Headline


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

魔砲使い黒姫(連載中)



連載中の作品なので、とりあえず粗雑なレビュー。

少年ジャンプ系の作品。
この作品は最初月刊少年ジャンプの増刊か何かで連載されていて、その後月刊少年ジャンプで連載されている。
第一巻が、増刊号に描かれたもので、第二巻以降が、月刊少年ジャンプでの連載ものである。
第5巻で一部完結となっており、第六巻からは作品のテイストも変わっている。
正確に言えば、第5巻でしっかり区切られているというよりは、作品の方向性が変わってきたので、ひとまず「第一部完」とした印象である。
つまり第5巻あたりで、作品の方向性が大幅に変わってきたので、そこでひとまず切って、第六巻からその方向で仕切り直したということだ。

第5巻まではいろいろブレの大きい作品だとも言える。
あるいはブレというよりは、読者の反応を見ながら(あるいは人気が出て作者の発言力が強くなり?)方向転換していくという連載漫画らしい描き方と言った方がいいだろうか。

まず第一部に関して。
面白いんだけど、掴みの部分が微妙に失敗している気がする。
というより、王道的な展開ではないな……。
第七巻のあとがきで、作者が少年漫画のラブコメが嫌いと書いているので、自分が読んで「失敗」と感じるのは実は失敗ではないのかもしれない。
「ジャンプ漫画ならお約束で絶対こうするはずなのに……」と思う部分が多々あるのだが、これは月刊少年ジャンプだし、あんまり縛りも強くないかもしれない。

作品設定を細かく説明するのが面倒なので簡単に言うと、ヒロインの黒姫(スーパーモデルみたいなお姉さん)は呪いを掛けられていて、姫子(可愛い少女)になってしまっている。
恋愛感情を持つとそのときだけ、黒姫に戻れて戦闘能力を発揮出来るのだ。
絵柄もなかなかよい。
コミックスの表紙だけ見ると、癖のある古い絵柄に思えるが、中身の漫画のほうは今風の絵で巧い。
問題なのは、主人公と姫子の関係性である。
主人公は黒姫に憧れていて、姫子には興味がないということになっている。
これがゆえにドタバタの面白さもあるのだが、物語が動かないという難点も。

また主人公の「憧れ」に関しても、きわめて無欲なのである。
黒姫がスーパーモデルみたいにセクシーなお姉さんで、姫子が萌えられる美少女なわけだが、これで主人公をはじめとするみんなが黒姫の方に焦がれているというのはコメディである。
普通の美少女よりはスーパーモデルみたいなお姉さんの方がいいという人もいるのかもしれないが、たぶんそれは特殊な趣味だろう。
それに作者としても、序盤はある程度コメディーとして描いていると思われる。
つまりスーパーモデルみたいな感じの黒姫の魅力というのは、ある意味戯画的で、本当の意味でみんなが憧れるヒロインを描いたのとは違うはずだ。
姫子は最初は高校生くらいのビジュアルイメージで描かれていたのが、だんだん子供っぽく描写されるのも、そういうことではないかと思われる。
ともかく、姫子との掛け合い漫才がなかなか面白い。
主人公の憧れが黒姫であり、決して姫子ではないため、ラブコメ的にはならないが、単純に読んでいて楽しい感じに仕上がっている。


さて第二部以降。
(あるいは第一部の終盤あたりから、と言った方がいいか)。
問題は第一部の終わりから、第二部あたりに入って、作者が本当の意味での「愛」を描き出したことである。
ここで描かれる愛も、物語というよりは、抽象的なメッセージ性が強く、かなり少年漫画から懸け離れた具合になっている。手法としては、少女漫画的と言っていいかもしれない。

この作者は本質的に少女漫画が好きで、それにも関わらず少年漫画を無理矢理描いていて、ようやく途中から少女漫画的なものを描けるようになった……ということだろうか。
あるいはただ単にラブストーリーが好きということなのかもしれない。

作者が書いているラブコメ批判は少年漫画批判としては的外れだ。人気のある少年漫画は恋愛を割愛していることが多いわけである。ヒットしている少年漫画で恋愛をまともに描いているものはかなり少ない。

その後、いろいろ展開するのだが、連載中なので、また別の機会に。
スポンサーサイト

負けず嫌い

物語というのは、その主人公の動機付けというのが必要なわけである。
ただ単に○○君が、○○して○○と戦って……と淡々と書くだけではダメだ。
動機付けをきちんと書かなければならない。
そして男主人公の動機付けとして、一番便利なのが、負けず嫌いということである。
ただ単に負けたくないからという単純な論理。
「負けず嫌い」は便利であるだけでなく、外してはならない基本だ。
時々、少年誌とかで、少年誌らしくない作家性を持った人が描いたりして、そういう人は少年誌の基本を押さえてなかったりして萎えるのだが、特にキャラが負けず嫌いで無かったりすると、「頼むから少年誌で描くなよ」と思う。
とりあえず「負けず嫌い」ということにしておけば、それでいいのだ。戦う理由として、「負けるのがむかつくから」というだけでも充分なのだ。

女の登場人物の場合、「負けず嫌い」というのは、どちらかというと、イヤなキャラの描写に使われがちだったりする。女主人公は勝負にこだわっていないのに、ライバルのプライドの高いお嬢さんが負けず嫌いで勝負を挑んでくるとか。「敵側のイヤな奴」の属性に使われがちだ。
男の場合、勝ち負けそれ自体が重要だが、女の場合、女の子としての魅力というファクターが重要なので、そうなるのかもしれない。
あるいは勝負事にこだわるのは男の子の属性であって、女の子にその属性を付けるのは無理があるというのかな。

もっとも「ガラスの仮面」みたいな作品もあるけどね。
「ガラスの仮面」は負けず嫌いを肯定的に使っている作品である。
「ガラスの仮面」でも紅天女を競う合うという負けず嫌いな意思があるから、紅天女の価値があるわけである。
「別に紅天女だけが演劇じゃないし」とか相対化したら物語が壊れてしまう。

ともかく、負けず嫌いは物語において極めて効果的だ。
登場人物が「こだわり」を持つことで目的は意味を持つのである。

架空の奇病

特にギャルゲーの系統に属する作品などで、架空の奇病が用いられることがある。
特殊設定であるがゆえに、普段の日常性ではオブラードにくるまれ、なあなあになってしまうことが「テーマ」として俎上に乗ることになる。
現実にはあり得ない設定をすることで人間の本質が切り出せるのだ。
現実にあり得る道具しか使えないなら、普通の日常の物語をなぞり上滑りしていくだけだ。
”仮にこんな設定だったら”ということで、普段とは違う切り口から人間を考えることが出来る。
(現実に存在する病気に基づいた名作も存在しているが、患者団体からの抗議など、表現上の制約を考えると、斬新な物語展開は難しく、ヒューマニズム的物語以外にするのは難儀である)。

そしてそういう「特殊設定」に対しての考証が甘くても許されるのがギャルゲー(あるいは漫画・ライトノベル)文化の良いところである。
「特殊設定」を設けて人間の本質を切り出すというのはSFもそうだが、どうもSFの場合、設定に対しての考証(科学的考証)の要求レベルが厳しすぎて書く方もかなり大変だという気がする。
表層的にそれらしいことを書いても、理系の人間に批判されたらひとたまりもない。特に物理法則が絡むとなれば、ちゃんと物理を理解してないとダメである。
「SFを書くなら物理くらい勉強しろ!」ということなのだろうが、それだとみんなラノベに流れるのは必然ではある。

ともかくギャルゲー的なラノベや漫画において何らかの特殊な設定をしても、それは基本的に科学的考証は求められない。
たとえば、それまで普通に登場して会話していた女の子が「実は幽霊だった」と説明されても、それで納得する文化がある。
医学的な根拠がない奇病も平気で出せる。
あるいは思念体の女の子と性交しても、なんで出来るの?と突っ込まれず許容される。
こういう設定に関して空想科学理論をきちんと構築することが求められないのは、ギャルゲーや漫画やライトノベルのいいところである。

フィクションにおける感動とは

物語の感動の多くはウソによって作られる。
現実にはあり得ないような選択と言えばいいか、一般的にはしない選択、(もちろんその物語の製作者自身だってリアルでそういう選択を迫られたら絶対にしないような選択)を主人公がするからこそ感動するのである。
一流大学に合格したのにいかないとか、良縁を断るとか、出世が約束されているのに人助けの旅に出るとか、立場を悪くしても正義を貫くとか……、なんでもいいけど、「現実ならそんな選択はしない」というものである。
現実では損をするような選択をして、それで感動を演出する。
そしてそこから人生論を物語る。
人間性を語る。
内面の豊かさについて語る。
こう考えてみると、フィクションとはどう読めばいいのだろう?
損になる選択をすることが素晴らしいと言われるなら。
もちろんフィクションはフィクションに過ぎない。
自己犠牲が描かれるフィクションに感動して涙を流すが、現実ではそれを実行に移さない、というのは別に矛盾ではないだろう。
しかしフィクションに感動して涙する人は、「こんなの現実にはありえねーよな。所詮はフィクションだよなあ」と割り切って泣いているわけではない。
映画を見て泣くとすれば、あくまでその映画を見ている時間だけは、そこで描かれる自己犠牲などに本気で共感して涙しているわけだ。
現実の利益を否定する人生論が語られれば、それにも共感して泣いているのだ。

こういう「フィクションの受容の仕方」が可能なのは、人間が、心理モードを使い分ける生き物だからだろう。
現実に生きるときは打算的に。でも仏心を出して、チャリティーに寄付したりもする。我々人間が共通の心理システムを持っていて、同じような使い分けに馴染んでいるのなら、それを矛盾とは感じない。
「矛盾」とは何なのか、というのも突き詰めて考えると難しいんですけどね。
一貫性を求めるシステム。
それでいて、使い分けも認めるシステム。
その使い分けられ方は我々の共通の仕組みに基づいていて……。
たぶんその共通部分が我々の基準であり……。

人間が本当に求めるものと、現実的に選択することとは違っていて、その埋め草がフィクションというものなのだろうか。現実には選ばれない選択肢が残滓としてフィクション化され、われわれはそれに感動したりする。

YAWARA!とHappy!



浦沢直樹のYAWARA!を読み返してみたんだが、ストーリーテリングの絶妙さに舌を巻くしかなかった。

よい意味で漫画的なストーリー。
わかりやすいライバル。

そして、あちらを立てればこちらが立たず、という微妙な状況が繰り返され、読者はそれにハラハラさせられる。
いわゆる「緊迫感」とはまた別質の、微妙な部分でどうなるのか先を心配させられる、見事なストーリーだ。

たとえば柔が短大を卒業後、普通なら西海大学に編入ということになるだろうが、ここで編入なのか、それとも旅行代理店に就職するのか、というジレンマを設ける。
あるいは就職してから、接待と試合のどちらを優先させるか、という話にしても、なんかいろいろ気を使う柔の立場に立って、ハラハラするわけである。
配慮しないといけない相手が二人いて、片方をがっかりさせるのが忍びない……、みたいな話作りが絶妙だ。

「続きが気になる」という作品にする場合、必ずしも大仰な話にする必要はないということだ。
むしろ日常的にわれわれ読者に心当たりのあるようなジレンマを提示した方がハラハラするという場合もあるのである。

さて、そういう点から言えばHappy!は今ひとつうまくいっていない気がする。
Happy!という作品は、序盤と中盤以降ではやや話の進め方が違うのだが、特に序盤では、主人公に次々と不幸が降りかかるだけであり、YAWARA!と違って、微妙なジレンマがないのである。
つまり(選択の余地のないトラブルが降りかかってくるから)「どっちを選ぶのか」というのではない。

正直、序盤は読んでいて少しつらくて、5巻くらいで投げようかと思った。
浦沢直樹としては意図的に「低俗なメロドラマ」をやっている感じで、そのあたりある種の名人芸は感じるんだけど、普通に読んでいて今ひとつ楽しくなかった。
たとえば竜ヶ崎蝶子というブリッ子のライバルなんかは、喜劇としてはすごくよく描けていて、浦沢直樹の喜劇を描く力量はすごく感じるんだが、普通に読んでいて、あんまり楽しい気分になれない。

もちろんHappy!に出てくる「不愉快なキャラ」はあくまで「漫画的」なものだし、あるいは「不愉快な出来事」も「漫画的」なものだから、読んでいて著しく不愉快になるわけではないんだが、そうかといって楽しいわけでもない。

ただ中盤以降は普通に面白くなる。
序盤では「イヤな話」を中心に据えていたのに対し、中盤以降オーソドックスな話作りになる。
YAWARA!と違う路線で進めていたのが、結局YAWARA!的なストーリーテリングになった。
たとえば(大金持ちの息子の)鳳圭一郎が家を出てどうするのか、という単純な話でも、続きが気になって読者は次々とページを捲らざるを得なくなる。
微妙に痛々しい中でハラハラさせるというさじ加減が絶妙だ。
このあたりはさすが、と思うと同時に、なぜ最初からこういう話にしなかったのかと思った部分も。

もう一度Happy!の序盤の話に戻すと、たとえば借金の問題で悩むとして、(YAWARA!的にするんなら)、お金がないことで人に迷惑を掛けてしまうという微妙な展開にするべきだった。天才的なストーリーテラーである浦沢直樹なら、そういうエピソードをいくらでも思いつけるはずである。お金がないから申し訳ないという話を書いて、読者も一緒に申し訳ない気持ちで悩むような、そんなエピソードを作れたはずだ。

要は金がないことで、イヤな借金取りに追われたり、イヤな大家に追い出されたり、イヤな大金持ちに関わらされたり、というのがHAPPY!の序盤の展開なんだが、これだとあんまり痛切さがないんだな。
このあたりがYAWARA!であれば、「いい人たちに迷惑を掛けて心苦しい」という描き方になっていただろう。
たぶん、意図的にYAWARA!と別のことをやろうとしたんだと思うけど、ピンチが悪い意味で漫画的だから、ハラハラしないんですよ。
(まあ前述したように、後半からYAWARA!的な話作りに変えて、そのあたりから面白くなっていくんだけど)。

「E.G.コンバット」秋山瑞人



「E.G.コンバット」(1~3巻)を読んでみた。
「イリヤの空、UFOの夏」で有名な秋山瑞人の著作。
1999年に出版された第三巻のあとがきで、次が最終巻であると予告されたが、未だに第四巻は出ていない。たぶん今後も出ることはないだろう。
<原作・小説原案・イラスト>は☆よしみる先生という人。
1992年あたり?に☆よしみる先生による漫画があったようで、その元となるアイデアを(☆よしみる先生が)考えたのはそのまた昔だという。
実際のところ、ストーリーや雰囲気はかなり昔のものである。
古臭いというよりは、文字通り年代的に古い作品である。
最近のラノベとはまったくテイストが違うし、当然ながら、「イリヤの空」や「猫の地球儀」とも違う。
新鮮さを期待せず古さを承知で読めば、それなりに面白く読める、というところだろうか。
(ただしストーリーは中途半端なところで終わってしまう)。
また秋山瑞人の筆致にしても、その後の作品に較べるとやや粗いが、逆に才能の原型を見ているようで、面白い。特にお奨めというわけではないが、秋山瑞人の作品の場合、文章だけでも楽しめるかな、という感じだ。

少年サンデー的作品

少年サンデーの傾向に関して粗雑な話をしようと思う。
もちろんすべての作品が同じ傾向で統一されているわけではないので、
ある種の雑談である。

ジャンプ漫画というのは、「強い-弱い」という対立軸に決定的な軸足を置く。
強い、弱い、ということに関してコンプレックス(優越感と劣等感)を持つ人がジャンプ漫画を好み、そういう図式に鈍感な人がサンデー漫画を好むのかな、と思う。

サンデー漫画においては、勝敗にプライドを掛けず、コンプレックスを持たないキャラがクールだと扱われる。
たとえば、手を抜いて相手に飄々と勝つことがクールである、というふうに描かれる。
昔で言えば、島本和彦の「炎の転校生」(週刊少年サンデー)は、熱血ではなく、熱血を戯画化した作品なわけである。少年マガジンの梶原一騎みたいな本当の熱血漫画ではなく。
こういうことを言うと、「昔の少年サンデーの『がんばれ元気』は本気で闘ってるよ」みたいなことを言われるかもしれない。
確かにそうだ。
別に少年サンデー漫画のすべてが勝敗にこだわらないわけではない。
あくまで大雑把な傾向として、少年サンデーの漫画は「強い-弱い」という力関係へのこだわりが薄い作品が多いという程度の話。


努力・友情・勝利

ジャンプ漫画について考えてみよう。
とは言っても、とりあえず90年代までの……という限定付き。

努力は物語のプロセスを巧く作る。
努力で「新しい技」を修得することを、物語の展開に結びつける。
その技を修得する前には勝てなかった相手に勝てるというようなことだ。
そしてそういう「新しい技」は感動を呼びやすい。「ドラゴンボール」のスーパーサイヤ人なんかが一番の典型だが、ともかく「新しい技の修得」は物語を展開させやすい。

友情は、やっぱり、友情が難しいからこそ、友情を描くと感動を呼ぶわけである。たとえば古典的な「キン肉マン」では、友情のために自分を犠牲にするという場面が繰り返されるわけだ。
通常は自分を犠牲にしたりしないからこそ、われわれは自己犠牲の作り話に感動するわけである。
友情を描くとは言っても、単純に美徳を描いたものは少ない。
友情を話の軸にすると、ピンチで助っ人に入るような場面を描きやすい。仲間意識の中で助けに入るというようなことで、燃える場面を作れる。これは戦闘漫画の中で何度でも繰り返せる。要はジャンプで友情という場合、ピュアな友情物語ではなく、助太刀に入った仲間の心強さ、あるいは一緒に戦う仲間の心強さ……、そんな感じで描かれる。

勝利に関して言うと、これは勝利条件(そして勝利報酬)の問題である。ジャンプ漫画は、この設定がすごくうまく作られている。
「遊戯王」が単なるカードゲームなのに、読んでいて熱中できるのは勝利条件(勝利報酬)の設定の仕方が巧いからである。
カードゲーム自体もよく描けてるけど、あれが仮に、勝っても負けてもどうでもいい戦いなら、まさに遊びでしかないわけだ。
カードゲームの勝敗を現実の何かと結びつけるからいいのである。
もちろん多くは利他的な動機に設定されていたりする。
それが友情に結びつくと、まさに王道的展開になる。
要は勝利と言っても、「勝つ場面を描けばいい」というのではなく、勝利によって何が得られるか(たとえば誰を助けられるか)というのが、うまく設定出来ているかどうかが問題である。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
アクセスランキング