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ラノベやアニメには妹属性の美少女が必須

たまには普通のエントリーをしてみよう。

ラノベやアニメには美少女が必須である。 必ず出さなければならない。 物語一般において美少女が必須なのか、というと違うだろう。 少年漫画では美少女が必要ない。 ヒロインは脇役というか、添え物であるのが普通である。 「ヒカルの碁」みたいに、物語が本格的に展開するとヒロインがほとんど出て来なくなる場合もある。

ラノベやアニメは単に美少女を出せばいいというわけでもない。 妹属性であるのが必要だ。 妹属性とはなんぞやと定義するのも難しいが、まあ「大人の女」ではない存在と言えばいいだろうか。 このあたりもラノベやアニメの特殊性。

もちろんここで言うアニメとは深夜アニメのことだ。 少年漫画だってたくさんアニメ化されるわけで、そこには妹属性の美少女など、あまり出て来ない。 いや、出てくるけど、物語の中心ではない。

要はオタクアニメと言えばいいのかもしれないが、そういう系統のアニメやラノベだと、妹属性のヒロインに限られる。 ヒロインが20代のラノベとかほとんどないですよ。

妹属性、というのは兄弟姉妹の妹ということではない。 家族関係での妹というポジションではないはずだ。 妹がいない人が夢見る架空の妹である。

つまりリアルな家族ではなく、ファンタジックな家族。 主人公のハーレム的な空間に適応性を持った存在が<妹>なのだ。

オタクが20代のヒロインを絶対に拒絶するというわけではあるまい。 たとえばツンデレという言葉が流行ったのは「家族計画」の高屋敷青葉の影響が大きかった。 (ツンデレの語源は「君が望む永遠」の大空寺あゆという説があるが、流行の元祖としては高屋敷青葉だろう)。 高屋敷青葉のような20代?のヒロインが人気を博したのは、作品のハーレム構造が守られていたからに違いない。 主人公は「大人の女」である他者として高屋敷青葉に出会うのではなく、<家族>というハーレムの空間で出会うわけである。

それではあずまんが大王の系統の作品はどうなるのか、という話になるが、これはこれとして、特殊な箱庭空間だと言えるだろう。男に興味のない処女の女の子が同性間の友情を育むというファンタジックな箱庭を形成する。これはオタク的に安心して見られる。

結局のところ、本当の意味で「他人」と出会うのがオタクは嫌いなのかもしれない。ハーレム構造だったり箱庭構造だったり、そういう安心出来る空間があるかどうか、が問題なのだ。
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悲劇は需要ある。あまりやらないのは、登場人物死亡のため続編が作りづらいから

読者を感動させるには登場人物を死なせればよい。それは衝撃的であり胸が痛いものであるが、大きなカタルシスを生み出す。登場人物の死は、古典的であり王道でもあり、とても感動を呼びやすいフォーマットだ。しかし、最大の問題は、続編を作れないことだ。商業的に作品を出すからには、売れたら続編を作りたいと考えるだろう。続編で儲けることを夢見て、作品はリリースされる。だから悲劇は物語性として王道であっても、続編の難しさから作られない。まどかマギカについては地震により第十一話以降の放映が遠のいたので言及はしづらいが、たとえばKey作品が人気を博したのは、続編を作らないという覚悟性によるものだ。絶対に続編を出さなくてもいいという条件なら、硬質な悲劇の物語は描きうる。実際のところ、不幸な女の子を死なせればいい程度だから、そう難しくはない。Key作品や、まどかマギカにおいて繰り返される「少女の死」は、何百年も前のおとぎ話から存在しているテーマである。時代を超え普遍的な物語性なのである。少女の死の先に続編はないけれど、続きがない断絶性の痛みこそがわれわれの人生と通底していて、人を深く感動させるのである。

何にせよ、まどかマギカの成功を見て真似したいと思っている会社があるなら、Keyのようなブランドを目指してみるべきだ。Keyは「続編」は作らないけど、ブランドとして継続性があり、根強い信者を形成している。続編をダラダラやりたいというラノベ作家のような発想は捨てて、毎回新しい作品を書きながらも継続性が見られファンが付いてくるのが理想なのだ。まどかマギカも下手な続編を作るよりは、Keyのような方向性を目指して欲しいものである。もちろんまどかマギカはシャフト+虚淵玄という組み合わせだから難しいが、このコンビでブランド的なものを目指してみてはどうだろう。商標的なブランドという意味ではなく、視聴者から認識される仮想ブランドですね。シャフト+虚淵玄で似たような暗い作品を出し続けて、ひとつひとつは完結させながらも、連続性を感じさせる作品群になるような……。そんなことを勝手に考えてみたりするのです。

主人公の街にしか敵が来ない理由は説明してはならない

フィクションの世界観は、すべて説明すればいいというものではない。

・説明が必要なこと
・説明してもしなくてもいいこと
・説明してはいけないこと

主人公の街にだけ敵がやってくるみたいな展開があるとする。
これは基本的に、そういう世界観なのだ。
その街が世界観のすべて。
だから、迂闊に説明してはならない。
主人公が住んでる街にしか敵が来ないのは、そこが世界だからだ。
仮に説明するとなると、「この街が世界だからですよ」というメタフィクションな解説になる。
だからフィクションの中では説明出来ない。

もちろん、街に特殊なものがあって、そこに敵がやってくるという設定もあるでしょう。
「○○があるから敵がやってくる」と説明するわけです。
「街が世界」という世界観の(フィクションが要求する)自明性に違和感があって、少しはリアルな設定にしたいなら、そうなるんでしょうね。
ただ、「主人公が住んでいる街が世界」というのはフィクションという嘘の根幹だから、無理して説明することはないのです。
フィクションの舞台は、地球儀や世界地図の上での座標を決める必要がない。
街の外の空間を考える必要がない。
「主人公が住んでる街」しかない世界というのはフィクションでは普通です。

政治的に正しいフィクションしか描かれない

政治的に正しいという表現はわかりづらいかもしれない。
ポリティカル・コレクトネスの訳語だ。
かなり噛み砕くなら、団体から抗議が来ないような「正しい」表現、ということ。
わかりやすくは、差別ですね。
差別的な表現があれば、抗議が来る。
だから、差別がない作品が「政治的に正しい」。
そしてフィクションはそういう「政治的な正しさ」に支配される。

差別から離れたものでも、政治的に正しい(ポリティカル・コレクトネス)の問題は生じ得る。
フィクションを送り出す人達は、そういうのを気にしながら、抗議が来ないような作品作りをしている。

「デビルマン」はかなり異色で、あり得ない作品だ。
普通なら、政治的に正しくないという理由でデビルマンは没になりそうだ。
理由は知らないが、デビルマンは出版された。
そしてその表現の価値が受け入れられた。
「デビルマン」は永井豪しか思い浮かばなかった作品というわけではなく、タブーとして避けられるような表現を多用した作品だ。
誰もやらないから、唯一無二の作品となったのである。
そういう意味では「デビルマン」の評価は難しい。
なんの制約もなく好き勝手に書いていいならデビルマン以上の作品は書けるという作者はたくさんいるかもしれない。

何にせよ、作品が似たパターンになるのは、政治的な正しさ、を目指しているからなのです。
私の好きな「ハートキャッチプリキュア」の終盤が、世界を嫌う大悪人と、世界を愛する主人公というありきたりな構図なのは、そういうテンプレにしておけば安心ということである。
(まあ独創極まりない展開をした場合、私が喜ぶかというと、話は別だが)。

人格を非難される恐れを抱いているのが王道的主人公

ドラゴンボールの孫悟空みたいな明るい性格の主人公もいるんだけど、こういう人気者タイプばかりが主人公ではない。むしろそうではない方が王道かもしれません。
(あるいは両方とも王道と言ってもいいけど)。

古典的な意味での主人公は、何らかの影を背負うことが多い。
たとえば、フィクションの主人公は、人格を非難されることが必要である。
チャラ男とかワルとか、そういう意味で非難されるわけではない。
アムロレイでも碇シンジでもそうだが、本人に著しい落ち度があるわけではなく、根暗なため他人から非難されるとか、そういうことである。
象徴的な意味で十字架を背負った存在。
最近話題の梶原一騎の作品の主人公はほとんどそうではないですかね。
星飛雄馬でも、矢吹丈でも、「空手バカ一代」でも、何でもいいけど。
自分の人間性が非難されるというマゾヒズムと、ナルシスムが絡んだ状態。
針のむしろに座ったような状態が共感を呼ぶのです。

最近のアニメはヒロインが実質的な主役で、男性主人公がヘタレな狂言回しでしかないことが多いので、何とも言えません。
「ガンダム00」とかは、主人公が負い目を背負った、かなり正統派の作品でしょう。
「コードギアス」もそうですかね。

主人公やヒロインが死んだら、物語は終わりなので

すごく当たり前のことを書いておこう。
「Angel Beats!」に関して論評しようと思ったのだが、まず、基本的な事項の確認が必要だからだ。

普通の物語では、主人公やヒロインは死なない。
漫画、ラノベ、アニメでは特にそうだ。
出来るなら続編、続編、続編、続編と続けていきたいわけだから、明確な結末は付けないようにするのが当然だ。
主人公とかヒロインを死なせてしまうと、後から続編を作りたくても作れなくなってしまう。

だから、主人公とかヒロインは死なない。
物語から消滅しない。
例外もある。
たとえば「コードギアス」だ。
最終回のラストでルルーシュが生きていることが示唆されるが、物語の舞台からは消滅しているわけだ。
ある意味、隠棲して生きていると示唆されることで、物語的には消えてしまったのだと喪失感を覚えるのである。

こういう形のエンディングをやってしまったら、もう物語としては終わりであり、続編商法は使えない。
(「コードギアス」に関しては外伝としての新作が作られるようだけれども)。

ともかく、死亡とか消滅は、物語の王道でありながら、続編が作りづらいという理由で、あまり使われない。
Key作品が鮮烈だったのは、使われない王道を使ったからだ。
ヒロインを消滅させて、そこでエンディングにしてしまう。
それは王道でありながらも、使用頻度が低いため、特別な話に思えたのである。

ラノベに生徒会長がやたらと出てくるのは、物語では<役職>が重要だから

登場人物の本質は<役職>である。
極端に言えば、名前は無くてもよい。

古典的な童話でお姫様が出てくるとすれば、それは<お姫様>なのである。
名前はなくてもいい。
お姫様という<役職>として存在するのが重要なのだ。
役割そのものが重要なのだ。
わざわざエミリーとかシャーロットとか個人名を付ける必要はない。
そういう個人名は物語構造の本質ではない。

<商人>でも<農民>でも、<貴族>でも何でもいいが、そういうロールプレイが物語の本質なのだ。

お姫様は美しい。
王子様は白馬に乗っている。
そんなものなのだ。

ラノベやアニメに<生徒会長>がやたらと出てくるのも、物語上のロールプレイのようなものだ。
<生徒会長>とか<書記>とか<部長>とか<委員長>とか役職を振っておくと、物語が作りやすいということだ。
山田とか佐藤とか田中が漫然といるよりは、役割がはっきりしている方がよいのである。

アニメやラノベのヒロインは男を好きにならない

絶対に描かれないというわけではないのだが、アニメやラノベのヒロインは基本的に男に憧れない。
「背が高くてかっこよくてスポーツが出来る○○君に憧れる」みたいな話とは無縁である。
こういう不自然さが、アニメオタクにとっては、感情移入しやすいということになるのだ。
ヒロインが「サッカー部のイケメンの○○君」に憧れていたりしたら、感情移入はしづらい。
仮に「けいおん!」で、ヒロイン達が男の話で盛り上がっていたら、”幻滅”するだろう。

処女性というのがよく問題になるが、実際は男への憧れの制御の問題かもしれない。
<男に興味はない>ということだ。
それがハルヒのように変人として描かれることもあるし、「あずまんが大王」系の作品のように女の子同士の友情によってすり替えられることもある。

物語では、不自然な制御がよく行われる。
たとえば古典的な少年漫画の主人公を考えて貰いたい。
彼らは<欲>を持っていない。
女とか金には興味がないと設定されているわけだ。

つまりオタクが特に畸形的な自我を持っていて、その奇形性に合わせたフリークスな作品が作られているという理解は、あんまり正しくはないだろう。
<欲>は見たくないので、不自然に描かれないというのは、物語の基本と言えば基本だ。
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