【 評論 】 ワンダバスタイル |
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ワンダバスタイルは序盤だけが最高に素晴らしく面白い。 良い意味でナンセンスなストーリーと、アナクロで味のある音楽、そして、そういう古臭いテイストでありながら、ヒロインのキク8号は大変可愛く魅力的に描けている。 アナクロな部分と、最先端の(良い意味での)萌え的な部分が素晴らしくうまく組み合わされた作品だったのだ。 第一話と第二話あたりまでは。 それではなぜこの作品は中盤以降失速してしまったのか。 まず誰が見ても明らかなように、主人公の九十九と母親の「対決」がシリアスなのかギャグなのか中途半端で滑っている。 そして、それ以上に失敗した原因は、みっくすJUICEを売れることにしてしまったことだと思う。 「売れないアイドル」というキャラで登場したみっくすJUICEが、どうも中盤以降中途半端に売れてしまう。 これは非常にまずい。 本当は負け続ける悪役レスラーのように、みっくすJUICEは「売れないアイドル」であり続けなければならなかったはずだ。 つまり、何をやっても失敗し転び続けるというのが、みっくすJUICEのキャラなのである。 そして作品内でダメだからこそ視聴者に人気が出るというのがこの種のフィクションの在り方なのだ。 つまりフィクション内部で成功してしまえば、それは非現実的な成功であり、視聴者からの人気は高まらない。 (ライバルの位置にある人間が最初から成功している完璧キャラだったりするのはいいんだけど、主人公サイドでそれはダメということ)。 また主人公が成功するにしても、そういう成長物語であるのならいい。 実際アイドルとして成長してステップアップするという物語も(一般的には)あり得なくはない。 しかし少なくとも「ワンダバスタイル」のテイストやみっくすJUICEのキャラを考えれば、何をやっても裏目に出てまったく人気が出ないという状況を反復し続けるべきだった。 フィクションにおいて、主人公側があぶく銭を手にするのは基本的に禁じ手である。 何らかのきっかけで大金を手にしても、失ったりしてしまう。 あるいはかっこよく捨てたりするというのがフィクションのお約束である。 それを読者が「もったいない」と思うことで、フィクション内のお金は多少のリアリティーを持つ。 あぶく銭を手にしてしまえば、それはありえない「作り話」だ。 みっくすJUICEが売れることになったのはそういう漫画的(アニメ的)お約束を破ったことである。 アニメの中で売れないアイドルだからこそ、アニメの視聴者に愛されうるという点を、制作者側が理解していなかった、という気がする。 |
【 評論 】 G戦場ヘブンズドア |
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普通に読んでいてかなり面白い作品。 ただ、冷静に見ると、これって「人生論型」の作品で、アイデンティティークライシス状態の若者相手にやたらと肯定したり否定したりするという構造なんだな。 主人公に対して執拗に断罪が繰り返されるわけである。 そういう「断罪的」なスタンスが、この作品の鋭利な魅力であるのは確かだ。 (要は周りの大人が、主人公や鉄男に対し、言葉の刃でギロチンを落とす行為を繰り返して、それで話を盛り上げる)。 フィクションとしてはかなりよくできていると感心した。 ただこの作品内で展開されている論理とか言葉が、現実にも適応されるとなると、それは拒否したくなる。 (いや、言葉そのものというよりは、他者に対する断罪的な関わり方というのだろうか……)。 この作品の軸になっているのは、強力な父権(父との対決)、去勢不安(挫折)、完全主義(父親が常に高いハードルを用意する)なのだが、要は「巨人の星」である。 「サルまん」という作品が、漫画家が苦しみながらコーナーを付き緩急を投げ分ける実態をコミカルに描いたとすれば、「G戦場」はまさに<大リーグボール以外は野球ではない>みたいな感じなんだな。 「巨人の星」の野球観と「G戦場」の漫画観って、かなり構造的に似てる。 主人公の町蔵や鉄男が断罪され、何らかの特別な漫画を目指すような方向性は、飛雄馬に対し周囲が断罪する構図そのままだ。 こういうのってフィクションの演出としてはいいんだけど、父権として君臨していたオヤジが、あとから愛情に満ちたライバル的存在になるのは、現実にはあまりないと思う。 (特にこの「G戦場」に出てくる父親はある意味「巨人の星」の一徹より子供に対して否定的で去勢不安を煽る)。 もちろんフィクションの作品というのは、現実の法則に反したことを書くからこそ感動を生むのだ。 だから、この作品も、現実にあり得ないことを描いている。 ただ「G戦場」は、口当たりのよさがないから、読んでいると、物語に感動すると同時に不安になる。 |
【 レビュー 】 「AKIRA」大友克洋 |
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前に「AKIRA」を読んだときは今ひとつ好きじゃなかった。 キャラの正義感が弱いタイプの作品はあんまり好きじゃないので……。 あと最後の終わり方が……。 でも再読してみたらかなり面白かった。 そして前回読んだときは金田が死なないのが、非常に不自然に感じたんだけど、実はこれが物語の面白さなのである。 こういうのに普通の一般人の男が関わって、不思議と死なずに活躍するという。 金田が銃で撃たれて生きたりしてるのは、いくらなんでもおかしいし、他の場面でも不死身すぎるよと思うんだけど、こういうタイプの「不死身キャラ」が物語を面白くする。 つまり普通の人間なのに死なないからタフガイなのである。 (特別に強い力を持っていて死なないというのなら、当たり前だから)。 「ダイ・ハード」でも主人公が普通の人だからこそあの活躍が面白いわけである。 仮に「ダイ・ハード」の主人公が強力なロボットとかだったら話は成り立たない。 ある意味普通の人間がタフガイぶりを演じるのが物語の肝なのである。 「AKIRA」は無敵の超能力者みたいなのが出てくるので、(普通の人間である)金田の不死身さに違和感を感じる部分もあるんだけど、これは漫画的なお約束として了解するべきことである。 |
【 レビュー 】 逆転裁判 |
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■「逆転裁判」では、「目撃者がウソをついている(あるいは勘違いしている)」のが"トリック"の柱である。 これはあんまり高級なトリックとは思われないためか、推理小説では意外と使われない。 仮にこれが「推理小説」だったら、あまりにも程度が低いと見なされて評価されないかもしれない。 しかし「逆転裁判」では主人公が「弁護士」であるため、"証言のウソを暴く"というパターンの連続に違和感がない。 つまり実質的には探偵でありながら、あえて「弁護士」という設定にしたのは、うまいなと思う。 ■シミュレーションゲームの作り方として、できるだけ実在のものに近づけるというのが主流なのかもしれないけど、「逆転裁判」はその対極であり、意図的に漫画的なストーリーと裁判にしている。中途半端にリアルにするとツッコミが入りまくるので、最初からそれを完全に放棄している。このような手法が多くの人から歓迎されたのはよいことだったと思う。 ■「逆転裁判」は事実上一本道のシナリオである。 しかしその一本道を進むことに、適度に心地よい緊張感がある。 一般的にノベルゲーム的なシナリオの中で「選択」するとなると、「選んでみないと結果がわからない」という感じだったりするが、「逆転裁判」は、合理的に「正解」を選ぶ。 このような「考えて正解を選ぶゲーム」は非常にオーソドックスな気がする一方で、意外と存在しなかったような気がする。 「選択」というと「ストーリー分岐」ということにとらわれていて、意外と一本道の中で「正解を選ぶ」というシステムはなかった。 (なお、1,2,3とシリーズが進むにつれ、選択肢が難しくなる。ちょっと残念である)。 ■基本的に推理小説は読者が予想もつかないトリックを用意し終盤まで引っ張る必要がある。 ともかく「逆転裁判」の場合は、推理小説とは対極で、「犯人の目星」とか「トリック」とかはプレイヤーが予想可能なものでいいのである。 というより、プレイヤーから見て、そのあたりの目星がついていて、それを立証するのがこのゲームの本質的な部分である。 (つまりプレイヤーが「犯人は誰なのか」とか「トリックは何なのか」とかが最後までチンプンカンプンならこのゲームは成立しない)。 あるいは「事実が示されれば必然的に真相がわかる構造」と言ってもいい。 「逆転裁判」では証人のウソが暴かれ、新事実が明らかになれば、自然と正解が見えてくる。 そう考えるとこのゲームは"トリックの発想"ということだけに関しては、製作者側からして作りやすいのかな、と思う。つまり「予想できないトリック」を作るのではなく、「予想できるトリック」を作るのがこのゲームなわけだから、そういう点に限って言えば作りやすいはず。 もちろん最初からすべてが丸わかりでも困るので、途中で少しずつ新事実をばらして、トリックや犯人への見通しが段階的に開けていく構成にする微妙なバランス感覚は求められる。 (これも、1,2,3と進むにつれ、トリックが難しくなり、目星がつきにくくなった印象がある)。 |
【 評論 】 フィギュア17 |
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(以下の文章はかなりネタバレを含みます)。 最初に簡単にあらすじを説明しておくと、 椎名つばさという引っ込み思案な小学生の女の子が主人公である。 そして彼女のお父さんが東京の会社を辞めてパン屋さんを始める決意をして、その修行のために、つばさを連れてしばらく(だいたい一年弱くらい?)北海道に行くことになる。 (なお、つばさの母親はすでに死んでいる)。 そして……、(ここからの説明を厳密にするとややこしいので大雑把に言うと)、どこかの星でマギュアという危険な生物の卵が盗まれる。 その犯人をDDという宇宙人(その星の警察官みたいな人)が捕まえて卵を星に持ち帰ろうとするのだが、その途中、そのマギュアの卵が孵化して暴れ出し、運んでいた宇宙船ごと地球に墜落することになる。 そしてそのマギュアを倒す必要が出てくる。 (このマギュアを倒すのがこの作品のSF部分の「目的」である)。 その倒し方だが、簡単に言えば「リベルス」という変形型の金属を戦闘スーツのように着て「フィギュア」になって戦う。 それで椎名つばさはひょんなことから、その「フィギュア」になって戦うことになってしまう。 そしてその結果、その「フィギュア」(というかリベルス)の突然変異?か何かで、つばさとそっくりな「ヒカル」が出来てしまう。(これ以降はつばさとヒカルが合体して「フィギュア」になり戦うことになる)。 そして、DDによってつばさの父親の記憶が操作され、ヒカルはつばさの双子の姉妹ということになる。 (いくら宇宙人の科学力があるとしても、どうやって記憶操作するのか、あるいは記憶だけ操作しても現実との矛盾はどうするのかという疑問はあるが)。 ともかくそれでヒカルはつばさの双子として同じ小学校に通うことになる。 そしてそれ以降はマギュアを倒す作業と、つばさとヒカルの小学校を中心とした生活風景が交互に描かれる。 はっきり言えば、マギュアと戦う部分は付け足しであり、主に日常生活(小学校での生活)において、引っ込み思案なつばさと活発なヒカルのやり取りが微笑ましく描かれる。 つまり、作品テーマとして言えば、椎名つばさという引っ込み思案な女の子のところに、ある日ヒカルという(外見的に自分とそっくりな)活発な女の子が現れ、その(もう一人の自分である)ヒカルとの交流を通じて成長していくという青春物語である。 さて、それで本題に入るが、この作品の最後でヒカルは死ぬことになる。 基本的にキャラを死なせて感動を演出する手法はあまり肯定したくないのだが、この「Figure17」の作品構造を考えると、最終回でヒカルが死ぬというのはかなり必然性がある。 最後にヒカルが死ななければ物語の構造として破綻してしまう。 (少なくとも二度と逢えないような別れをしなければ、物語が破綻する)。 そもそもこの作品が描こうとしているものは何なのか。 それはノスタルジーである。 そして、(全13話のうち)12話まで普通に見ていて、ノスタルジックであるのは明らかなのだが、本当の意味でこれがノスタルジーに貫かれた作品であるのがわかるのは、13話(最終話)のヒカルの死によってである。 ヒカルの死によって、これまでに展開されてきた世界が「ノスタルジーっぽい」ものではなく、「究極のノスタルジー」であることがわかる、あるいはそのように遡及的に塗り替えられるのだ。 前述したように、この作品の設定は、東京に住んでいた椎名つばさが(父親と一緒に)北海道に来るというものである。 最初の段階ではこれは単なる「地理的移動」に見える。 しかし、最終話でヒカルが死に、つばさが東京に帰るというあたりの展開を見て、「北海道へ行く」というのは実はある種の心理的タイムスリップだったという印象を受ける。 この作品に出てくる「北海道」は、地理的な場所としての問題というよりは、時間的に過去の空間を描くための舞台であると言っていいと思う。 この種の物語では、キャラが成長することと引き替えに何かを失うという構図になることがままある。 現実において人が成長するのがそういうものなのかどうかはともかく、物語の「成長」においては、そういう構図にすることによって、青春への感傷的な郷愁を作り出すのである。 そしてこの種の作品においては、何らかの純粋性を託された存在が死をもってその時間に消え去り、生き残った者はその止まった時間を後にして先に進んでいくという構図になることが多い。 「フィギュア17」において「北海道」は「時間的な過去」であるのだから、「東京という現在」につばさが帰るときにヒカルが死んでしまうのは極めて必然的である。 そして最終話においてきわめて重要なのは、ヒカルが存在していたことの記憶が、つばさ以外の全員から消されたことである。 つばさの記憶の中にだけヒカルの存在がある。 そういう構造がノスタルジー性(つまり対象への追憶的な関係性)の強さを高めている。 もし仮にヒカルが死んでそれをみんなで悲しむという構図であれば、それは「過去へのノスタルジー」ではなく、普通に人が死んだ場合の悲しみになってしまう。 つまり、ヒカルの喪失は、リアルに人がいなくなったという問題ではなく、ある種の(遠い記憶の中の)青春の幻影の喪失である。 そして、つばさ一人の「想い出」の中だけで「ヒカルの存在(青春の中で出会う幻影)」を守らなければならないというのが、死の悲しみとは別質のノスタルジックな痛切さを作り出している。 最終回の終わりの方で、ヒカルの死に対するつばさの悲しみの描写が少ししかない(号泣する場面がほんの少し描かれただけて終わり)というのは、この作品の力点が「人が死ぬことの悲劇」ではなく、その死んだ後に失われたものを追憶することに置かれているからである。 最後の東京へ向かう機上でのつばさと父親の会話の場面で、つばさが生まれたとき、もうひとつの名前の候補が「ヒカル」だったと聞かされる。 (父親は記憶を消されていて、ヒカルの存在については忘却しているという点が重要だ)。 我々視聴者は椎名つばさの立場に立って、(ヒカルの存在をただ一人憶えているつばさの立場に立って)、自分一人の記憶の中だけで燦然と輝くヒカルの存在を追憶し、甘さと苦みの混じった深いノスタルジーを体験するのである。 |
【 評論 】 最終兵器彼女 |
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「最終兵器彼女」の核心にあるのは、"ちせ"に装備されている兵器が「身体奇形」として描かれているということだ。 単なる少女とメカの融合的な作品ならいくらでもある。 あるいはサイボーグ的なものとでも言えばいいだろうか。 ただ、通常それは取り外し可能である。 メカのパーツを外して普通の女の子になれる。 そういうものは漫画では通例クールなものとして描かれる。 つまり傷を負ったものであってもどこかカッコイイというような……。 「ガンスリンガーガール」でさえ、武器と少女の組み合わせがクールであるという発想で描かれている。 しかし「最終兵器彼女」では"メカ"が特権であったり、クールであったりするのではなく、「奇形性」であるという点で他の作品とはかなり違う。 わりと序盤の方で、主人公がちせの服を脱がすと、ちせの乳房に醜い腫瘍のようなものを発見する場面が描かれる。 この醜い腫瘍が"最終兵器"である。 これは描き方として非常にうまいと思った。 そしてこの部分での衝撃が作品全体を貫いている。 つまり「サイボーグみたいでクールだ」というような感じ方(大友克洋の「AKIRA」みたいなクールさ)を完全に排除するために、乳房の腫瘍が用意されているわけである。 仮にこうやって醜い"腫瘍"という形で描いていなければ、少女とメカの組み合わせでカッコイイみたいな話になりかねない。 「奇形」という場合、それは、身体機能の点で不便だという問題と、容貌上の疎外という問題がある。 後者の文脈の問題においては、そのような奇形性をもった上で他者と接する場合の据わりの悪さとでも言えばいいのか……。(たとえば顔に腫瘍がある人と会ったら、どんな風に接してあげればいいのだろう、というような困惑)。 つまりただ単に不便であるというだけでなく、有徴性を十字架のように負わされた存在である。 「最終兵器彼女」のおいて、"ちせ"はそのような奇形的存在として描かれる。 そしてそういう奇形的存在を愛せるかというのが「最終兵器彼女」のテーマであり、それがゆえに純愛なのである。 ともかく率直に言えば、「奇形のものが疎外される」という論理に貫かれているのがこの作品だ。そして奇形性がただ単に気持ち悪いものとして描かれる。 また一般に、フィクションにおいて身体奇形が描かれるとしても、それは完全に醜い存在、つまり異形になりきった妖怪的なキャラである。 ある意味キャラとして接しやすいわけである。 たとえば妖怪のオバサンがブチぎれて悪態を付くような。 それなりに「ヒール」としてはキャラが立っているし、ある意味接しやすいのだ。 ところが最終兵器彼女ではそうはならない。 「普通の可愛い女の子」と「奇形性」が非常に違和感のある状態で並列される。 この「違和感」が作品世界全体を貫く。 「異形の妖怪」にもならないし、メカと少女のかっこよさもない。 据わりの悪さがどこまでも強くつきまとう。 それがこの作品の魅力なのである。 |
【 評論 】 AIR |
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以下のエントリーは抽象的に書いてますが、多少のネタバレがあるかもしれません。 1,「親に愛されない」という話の難しさ 「AIR」のテーマはよく「親子愛」とか「家族愛」と評される。 確かにそれはそうなのだが、AIRは通常の家族愛の話ではなく、拒絶されていた子供を巡る物語である。 「親から愛されない」というのは我々の日常においてかなりありがちな現象でありながら、今ひとつ物語のテーマにはならない。 もちろんそういうテーマの作品は存在するが、しかし本来なら大量に書かれていいテーマのはずなのに、今ひとつ手が着けられていないという印象がある。 このテーマで書いても面白くないからボツにされるので、世の中に出ないという感じかもしれない。 どうしてこの手の作品がつまらないのかというと、愛されない話となると、まず「愛されない自分」を美化するような安直な描き方になってしまいがちだからであり、そして、そういう作品は音楽の歌詞ならまだいいんだが、物語としては他人から見て痛々しかったり、あるいは面白くなかったりするからだと思う。 2,拒絶から受容へ ともかく「愛されない」という話は描くのがなかなか難しいのだが、「AIR」においては、人を愛せなかった者が最大限愛そうというプロセスを描くことに力点を置いた。 我々は愛情が足りなかった親の側に立って、ヒロインの美鈴に愛を注ごうとするのである。 「愛されない」という状態を描くと、ともすれば物語が止まってしまいがちだが、「AIR」ではそこからの回復を描くということで、物語としてうまく成立している。 良くも悪くも「AIR」においては、本当の意味での葛藤関係は描かれていない。 美鈴と晴子の当初の関係にしても、これは親子の精神病理としての葛藤なのではなく、あくまで実の親子ではないからという理由で、二人の仲があまり良好ではないという程度なのだ。 そもそも美鈴と晴子のキャラ自体は、そんなに葛藤関係を抱えるような風には思えない。 つまり内面的な根深い葛藤の問題ではなく、あくまで家庭環境において二人のしっくりこない関係を作っているだけである。 つまり構造としては、「拒絶から受容へ」という物語なんだけど、「拒絶」の部分はさほど深くは描かれていない。 ある種の図式として、美鈴を「親から受け入れられない」という立ち位置にした程度であり、本質的に根深い葛藤関係ではない。 そう考えると、「AIR」は(話の前段となるはずの)葛藤関係を描けていないとも言えるし、少し物語として浅いかなという気もする。 ただ良くも悪くも、葛藤関係そのものを徹底して描かなかったところが、余計な重苦しさを省いて、その後の葛藤関係の解消の部分の感動に繋がっていると思う。 3,優しさを最大限に 我々は通常他人をある種の利害関係の中で認識する。 他人は敵であるとは言わないまでも、それに近いものはある。 そして、物語としては、そういう利害を超えるときに感動になるのである。 つまり通常我々が他者と否定的な感情をぶつけ合い均衡しているとすれば、それを取り払った上で愛情を注ぎ込むことで、物語としての感動を生むのである。 駆け引きを抜きにして、相手を愛したりすることだ。 「AIR」では美鈴が無力な存在だからこそ、我々は全面的に愛(無償の愛)や優しさを注ぐことが出来る。 逆に言うと、親の自我と子供の自我はともすれば対立均衡にあり、「無償の愛」などうっかり注げないこともある。 実際他人をコントロールするためには人格を否定した方が合理的である。 親が、親としての威厳(優位性)を確保するために、子供を否定することもある。 否定することで、悪い意味での「バランス」を取ろうとする。 それなら、逆に子供が徹底的に無力であれば、親は子供を否定する必要はなく、安心して子供を肯定出来るということなのだ。 つまり我々が美鈴に「無償の愛」を注げるのは、美鈴が徹底的に無力な存在であり、我々のプライドを刺激しないから、ということなのだが……。 4,甘え ある意味「AIR」というのは、すごい甘えの話なのではないかと思う。 我々は、愛されない人間がそれを嘆くことを甘えとして拒絶しようとするけれど、しかし「AIR」は、親が後悔して、最大限美鈴に甘えさせようという話だから、拒絶するべき甘えではないのである。 そういう「許された甘え」を最大限に発動し黄泉路を行くのが「AIR」なのである。 ともかく「AIR」の美鈴を巡る話は、「他人に優しくする快楽」なんだろうと思う。 同じシナリオライターが書いていると思われる「KANON」の沢渡真琴シナリオについても同様だ。 そして「優しさで救う」ということなのだろう。 美鈴や真琴に最大限優しくしてあげることで救おうというような構図になっている。 こういう作品に感動するのは、通常リアルで我々があんまり他人に優しくないから、というのが大きい。 これは必ずしも我々の人格が歪んでいるからではない。 日常の儀礼的人間関係において優しさを最大限に出したら、それこそ単なる変人だろう。 ともかく、最大限優しくしてあげたい対象が通常いないからこそ、我々は美鈴や真琴のストーリーに特別な感動を覚え、彼女たちの弱さを慈しむのである。 |
【 評論 】 無限のリヴァイアス |
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(以下の文章には、作品に関して、ネタバレが含まれています)。 「無限のリヴァイアス」は重苦しい作品だ。 そしてわかりやすいカタルシスもない。 そしてカタルシスがないゆえに我々視聴者は、この作品の重力に引きずられていく。 「無限のリヴァイアス」は大雑把には漂流モノと分類されるのかもしれない。 しかしたとえば「漂流教室」(楳図かずお作)などとはまったく異質の作品だ。 単純に言うと、「漂流教室」では極限状況による異常性というものが描かれるが、「リヴァイアス」は普通にありがちなエゴを描く。 いかにも学校空間にありがちなエゴである。 つまり、「リヴァイアス」で描かれるのは「日常ではあり得ないこと」というよりは、むしろ閉鎖的な学校空間の日常で起こりがちなことだ。 そもそも我々が地球に放り込まれている状況自体がある意味「漂流モノ」である。 我々はこの地球という密室で、敵対的な人間と同居させられている。 (そして共存する必要がある)。 つまりある場に限定されたメンバーが集められ、イヤな相手といざこざを起こしつつも共存し……、なんて我々人間存在の生活そのものだ。 リヴァイアスは決して「特殊状況」ではない。 (荒れてる中学で40人くらいと狭い教室に押し込められるって、ある意味リヴァイアス以上の「極限状況」だと思う)。 さて、「リヴァイアス」を見てあらためて思うのは、多くのアニメにおける「暴力」が実際は「戦闘シーン」であり、ある種のゲーム化された決闘であるということだ。 つまり決闘をしてカタルシスを得るのを目的にしている。 それに対して、リヴァイアスにおける暴力は、そのようなスポーツ的な決闘とはかけ離れたエゴを剥き出しにした産物であるがゆえに、リアルである。 そしてこれは、たとえば凶悪犯罪のような明確な残虐さがないがゆえに重苦しい。 つまり(特殊な凶悪犯によるものではなく)我々一般人にありがちなエゴのぶつかりあいを基にした暴力だからこそ、身に覚えがあり、息苦しいわけである。 たとえば異常な犯罪者が猟奇的なことを繰り返すような話だったら、それは我々自身のリアルな生活とは無関係だ。 しかし「リヴァイアス」の暴力は我々のエゴそのものであり、だから見ていて、人によってはその重苦しさに耐えられない気がするかもしれない。 そして「リヴァイアス」の特徴は、どこまでいっても「ケンカの強い正義の味方」が出てこないことだ。少年漫画とかだと、正義の味方を登場させるために、正義が不在の状況を描いているだけだったりするのだが、「リヴァイアス」は執拗に「正義の味方の不在」ぶりを描き続ける。 青少年の揉め事をいろいろ描く場合、最後はケンカで解決して主人公側が勝つという展開にするのが普通だ。 ヤンキー漫画で滅茶苦茶なことを描いていても、たいていは主人公側のケンカの強い人間が正義の味方的な立ち位置で登場したりする。 「リヴァイアス」のように正義の味方の不在を延々と描き続けるのは特殊な部類にはいると思う。 (ただ言うまでもなく、こっちの方がリアルに近い)。 こずえの「リンチ事件」を巡る話にしても、語弊はあるが、あれは視聴者に重苦しさを与えるためには最高の出来映えである。 主人公グループの中で一番さえないレイコという女の子がこずえを助けられず、こずえがリンチ(明確には描かれていないが、状況からしてレイプ)されてしまう。 その後、こずえの恋人のイクミが八つ当たりのようにレイコを責め立てるのもよく出来ている。 つまりレイコが仮に「助けることが出来た」としてそれで責められるのなら、責められて当然と視聴者には映る。 しかし、レイコのように何の取り柄もない女があの状況で何が出来たのか? 出来ないはずなのに、イクミから怒りをぶつけられる理不尽さ。 そして「正義の味方」になれないことの理不尽さ。 そのあたり、無力な人間が現実世界において受ける報いというのが残酷に描かれていて、「よく出来ている」と思う。 ともかくこの作品では人間の業というものが、うごめきながら駆けめぐる。 そして繰り返し言っているように、我々の人生の中で思い当たるようなエゴに満ちたいざこざだからこそ、重苦しく突き刺さる。 そして最後は幸運のように救出されるのだが、ここでようやく「カタルシス」めいたものがあるのかもしれない。 それは決して正義の味方の活躍としてのカタルシスではない。 言ってみれば、荒れてる中学に(喧嘩の弱い男として)入学する羽目になったら、ただ卒業するまで我慢するしかなく、そして無事に卒業できたらほっとする、そういう種類のカタルシスだ。 「ようやく卒業式を迎えることが出来た」という解放感なのである。 この「リヴァイアス」に対する評価はなかなか難しい。 見ている側にフラストレーションを与えながら引きずっていくわけだから、手放しで賞賛するのは難しい作品だ。 感情移入すればするほど見ていてつらくなる。 ただ「救いの無さ」というのを、我々に思い当たるようなエゴのレベルで描き切ったことに関して、かなり製作者の力量を感じたのは確かである。 |
【 レビュー 】 「憐 ren」水口 敬文 |
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以下の文章で粗筋は普通に説明しています。 この作品はネタバレが困るようなタイプのものではないと思うが、一応念のため注意。 「憐 ren」の本編は全三巻。 第一巻「刻のナイフと空色のミライ」 第二巻「錆びゆくココロと月色のナミダ」 第三巻「遠いキモチと風色のソラ」 他に短編集が一冊あるが、それは未読なので、どんな内容なのか知らない。 憐という少女は、暗示を掛けて、高校に潜り込んでいた。 でもひとりだけ暗示に掛かっていない男がいた。 この男が主人公である。 この最初の、みんな暗示に掛かっているんだけど、一人だけ暗示に掛かっていなくて……という掴みはベタだけど、面白いかなと思った。 「暗示」の一言で説明を済ませてしまうのは、昔の漫画やアニメで非常にたくさんあったけど、最近の作品で「暗示」というのは使用頻度が低いので妙に新鮮な気がした。 そして、その一人だけ暗示に掛かっていない主人公と、ヒロインの少女の関係を描きつつ話は進む。 そして後半で説明される設定としては、未来では有用か不要かが振り分けられ、不要だと判定された人間は過去に流されるとのこと。 (有用な人間を未来に連れていくために、不要な人間を代替として過去に流すのだ)。 第一巻の終わりの方では、「不要」として捨てられたはずの憐に何か特殊な能力があるらしいという伏線が張られる。 まあこのあたりもベタである。 不要として捨てられた人間が本当に不要でした、というと、あんまり盛り上がらない。 不要扱いされて捨てられた人間に何か特殊な能力があって……ということだから、話は面白くなりうるわけですよ。 そして第二巻。 あらためてキャラ立てに関して言えば、ヒロインは萌えられるキャラではない。 そして作者は最初から萌えられるキャラを描こうとは思っていないはずだ。 雑に言えば、少しヤンキーぽくってピュアな感じの世界を描きたいということだろうか。 こういうアニメっぽくない高校生の描写はラノベでは少数派ということになると思うのだけど。 さて、物語の構造に関して。 第一巻で、運命の決定がどうのこうのという話が出ていたが、二巻では、それを巡る話。 運命が決められていて、それを変える……というのも、ベタではあるが、王道的な展開は素晴らしいのでそれはよい。 あと、有用・不要の話だが、人間をコントロールしているシステムを破壊しようとするみたいなのは昔よくあったような気がするのだが、最近見ないので新鮮だ。 そしてその未来の歪んだシステムを破壊するには、現在の幸せを捨てなくてはならないということになる。 未来を救うか今の幸せかみたいなジレンマが提示されるのもベタでよい。 (なんか、世界を壊すみたいな話って、ほとんど日常的な幸せと対峙させるんだよね)。 そして第三巻。 議論小説っぽい感じ。自分はこういうの好きなのですんなり読めたが、人によっては面倒に感じるかも。 ラストは予想通り。 全体的に、一昔前の漫画みたいな内容なのだが、自分としては面白く読めた。 |
【 評論 】 ヒカルの碁 |
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この作品内での棋譜はプロの方々が厳密に考えているようだが、まあそのあたりはどうでも良かったりする。 つまり仮に滅茶苦茶な棋譜であったり、碁盤の中身をまともに描いていなかったとしても、この漫画は十分に成立する。 (というより、盤面を見て、理解しながら読んでいる人はかなりの少数派だろう)。 つまりこの漫画では碁そのもののすごさを描いていない。 スラムダンクでバスケのプレーを華麗に描くのとはまったく対極である。 では、この漫画の最大の魅力を作り出している構造は何かというと、「解説」として参加することである。 読者はこの作品を読みながら、その碁の打ち手の解説者になりつつ……。 たとえば伊角なら、打ち筋は正確だけど今ひとつ勝負強くなく……、というような特徴を踏まえつつ解説され、読者もそれを「応援的に解説」しているような気になりながら。 (碁を知らない人間でも解説者的に参加出来るのがすごいんだな)。 何というか「解説」というのは、ある種のアドバイスをしているような?とでも言えばいいか、ともかくそういう感情移入なのである。 昔少年ジャンプで「ライジングインパクト」というゴルフ漫画があって、まあそこそこ面白い作品ではあったのだが、観客がいないところでゴルフをやっているのが、大きな欠陥だと思った。観客が解説者的に参加するみたいなのは、あまり意識されていないが、非常に重要だと思うのである。観客の解説によって、そこで行われていることの迫真性を高めていくと言えばいいのかな。「ヒカルの碁」において、観客が盛り上がったり固唾を飲んで見守ったりするのは、単なる背景ではなく、物語の重要な軸なのである。 |
【 評論 】 巨人の星 |
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「巨人の星」は、天才の挫折、あるいは幼少期からそういう自己イメージを抱いていた人間(神童)の挫折の物語である。 「神童」というのは、実際に才能があるか無いかというよりは、自分自身の捉え方としての(あるいは親の子供に対する視線としての)、問題である。 子供の段階で、普通に子供として遊んでいるのではなく、自己の(将来へ向かった)理想イメージを内包しつつ存在しているということだ。 そして「巨人の星」は、飛雄馬という挫折し苦悩する天才のキャラを通して、そういう(神童の挫折としての)ナルシスティックな悩みを素晴らしくうまく描いていた。 「巨人の星」はそういう自己の理想イメージの過剰性を前提にしている。 「巨人の星」において飛雄馬は巨人に入団し、「球質の軽さ」に悩むわけだが、このあたりは、天才の挫折をうまく描いている。 (というより、その種の挫折をナルシスティックに美化する方向でうまく描けている)。 ただ単に「プロに入ったら、その中ではたいしたことなかった」というのだと何の変哲もない挫折である。 すごいんだけど球質が軽いという理由で通用しないという設定こそが、「美化された挫折」を描くためのものとして、極めて重要なのである。 「巨人の星」においては、大リーグボールが打たれるか否かという部分だけに話が集中している。これはもちろん野球漫画としてナンセンスに過ぎるのだが、逆にこれが内面世界の寓話として非常に効果を発揮している。 つまり大リーグボールが打たれるか否かというのが、希望と絶望の間を両極端に揺れ動く青少年の内面的な葛藤の隠喩になっていて、(あるいは完全主義的なものを夢想し、それが現実にぶつかって崩壊するという構図になっていて)、それは非合理的であるがゆえに、逆に内面的な真実性に近い。 要は普通の人間が成功したり失敗したりという相対的な話ではなく、ある種の全能感を巡る物語なわけだ。 (不合理な成功と挫折を書いた作品に多くの人が共感するというのは興味深いことだ)。 |
【 評論 】 賭博黙示録カイジ |
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福本伸行作品全般に共通する話だが、一応、「賭博黙示録カイジ」の限定ジャンケンに関して。
限定ジャンケンの面白さは、それをやりながら、「定跡」を発見していくプロセスが描かれていることである。 たいていギャンブルや、将棋・囲碁・チェス、あるいはいろんなボードゲームでも定跡はすべてわかっており、それを押さえた上で始めるのである。 定跡を知らないで将棋を打つのも自由だけど、基本的にはお互いが定跡を知っていることを前提に将棋を指すわけである。 つまり定跡(法則性)を発見する楽しさというのは奪い取られている。 「カイジ」は、そういう法則性を発見していく楽しさを描いた。すでに存在しているゲームだと、それに対する定跡がある種の「常識」として成り立っているので、「法則性の発見」というのは難しい。 「限定ジャンケン」の過程でカイジが見いだした法則みたいなのは、このゲームをある程度やり込めば思いつくものだと思う。 ゲームというのは、ある程度いろんな人がやりこめば定跡が出尽くしてしまう。 ある意味、「カイジ」を読んで驚嘆する我々は、中級者から「こんな定跡がある」と教えられて感心する初心者みたいなものかもしれない。 カイジにおいては定跡が「特権性」を持つ構造になる。 つまりカイジはオリジナルのゲームをいきなりやらせることによって、みんなを「定跡の発見」以前の状態におく。 その地点からだと、「定跡の発見」がまるで神の一手のような重みを持ちうる。 冷めた目で見れば、カイジの「カリスマ性」は、「ルールしか知らない人」と「定跡を知っている人」の格差の問題である。 もちろんカイジは自ら法則性を発見して切り開いていくように描かれるけれど。 「カイジ」に限らず、福本伸行作品は、わりとオリジナルのゲームを考えて、そこでそのゲームの定跡(効率の良い勝ち方)を主人公に発見させて読者を感心させる、というパターンが多いのかな。 漫画の作り方の作業としてはオリジナルのゲームを考えて、スタッフとそのゲームのシミュレーションを繰り返して、「効率よく勝つ法則」を考えていき、そしてそれを作品化する、ということなのだろうか。 (実際どうなのかは知らない)。 |
【 レビュー 】 「ローゼンメイデン」-アリスになる意味- |
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漫画とかで戦闘をさせる場合、勝たなくてはいけない理由がうまく設定できているかどうかが重要である。
そういう勝利報酬の問題。 この場合の勝利報酬は利他的なものが感動を呼びやすい。 人質が解放されるとか、家族の病気が治るとか、地球人類が救われるとか、そういうことだ。 ともかくアリスゲームの勝利報酬の「アリスになれること」が、まずわかりづらいわけである。 (「お父様のため」というのは、この作品では利他的な動機に思えない)。 戦いの面白さは、その戦いに何が賭けられているか、ということによって決まる。 どんなに戦いを綺麗な筆致で描いたとしても、「負けられない理由」をうまく作れないと、それは練習試合のようなものである。 もちろん戦う動機は絶対に利他的でないといけない、なんてことはない。 本人の欲求として必然性があればいいわけだ。 アニメでは水銀燈が不完全なジャンクであるからアリスを目指すというような動機付けがあったわけである。 あの設定によってアニメ版第一期のラストはうまくまとまった。 他のドールに関しては、端的に言えば、すごく可愛くて完成されているので、欠落を埋めるような動機がない。 ただこの作品のテイストからして、わかりづらいからこそ、神秘的なイメージを作り出しているという効果はある。 このゴシック的な作品の中でシンボリックな深みを色づける道具にはなっているかもしれない。 たぶんそういうわかりづらさで引っ張って、最後にまだわかりづらいという感じなのかな……。 |
【 レビュー 】 「ローゼンメイデン」−アリスゲームのぬるさ− |
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原作漫画の方はまだ連載中なのでどうなるかわからないが、少なくともアニメのアリスゲームが変だなと思う。
この作品はコメディーとして大変面白いのだが、アリスゲームに関しては今ひとつである。 結論から言えば、負けた場合のペナルティーが厳しすぎる。 ローザミスティカを失うというのは実質的に死ぬということである。 もうルールを聞いた段階で「姉妹で戦うのはやめましょう」みたいなぬるいエンディングが見えてしまう。 自分はアニメ版から先にこの作品に触れたのだが、第二期の「ローゼンメイデントロイメント」の終わりの方で雛苺が機能停止したりしても、どうせ最後には復活するんだろうなと確信出来る。 ラストで、雛苺と蒼星石のローザミスティカは戻っていないし、二人は、目を閉じてソファーに座っているところが描写されるだけだが、どうも「ハッピーエンド縛りの法則」からして、救済措置は必ずあると確信出来るのである。 もちろん今後の原作が凄惨な展開になり、あの二人はやっぱりあのまま死んでます、ということも絶対ないとは言えないのだが、少なくとも現段階では救済措置(死んだのに生き返るというアニメにありがちなパターン)が当然のように想定出来る。 アリスゲームのルールが厳しすぎるが故に、救済措置が予想されてしまう。 誰かが死んでも最後には復活の呪文があるのだなと思えてしまう。 要するにアリスゲームはデスゲームなのだが、このキャラでデスゲームやって、ほんとに最後の一人になるまでゲームを全うするなんてあり得ないとわかってしまうわけだ。 「戦って、最後の一人になったら勝ち」というのは面白い作品の作り方のひとつだが、「ローゼンメイデン」の可愛いキャラたちを考えた場合、途中でゲームをやめようという情緒的方向に行くしかないわけである。 特にアニメの場合、いざとなったら続編を作れるように、キャラを残しておかないといけない。 だからデスゲーム(最後の一人が生き残って終わり)のはずなのに、適当に誤魔化して、みんなを生き延びさせなければならない。 デスゲームの果てに、「ひとりを残してみんな死にました」では、続編が絶対に作れないわけである。 ルールの厳しさと結果のぬるさのアンバランスはこのあたりもあるだろう。 |
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たぶん昔の漫画やアニメに関してレビューするブログになる予定。
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