http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040124http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040126http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040128たいへん興味深いエントリーを見つけたので、私なりに敷衍しながら考えてみたいと思います。
「能力アビリティ」に関しては、特に説明の必要もないでしょう。
個々のキャラクターに何らかの能力が設定され、その能力ゆえに物語が動く。
それはわりと限定的であった方がいいわけです。
「魔法なら何でも使える」というよりは、「ある限られた魔法しか使えない」方が、物語としては面白くなる可能性がある。
(「スーパーマン」だって、いろいろ制約はあるわけです)。
能力があって何でも出来てしまうという物語は絶対にダメだというわけではないが、基本的に能力は限定しなければならない。
将棋の駒で飛車が強くても、「飛車なら何でも出来る」ではダメなのです。
「飛車ではこの場面はどうにもならない」というところに追い込んだりするところに物語の面白さがあるのです。
あるいは逆に「飛車でなければ、この場面は打開できない」という状況を作って、そこに飛車が登場するということでもいいでしょう。
万能な、あるいはあやふやな能力設定は物語の面白さを作りづらい。
どこかで制約がある方が、物語は面白くなるのです。
「内面アビリティ」。
砕いて言えば動機ということになるのでしょう。
リアルワールドにおいて、私たちは、それほど高級ではない動機に基づいて生きています。
あるいは、周辺状況から見て、それなりに妥当な判断をしているだけです。
たぶんフィクションだったら、とてもつまらない判断をしているわけです。
(物語として面白い動機付けで人生を生きようとすれば失敗する可能性が高いでしょう)。
フィクションにおいては、主人公の動機を中心に動かしていいわけです。
状況に対して妥協して適応する必要はありません。
むしろ状況に反して「動機」を抱き続けた方が、フィクションとしては面白いのです。
私たちがリアルワールドで「志望動機」を述べさせられる時は、それなりにもっともらしいことを言うわけですが、それはフォーマルな場面でのスピーチのようなものです。
(全校集会で校長先生が話すようなもの)。
実際にその「志望動機」に貫かれて存在し、生きているわけではありません。
フィクションでは、登場人物の「志望動機」が真剣でなくてはなりません。
フォーマルな自己紹介として、もっともらしい動機を述べておくようなものであってはならない。
動機は主人公の存在そのものであり、それを貫いて生きなければならない。
(もちろんフィクションだから可能なことです)。
状況に合わせて妥当な判断をするのではなく、その対極にあることが必要です。
物語の動機は、それが世界を動かすものでなくてはならない。
たとえば「Fate/stay night」はセイバーの動機付けが巧く作れているからよい作品になっているわけです。
セイバーの確固たる動機を巡って物語は展開するのです。
そこには妥協も打算もないのです。
「セイバーが聖杯を手にしたい理由」というのを確固として持たせることで、ストーリーが盛り上がるわけです。
仮に「聖杯を手にすると人生で得だから」という程度なら、物語として面白くないわけです。
リアルな人生で「こうすると得だから」というのは、「幸せ」になるためのテクニックですが、フィクションにおいては、つまらない打算を出してはならないのです。
もう少し言えば、フィクションでは、リアルなら損をするような動機付けをした方が盛り上がります。
そんなことをやっても得になるとは思えない、ということを主人公が目指したりすることに感動が生まれるのです。
そして「内面アビリティの変化」の問題。
これは状況に合わせて、適当に妥協するということではありません。
確固たる動機があるがゆえに、物語となるのです。
主人公が活躍して、それにカタルシスを得るというタイプの作品では、比較的最初の動機付けを持ったまま続くでしょう。
「スラムダンク」でインターハイに出るのが目標だから、それを目指すというような感じです。
逆に、最初に不自然な動機を持たせて、その動機で葛藤させてもいい。
「Fate/stay night」のセイバーの「聖杯を手にしたい動機」はまさにそれにあたります。
無理がある動機を彼女は信念として持っている。
その信念に対して妥協するのではなく、内面的な葛藤と戦いながら、その問答の果てに着地していくわけです。
動機に無理があり、内面で戦うのが文学なのです。
「Fate/stay night」はセイバールート("Fate")に限らず、主人公の士郎の物語である"Unlimited Blade Works"でも、動機付けを巡る葛藤によって話が展開しており、このあたりは文学的な手法だと言えるでしょう。