まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

物語の在り方携帯電話は恋愛を促進するアイテムなので、今ひとつ物語の軸には使われない

携帯電話で人と人との関係は大きく変わりました。
特に恋愛中心的な社会を加速させたでしょう。

携帯は必ずしも、物語の軸としては使われません。
携帯電話は今の私たちにとって必需品なので、物語の中には一応出てきますが、ストーリーの核としては意外と使われない。

やはり物語というのは、恋愛を阻害する事情があった方がいいわけです。
ケータイでコミュニケーションしてカップルになったよ!というのでは物語になりづらい。
いや、現実にそうなったらハッピーなのだろうが、フィクションとしてはダメなのです。

現実だったら「どうやれば恋愛が進展するか」なのだろうが、フィクションだと「どうやれば恋愛を妨げられるか」ということなのです。
ケータイというツールはフィクションにとっては厄介です。

「ほしのこえ」などでは、距離感を感じさせるアイテムとしてケータイが使われましたが、そういう特殊な使い方をしないと物語になりづらい。
携帯を普通に使うと、あっさり男と女がくっついてしまう。

だから……、たぶん恋愛を妨害する道具を誰かが発明すればいいんです。
【2007/05/30】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「ぼくらの」アニメ版感想



原作未読です。
アニメだけ見ての感想。
出来るだけネタバレ控えめにするつもりですが、多少はネタバレあるかも。


第一話:
作画はよいですね。
ストーリー的には、見ていて愉快になるタイプの話ではないですね。
「なるたる」の人の作品らしいけど、「なるたる」は挫折したんだよな。
なんか生理的にこの作者の作品は受け付けないかも。
一応もう少し見てみよう。

第二話:
作画は問題ないみたいですね。
ストーリーはまだ序盤という感じなので、何とも言えず。
こうやってロボットで戦うことの謎みたいなのを解き明かす話なのか、意味不明なまま進んでいくのか。
一応もう少し視聴継続。

第三話:
最初の頃の感じとして、この少年少女たちだけが敵のことを知っていて、人知れず戦うのかと思っていた。
そうではなく、みんなの前に怪物が現れて、それと戦うみたいな感じなわけですね。
ストーリーが少し動き出したという程度なので、もう少し見てみるか。

第四話:
このあたりはまだ序盤と言ったところか。
戦闘シーン自体に迫力がないのは、いわゆるロボットアニメではないからなのだろう。
意図的に、戦闘はナンセンスなものとして描かれている。
これが続くと退屈なので、そろそろ話の展開が欲しいところ。

第五話:
今回は戦闘は無し。
どうしてこういう状況になっているのか、説明されそうで説明されず。
まあそういう感じで引っ張っていくんでしょう。
登場人物の中で可愛い部類の女の子が教師とやっているという設定は「なるたる」の人らしいのかな。
いや、「なるたる」は途中で挫折したので、ストーリーも憶えてないんだけど。
読者が反発を覚えるような設定にすることでキャラを立たせると言えばいいのか。

第六話:
今のところ、彼らがどうして選ばれて、何と戦っているのかが説明されてません。
不可解なことによって興味を惹くというのも手法のひとつではあるのだが、このアニメの場合、今ひとつ機能していないような気もする。
まあもう少し見てみましょう。

第七話:
う〜む。
たぶんこういう種類の話が出るのだろうなと予測はしていたので、やはりということなのだが。
エロゲーとかラノベとか普通のアニメだと、ヒロイン的な女の子の処女性を確保することが多いから、こういう性の描き方には違和感を憶えます。
エロゲーのやりすぎかも。
この作品での性の描き方は、青年誌的には、それほど不自然ではないのかな。
上品な感じの女の子を登場させて、処女性を壊すみたいな。
エロゲーは実は性には保守的なんですよね。

第八話:
原作未読なので、まったくわからないまま見ているわけだが、これって戦う理由がわからないままずっとストーリーが進むのだろうか?
理由のわからなさが物語の面白さとして機能しているとは思えない。
いや、最初から全部説明してもダメなんだろうけど、そろそろ大きな展開があるのだろうか。
こういう感じで話がずっと続くなら、脱落しそう。

第九話:
戦う理由は説明されませんね。
こうやって少年少女がひとりずつ死んでいくこと自体がドラマということなんでしょうか?
死ぬことを描き、命の重みというテーマ?
敵がたいしたことなく、戦闘自体がつまらないのも意図的なんでしょうか?
ロボット戦闘アニメへのアンチテーゼなのか?
【2007/05/29】 | レビュー | トラックバック(0)



物語の在り方ビルドゥングスロマンは現実に反している

ビルドゥングスロマンというのがあります。
いわゆる教養小説、わかりやすく言えば、「主人公が成熟していく過程を書く物語」ということです。

ヘルマンヘッセの作品なんかそうかもしれないし、「機動戦士ガンダム」もそうかもしれない。
「新世紀エヴァンゲリオン」はビルドゥングスロマンを奇形的に書いた作品だと言っていいでしょう。
「エヴァンゲリオン」はビルドゥングスロマン的な体裁を取りつつ、主人公が反復的に挫折し続ける変な構造だけど、やはり根底にあるのはビルドゥングスロマンです。

ビルドゥングスロマンってフィクションの最たるモノだと思うんですよね。
作り話ならではということです。

実際に世渡りの上手いタイプのヤツを見ると、「未熟な人間が経験を積んで成熟した」とは思えないんですよ。
器用なヤツは小学生の頃から要領がいいんです。
未熟でナイーブな子供が経験を通して成熟した大人になるという人間観はかなり間違い。

あるいは「成熟」の定義の問題となります。
「成熟」というものに道徳的価値判断を入れるとかなりウソになるということです。
世渡り上手なヤツが「道徳的に立派で成熟した人物」かどうか、というとそれは違う。

ビルドゥングスロマンというのは、「人間的成熟=(道徳的に)立派になること」という考えに基づいてますが、これが人間社会の実状に基づいているかといえば、そうではないです。

適応力が高くて、いろんなところで中心になるような人物って、「道徳的に立派」とか「模範的な人物」であるとは限りません。
道徳的な見方からすれば、「模範的で成熟した人物がみんなのリーダーになる」みたいな発想になるのかもしれないが、それはビルドゥングスロマン的な幻想です。

あるいは、「未熟」はあっても「成熟」はないという言い方でもいいかな。
つまり「未熟なタイプの人間」というのはいるわけです。
そういう未熟な人は成熟してないのか、というと、それはそういう発想自体がおかしいんですね。
成熟(道徳的に立派になる、模範的人物になる)というのが幻想だから。

これは人間関係に「勇気」が必要になってしまうタイプの人と同じコトですね。
他人に話し掛けるのに「勇気」が必要であるとすれば、その段階でおかしいわけです。
普通の人は他人とコミュニケーションする時に、いちいち勇気を振り絞っているわけではないのです。
(つまり「勇気」が必要になってしまうのは、単純に言えば対人恐怖症の状態にあるわけで、通俗的なコミュニケーションプロセスから外れてしまっているということです)。


大人は子供に「フィクション」を教えることからスタートするわけです。
「夢は信じていれば叶う」とか「立派な大人になりなさい」とか言うでしょう。
しかし「立派な大人」とか「模範的な大人」というのは幻想なのです。


フィクションの書き方に関して言うと、「未成熟−成熟」というウソを信じた方がいいのです。
子供の頃から普通に要領がいいヤツが、うまく立ち回って要領よくポジションを得ていくという話を書いてもフィクションとしては面白くないんです。
リアルで上手く立ち回れたらそれはリアルでの利益だけど、それは物語として面白くないんです。


だからフィクションでは、基本的に不器用な人物が主人公になります。
そしてそういう主人公が不器用な人間特有の挫折を味わいながら「成熟」していくという物語にしたりするのです。
フィクションとしてはそれでいいのです。

ただしフィクションを真に受けたらいけません。
現実に適応力の高い人間は、ビルドゥングスロマンの主人公にありがちなナイーブさを最初から持っていないのです。

ビルドゥングスロマンは未成熟な状態への偏愛、あるいは、侮蔑を含んでいるのかもしれません。
富野監督や庵野監督は、自作の中ではナイーブな登場人物を使うのを好みながら、何かにコメントする時は、他人の「未熟さ」を見下すような発言もします。
「未熟−成熟」の葛藤関係を作るのが好きなんですね。
もちろんフィクションの作り手としては、未熟な人間が成熟していくという人間観を持っていた方がいいわけです。
実際には、普通に要領のいい人は、その場その場であっさり適応していくだけだと思うんですけどね。
【2007/05/27】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「巣作りドラゴン」



エントリー数が少ないので、何年も前にプレーしたゲームのレビューを書いてます。

「巣作りドラゴン」。

非常に面白いのですが、モンスターのバランスの設定が悪いので、意外とやり込めません。

このゲームは巣を作ってそこを基地にして、攻め込んでくる敵と戦います。
敵と戦うためのモンスターを雇用して、それで戦わせるのです。
こちらのモンスターは経験値を稼いで成長します。
その稼いだ経験値やレベルは、次の周回に持ち越せるのです。
つまり最初からもう一度やり直す場合、そこまでの経験値が蓄積されていて、そこから成長させる、ということです。
そうやって何度も周回しながら経験値を溜めて育成していくのが大変面白いわけです。
(そして周回するごとにヒロインを攻略したり、ストーリーが進んでいくような構造になってます)。

問題なのは、

・敵の必殺攻撃が強すぎる
・こちらが雇用するハラミボディというモンスターはそれを無効に出来る

ということです。

そして、そのハラミボディばかりを雇用するのも可能なのです。
15体のモンスターを雇用して戦うのですが、15体全部をハラミボディにするのも可能です。
自分なりに縛りを設けて、「ハラミボディは使わない」とかしてもいいのですが、いかんせん敵の必殺が強すぎるので、どうしてもハラミボディを使いたくなります。
この必殺攻撃への対応の部分が、すごくバランス悪いんです。
仮にバランスが絶妙で、こちらもいろいろ工夫してモンスターの編成を決めるということなら、最高のゲームだったのですが、相手側の必殺攻撃だけが極端に強い(そしてハラミボディがそれを無効化出来る)というのが、大きな欠陥になっているのです。

つまり敵の攻撃にバリエーションがあって、こちらもモンスターを使い分けたりということなら、かなり面白かったはずですが、結局ハラミボディだけを並べることになるのです。

ちなみにこの「巣作りドラゴン」はシナリオもかなりセンスがあって面白いのです。
グラフィックも綺麗で、操作性もいい。
これでゲームバランスさえきちんとしていれば、いくら賞賛しても足りないくらいの名作だった……。

とはいえ、お奨めのゲームであるのは間違いありません。
敵の必殺攻撃に対しては、単にハラミボディを多用すればいいだけなので、ストレスも溜まらない。
つまりゲームバランスが悪くてストレスが溜まるというゲームではないですね。
ハラミボディだけを使えば楽にいけるので萎えてしまうということです。
【2007/05/25】 | レビュー | トラックバック(0)



物語の在り方喧嘩、あるいは身長の問題

フィクションで喧嘩の場面はよく出てくるわけですが、現実の喧嘩について考えてみましょう。

まず、お互いが全力で殴り合うような喧嘩は、現実ではほとんどありません。
ものすごい殴り合いの喧嘩を見たことのある人はかなり少ないと思います。
(というより、そういう喧嘩がたくさん発生していたら、喧嘩で死ぬ人がどれだけ出るか)。


フィクションだと弱い側が強い側を攻撃して、まったく歯が立たないという場面があると思います。
現実ではこれはあり得ません。
弱い側が強い側を本気で攻撃したら、その段階で怪我をしてしまうはずです。
強者が不死身ではないからこそ、ルールがあるのです。
強者が不死身で、弱者に攻撃されても痛くも痒くもないなら、ある意味ルールを作る必要がないのです。

実際、このエントリーを読んでいるあなたが「弱者」だとして、「強者」を全力でぶん殴ったことがあるかというと無いはずです。


喧嘩は要するに「力くらべ」ということですね。
「力くらべ」というのは認められている。

あるいは強者が弱者を攻撃するのは、「力くらべ」の延長として認められている。
多少の怪我なら、「力くらべ」ルールが適用されます。
それに対し、弱者が強者を全力で攻撃したら、それは力くらべのルールに違反するわけです。


フィクションも基本的にはこのルールに則っています。
弱者が強者を後ろから攻撃してあやめてしまうような場面もないではないですが、それは基本的に犯罪の場面の描写です。
ごく自然に弱者が強者を不意打ち攻撃して、それで倒して終わりというのはないですね。

格闘技系の漫画だと、主人公が低身長で、身長が低いのになぜか強いというのはすごくたくさんあります。
というより、戦闘が中心の作品で、主人公が巨漢だという漫画は少ないですね。巨漢で強いというと面白みがないので、原則的に主人公はライバルより背が低くなくてはならない。

強さと身長が比例するのかどうかはわかりませんが、ある程度そう決めることで「秩序」を形成しているわけです。

低身長の主人公が強いという漫画は、「背が低いと弱い」というルールには反してますが、「力くらべ」には則っているわけです。
「力くらべ」を本当の意味で逸脱してしまう作品というと、かなり書きづらいということになるでしょうね。
【2007/05/24】 | 物語の在り方 | トラックバック(1)



レビュー「らき☆すた」アニメ版の感想



「らき☆すた」アニメ版の感想です。

第一話:
らき☆すたの原作の方は、特段に素晴らしい画力とは言えないが、流行りを押さえた絵ではあると思います。

アニメ版の方はどうでしょう?
この古い絵柄には何か意図があるのか?

すでに原作を読んでいる状態でアニメを見るとテンポが悪いように感じるんですが、原作未読でアニメから見てる人はどうなんだろ?
こういう緩いタイプの作品だと、逆に場面の切り替えを早くしたほうがいいと思うんですが、場面切り替えが少ないので、延々と会話しているだけみたいな具合になってますね。

原作は「あずまんが大王」とか「トリコロ」みたいな感じだけど、アニメは「アキハバラ電脳組」みたいな感じ。


第二話:
第一話の冒頭で延々と会話していたみたいなのは無し。
テンポは普通ですね。
こういう緩いタイプの作品だと、もっと早く切り替えた方がいいかと思ったり。

作画が古臭いのはちょっと……。
意図的にアナクロにしてるのか?


第三話:
あまり変わり映えしない。
原作は会話漫画なわけですが、アニメも会話アニメですね。
動きがないから工夫のしようがないとすれば、せめて絵の綺麗さで楽しめれば……。


第四話:
もう期待はしない。
そう思ってみたら、意外と面白いかも。
今回はわりと場面転換が多くて、アニメみたいな出来だったような。
いや、アニメなんですけどね。


第五話:
確か監督が代わったんだっけ。
あまりフォローしてないので、そのあたりわからない。
なんか普通のアニメになりましたね。


第六話:
変なパロディーその他はともかく、絵的には普通のアニメ。
第一話とか第二話あたりは、単なる失敗だったのか、壮大な実験だったのか?


第七話:
なんかすっかり普通の作品になりましたね。
いや、普通の作品じゃないのかもしれないけど、最初が最初だっただけに。

第八話:
今回のは原作にない話が中心でしたかね。
いや、単に原作で読んだのを忘れているだけかもしれないけど。
背景が相変わらず落書きみたいですが、これはこのままなんでしょうね。
意図はまったくわかりませんけど。


第九話:
「極上生徒会」みたいな一話でひとつのストーリーという作品だと、つまらない場合はとことんつまらないです。
「らき☆すた」は、原作に無い話の場合でも、四コマスタイルを守ってますね。
二分くらいでひとつのエピソードという感じなので、テンポはよいです。


第十話:
「極上生徒会」よりは面白いかな。
いや、「らき☆すた」程度の四コマはいくらでもあると思うんだけど。
四コマ形式で進めていくアニメってなぜか少ないよね。
もっとたくさんあればいいのに。
(ここで言う四コマ形式とは、全体としてストーリーが無く、場面が次々切り替わっていくという意味ね)。


第十一話:
らっきーちゃんねるとやらを見なければ精神衛生上よいということに気づいた。


第十二話:
コミケの話。
普通ですね。
でも大きなお兄ちゃんたちは、こういうのがツボを付かれるんでしょうね。


第十三話:
女子高生の日常といいつつ、バレンタインデーとかに縁がないような子ばかりなのですね。
いや、女の子に恋愛させないのは基本的なことですけどね。


第十四話:
毎回感想を書く意味が無いような気がしてきた。


第十五話:
特になし


第十六話:
特になし


第十七話:
オタク関連の話題がいつも同じような……?
いや、これはカツオが毎回怒られているようなもので使い回しではないよね。
ほのぼのとしたアニメなのに柊家だけ妙に殺伐としているのは何か意図があるんでしょうか?
兄弟姉妹が多いと邪魔であるという現実をよく描けている……ということか。


第十八話:
いつも通り。


第十九話:
プロ野球中継が延長されるとアニメの録画に差し支えるというネタが頻繁に出てくるけど、これは時代に合わなくなってきたな。。。


第二十話:
いつも通り。


第二十一話:
修学旅行のイベントは面白くなかったような。
この作品の場合、普通の学校行事は無理して入れない方が。。


第二十二話:
後半はいつもと違うテイストでしたね。
たまにはいいかも。
基本的にこの作品はストーリーが無くて切り替えが早いのがいいんだけど。


第二十三話:
いつの間にか、つかさの影が薄くなりまくり。
でも、妹萌えとして機能してなかったので、つかさを控えにして、ゆうちゃんを入れたのはよかったのかもしれない。


第二十四話:
最終回。
文化祭の話。
このアニメの場合、学校行事が絡むと、どうも間延びする気がするんだけど。。。

【2007/05/23】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記「ゼロの使い魔」と「アニメ三銃士」



http://d.hatena.ne.jp/imaki/20060821

このページは有名ですね。
「ダルタニアン物語」読んでみたいんだけど、高いですね。
それにこういうタイプの作品の場合、積んでおくだけになりがちです。
ただでさえ、読んでない本や漫画が大量に溜まっているのに、読むかどうかわからない高い本を買う勇気はないです。

なので、「アニメ三銃士」の適当な記憶で語りましょう。
実際、考えてみると、「ゼロの使い魔」と「アニメ三銃士」って似てますよね。

「ゼロの使い魔」が面白いのは、主人公がアホでタフなところです。
あるいは、それだからこそ、ルイズのキャラがイヤミにならない。
主人公が繊細で、ルイズがそれに対して意地悪したらホントに悪い女になってしまう。

「アニメ三銃士」のダルタニアンもアホでタフです。
キャラとしてはよく似てますね。

あと、「アニメ三銃士」のアンヌ王妃と「ゼロの使い魔」のアンリエッタは立ち位置が似てます。
(アンリエッタとはルイズの幼なじみの王女です)。
「アニメ三銃士」でアンヌ王妃の問題を解決する構造と、「ゼロの使い魔」でアンリエッタの問題を解決する構造は似ています。
また、
・才人-ルイズ-アンリエッタ
・ダルタニアン-コンスタンス-アンヌ王妃
の関係も似ていると言えるかもしれないです。

「アニメ三銃士」は陳腐な話ではあるのですが、とても面白いです。
主人公が次々とピンチに巻き込まれ、それを解決していくだけの話なんですが、やはりピンチの連続を作ると、それだけで物語はかなり面白くなります。
「アニメ三銃士」はちょっと主人公がピンチに陥る回数が多すぎるかなと思うんですが、まあ面白いわけですからいいんでしょう。
やはり不安定状態を回復するというのが物語の基本ですからね。

あと、悪人の描き方もわりと似ているかもしれません。
「ゼロの使い魔」では漫画的な悪人が多いですよね。
つまり、本当の意味で嫌な悪人が出てきて鬱展開するということはないわけです。
わりと小学生向けのアニメに出てくるような悪人が多かったりする。
「ゼロの使い魔」は多少エッチな要素は出てきますが、それを除外して言えば、小学生向けアニメ的な作品かなとも思うのです。
【2007/05/22】 | 雑記 | トラックバック(0)



評論「EVER17」(ネタバレ注意)



エントリー数が足りないので昔のゲーム作品のレビューで埋めています。

「EVER17」は何も知らない状態でプレーした方が面白いので、未プレイの人は以下の文章を読まないでください。


素晴らしい作品です。

まず素晴らしい点は(3Dで動くわけではないですが)CGで作られたデザインがカッコイイ。
操作性がいい。
絵柄の出来もよい。
SF設定も緻密でいい。

シナリオ以前の部分がとてもよく出来ているわけです。


ただ最初の部分のSF設定の細かさがカッコイイと思うと同時に退屈だというのもありました。
掴みとしてよくないのです。
カッコイイ感じにまとめているけど、シナリオの出だしとしては面白くないのです。
包装紙は綺麗だけど、中身がスカスカという印象です。

このゲームは一応並列型ノベルゲームです。
同じスタート地点から毎回始めて、それぞれのヒロインのエンディングを見ていくというタイプのゲームです。

ノベルゲームは大雑把に並列型と直列型があると思うのです。
直列型とは、ヒロインの攻略順が決まっていて、ひとりクリアするごとに物語が進行していくゲームです。

EVER17は表面上は並列型です。

このゲームの場合、

・ヒロインの物語
・閉じこめられたところから脱出する物語

のふたつの側面があるわけです。

この作品は並列型であるために、「脱出する物語」の部分が、周回するたびにダレるのです。
あるいは「極限状況もの」としてよく描けていない。
まあ極限状況でキャラがいがみ合うとこの作品にふさわしくないので、そのあたりは意図的に緩くしたのかもしれないです。
ともかく周回するたびに一応のエンディングに辿り着くので、状況の物語としては、並列型であることによる悪い面が出てます。
全然緊迫感がないのです。

一周目の中盤あたりからはドキドキしながらプレー出来たのですが、何周かしていると、わりと作業になってしまう。

しかし、そのだるさがひっくり返るのが最終章のココ編です。
これによって、今までのストーリーがひっくり返るのです。

雑に言えば、このゲームは「叙述トリック」です。
叙述トリックとは何かというと、たとえばAという人物が語っているのかと思ったら、実はBという人物が語っていたということです。
つまり文章の記述の仕方によって仕掛けるトリックです。
そういう叙述レベル(描写レベル)での仕掛けがあるわけです。
最終章で、そういう仕掛けを全部バラしていくタイプのストーリーなわけです。

最終章の前までは、普通の並列型ノベルゲームに見えるわけです。
それぞれのヒロインに物語があって、それぞれエンディングがあっておしまい、という。
でも実際は、最終章(ココ編)で、今までのエンディングが解きほぐされます。
最終章で、今までのストーリー全体が痛快に説明されて連結されていくわけです。

やっぱりこのゲームはある種の叙述トリックだから、ネタバレになるので語りづらいですね。
ネタをあらかじめ教えた上でプレーさせたら楽しめるかどうか。
トリックのネタばらしというのは、どんな場合でも禁物ですが、これは叙述トリック系なだけに、特に厳しいです。

同じ建築物を建てるというトリックは、とある推理小説で読んだような気がします。
というより、「同じ構造の部屋だっただけで実はまったく別の場所の部屋だった」みたいなのは、わりとよくあるトリックです。
簡単に再建出来るものだと、ありがちな設定になってしまうので、海中テーマパークの再建というところまで大きく出たということでしょうか。
そこまで派手にやらないと、ありがちなトリックになってしまう。

他にも、「これはちょっと無理なのではないか」という部分はありますが、漫画的な設定だと考えれば、かなり楽しめる作品だと思います。
それぞれのヒロインのルートに関しては、攻略時間が短くなるような工夫をして欲しかったです。
このゲームは肝心の最終ルートに入るまでが長いので、それがかなり難です。
最後までプレイしないと意味がない作品なのだから、途中を短くするようにして欲しかったですね。
【2007/05/21】 | 評論 | トラックバック(0)



レビュー「ままにょにょ」



エントリーを増やすために、昔のどうでもいいゲームのレビューをやってます。

「ままにょにょ」は、アリスソフトが2003年に発売したゲームです。
中毒性が高くかなり楽しめます。
アリスソフトのゲームのいろんなキャラが総出演して戦うというゲームです。
延々と無限に戦う底無しのゲームです。
システムとしては、1999年の「ママトト」をベースにしてます。
とは言っても「ママトト」と似ているのは表面的な部分で、実際の仕組みは違います。
「ママトト」は面クリア型であるのに対して、「ままにょにょ」は延々と戦うゲームですから、違いは結構あります。


「ままにょにょ」はプレイ時間の長さでも知られます。
何しろ無限にダンジョンが続くので、数百時間は当たり前、あるいはそれ以上……という世界です。
(クリアするという概念がないので、飽きるまでプレーするゲームです)。
私の場合、100時間を越えることなく挫折しましたが、これではかなりのひよっ子という感じです。

私がこのゲームに挫折した理由として、好きなキャラが必ずしも選ばれていないというのがありました。
追加パックなども含めると約100名のキャラがいるのですが、それは数多くのアリスソフトのゲームから選ばれているわけです。
アリスソフトはこの業界随一の老舗ですから、たくさんのゲームを出してます。
だから自分のお気に入りのキャラが漏れている……、というのもあります。

それとステータスを分析し始めると、どうしてもキャラの格差が気になるというのがあります。
あるいは、ステータス表を見ないでプレイしたとしても、実際に使っている感覚として、自分のお気に入りのキャラがしょぼすぎるという現実があるのです。
要は強いキャラと弱いキャラの格差があるので、それが結構萎える。
もちろんターン制限のないゲームなので、弱いキャラを選択したら余分に経験値稼ぎをすればいいだけのことです。
弱いキャラを使うとクリアできないなんてことはありません。
でもどうも今ひとつ納得出来なかった。
それぞれのキャラに一長一短があり、全体としてバランスが取れているという具合にして欲しかったな……と思う。
強キャラと弱キャラが半々くらいのバランスならまだよかったのですが、どうも一部の強いキャラとそれ以外の使えないキャラという配分になっているように思えるのです。

こうやって書いているとまるで否定しているかのようですが、実際はかなり面白いのです。
面白いがゆえに、逆に不満が生じたということです。
まあ「自分のお気に入りキャラが弱くても構わない」という人にはたいした問題ではないです。
ゲーム自体はよく出来てますからね。

次回作があるのかどうかわからないけど、今までのアリスソフトのやり方を見れば、そろそろあるような気がします。
次は「大番長」や「戦国ランス」のキャラを入れて売り出すと思いますね。
「大番長」はターン制限が厳しいので二度とやりたくないゲームですが、天楼久那妓は好きでした。
「戦国ランス」からはみんなの好きな上杉謙信が入りますよ。

【2007/05/20】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「ランス5D」



エントリー数を増やすために昔の作品のレビューで埋めてます。

「ランス5D」。

この作品に関してはネタバレも何もないでしょう。
通常の言い方では外伝的な作品ですね。
ただ、アリスソフト的には、「鬼畜王ランス」のような”別設定作品”を”外伝”と呼んでいるため、外伝という言葉の使い方は少しややこしいです。
まあ外伝という言い方を避けるなら、「ランス5D」は短編的とでも言えばいいでしょうか。
設定としては正史の中に属します。

キャラクターとしては、リズナとコパンドンが初登場します。
リズナはこの後、「ランス6」と「戦国ランス」に登場します。
コパンドンは「ランス6」には出てきましたが、「戦国ランス」には登場しません。
「ランス6」でも才能限界が低いので、終盤では使えないキャラでした。

さて「ランス5D」。
クリア時間は短めですね。
たぶん10時間か20時間程度。
ちょっと変わったゲームシステムなので、途中でやり直す必要があるかと思います。
変わったゲームのコツを掴んで、やり直しつつ、やり方を理解していくゲーム。
そういうやり直しや試行錯誤を含めても20時間掛からないゲームです。
やりこむタイプのゲームではないです。
一度クリアしたら、それまで。
普通に面白いゲームです。
操作も快適で難易度も高くなくストレスは溜まりません。
是非ともプレーするべきゲームかというと、そうではありません。
【2007/05/19】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記「ONE〜輝く季節へ〜」と「ふろん」(ネタバレ注意)



ときどき岩泉舞の「ふろん」と、恋愛ノベルゲーム「ONE〜輝く季節へ〜」が似ているという話が出たりします。
実際のところどうなのか。


「ふろん」の粗筋を書いてみようと思います。
「ふろん」は1989年の漫画作品なので「輝く季節へ」よりずっと前の発表です。
(「ふろん」は短編で、「七つの海」という作品集に収められています)。

漫画を文章で説明するということになるので、ちょっと難しいですが、大雑把にはこんな粗筋ということです。


主人公の少年は階段を八重垣さんという同級生の少女と昇っていた。
その途中で、誰かに呼び止められたような気がした。
どこかで聞いたような声だったが、わからなかった。


そして翌日、主人公は学校に行く。
下駄箱のところで、後藤という友人に話しかけると妙な反応。
「あ?」
「何」
「なんだかさっぱりわからん。だからお前の名前がさ」
「名前?」
主人公の少年はあらためて考えて、自分の名前を忘れているのに気づく。
それから教室に入って、女子生徒に自分の名前を尋ねてみるが、
「あら、そーいえば」
「名前だけ思い出せない」
という反応をされる。
主人公のことは知っているが、名前は忘れてしまったというのだ。
それから授業が始まり、教師が出欠を確認したが、主人公の名前を失念したという。
出席簿にも名前がないというのだ。
それから放課後になって、主人公は下校した。
同級生の八重垣さんと一緒に帰った。
「気にしないでよ、名前無くしたって、友達でしょ」
などと慰められた。


主人公の少年はそれから八重垣さんと別れ、ひとりで歩道をとぼとぼと歩いた。
すると、主人公の側の壁の上を少女が歩いていた。
「こんにちわ」
白い服に裸足で歩いている、妙に幻想的な女の子だ。
「なんなんだ、お前?」
「あたし、あなたの名前知ってるわ、ふろんよ」
「俺はそんな変な名前じゃ」
「でも、ふろんよ」
それからいくつかやり取りがあった後、
「名前以外の落とし物にも気を付けてね」
と言って幻想的な少女は去っていく。
主人公は家に帰り、母親に自分の名前を尋ねるが、忘れたらしい。


それから学校の職員室に場面は移る。
「いや、君がこの学校の生徒とゆーコトは覚えとるんだが、なんとどの書類にも君の名前が残っておらんのだよ」
と教師は言う。
「ワシもだんだん自信がなくなってきた。君がほんとーにうちのクラスにいたのかどーか」
その後、主人公は屋上でひとりになった。
そこにまた幻想的な少女がやってくる。
「個性の次は名前。そうやってあなたは何もかも失っていくんだわ」
「阿部夏美のユーレイさん」
主人公は少女をふりかえり、言ってみた。
しばらく沈黙があった後、
「当たり、よくわかったわね」
と幻想的な少女は答えた。
「昨日アルバムしらべてて思い出したんだ。小学校三年生の時に同じクラスで、たしか交通事故で死んだ、ナッちゃんだろ」
主人公はそれから夏美に話を続けた。
「今のオレのフツーでない状況に、説明つかないかなあ?」
「フツーって、何?」
「フツーってのは、名前があって……」
「あのね。落としたのよ。名前。社会のヒズミの中にね」
それから会話がやり取りされた後、主人公は、
「ねえ。ふろんって何?」
と尋ねた。
「かえるさんって意味なの。"ふろっぐ"で"ふろん"。あたしがつけたの」
「かえる!?」
「そう。脳味噌も名前もない。あわれなかえるさん」


主人公が教室に行くと、自分の机の上に花が置かれていた。
「なんで俺の机の上に花があるんだ?」
主人公は同級生に問い詰めた。
「この世に名称が存在していないってコトは。おまえもこの世に存在していないってことじゃん」
同級生は答える。
「俺はここにいるんだぞ!」
主人公は自分を指差しながら叫ぶ。
「なんで信じないんだよ。俺を殺すな!」
「だって!」
と八重垣さんが立ち上がる。
「あたしあんたのこと忘れそうだもの。最初は名前で。あんたがどんなヤツだったかって。思い出そうとして、だけど、だけど」


主人公は幻想的な少女(夏美)との会話を思い返す。
「かえるってね、脳味噌がなくても泳げるんだって。生きてるわけないのよね」
主人公はそれを振り返りつつ、独白する。
「同じだ。自分の考えで動こうとはせずに、周りの反射だけで動いている。頭を切り取られて泳ぐカエル。群れをなして泳ぐカエル。それがオレ達だと言いたかったのか」


それから主人公は幻想的な少女(夏美)にどこかにつれていかれることになる。
「つれてくって、どこへだよ?」
「言葉じゃうまく説明できないわ。そうね……、あなたが堕ちたところ。社会のヒズミ」
それから主人公は夏美に手を引かれていく。
その途中で、主人公は階段を昇る八重垣さんの姿に気づく。
「八重垣さん」
主人公が叫ぶと、八重垣さんは振り向く。
でも、
「気のせいか、どこかで聞いた声だったんだけど……」
と去っていく。
フェイドアウトするように話は終わり。




「One〜輝く季節〜」は「ふろん」と似ているのか?

・自分の存在が周りから消えていくというところが似ている。
・「ふろん」の幻想的な少女と、「One〜輝く季節へ〜」における幼い長森瑞佳の立ち位置がわりと似ている。


言うまでもなく、他に類例が見いだせない独創的な設定などありません。
このケースにしても、よくある一致と言えばそれまでです。

また、大ヒットする作品はたいてい設定がありがちです。
「○○」と「△△」は似ている!とか言ったりするのは、無意味なのです。

「One〜輝く季節へ〜」の場合、「設定が斬新で衝撃を受けた」という感想が多かった気がします。
そう言ってしまうと、「似たような作品あるよ、ほら」と提示されてしまうというところはあります。

まあ設定などテンプレです。
本当に類例が無い作品など存在しない。
独創とかパクリだとか安易に言うべきではないのです。
【2007/05/17】 | 雑記 | トラックバック(0)



レビュー「Baldr Force」と悪夢



エントリー数強化月間のため、昔のゲームのレビューを書いてます。

「Baldr Force」。

(ストーリーに関してのネタバレはありません)。

今までバルドフォースどれだけやったかわかりません。
というより、未だにやっているのです。
四年間くらい延々とやってます。
通算で何千時間になるでしょうか。
恐ろしいですよ、このゲームは。

ゲーム本編は普通に面白い出来です。
ストーリーに関してはネタバレになるので、具体的には言いませんが、いろいろ隠されていた出来事を探すという構造のストーリーで、続きが気になります。
最後までわかってしまうと、陳腐な話ではあるのですが、でも構造的に面白い展開なので楽しめます。
シナリオに関しては、ヒロインの攻略順が決まっています。
これは、話全体の大きな流れがあって、ひとりクリアするごとに、ストーリーが先に進むというスタイルだからです。
同じ時間軸の中で、それぞれの並列されたヒロインをクリアしていくというタイプのゲームとは違うわけです。
一応表面的には(ひとりクリアすると)スタート地点に戻って分岐していくというスタイルを取ってますが、実質的には、ひとりクリアするごとに長編小説のひとつの章が先に進む構造です。


さて、このバルドフォースが面白いのは、何よりも、途中で挟まれる戦闘パートなのです。
アクションゲームとして素晴らしい出来です。
クリアして何年も経つのに、未だにアクションゲームの部分だけ私はやり続けてます。

アクションの部分を本格的にやるのなら、ゲームパッドは必須です。
単にシナリオをクリアするだけなら、難易度調整も出来るので、キーボードだけでも大丈夫らしいです。
でもゲームパッドでやってこそのバルドフォースです。
最初はPC用ゲームコントローラー何度も使い潰したんです。
今はプレステのコントローラーをPCに接続するコンバーターみたいなのを買って、それで快適にプレーしてます。
ソニーの製品はよくいろいろ言われますが、プレステのコントローラーはホントに丈夫ですよ。
なんでこんなに使っても壊れないんだろと感心してます。

クリア後に楽しむアクションとしては、サバイバルモードと地獄モードがあるのですが、何と言っても地獄モードのステージ35ですよ。
「電子の世界で悪夢をみた」。
これのおかげで、どれだけ時間使ったか……。
難攻不落でした、最初は。
すごいストレス溜まりましたよ。
今では結構クリア出来ますけどね。
本当に恐ろしいのです。
バルドフォースのアクションゲームの部分は本当にやり込めるので、止めた方がいいですよ。
【2007/05/16】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「君が望む永遠」



エントリー数強化月間なので、昔のゲームのレビューとか増やしてます。

「君が望む永遠」。

ネタバレは無いように書きます。

さて、この作品の素晴らしさに関しては今さら言うまでもないでしょう。
どこがどう素晴らしいのかを書くとネタバレになるので書きづらいですが、素晴らしいのです。

このゲームは選択肢で悩めるゲームでした。
ノベルゲームの多くにおいて、選択肢は便宜的なものです。
どっちみちすべてのルートを見るということは前提とされていて、すべての道を見回るようなものです。
街を巡回して、すべての道を踏破するのがノベルゲームなのです。
引き返せない状態でひとつの道を「選択」するわけではないのです。
「選択肢」といいながら、実際は後から戻って全部選べるのがノベルゲームの世界。
あれもこれも選べる。

そういう意味で、「君が望む永遠」は斬新でした。
みなさんはどういう選択をするか思い悩みながらプレーしたはずです。

それでは、このゲームは、ゲームシステムとして革命的だったのか?
それは疑問があります。
システムとしてはノベルゲームのままです。
でも、物語的に選択を悩むようにさせることで、選択肢に意義を与えたのです。

多くのノベルゲームの選択肢が「あれもこれも手にする」ためのものであるとすると、「君が望む永遠」ではストーリー上それがしづらくなっている。
あくまでストーリー的に……というところが肝心です。
決してシステムとして選択肢の革命的な使い方をしたわけではありません。
ノベルゲームの選択肢はゲーム性が低いままです。
【2007/05/14】 | レビュー | トラックバック(1)



評論「EVE burst error」



ストーリーのネタバレはありません。
あくまで作品の構造に関しての話。


剣乃ゆきひろ三部作は、どれも甲乙付けがたいのですが、「EVE burst error」は一番単純に楽しめる気がします。
「YU-NO」は攻略に歯ごたえありすぎます。
宝玉セーブ……。
自力でプレーするとなると、大変です。
「YU-NO」のシステムは自力でプレーしてこそ面白いはずなのですが、いかんせん厳しすぎるので、自力でやるとストレス溜まりすぎになります。
普通にシナリオを進めていく「EVE burst error」と「DESIRE」よりは、「YU-NO」の方が、ゲームとして深くていいんですけどね。
自力だと難儀になるので、攻略サイトに頼って、実質一本道プレーになりがちです。


本題に入ります。

「EVE burst error」は、変な言い方になりますが、「逆転裁判」みたいなテイストだと思うのです。
もちろんゲームの仕組みも、キャラも全然違いますが、テイストがそういう感じなのです。
「逆転裁判」が「EVE burst error」に影響を受けているという意味ではなく、漫画的に仕上げるという点で共通しているということです。

つまり私が「逆転裁判」の名前を出してみたのは、漫画的に巧く仕上げている作品として、真っ先に思いついたからです。
「逆転裁判」の裁判は言うまでもなく、現実の裁判から懸け離れたものです。
漫画的な裁判なわけです。
あの作品は全体として漫画的なのがいいわけですよ。
漫画的な設定であり、そしてキャラ設定にメリハリがあって魅力がある。

「EVE burst error」はある種のハードボイルドですが、たとえば大沢在昌の「新宿鮫」シリーズみたいなのとは全然テイストが違うわけです。
「EVE burst error」は出てくる設定も人物も漫画的です。
そしてそれがゆえにとても面白いわけです。
「新宿鮫」みたいにリアルに徹した作品とは別の意味で、漫画的であるがゆえに面白いのです。

私は「新宿鮫」も好きですよ。
第一巻は普通にいいし、第二巻の「毒猿」も痺れます。
直木賞を取った第四巻の「無限人形」は必ずしも面白いとは思わなかったんですけどね。
第六巻の「氷舞」は読んでいて寒気がしましたよ。公安警察とかをよくあそこまで恐く書けたなと思いますね。
まあ「氷舞」は話を膨らませ過ぎて、うまくまとまらなかった印象もあるのですが、ドキドキしながら読みました。

要はリアルに徹するか、漫画に徹するかということです。
中途半端に現実に近かったら失敗作なわけです。

「EVE burst error」は漫画的な作りに徹しているところがいいのです。
リアルっぽくやろうとして、その出来損ないで漫画的になっているのではないのです。
あらゆる部分を漫画的な味付けで敷き詰めている。
「逆転裁判」もそうなのです。
リアルさを完全に排除して漫画に徹しているから、あの作品はよいのです。

意外と難しいと思うんですよ。
漫画的な裁判とか漫画的な警察とか、そういうのに徹して書くのは難しいはず。
たとえば、作品の中に軍隊を出すとして、漫画みたいな軍隊を書ける人はあまりいないと思うんです。
まあ軍事の場合、軍オタと漫画オタがかぶってることも多いので、これは別の意味で難しいかもしれません。
「漫画みたいな軍隊」と書いてみましたが、漫画に出てくる軍隊は結構知識が詰まっていて本格的ですよね。
(「陸上防衛隊まおちゃん」みたいなコメディーは別として)。

私たちが「逆転裁判」に穴を探さないのと同じで、「EVE burst error」にも穴を探そうとは思わない。
漫画的な部品で全部作っているから、雑な部分がかえっていいというところがあるわけです。



「EVE burst error」はある種の推理小説です。

推理小説って、大雑把にわけると、ふたつあると思うんです。

・パズルみたいに犯人を捜していく(本格推理)
・犯人の周辺をいろいろ調べて、裏の事情を探していく(社会派推理)

剣乃ゆきひろ三部作に関して言えば、疑わしい人間の背景を探っていくということですね。

裏に何かありそうな人物が登場してきて、その人物の周辺を探っていくわけです。
こういうのは基本的な手法ですが、三部作すべてにおいて興味の惹き方がとても巧いのです。
謎がありそうな人物が登場して、その背景を探るということの繰り返しがとても楽しいわけです。

これは最近のノベルゲームとはちょっと違って、移動コマンドを使いながら物語が進んでいくというシステムなのもいいんでしょうね。
仮に剣乃ゆきひろ三部作を移動コマンド使わずに、普通のノベルゲーム的に進めていくとしたら、面白さが少し減少するかもしれません。
移動コマンド使いながら話が進んでいくというのは、ゲームっぽい感覚でいいんです。

たとえば同じところに何度も言っても同じ会話だけど、フラグが立つと新しい会話が出てきてストーリーが進んだりという楽しさがあるわけです。
ストーリーが進むのが普通であるノベルゲームでは、そういう部分の楽しさはないですね。
普通のノベルゲームでは話が進んでいくのは当然なわけですから。
【2007/05/13】 | 評論 | トラックバック(0)



レビューランス6−ゼス崩壊−



このブログはエントリー数が少なすぎるので増やそうというキャンペーン中です。
二年以上前にプレーしたゲームを思い出しながらレビューを書くなんて、まともな神経ではありませんが、エントリーを増やすためなら、どんなことだってやるのです。


さて、「ランス6」。
面白かったですね。
ジャンル的にはRPGです。
経験値稼ぎ的なことが苦にならない人なら、ストレスの溜まらないゲームです。
(経験値稼ぎが面倒という人には面倒です)。
才能限界というのがあるので、経験値を上げるのにも限度はありますが、普通にクリアするには充分なところまでレベルは上げられるはずです。

操作性もとてもよいです。
アリスソフトの力量を感じさせられました。

攻略サイト見ながらやる必要があるかというと、たぶんありません。
ほとんど自力でプレーできるゲームです。
こういうゲームの場合、どうしても自分では気づかないというところがあるので、もしかすると攻略サイトのお世話になる必要があるかもしれないという程度です。

ともかく総合的に言って、ストレスの溜まりづらいゲームですね。
かなり軽快にプレーできた記憶があります。



いや〜、浅いレビューです。
ストーリーをほとんど忘れている作品のレビューを書くなんて。
このエントリーで投稿ボタンを押すのだから、私はたいしたものですよ。

でもこのゲームはとても面白いです。
ストレスが少ない快適なRPGをやりたいという人にはお勧めです。
【2007/05/12】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記ふたなり文化にはカップリングの概念が必要だ

やおいをやる女性は、なぜカップリングにこだわるのか?
単純に言えば、女性は相手を選ぶからでしょう。
でも、やおいのカップリングは「女性が選り好みする」という特性だけで説明出来るでしょうか?
説明は出来ません。

女性は選り好みしますが、それは嗜好に多様性があるというわけではないです。
嗜好が多様化しているというわけではなく、一部のもてる男に群がるわけです。
つまり「選り好み」と言っても多様性はないわけです。もてるタイプの男は決まっている。

でも、やおいの人は、なぜカップリングにこだわります。
なぜか?
たぶん、ホモセクシャルを書くことを通じて、その先に異性愛を夢見ているからだと思われます。
やおいは奇矯な作品に見えながらも、実際は通俗的な異性愛の欲望があるわけです。
女性不在の作品でありながら、女性読者の憧れの視点で男を見ているわけです。

仮に「ホモセクシャル自体が好き」というのなら、カップリングにこだわりはないはずです。
「ホモの美少年なら何でもあり」となるはずです。
でもそうはなりません。
やおいの人はホモの美少年が好きなわけではなく、そういうものを通じて、異性愛の夢をどこかに見出しているからです。
ホモセクシャルを描きながら、そのどこかで異性愛を見出している。
そこではカップリングの妙が必要なのです。


「ふたなり」でも、これを本当に楽しむにはカップリングを考えることが必要です。
「ふたなり少女ならどんなシチュエーションでも構わない」という男はあまりいないと思います。
ふたなり好きな人でも、本当の意味でふたなりそのものが好きなわけではないのです。
美少女と男根を組み合わせることによって、女の子の可愛らしさを見出そうとしているわけで、「男性器と女性器が両方ついているのが好き」というのではありません。

男性読者がふたなりを楽しむとしても、それは特殊な趣味の追及ではなく、変わったフィルタを通して、男女関係の欲望を見出そうということです。
本当の意味でアブノーマルではないのです。
外形的にアブノーマルだからこそ、そこには慎重なカップリングが求められます。
カップリングが雑だと、単にアブノーマルなだけになってしまい、感情移入が難しくなるのです。

通常の美少女だと、そのまま欲望の対象になるわけです。
でもふたなり少女の場合、「美少女と男根」をうまく配置しないといけません。
配置の妙があってこそのふたなりなのです。
「ふたなり」の根底にあるのは、女の子の可愛らしさを如何に引き出すかということであり、決して両性具有を嗜好しているわけではないのです。
【2007/05/12】 | 雑記 | トラックバック(0)



レビューうたわれるもの



エントリー数が少なすぎなので、とりあえず昔の作品のレビューでも書いて、エントリー数を増やそうと思います。

「うたわれるもの」。
リーフの作品です。
とても面白い作品で、定番のひとつです。

変な言い方ですが、疑似シミュレーションゲームとでも言えばいいのか。
シミュレーションゲームの包装紙をかぶせているが、本当の意味でのシミュレーションゲームでは無いのです。
戦略性はほとんどない。

ストーリーや世界観は全然違いますが、ゲーム構造としては「サクラ大戦」と似ているかもしれないです。
「サクラ大戦」でも、戦闘は勝つに決まっているわけです。

「うたわれるもの」も普通にやっていれば、戦闘に負けることはほとんどありません。
ゲームっぽいですが、実際には一本道で進んでいくだけです。
普通のシミュレーションゲームの場合、あれこれ考えて調整したりするわけですが、「うたわれるもの」はシミュレーションゲームもどきなので、そういうのはありません。

でも、その程度のゲームっぽさでも、作品に感情移入しやすくさせるための大きな力となっています。
「うたわれるもの」は一本道のシナリオを読む作品ですが、ゲームっぽく仕上げていて、世界の中に巧く入り込めるのです。

もちろんストーリーが素晴らしければ、シナリオを読むだけのノベルゲームでもいいわけです。
ゲーム性がなくても、面白い作品はたくさんありますからね。
ゲーム性がなければダメだというわけでもありません。

ただ、ゲーム性に欠けていて退屈になるノベルゲームが多いのもまた事実。

「うたわれるもの」はシナリオが面白く絵柄が魅力的なのはもちろんのこと、シミュレーションゲームもどきの要素もあるので、退屈するのが難しいです。
「うたわれるもの」が積みゲーの仲間入りをすることはほとんどないでしょう。
【2007/05/10】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記シミュレーションゲームを詰め将棋と呼ぶことについて

シミュレーションゲームを詰め将棋と呼ぶことについて考えてみます。

まず、雑には正しいわけです。

「詰め将棋みたいな」と言うのは大雑把には正しい。
でも詰め将棋と同一かというと、もちろん違う。

違うポイントをいろいろ考察してみたいと思います。


実際の詰め将棋は最短手順以外は認めません。
何度も考えて最短手順を見つけるのが詰め将棋です。
まあ「最短手順以外は絶対に認めない」としてしまうと基準が狭くなるので、ここで言う「詰め将棋みたいなシミュレーションゲーム」とは、ある程度最短手順に近いものを要求するゲームとしておきます。


たとえばターン制限のあるシミュレーションゲームは詰め将棋なのか?

ターン制限があると言っても二通りあります。

1,ひとつのステージ事に行動回数の制限がある
2,ゲーム全体にターン制限がある

1の方の、ステージ単位でターン制限があって、行動回数の制約の中でクリアするというのは詰め将棋と言っていいでしょう。

2の方のゲーム全体でターン制限があるものに関してはどうでしょうか?

「ときめきメモリアル」なんかは詰め将棋的かもしれません。
あのゲームは何度も何度もプレーしながら、最短手順を探すわけです。

「ときめきメモリアル」の場合、一回のプレーが数時間ですから、繰り返しもそれほど苦にならない。
(というより、「ときめきメモリアル」は繰り返しやらないと意味がないゲームですね)。

もう少し長いゲームに関してはどうでしょう。
クリアに何十時間も掛かるようなゲームでターン制限があるものは。

たとえばアリスソフトの「大番長」はどうでしょうか。
これなどはターン制限がとてもシビアなゲームです。
たぶん「大悪司」のシステムを使い回して作られた作品だと思いますが、「大悪司」と「大番長」ではターン制限の方向性が違うわけです。

「大悪司」の場合、「あまりたくさん手順を掛けるな」という程度のターン制限です。
基本的にシビアではない。
手順が多すぎると遅刻ペンギンが襲ってくるということであり、「最短手順」を要求しているというほどではない。

「大番長」は結構面白かったのですが、ターン制限でとてもストレスが溜まる作品でもありました。
「大番長」を何度も何度もプレーして最短手順を探す根気のある人がどれだけいるか?

「ときめきメモリアル」のようにワンプレーが短く複数回のプレーが前提となっている場合はそれでもいいのですが、プレー時間が長く一度クリアしたら二度やるかどうかはわからないというゲームは「詰め将棋」でしょうか?

「詰め将棋」というよりは、「攻略本が必要なゲーム」と呼んだ方が妥当な気もします。

アリスソフト作品で言えば、「零式」などは、オフィシャルに「詰めRPG」と呼ばれているだけあって、詰め将棋的です。
いろいろ試行錯誤しながら最短手順を探すようなゲーム設計です。
「大番長」はこういうのとは全然違います。
複数回プレーしたい人のために複数のシナリオもありますが、面倒だから二度目はやらないという人も多いはずです。
複数回プレーするのが当然というゲームではないです。

「戦国ランス」みたいなゲームはどう評すればいいのか難しいです。
「戦国ランス」は極めて面白いので、何度も何度もプレーしている人が多いわけです。
しかし、構造的には何度もプレーするタイプのゲームではないです。
「戦国ランス」は特別に面白いから、何度も何度もプレーするに耐えるわけですが、このゲームの構造からすると、普通は繰り返しプレーはきついはずです。

「戦国ランス」のターン制限は、いやらしさがありますね。
ターン制限に引っ掛かってくると救済措置があるわけです。
「ノロノロしてるから手を抜いてあげたよ」と言われてるみたい。
ゲームオーバーにはなりませんが、気力が萎えるようなターン制限です。

「鬼畜王ランス」にターン制限はないわけです。
あちこち迷走しながらも、何とか戦い抜くのが「鬼畜王ランス」の面白さです。
魔人に対して敗走を重ねても何とかなるのが魅力です。
ターン制限がないからこそ、敵を理不尽に強くできたということもあったと思うのです。

ターン制限があるのは、経験値稼ぎを許さないということなのでしょう。
つまり、少し苦しい戦力で相手に挑戦するという構造を壊さないためのものです。
RPGだと、時間を掛けて経験値稼ぎの作業をすれば楽に通過出来るようになっているわけですが、シミュレーションゲームではそれを許さないようにしていることが多いわけです。

あと、周回して経験値を溜めるのが前提のシミュレーションゲームもありますね。
「Jリーグプロサッカークラブをつくろう」みたいなゲームです。
「サカつく」はシリーズ化されているので、最近のがどうなのかは知りませんが、まあ基本的に試行錯誤しながらこつを掴んでいけるゲームです。
「最初からやり直す」のではなく、失敗した経験を翌年に活かしていくというスタイルですね。
こういうのは詰め将棋とは違うでしょう。

シミュレーションゲームは「最適な手順を探すゲーム」です。
その探し方には色々バリエーションがあります。
パズル的に考える要素が多かったり、あるいは場当たり的に選択肢を試すものだったり。
思考パズルの要素が強いものが典型的な詰め将棋で、それ以外は人それぞれの言葉の使い方の問題ですね。

ちょっと雑然としたエントリーになってしまいましたが、言いたいのは「大番長」はよくないゲームだということです!
【2007/05/09】 | 雑記 | トラックバック(0)



雑記涼宮ハルヒとSF



第四巻の「涼宮ハルヒの消失」が面白いと言われているらしいのが不思議です。
別に批判ではなく、これは極めてありがちな作品です。
過去にこういう平行世界的な話がどれだけ描かれたでしょうか。

気になるのは、これを新鮮だと感じている人がいるらしいことです。
つまり、これまで幾度となく描かれたタイプの古典的な話なのに、鮮烈に感じている人がいる。
「涼宮ハルヒの消失」はSFのテンプレートのような物語です。
でもテンプレだと思われてはいません。

そしてさらに問題となるのが、古典的な話がヒットすると、まるでそれがオリジナルなものと扱われること。
これから平行世界的な話をやったら「涼宮ハルヒみたいな話だね」と言われるかもしれません。

「涼宮ハルヒ」がヒットした背景としては、第一巻の冒頭の掴みの良さというのが一番の原因ですが、それ以外に、SF的な手法が廃れていたので、古典的なテンプレが新鮮に感じるということもあります。

SFというのは、読者や批評家がうるさい分野なので、「冬の時代」を越えて、完全に無くなったような気もします。

そういう意味で、SFっぽいテイストの「涼宮ハルヒ」は新鮮なのかもしれません。


少し話は変わりますが、ライトノベルだと、SF的な作品を、理系の知識無しに書いてもいいのです。
(ちなみに私は文系なので、理系の知識はありません)。
どうもSFというと、理系の知識に基づいて書かないと怒られる分野という印象なのですが、「涼宮ハルヒ」は理系知識を持ち出すことなく、SFを書いてしまっている。
(理系知識の単語が出てきても、まともには使っていないわけです)。
「涼宮ハルヒ」をSFの賞に送ったら没になると思うのですが、でも読んでいて違和感はありません。

理系の知識を散りばめなくてもSFは成立する。
SFマニアの人に受け入れられるかどうかは別として、「理系知識無きSF」は普通に読めるのです。

そう考えるとSF作品で要求される空想科学理論に何の意味があるのだろうとも思うのです。
口うるさい理系読者のためにあるだけで、物語の成立とはあまり関係がないのかもしれません。
【2007/05/03】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方内面アビリティと能力アビリティ

http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040124
http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040126
http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040128

たいへん興味深いエントリーを見つけたので、私なりに敷衍しながら考えてみたいと思います。

「能力アビリティ」に関しては、特に説明の必要もないでしょう。
個々のキャラクターに何らかの能力が設定され、その能力ゆえに物語が動く。
それはわりと限定的であった方がいいわけです。
「魔法なら何でも使える」というよりは、「ある限られた魔法しか使えない」方が、物語としては面白くなる可能性がある。
(「スーパーマン」だって、いろいろ制約はあるわけです)。
能力があって何でも出来てしまうという物語は絶対にダメだというわけではないが、基本的に能力は限定しなければならない。
将棋の駒で飛車が強くても、「飛車なら何でも出来る」ではダメなのです。
「飛車ではこの場面はどうにもならない」というところに追い込んだりするところに物語の面白さがあるのです。
あるいは逆に「飛車でなければ、この場面は打開できない」という状況を作って、そこに飛車が登場するということでもいいでしょう。
万能な、あるいはあやふやな能力設定は物語の面白さを作りづらい。
どこかで制約がある方が、物語は面白くなるのです。


「内面アビリティ」。
砕いて言えば動機ということになるのでしょう。
リアルワールドにおいて、私たちは、それほど高級ではない動機に基づいて生きています。
あるいは、周辺状況から見て、それなりに妥当な判断をしているだけです。
たぶんフィクションだったら、とてもつまらない判断をしているわけです。
(物語として面白い動機付けで人生を生きようとすれば失敗する可能性が高いでしょう)。

フィクションにおいては、主人公の動機を中心に動かしていいわけです。
状況に対して妥協して適応する必要はありません。
むしろ状況に反して「動機」を抱き続けた方が、フィクションとしては面白いのです。

私たちがリアルワールドで「志望動機」を述べさせられる時は、それなりにもっともらしいことを言うわけですが、それはフォーマルな場面でのスピーチのようなものです。
(全校集会で校長先生が話すようなもの)。
実際にその「志望動機」に貫かれて存在し、生きているわけではありません。

フィクションでは、登場人物の「志望動機」が真剣でなくてはなりません。
フォーマルな自己紹介として、もっともらしい動機を述べておくようなものであってはならない。
動機は主人公の存在そのものであり、それを貫いて生きなければならない。
(もちろんフィクションだから可能なことです)。

状況に合わせて妥当な判断をするのではなく、その対極にあることが必要です。
物語の動機は、それが世界を動かすものでなくてはならない。
たとえば「Fate/stay night」はセイバーの動機付けが巧く作れているからよい作品になっているわけです。
セイバーの確固たる動機を巡って物語は展開するのです。
そこには妥協も打算もないのです。
「セイバーが聖杯を手にしたい理由」というのを確固として持たせることで、ストーリーが盛り上がるわけです。
仮に「聖杯を手にすると人生で得だから」という程度なら、物語として面白くないわけです。
リアルな人生で「こうすると得だから」というのは、「幸せ」になるためのテクニックですが、フィクションにおいては、つまらない打算を出してはならないのです。

もう少し言えば、フィクションでは、リアルなら損をするような動機付けをした方が盛り上がります。
そんなことをやっても得になるとは思えない、ということを主人公が目指したりすることに感動が生まれるのです。

そして「内面アビリティの変化」の問題。
これは状況に合わせて、適当に妥協するということではありません。
確固たる動機があるがゆえに、物語となるのです。
主人公が活躍して、それにカタルシスを得るというタイプの作品では、比較的最初の動機付けを持ったまま続くでしょう。
「スラムダンク」でインターハイに出るのが目標だから、それを目指すというような感じです。
逆に、最初に不自然な動機を持たせて、その動機で葛藤させてもいい。
「Fate/stay night」のセイバーの「聖杯を手にしたい動機」はまさにそれにあたります。
無理がある動機を彼女は信念として持っている。
その信念に対して妥協するのではなく、内面的な葛藤と戦いながら、その問答の果てに着地していくわけです。
動機に無理があり、内面で戦うのが文学なのです。
「Fate/stay night」はセイバールート("Fate")に限らず、主人公の士郎の物語である"Unlimited Blade Works"でも、動機付けを巡る葛藤によって話が展開しており、このあたりは文学的な手法だと言えるでしょう。
【2007/05/02】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



雑記両性具有とは?

http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20070427/p2
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20070428/1177696977

両性具有に関しての話が出ていたので、考えてみました。

基本的に物語というのは、私たちの在り方を根本的に越える地平では描けません。
意味不明な物語を書いてもそれは自由だけど、「ピンと来ない」わけです。
逆に言えば、「ピンとくる」というのは、私たちの在り方に基づいて、それが何かを刺激するからです。

たとえば、男女が入れ替わってしまうというタイプの作品はかなりたくさんあるわけです。
(陳腐なもので言うと、激突したら、男女の中身が入れ替わってしまうようなものです)。
こういう話は、両性具有ではなく、私たちの男女の在り方に基づいて、それを捻っているわけですね。だから繰り返し描かれるわけです。

本当の意味での両性具有は物語として成り立ち得ない。
私たちの欲望の原理を越えてしまうと、それは物語として成立しない。仮に無理して書いても、「ピンと来ない話」になってしまうわけです。

つまり、両性具有でちゃんと出来ている話は、性の枠組みを越えた話に見せかけながら、実は、私たちの性の在り方を刺激するようになっている。
「ふたなり」に関しても、基本は女の子なのにファルスが付いているという戸惑いを可愛く描くということです。
「ふたなり」は決して両性具有ではなく、あくまで女の子そのものです。

つまり女の子を可愛く思う読者側の心理構造があるとして、そこに男性を登場させるのではなく、ファルスだけ登場させるのが「ふたなり」なのです。
本当の意味で、男女の性差が不分明になるような状態を描こうとしているわけではない。
根底には私たちが通俗的に理解している男女関係があり、それを捻っているだけです。

「ふたなり」は何らかの新しい性の概念を提示しようとしているのではなく、むしろ逆です。

「ふたなり」で堂々と生きている女の子というのは、あまりピンときません。
そういう作品を書くのも自由ですが、「ふたなり」が当然である状態では読者の心に訴えかけない。
ファルスを突き付けられることによって、戸惑って動揺して、著しい羞恥心を抱いている女の子の可愛らしさを描くのが「ふたなり」です。
そういう物語は歪なものに見えながら、実際は、私たちの通俗的な男女関係の欲望をなぞっているのです。
【2007/05/01】 | 雑記 | トラックバック(0)



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