まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

雑記イジメという本能を肯定するのがドラえもんという作品

なんか、この意見がすごい批判されてるみたいなんだけど。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080826/edc0808260809004-n2.htm
また無自覚の「刷り込み」で、子供がマンガの登場人物をモデルに他人を評価しているのではと、吉村さんは危惧(きぐ)する。
 「ドラえもんが象徴的です。私は『ドラえもん包囲網』と呼んでいるのですが、メガネをかけて少しドジな人は『のび太』というマンガのキャラクターをモデルに、子供は友達を評価している。メガネをかけているだけで、『お前はのび太だ』といじめられるのではと心配しています」

私はそれほど変な意見だとは思わないんですけどね。

反発の多くが、「イジメはドラえもんと無関係で本能的なもの」みたいなのが気になりますね。
つまりドラえもんを支持する人はイジメに肯定的なのです。
ドラえもんは原因ではなく結果だと言えばいいのかな。
イジメに肯定的な人はドラえもんに惹かれると。

というか猛烈に反論する人が多いのがちょっと疑問。
フィクションは影響力があると私は思うんですが。
フィクションって本当に影響力がないのか?
この記事に反論している人は、「フィクションに悪影響はない」というイデオロギーに囚われているだけではないかと。
「フィクションは現実の人生に影響力がある」という当然の意見を言うと、規制に繋がると危惧してヒステリー反応が起こるんでしょうね。

あと、本能説に関して。
たとえば貴族制度は人間に貴賤があるという「本能」の生み出したものです。
でもそういう本能は否定されてますよね。

肌の色が白いと黒いより優れているというのも本能的判断でしょう。
でも民主主義社会では、その本能は否定されてますよね。

男が女より偉いというのも本能的判断でしょう。
これも民主主義社会で否定されています。

つまり、本能だからというのは正当化の理由にはなりません。
本能という「原始的なエゴ」を否定しているのが民主主義社会なのです。

「ドラえもん」も原始的で本能的なイジメ関係なのだろうけど、それを否定していくのが良くも悪くも我々の民主主義的社会です。
「イジメは本能だから認められるべきだ」という人は民主主義を否定しているわけです。
【2008/08/27】 | 雑記 | トラックバック(0)



雑記女の方が小説の文章が上手いのは



最近「話を聞かない男、地図が読めない女」という定番的な本を読んだんですけど。

この中に女はおしゃべりを省略しないというのがあって。
女がおしゃべりすると、起こった出来事を逐一話したりするのです。
細々と話すから、男からすると「早く結論を言ってくれ」と思う。

ここから先は私が勝手に敷衍した内容なので、何の保証もありませんが。。。
男って概念で整理して考えたりするわけです。
言葉を少し超えたところで物事を整理して、その結果を言葉として出力する。

小説的文章において女の書き手の方が上手いと思われるのは、女は普段から出来事を逐一おしゃべりする習慣があり、それが小説的文章に向いているのではないかと。
逆に言うと、男は整理して結論だけ言葉にする思考法なので、小説的文章を書くには向いてないのかもしれません。

もちろん小説と言ってもいろいろあるでしょうが、出来事を逐一丹念に書いていくような文体に限ると、女の作家の方が上手いと思います。
女の小説家で上手い人って、出来事を逐一細々と書いて引き込ませる人が多いかな。
語彙が豊富なおしゃべりを洗練させた感じの。
女の方が日常的な語彙はかなり発達している。

そういう小説ばかりではないですけどね。
抽象的な説明が多くなるような小説だと、男の方が得意なのかも。
【2008/08/27】 | 雑記 | トラックバック(0)



雑記自分が気に入らない作品のみをオナニーと呼ぶのは……

フィクションというものがなぜ存在しているのか?

それは現実において生きている我々が、ある種の暫定的な姿だからです。いや、その暫定的な姿こそが現実なのですが……。つまり、ある種の「未達成な状態」が現実なんです。何かを達成してクリアした状態が現実ではないのです。

このあたりは個人差がそれなりにあるでしょう。今の自分に大満足(リア充)な人もいるでしょう。あるいは50点くらいの人生でも、まあいいかという平凡な人もいるでしょう。
ただ、我々がこの世界に置かれている状態からして、多くの人は「不本意」だったりするし、「暫定的な状態」だと思ったりするわけです。

これは人間の極めて基本的な在り方です。これを否定するのなら、宗教も否定するべきです。今の自分で完結していて、それが最終結論だというのなら。。。

残念なことに、この現実社会は、「根源的な欲望」を叶えていくプロセスではありません。叶えられる人もいるのだろうけど、ごく例外です。だからこそ、宗教やフィクションが存在する。それが受容されるのは、我々が「現実の自分」より「達成されてない自分」の方に真実味を感じているからなのです。

こういう観点から捉えて、作品を批判するのはたやすい。
漫画やアニメは「未達成」の正当化ですからね。
未達成=無限の可能性の宝庫、という発想ですね。
何かが達成される話でも、そうなんですよ。
(隠れた可能性が花開いたみたいな)。

フィクションの本質的問題。。。
全部の作品がそうです。
でも嫌いな作品だけ取り上げて、こういう分析をする奴がいるからなあ。
気にくわない作品だけを「オナニー作品」と分類して否定しようとしたり。
【2008/08/25】 | 雑記 | トラックバック(0)



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