結構ありました。でも今作ではほとんどないです。序盤で落下する電車を止める場面とかあるけど、それは研修を始める前の話。研修を始めたら、社会のルールに組み込まれて、あくまで制限された技能として使うのです。
(研修前は派手に魔法使う場面出して、研修が始まったら魔法を制限されるというのはたぶん意図的かと)。

要するにこの作品の登場人物は(魔法が使えても)普通の少年少女として扱われるのです。
魔法という技能を使う過程で躓いて、そこから普通に立ち直っていく。
(ギアス能力で打開するみたいなのは全くありません。そういう作品とは対極なのです)。
普通の人生でありがちな失敗とか挫折を描いて、それを受容するというプロットの繰り返しです。
異能者バトルで「問題解決」するようなアニメに慣れていると、この作品はちょっと退屈に思えたり。

つまりアニメ作品で魔法が出てくると「問題解決」の仕方が、異能力で逆転してカタルシスを得るようなものだったりするわけです。「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」ではそういう解決方法が否定されています。
たとえば肥大した自我が不適合を起こすなら、それを現実社会に合わせたサイズにすることが、この作品の「解決」なのです。
(ルルーシュならギアス能力で世界の方を変えるんですけどね)。

漫画でもアニメでも下方修正による適応というのは、かなり少ないです。
基本的に100点か0点かで考える主人公が基本です。100点が無理な状況でも100点を求め、自爆的に特攻していくのが普通です。(フィクションだからそれで切り抜けてしまうんですけどね)。
「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」はそれとは対極で、100点が無理なら70点で世界と折り合っていこうという現実的な作品です。
オールorナッシングのアニメに慣れていると、なんじゃこりゃと思うかも。

「コードギアス」に限らず、社会を超越した異能力で動いていくアニメが普通だから、「夏のソラ」は退屈に思える人も多いでしょう。社会的なルールを異能力で超越するという展開を予想して見ていると、かなり期待はずれということになるはずです。

この作品は(全12話のうち)第九話あたりから盛り上がって、そして今ひとつ問題が解決されないまま終わります。
(というか現実を変更することが出来ないので、その現実と折り合うだけです)。
これはこの作品全体の特徴です。
魔法で現実の仕組みは超えられない。
その枠組みの中での心の表現が魔法なのです。
だから最終回近辺のカタルシス度合いも薄くて、不満な視聴者も多いはず。
でも、魔法で世界は超越できないという点で一貫性はある作品です。
(まあ現実をぶち破るカタルシスが無いと消化不良と言われるんですけど)。

「狼と香辛料」は社会的縛りを描いている希有なラノベ

普通の作品だと、主人公が無一文になるってよくあるんですよ。
で、あんまり困らない。いや、一応困るけどあくまで漫画的に(コメディ的に)困ってみせるだけで、ある種の自由人として生きていけたりする。ボヘミアンですよ。

「狼と香辛料」でも、これが凡百のラノベなら「無一文になったらなったで、わっちと一緒に自由に生きていけばよいでありんす」みたいな展開になる気がします。主人公が商人を辞めて、狼の謎を探す旅をする展開とか。主人公には実は狼を操る能力があったりとか。
(実際の「狼と香辛料」では、主人公はあくまで商人として社会的に生きていくのが大前提です)。

ほとんどの漫画・アニメ・ラノベでは、経済的な義務とか社会的な縛りが描かれないのです。主人公が無一文になっても、ある意味漫画的自由を得られたということであり、本当の意味で心理的負担は感じてないのです。決して経済問題としては描かれず、コメディとして扱われるのです。

「ナニワ金融道」がかなり衝撃的だったのは、借金を返せないことの恐ろしさを漫画で描いたからです。
普通の漫画の文法だと、借金したらボヘミアンになるだけで、別にいいんですよ。
「ナニワ金融道」は社会的縛りを非常に濃く描いて見せた。それは漫画では極めて例外的だったので、私たちは衝撃を受けたのです。(お金を借りたら返さないといけないという単純なことを描いたら、漫画読者には衝撃的だったのです)。

「狼と香辛料」でも、社会的な掟や縛りをちゃんと描いています。
というか、ボヘミアンルートを禁じている。
普通のラノベだと、主人公が社会から放逐されそうな展開になったら、その後は普通にボヘミアンルートなんですが、「狼と香辛料」では、あくまで社会的商人の立場に留まろうとするのです。

なんで「借金」というのをまともに描く作品は少ないのか?
なんで無一文をコメディとして描いてしまう作品が多いのか?
お約束だから……としかいいようがないのですが、基本的にボヘミアンルートを読者は求めているのです。主人公が社会的縛りから逃れていく展開のラノベが多すぎるのです。だから「社会的縛り」から逃れられない前提の作品に出会うと新鮮に感じるのです。


「ワンピース」のドラム島編と成長物語

現実において、人間はポジションが固定されているので成長しません。
たとえばあなたが10歳から20歳になったとしても、ポジションはそれほど変動しないはずです。

10歳の頃不細工だったのに、20歳になったらイケメンになることはない。
身長や運動に関しても、同年代の間でのポジションは変わりません。
知能や学力のポジションもそれほど変動しないでしょう。
(10年間いろいろやっても、同世代の中でのポジションは変化しないということ)。

もちろんポジションが変化することはあります。
子供の頃は小さかったのに中学あたりで身長が急激に伸びる奴は時々いますね。
一念発起して猛勉強して、劣等生から脱却するとかあり得るでしょう。

でも、大雑把に見れば、それほどの変動はないのが人生です。
生まれた段階である程度ポジションが決まっているのです。

だからこそ、ポジションの変化話は好まれます。
恵まれない境遇に生まれた人の成功話がわざわざ本になるのは、与えられたポジションから脱却するのが例外的なことだからです。

フィクションでも「成長物語」は好まれます。
最初から成功するのがわかってるような奴が成功する話ではなく、「例外的なポジション変化」の話が好まれます。

典型的なのは「はじめの一歩」みたいに、何らかの才能があって、それで懸命に努力して、ポジション変化させるような話です。
物語の多くが何かに「出会う」ことから始まるのは、ポジション変化をやりやすいからです。
○○との出会いで人生が変わったということです。
その出会ったものと関わり努力しながら、人生が塗り替えられていく……。


それとはまた別に、メンタルな部分での成長に重点を置いた話もあります。
私が好きなのは「フィギュア17」なのですが、ほとんど知られていないので、「ワンピース」のドラム島編あたりを例に挙げましょう。
「ワンピース」は"漫画的な面白さ"を極めたような作品ですが、ドラム島編は、その究極と言えるでしょう。
万が一読んでいない人がいると困るのでストーリーの説明は控えますが、メンタルな部分でいろんなことを克服して成長していくのが最高に素晴らしく描かれています。
このドラム島編は「ワンピース」の中で最も感動的と言っていいでしょう。
非常に大きなカタルシスを得られます。

逆に言うと、現実の人生では、なかなかこういうのが難しいんでしょうね。
いろんな意味で人は変わることが出来ない。でも自分の殻を破りたい願望は持っています。それをフィクションとして見事に描いたのがドラム島編なのです。
この話は本当に素晴らしいと思うのと同時に、現実だと無理だよなと思って悲しくなる部分もあります。

ドラム島編のようなものを「漫画的成長」と言っておきましょう。
漫画的プロセスで、人が自分の殻を破って生まれ変わる。
新しいステージに旅立つのです。


こういう「漫画的成長」をさせずに大ヒットしたのが「新世紀エヴァンゲリオン」ですね。
普通なら碇シンジを「漫画的に成長」させるはずなのが、ひとつも成長させません。
殻を破れない碇シンジは周囲からなじられる。
(漫画の主人公みたいに漫画的成長をさせてもらえないから)。
殻を破れない主人公を描いても「未完」になるしかありませんが、それが逆に多くの人の心をつかみました。
エヴァンゲリオンの「未完」は、人が変われないことの隠喩です。主人公が殻を破れないと、フィクションでは未完になるしかないのです。
一昔前「エヴァンゲリオン」に熱狂した多くの人は、アニメのエピソードを現実の出来事のように見なして語ってました。
やはり殻を破れないのが、リアルの相似形だということで、胸に響いたんでしょうね。
「ワンピース」とは対極の響き方ですけど。

「デスノート」



読んだことないひとはあまりいないと思いますが、万が一未読の人は以下の文章を読まないでください。


さて。

最初から犯人がわかっていて、その犯人が捕まらないように見守るサスペンスなわけです。
ある種の古典的な手法であり、映画だとよくありますが、漫画だとわりと珍しいかも。

特に前半は主人公が捕まらないように願いながら見る。
中盤でLが死んでから、ちょっと迷走している気がします。
主人公の妹が誘拐されるあたりは、とても通俗的なサスペンスでいただけません。
これは無理矢理話を続けようとしたからかな。
Nを後半に出してから、キャラが立つまで、少し時間が掛かりました。
終盤の方になると持ち直してきて、前半の頃のような面白さになったと思います。
(最後の方は、主人公が負かされるのを期待して見る感じでしょう)。

この作品は葛藤を描きませんね。
普通、こういう風に、「他人を殺すことも出来る」なんて道具があれば、ある種の葛藤を描くことが多いわけです。葛藤した結果、寸止めで殺さないとか。ギリギリのところで止めたりするわけです。
でも、この作品の場合、最初からあっさり次々と殺めています。
ある意味新鮮だと言えるでしょう。

あと、主人公にトラウマがない。
たいていこういう作品だと、主人公が世の中を恨んでいたり……、という類の背景があるものですが、それがありません。
「本当に人を殺してもいいのか」という禅問答が繰り返されることもありません。

道具の使用を(使用される前に)阻止するという話ではないのです。序盤から思いっきり使いまくっている。
コロンブスの卵と言えばいいんですかね。



あと、話は変わりますが、ノートにルールがあるのがいいです。
何らかの能力があって、それが万能に使えてしまうとなると駆け引きが描けない。
制限を加えることで、駆け引きを上手く描けています。
「カイジ」みたいな感じと言えばいいのか。
この「デスノート」は「カイジ」的な駆け引きを劣化コピーではなく上手くやれた作品だと思います。


「デスノート」が興味深いのは、超常現象を出しながらもサスペンスが出来ていることです。
普通、超常現象があるとサスペンスはやりづらいと考えてしまう。
超常現象は「何でもあり」の印象があるから、謎解きが成り立たないと思えるわけです。

「デスノート」は「ノート」という固定的なものにしたことで、「何でもあり」の状態を回避出来たのかもしれません。
仮に「ノート」というアイテムを使わず、死神を呼びだして殺すということだったとすると、曖昧な感じになってしまうはずです。
いや、死神を呼び出しても、その死神が限定的なことしか出来ないということにすればいいんでしょうけどね。
逆に言えば、ラノベとかで魔法使いの女の子が出てくる場合とかは、何が出来るかが大雑把だからサスペンスが成り立たないのかもしれません。
「デスノート」みたいに、限定的なことしか出来ないということにしておけば、サスペンスが成り立つのかも。

ラノベだと、「ある限られたことしか出来ない」と縛りを設けるよりは、奥の手が次々出てくる感じのことが多いですからね。
でも、それはそうしないといけないというわけではないはずです。
「ごく限られた能力しか使えない」としても、違和感はないと思われます。
そういう作品が増えた方が、面白いと思いますね。
(宮部みゆきの作品でも、限られた能力しか使えない超能力者みたいなのが出てきて、サスペンスが成立してますからね。能力を限定すればサスペンスは可能なのです)。

「EVER17」(ネタバレ注意)



エントリー数が足りないので昔のゲーム作品のレビューで埋めています。

「EVER17」は何も知らない状態でプレーした方が面白いので、未プレイの人は以下の文章を読まないでください。


素晴らしい作品です。

まず素晴らしい点は(3Dで動くわけではないですが)CGで作られたデザインがカッコイイ。
操作性がいい。
絵柄の出来もよい。
SF設定も緻密でいい。

シナリオ以前の部分がとてもよく出来ているわけです。


ただ最初の部分のSF設定の細かさがカッコイイと思うと同時に退屈だというのもありました。
掴みとしてよくないのです。
カッコイイ感じにまとめているけど、シナリオの出だしとしては面白くないのです。
包装紙は綺麗だけど、中身がスカスカという印象です。

このゲームは一応並列型ノベルゲームです。
同じスタート地点から毎回始めて、それぞれのヒロインのエンディングを見ていくというタイプのゲームです。

ノベルゲームは大雑把に並列型と直列型があると思うのです。
直列型とは、ヒロインの攻略順が決まっていて、ひとりクリアするごとに物語が進行していくゲームです。

EVER17は表面上は並列型です。

このゲームの場合、

・ヒロインの物語
・閉じこめられたところから脱出する物語

のふたつの側面があるわけです。

この作品は並列型であるために、「脱出する物語」の部分が、周回するたびにダレるのです。
あるいは「極限状況もの」としてよく描けていない。
まあ極限状況でキャラがいがみ合うとこの作品にふさわしくないので、そのあたりは意図的に緩くしたのかもしれないです。
ともかく周回するたびに一応のエンディングに辿り着くので、状況の物語としては、並列型であることによる悪い面が出てます。
全然緊迫感がないのです。

一周目の中盤あたりからはドキドキしながらプレー出来たのですが、何周かしていると、わりと作業になってしまう。

しかし、そのだるさがひっくり返るのが最終章のココ編です。
これによって、今までのストーリーがひっくり返るのです。

雑に言えば、このゲームは「叙述トリック」です。
叙述トリックとは何かというと、たとえばAという人物が語っているのかと思ったら、実はBという人物が語っていたということです。
つまり文章の記述の仕方によって仕掛けるトリックです。
そういう叙述レベル(描写レベル)での仕掛けがあるわけです。
最終章で、そういう仕掛けを全部バラしていくタイプのストーリーなわけです。

最終章の前までは、普通の並列型ノベルゲームに見えるわけです。
それぞれのヒロインに物語があって、それぞれエンディングがあっておしまい、という。
でも実際は、最終章(ココ編)で、今までのエンディングが解きほぐされます。
最終章で、今までのストーリー全体が痛快に説明されて連結されていくわけです。

やっぱりこのゲームはある種の叙述トリックだから、ネタバレになるので語りづらいですね。
ネタをあらかじめ教えた上でプレーさせたら楽しめるかどうか。
トリックのネタばらしというのは、どんな場合でも禁物ですが、これは叙述トリック系なだけに、特に厳しいです。

同じ建築物を建てるというトリックは、とある推理小説で読んだような気がします。
というより、「同じ構造の部屋だっただけで実はまったく別の場所の部屋だった」みたいなのは、わりとよくあるトリックです。
簡単に再建出来るものだと、ありがちな設定になってしまうので、海中テーマパークの再建というところまで大きく出たということでしょうか。
そこまで派手にやらないと、ありがちなトリックになってしまう。

他にも、「これはちょっと無理なのではないか」という部分はありますが、漫画的な設定だと考えれば、かなり楽しめる作品だと思います。
それぞれのヒロインのルートに関しては、攻略時間が短くなるような工夫をして欲しかったです。
このゲームは肝心の最終ルートに入るまでが長いので、それがかなり難です。
最後までプレイしないと意味がない作品なのだから、途中を短くするようにして欲しかったですね。

「EVE burst error」



ストーリーのネタバレはありません。
あくまで作品の構造に関しての話。


剣乃ゆきひろ三部作は、どれも甲乙付けがたいのですが、「EVE burst error」は一番単純に楽しめる気がします。
「YU-NO」は攻略に歯ごたえありすぎます。
宝玉セーブ……。
自力でプレーするとなると、大変です。
「YU-NO」のシステムは自力でプレーしてこそ面白いはずなのですが、いかんせん厳しすぎるので、自力でやるとストレス溜まりすぎになります。
普通にシナリオを進めていく「EVE burst error」と「DESIRE」よりは、「YU-NO」の方が、ゲームとして深くていいんですけどね。
自力だと難儀になるので、攻略サイトに頼って、実質一本道プレーになりがちです。


本題に入ります。

「EVE burst error」は、変な言い方になりますが、「逆転裁判」みたいなテイストだと思うのです。
もちろんゲームの仕組みも、キャラも全然違いますが、テイストがそういう感じなのです。
「逆転裁判」が「EVE burst error」に影響を受けているという意味ではなく、漫画的に仕上げるという点で共通しているということです。

つまり私が「逆転裁判」の名前を出してみたのは、漫画的に巧く仕上げている作品として、真っ先に思いついたからです。
「逆転裁判」の裁判は言うまでもなく、現実の裁判から懸け離れたものです。
漫画的な裁判なわけです。
あの作品は全体として漫画的なのがいいわけですよ。
漫画的な設定であり、そしてキャラ設定にメリハリがあって魅力がある。

「EVE burst error」はある種のハードボイルドですが、たとえば大沢在昌の「新宿鮫」シリーズみたいなのとは全然テイストが違うわけです。
「EVE burst error」は出てくる設定も人物も漫画的です。
そしてそれがゆえにとても面白いわけです。
「新宿鮫」みたいにリアルに徹した作品とは別の意味で、漫画的であるがゆえに面白いのです。

私は「新宿鮫」も好きですよ。
第一巻は普通にいいし、第二巻の「毒猿」も痺れます。
直木賞を取った第四巻の「無限人形」は必ずしも面白いとは思わなかったんですけどね。
第六巻の「氷舞」は読んでいて寒気がしましたよ。公安警察とかをよくあそこまで恐く書けたなと思いますね。
まあ「氷舞」は話を膨らませ過ぎて、うまくまとまらなかった印象もあるのですが、ドキドキしながら読みました。

要はリアルに徹するか、漫画に徹するかということです。
中途半端に現実に近かったら失敗作なわけです。

「EVE burst error」は漫画的な作りに徹しているところがいいのです。
リアルっぽくやろうとして、その出来損ないで漫画的になっているのではないのです。
あらゆる部分を漫画的な味付けで敷き詰めている。
「逆転裁判」もそうなのです。
リアルさを完全に排除して漫画に徹しているから、あの作品はよいのです。

意外と難しいと思うんですよ。
漫画的な裁判とか漫画的な警察とか、そういうのに徹して書くのは難しいはず。
たとえば、作品の中に軍隊を出すとして、漫画みたいな軍隊を書ける人はあまりいないと思うんです。
まあ軍事の場合、軍オタと漫画オタがかぶってることも多いので、これは別の意味で難しいかもしれません。
「漫画みたいな軍隊」と書いてみましたが、漫画に出てくる軍隊は結構知識が詰まっていて本格的ですよね。
(「陸上防衛隊まおちゃん」みたいなコメディーは別として)。

私たちが「逆転裁判」に穴を探さないのと同じで、「EVE burst error」にも穴を探そうとは思わない。
漫画的な部品で全部作っているから、雑な部分がかえっていいというところがあるわけです。



「EVE burst error」はある種の推理小説です。

推理小説って、大雑把にわけると、ふたつあると思うんです。

・パズルみたいに犯人を捜していく(本格推理)
・犯人の周辺をいろいろ調べて、裏の事情を探していく(社会派推理)

剣乃ゆきひろ三部作に関して言えば、疑わしい人間の背景を探っていくということですね。

裏に何かありそうな人物が登場してきて、その人物の周辺を探っていくわけです。
こういうのは基本的な手法ですが、三部作すべてにおいて興味の惹き方がとても巧いのです。
謎がありそうな人物が登場して、その背景を探るということの繰り返しがとても楽しいわけです。

これは最近のノベルゲームとはちょっと違って、移動コマンドを使いながら物語が進んでいくというシステムなのもいいんでしょうね。
仮に剣乃ゆきひろ三部作を移動コマンド使わずに、普通のノベルゲーム的に進めていくとしたら、面白さが少し減少するかもしれません。
移動コマンド使いながら話が進んでいくというのは、ゲームっぽい感覚でいいんです。

たとえば同じところに何度も言っても同じ会話だけど、フラグが立つと新しい会話が出てきてストーリーが進んだりという楽しさがあるわけです。
ストーリーが進むのが普通であるノベルゲームでは、そういう部分の楽しさはないですね。
普通のノベルゲームでは話が進んでいくのは当然なわけですから。

ローゼンメイデンの空虚で強い動機

物語は動機付けが必要なわけである。
キャラクターがどういう動機を持って行動するか。

動機でもふたつある。

1,状況による動機
2,内面による動機

「ローゼンメイデン」は「内面による動機」に分類した方が適切だと思われる。
彼女たちは一応「状況によってアリスゲームをやらされている」とも言えるのだが、たぶん内面の意思としてアリスゲームをやっていると捉えた方が適切である。

たとえば、”状況による動機”というのは、
「妹が病気で、特別な薬草が無いと死んでしまう。でも薬草を手に入れるには戦いに勝たないといけない」
というようなのを言う。
この場合は、戦わなければ妹が死んでしまうという状況があるわけだ。
逆に何ら差し迫ったことがないのに、妹想いであるがゆえに何かとても困難なことに挑むというのであれば、妹想いの内面の物語となるかもしれない。


「ローゼンメイデン」はある意味空疎で空虚な物語だ。
アリス、アリス、アリス、アリス、である。
お父様、お父様、お父様、お父様、である。
瀕死の妹を治す薬とは違って、「アリス」はわからない。
でも、それがこの物語のスタイルなのである。
状況としてアリスゲームをやる差し迫った理由が今ひとつわからないのだが、でも「アリスになりたい」という想いで物語は充分に回転しているわけである。
「お父様」というキーワードにしてもそうだ。「ローゼンメイデン」におけるお父様というのは、まさに内的な動機の問題なのだ。内面がそれを求めるから、ということである。
「AIR」のような親子の物語はここにはないのである。
ただ抽象的なシンボルとして、お父様、お父様、お父様……と求められている。
アリスになると瀕死の妹が助かるというようなわかりやすい利得がないだけに、動機の強さだけでキャラを立たせることが出来ている、とも言える。

一歩間違うと、何をやっているのかわからないストーリーになりかねないが、「ローゼンメイデン」は詩的な作品に仕上がっている。
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