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ラノベの主人公をイケメンにするのはどうなのか?

フィクションで、男主人公が不細工な容姿であることは少ない。恋愛が中心要素でない作品でも、不細工な男主人公というのは、それほどいない。
(青年誌的な文脈だと、醜男なオッサンは、結構出てくるかな)。

ラノベだと、意外と、主人公の男が長身でイケメンだとかいう設定が結構あるような気がする。
周りの女の子が「○○君ってかっこいいよね」と言うようなキャラクター性を持った人物が主人公に据えられることが少なくない。

なんでなのか、今ひとつわからない。物語効果の観点から言えば、長身でイケメンの男とかを主人公にしたら、ヒロインのキャラが立たない。イケメンの男というのは、単純に言えば、選べる立場にあるわけだ。可愛い女の子を目の前にして、「こんな女の子には手が届かない」ということはないわけである。つまり可愛い女の子に手を伸ばせば届くわけである。

普通の男の視点から見ることにすれば、手が届かないヒロインとして一段階上に置くことが出来る(ヒロインのキャラを立たせることが出来る)のに、イケメンから見たら、そのあたりは相対化されてしまう。

主人公の男をイケメンにしたら絶対にダメだというわけではないが、ヒロインのキャラを立たせづらくなるのは間違いない。実際、ヒロインのキャラクター性を中心に回っていくタイプの物語では、主人公の男の容姿は平均的なところに設定されているはずである。

「主人公がイケメンだから特別に可愛い女の子と付き合える」というのでは、フィクションとしてNGに近い。現実にイケメンで特別に可愛い女の子と付き合えたらいいだろうが、フィクションでそんな話を読まされても面白くないわけである。
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「ICO」宮部みゆき



以下のエントリーは一応ネタバレ控えめです。

「ICO」というゲームをプレーしたのは5年くらい前のことだと思います。
とてつもなく鮮烈な印象を受けた素晴らしい作品でした。

さて、宮部みゆきがこの作品をノベライズしたわけです。
ゲーム自体には宮部みゆきはまったく関与してないはずです。
ゲームが出て、それからしばらくしてから、宮部みゆきがノベライズをしたということだと思われます。

今さらながら読みました。
読もうと思いつつも読みそびれていたのです。
文体は文学っぽいファンタジーと言えばいいでしょうか?
ライトノベル的な文章とは全然違いますね。
当然ながら、文章自体はとてもよく書けてます。

サスペンス要素が作られてないのがちょっと残念。
宮部みゆきの作品は基本的に「続きが気になる」という要素を作りながら話を進めていきますが、この作品はゲームのノベライズのため、そういう工夫が出来てないです。
宮部みゆきなら、やろうと思えば「続きが気になる設定」をたくさん組み込めたのかもしれないけど、ゲームの世界観を壊さないように、ということなんでしょう。

中盤の方では、ヒロインがこの城にいる理由について説明されます。
(ヒロインの過去の生活について延々と描写されます)。
ゲームでは説明されないわけですが、宮部みゆきのフィクションとして説明しているということです。
この部分は何とも言えず。
「ICO」は城を抜け出す作業ゲームであり、ストーリー自体が短いので、ノベライズするなら、こうやって設定の空白部分を埋める書き方になるのかな。
(抜け出す作業の部分を延々と書き続けるのは無理があります)。

このゲームは設定が空白であるのがいいと思うので、「蛇足」に感じるのも確か。
「ICO」のヒロインは無口キャラなわけです。
わかりやすく言えば、綾波レイ的なヒロインなわけです。
だから、ホントは内面描写も避けるべきなのです。
小説版の中盤では、ヒロインが話す場面や内面描写が多いのでそれがどうなのか……。
小説で内面描写をするというのは、キャラクター性の問題として言えば、実質的にそのヒロインが話しているのと同じなんです。
無口キャラとして立てるためには、内面描写もせず、当然セリフも喋らせないということにしないと……。

宮部みゆきファンとして敢えて言う。
この作品は特に読まなくていいと。
いや、読んでも差し支えない作品ですけどね。
いろいろ妥協があって、ちょっと中途半端な作品になったかもしれません。

浅井ラボという作者について考える

ライトノベル作品には、作者名が重要である場合と、そうでない場合があると思われます。

たとえば「ゼロの使い魔」の作者名に意味があるでしょうか。
たぶんあまり意味はないでしょう。
「灼眼のシャナ」の作者名に意味はあるでしょうか。
たぶんあまり意味はないでしょう。

作者名はどうでもよく、「ゼロの使い魔」という作品、「灼眼のシャナ」という作品として成り立っているわけです。
作品名は知っていても作者の名前は知らない人もいるかも、、と言えば言い過ぎかもしれないが、そういう部分はあるわけです。
作者名は前面に出てこない。
ライトノベルにおいて作者名は、分類番号程度の意味合いでしかないことが多いのです。

しかし、「されど罪人は竜と踊る」や「TOY JOY POP」の場合、作者名を外しては考えられないでしょう。
「浅井ラボが書いた」ということが重要なのです。

単純に言えば、浅井ラボの作品は物語として壊れているわけです。
普通に読んだらおかしな話なので、そこのズレの部分を作者のキャラとして汲み取るわけです。
物語のズレの部分に浅井ラボがいるのです。
人によっては投げ出すかもしれないし、人によっては、絶賛するかもしれない。
ズレの部分に作者の姿を見ることで、「物語」になるわけです。

普通にライトノベルを読む場合、これはあり得ません。
浅井ラボはサブカルだということなんでしょう。
ライトノベルではなく、ライトノベルのレーベルから出ているサブカル小説。

不謹慎なことや不愉快なことを表現するというのは、実は賞賛されるための近道です。
賞賛されるには、不謹慎なことを書くのが手っ取り早い。
えげつない表現に対して、人は不安になりますから、怒ったり、逆に賞賛したりするわけです。
ある意味どちらも防衛本能なのです。
「怒る」のと「賞賛する」のは、不愉快さに対する防衛の仕方として、共通しています。
作者が読者を試しているような構造があるわけで、そういう軸の中で作者に同一化するかどうかということですね。
人間が他人を賞賛する場合、相手に同一化していることが結構あるのです。

要するに浅井ラボが「読者を選ぶ」というのは、何か高度なことをやっているというわけではなく、不謹慎なことを書けば、一緒になって喜ぶ人間と、怒る人間に分かれるというだけのことです。

浅井ラボ「TOY JOY POP」



以下のエントリーはあまりネタバレはないと思いますが、物語の設定は普通に説明しています。


「されど罪人は竜と踊る」の作者の作品。

簡単にいうと、からだを売っている女子高生の話です。
話はテンプレなんですよ。
90年代によくあったタイプの作品で既視感があります。
可愛い女の子が売っていて、それにショックを受ける男を書くという感じですね。
売っている女の子は無敵で、ショックを受ける男は脆弱という描き方。
「TOY JOY POP」は2006年の作品です。
なんで2006年になって、こんな作品書いてるのかという感じです。

この作品のいやらしさは、この手の作品のテンプレが持っているいやらしさですね。
女の子のえげつなさみたいなのを書いて、「これが現実の女なんだ」みたいなメッセージ性が嫌ですね。
庵野秀明監督みたいなことはやめてほしいものです。
現実の男女関係の問題ではなく、作り手の男と受け手の男の関係の問題をやってるわけです。
メディアを通して、(女の子をダシにして)男が男を攻撃するというのは、80年代から90年代までによくあった構造ですね。最近はネットの普及もあって、そういうのは弱まっていると思われます。


浅井ラボの作品は読み手を選ぶといいます。
確かに「読み手」は選びますね。
浅井ラボのえげつなさを賛美しながら読み進めるタイプの「読み手」であることが必要です。
「TOY JOY POP」は、作者と読者の関係の問題ですから、浅井ラボを賞賛する読み方をしないと、読みづらい。

実際には「TOY JOY POP」は、平均的な現実を書いたものではなく、かなりえげつないことを書いて、「これが現実だ」と書くダブルバインド的なものです。
つまり実際には平均的な現実ではありません。
でもそれを「これが現実だ!」と書くことで揺さぶるわけです。
そういうものを読んで「こういう現状認識が出来ないオタクが多いんだよね(笑)。オレは浅井ラボさんの作品を受け入れる強さがあるけど(笑)」となればいいんでしょう。

まさに読者を選んでいるわけです。
えげつないストーリーを提示して、それに同一化するか不愉快になるか。
他の読者を想定しながら読む構造になっているわけです。

アニメとかで綺麗なお姉さんみたいな母親がよく出てくるけど

アニメとかで綺麗で優しいお姉さんみたいな母親がよく出てくるけど、あれは本当に物語効果として有効性が高いのだろうか?
特別な狙いがあって用いられているのだろうか?

もちろん「普通のおばさん」である場合も多い。
ともかく、主人公が母親と葛藤関係にあることは少ないと思う。

実際の人生では、母親とは支配的な生き物なので、そのエゴとの葛藤というのはかなりあるはずです。
でもそれはフィクションではあまり描かれない。

ごく稀にそういう作品を目にすることがあるが、母親との葛藤というのは、現実生活でありがちなテーマのわりには、出現頻度がかなり低い。

単純に言えば、物語とはカタルシスを求めるものだ。
つまりフィクションは、いろんな意味でつくりものなのだ。
ストーリーが架空であるというだけでなく、その物語の進み方も現実の骨組みとは違う。

現実世界ではたくさん出てくる要素でも、それが物語のカタルシスに繋がらないなら、カットされる。
「母親との葛藤」などは、その典型。現実にはありがちなんだろうけど、見ているといろんな意味でイライラするという人が多いだろう。思い当たるから鬱になるとか、あるいは、他人のそんなことに共感したくないとか。ありがちな問題ではあっても、そういう家族の中でのゴタゴタにシンパシーを感じづらいのも確かだ。

「綺麗なお姉さんみたいな母親」が登場するのも、葛藤関係を描くことの回避かと思われる。
物語効果が高いとは思わない。
「母親萌え」というのは寡聞にして知らない。
綺麗なお姉さんみたいな母親から無償の愛情を注いでもらっていたというような描写は陳腐なわけだ。
葛藤関係を描くのは面倒なので、「無償の愛」の方が無難だという選択になっていると思われる。

逆に言えば、カタルシスに繋がるなら葛藤を描くこともある。
「Air」の親子愛などは、そういう感じだろう。
つまり最終的な和解(理解し合うカタルシス)に到達するために、「Air」では母子関係の葛藤が描かれる。
葛藤を徹底して描いたというわけではなく、不和→和解という物語の図式にするために、前半部で仲の悪さを描いているという程度である。
そして、それが「Air」という作品の素晴らしさなわけだ。
仮に葛藤関係自体を徹底的に描いていたら、不愉快な作品ということになっただろう。

実験されたり幽閉されているヒロインは恋愛経験から遮断されているので

「組織に実験されている女の子」とかって、アニメとかラノベによく出てくる。あるいは「幽閉されている女の子」とか。結論的に言えば、恋愛経験から閉ざされているヒロインということでもある。恋愛経験を遮断するための手法のひとつとして、何か特殊な能力を持っていて組織に幽閉されていた、みたいな設定になるわけだ。幽閉されていたがゆえに、いろいろコミュニケーションに問題があり、それに同情するわけである。

共感性を作りやすい。
まあ「共感」というのは、関係願望なわけである。
相手が酷い状況なら、必ず共感してあげるというわけではない。
たとえばこれが、とある少年が親からスパルタ教育を受けていて、結果として引き篭もりになったという話なら、共感しないだろう。でも可愛い女の子が親から厳しく育てられていて、いいようにコントロールされていたということなら共感する。

「家族計画」の高屋敷青葉なんかはそういう話である。
高屋敷青葉は無理矢理結婚させられたという設定だが、これは恋愛経験の遮断なわけだ。
自分の意志で恋愛などしたことがないから、非処女でも、恋愛経験がないということで、エロゲーのヒロインとしては成り立つわけである。

高屋敷青葉みたいな男がいたら物語に入り込めるか、と言っても入り込めない。たぶん不幸なんだけど、「ひとのせいにするな!」とか言って、吐き捨てるだろう。

人は、「共感」というのをすごい正当性のあるキーワードとして使いますが、実際は相手に助力を与えたいという感情が触発されるかどうかだと思う。"僕が助けてあげたい"みたいな感情が沸き上がるかどうかの問題です。
まあ男は女を守るという構図が作られて、そういう本能を刺激すると言えばいいのかな。

「ひとのせいにするな!」と人が言うのは、面倒だから不幸な奴の話など聞きたくないということだと思う。相手が不幸な境遇なのは事実なんだろうけど、それに「共感性」を持つのが面倒ということ。
(つまり責任論の問題ではなく、手を差し伸べるつもりがないということを言いたいのだと思われる)。

「幽閉されていたヒロイン」みたいなのは、普通ならコミュニケーションが成り立たない相手として登場することが多いわけだ。主人公以外はその女の子を変わり者として忌避している。そういう構図だと、主人公が「僕だけは君をわかってあげるよ!」みたいな感情移入がしやすいわけだ。

前述の少年の事例でも、仮に彼が美少年なら、腐女子の人は共感するかもしれない。エゴの固まりの親に翻弄されてボロボロになった美少年を守ってあげたいと「共感」するわけです。
腐女子に人気がある作品でそういう設定ってありそう。。。
よく知らんけどね。

異能者バトルは相撲みたいなもの

たとえば騒音がうるさいとかで、隣同士でトラブルになったとする。片方が散弾銃を持ち出し、片方が猟銃を持ち出す。それで打ち合って、どっちが生き残るか……。

異能者バトルはそういう話ではないわけだ。

他人と争うというのは、タブーの固まりである。争うのがタブーだから我慢したり、あるいは逆に「どうせ喧嘩になるわけがない」と確信して喧嘩を売ったり。
ともかく全力でいがみ合って全力で争う機会なんてこの世にはほとんどないわけだ。

魔法でビームみたいなのが出るのって、相撲技みたいなものだと思う。
猟銃と散弾銃を持ち出すのとは対極だ。

そう考えると、魔法とかの類の異能力攻撃は奇妙である。
銃より弱いのか!

まあともかく、相撲的な様式なわけだ。
原則的に、相手を害するものではなく、技を出し合うわけである。
散弾銃とか猟銃ではなく、相撲技の応酬だ。
そして土俵を割ったら負けみたいなルールがあるわけである。
土俵割った方が撤退していく。

「天元突破グレンラガン」感想



ネタバレ控えめのつもりですが、多少のネタバレはあるので、注意。

第一話:
なんか画面の切り替わりが激しくて見づらいというのは気のせいか。
絵コンテが変なのか、それとも舞台が地下だから感覚が掴めないのか。
つまり普通の都市空間だったら、常識的にこの場所にはこれがあるみたいにわかるわけですよ。
場所が地下の中の変わった地形となると、なんかわかりづらい。

第二話:
やっぱりこのアニメのアクション部分ちょっと見づらいです。
構図が凝っているのと、あと、主人公のメカに特徴がないので、戦闘になると何をやってるのかわからなくなる。
もう少し単純にした方がいいと思うんですけどね。

第三話:
相変わらず見づらい。
雑な喩えで言うと、いつもと違うカメラ位置でサッカー中継やってるみたい。
カメラ位置が変で、しかもわりと頻繁に切り替わるから、どういう試合になってるのかわからない。
普通の位置のカメラで試合を見せてくれ、、、という感じですね。
ちなみにメカに関しては合体して、主人公が乗るようなカッコイイ機体になるということでしたね。
いや、デザインがいいとは思わないんだけど、記号としてカッコイイということね。
いかにも主人公が乗りますよ、みたいな。

第四話:
人物の顔が殴り書きっぽいのは何ででしょう?
これは手抜きではないと思います。
手抜きであれば、他の部分の作画も破綻しているはずだから。
顔が変であることを除いては、まともな作画になってます。
「殴り書きっぽく描いてよ」みたいな指示があって、それでそう描いてるみたいな絵。
ただそれが効果的とは思えないですね。
わざとやってるんだろうけど無意味な殴り書き。

第五話:
う~ん。
この作品は評価が難しいですね。
いや、評価というか、たぶん力の入っている作品なんだけど、自分が見ていて素直に楽しめない。
もう少し見てみて、物語が大きく展開しないなら視聴中止にすると思います。

第六話:
今回のは半分くらい総集編。

第七話:
今のところ、物語の構図を作れていないと思うんですよね。
わりと雑然と毎回戦闘があるだけ、、かと思います。
つまり、ストーリーとして続きが気になる要素がない。
それどころか、主人公たちが何をやりたいのか今ひとつわからない。
いろいろ凝った造りのアニメなんだけど、一番単純な部分での主人公の動機付けが出来てない気がします。
それが今後どうなるのか。

第八話:
う~む。
この意外な展開は何だろう?
いや、実は何でもないということなのか。

第九話:
アニキは死んだままなんでしょうか?
普通の漫画とかアニメだと、こういうのはほとんどの場合、「実は生きている」ということですよね。
もし死んだままなら、かなり変わった作品です。
王道的に「実は生きている」ということにするのか、それを外して、「本当に死んでいる」ということにするのか。

第十話:
このアニメって最初の頃は、アクションの場面の構図が凝りすぎていて見づらいと思っていたんですが、いつのまにか普通になってますね。
いや、厳密に見比べたわけではないんですけどね。

第十一話:
アニキの死を乗り越えるという話。
最初に死んだ時は、「実は生きている」ということかと思ってたんですが、違うんですかね?
このあたりがフィクションで死を描くのが難しいところ。
どうしても「実は生きているのでは?」と思ってしまうのです。
今回こういう話にしたからには、これからも死んだままなのでしょうか……?

第十二話:
今回はアニキの話が出なかったから、ホントに死んだんでしょうね。
この部分が気になって仕方がないのです。
フィクションの中で誰かが死んだとなると、どうしても「実は生きていた」という展開が多いので。

第十三話:
最初の頃は、カメラが頻繁にあちこち切り替わる感じで、アクションの場面が見づらかったんですが、すっかり普通の感じに。
作画的にはクオリティーの高い作品だと言っていいでしょう。
ストーリーはどうなのか?
悪くはないんだけど、もう少し話を広げて欲しいですね。
このまま同じ構造で戦いの繰り返しだと、ちょっとダレます。

第十四話:
アクション場面が見やすいです。
最初から普通にやってくれればよかったのに。
ストーリーがややダレているので、何らかの展開が欲しいところ。

第十五話:
今回はラスボス?との対決。
わりとシリアスだったかも。
逆に言うと、このアニメは、熱血なように見えて、ホントの恐怖感がないんです。
敵が恐くない。
悪い意味でのプロレス。
アニキが死んだのにまだ生きていると感じるのは、この作品がプロレス的だからかな。
もう少し恐怖感の演出があった方が……。
いや、低年齢層を意識して、わりと緩い戦いにしているのかもしれないけど。
大きなお兄ちゃんにも見せるつもりなら、恐怖をもっと描いた方がいいと思いますね。

第十六話:
総集編。
げんなり。

第十七話:
いきなり時間を進めたのか……。
成長を示すために背が伸びるのはフィクションのお約束ですね。
低身長キャラだったはずなのに、長身になるのはお約束です。
あるいは、格好良く成長したのを示すには背を高くするのが最適と言えばいいのか。
(逆に言えば、格好良くするつもりがない場合は背が伸びない)。
背が伸びるのは、RPGで言えばクリアしてエンディングを迎えたみたいな状態なので、物語の途中で用いるのはどうかと思いますけどね。

第十八話:
前回からまったく新しい展開になったのだが、とてもつまらない。
この後にどうやって纏めるのかわからないが、作品の破綻ということになるかも。
いや第十五話が最終回で、その後は埋め草としてやっているということか。

第十九話:
漫画ならこれ打ち切りだよね。
一段落付いて新展開に入ったらつまらなくて打ち切りって、漫画でよくあるじゃないですか?
アニメの場合、打ち切りになることは基本的に無いですから、こうなっても打ち切られず続くことになりますね。
醒めない悪夢ですよ。

第二十話:
シモンを刑務所に入れたことで、少し持ち直したような印象がある。
17話の段階では、RPGのクリア後の世界みたいなイメージだったんだが、転落させたことでよかった。
双六で上がったような状態を描いても仕方がないので、どこかで転落させることが必要なんでしょうね。
失敗したり挫折したりして、椅子から転げ落ちないとフィクションは面白くない。

第二十一話:
ヨーコが離れていた間に小学校の教師をしていたというエピソードの部分の描写はいらないような?
いや、無い方がいいというわけではないのだが、あまり必然性を感じなかった。
それにしても子供の人間関係描くときにイジメを用いるのは興味深いですね。
ハリウッドの映画でもわりと出てくるし。かなりお約束に近い。
ある種の緊張感を出そうということかもしれないけど。
子供が楽しく遊んでいるだけだと、描きづらいのかもしれない。

第二十二話:
ライバルと合体して戦うのはドラゴンボールみたいだが、まあ王道ということでいいでしょう。
ストーリーは持ち直したような気もするんだけど、やはり17話以降は蛇足である。

第二十三話:
このアニメって、最初の頃から、島本和彦っぽい作品だと思っていたんだけど、作り手も意識してやっているのかな。
島本和彦の熱血というのは、本当の意味での殺伐とした戦闘ではないから、ある種の「島本和彦的作品」みたいな言い方は出来ると思うのです。
(つまり普通に全力に戦うというのと、島本和彦的な熱血は別なわけです。グレンラガンは、島本和彦的ですね)。

第二十四話:
敵がよくわからないので何とも。。
抽象的な何かと戦っているような。。
敵の正体がわからないのが、効果的とは言えず。
わからないことでサスペンス性を作れているというわけでもないので、どうかな。。。

第二十五話:
この第二十五話の出来自体はかなりいいと思ったんだけど、敵の正体が不明というのが、やはり機能していない。
何か宇宙全体と戦っているのだろうか?

第二十六話:
第十七話以降は破綻と思っていたが、意外とどうにかなるのかも?
第十七話で主人公の背を伸ばしたことで成長物語の最終回みたいな雰囲気になってしまったのでどうかと思ったが、島本和彦っぽいキャラにすることで、そのあたりを切り抜けたような?

第二十七話:
最終回。
ガイナックスの作品にしては、かなりうまくまとまったと言っていいでしょう。
第十七話を見たときは、完全に破綻すると思っていたのですが……。
エンディングテーマの後のエピローグはちょっと蛇足だったかも。
エピローグは無い方がよかった気がします。

敵を卑怯な人物に設定するかどうかの問題

主人公に敵を設定する場合、フェアな敵である方が面白いように思う。あるいは敵にフェアプレーの精神を持たせることで、感動を呼ぶというのもある。
もちろん現実に人間が争いあう場合を考えたら、「フェアな戦い」を重んじるなんて変だし、戦闘をスポーツのように描いてしまう問題ということにもなるのだが、ともかく、基本的にフェアな敵の方が感動を呼びやすい。

もちろん嫌な感覚を持たせることで、キャラが立つということもある。嫌な人物を登場させて、人間関係の圧力を感じさせることで感情移入させる手法もある。
ただ、これはバトル物ではどうかな、、という気がする。
嫌な相手のキャラが立つのは、その相手と戦ってはいけないからだと思う。
嫌な相手のキャラが立つというのは、バトルとはまた別のドラマだと思われる。
まあ、戦う相手はフェアにしておくのが一番王道だろう。

さて、フェアな敵の話に戻るが、スポーツ漫画とかでは、当然、敵はフェアでなくてはならない。フェアでない卑劣な敵を見返すという話もありえるし、それで面白い場合もあるかもしれないが、基本的にフェアでなくてはならない。というより、かなり明確にフェアである必要がある。主人公と雌雄を決するために、ライバルがことさらにフェアプレーにこだわるというエピソードがあると感動を呼びやすい。漠然とみんながルールを守っているというのではよくないかもしれない。
「ルールを守るのが普通だから」でもいいんだけど、ライバルがわざわざ何かをして、主人公とのフェアな対決にこだわると感動の効果が強い。

能力バトル的な物語でも同様。
「ライバル」として立てるなら、主人公とフェアに戦うことにこだわるエピソードがあった方がいい。

言い方を変えれば、フェアでない敵は「ライバル」ではないということだ。
俗悪な敵を登場させてしまうと、それはライバルではない。
別にそういう作品がダメだというわけではない。
「水戸黄門」に出てくる悪人は「ライバル」ではないが、「水戸黄門」は人気があるわけだ。

徹底してライバルとして描くか、陳腐な悪人を倒す勧善懲悪にしてしまうか、どちらかの方がいいということなのかな。そのあたりが不明瞭な作品は失敗作になりやすいのかも。

アニメの感想の書き方で悩む

どうでもいい雑談です。

ブログでアニメの感想を書く場合、どうすれば一番いいのか。

単純化のため、半年で26話というケースで考えてみます。
アニメを週に10本見るとします。

一話ごとにエントリーすれば、週に10回エントリー出来るわけです。
逆にひとつのエントリーに感想を継ぎ足して書くとすれば、半年で10回しかエントリー出来ない。
半年間で10回しかエントリーしないブログ!

つまり、ひとつのエントリーに26回分の感想をまとめようとすると、エントリー数が少なくなります。

(一話ごとの感想がすごく長い人の場合は、そもそもひとつのエントリーに26話分まとめきれない。あるいは画像キャプをやる場合は一話ごとのエントリーになるでしょう。それはまた別の話です)。

ともかく長文を書く人は別として、26回分の感想はひとつに収まるわけですよ。


一話ごとに継ぎ足して書くのが嫌なのは、やはり更新しているのかどうかわかりづらいからです。
(あるいは半年で10回しかエントリーしない格好になるから寂しすぎる)。

それが嫌な場合どうするか?

1、更新するたびに、「更新情報」をトップに載せるようにする。
2、感想を継ぎ足したら、そのエントリーの日付を現在のもの変更して、上に上げる。

どれがいいんでしょう?

1はわりとすっきりしている気がします。

2はどうでしょう。
感想を一話追記するたびに、日付を変えて上に上げるのは、ブログの使い方としてどうなのか?
特に大きな問題があるわけでもないですが、変則的な印象もあります。
たぶん問題はないけど、イレギュラーな使い方はしたくないなというのもあります。

他に考えられる方法としては、

3、放映中は一話ごとにエントリーする。放送が終了したら、26話をまとめてひとつのエントリーにする。

これが一番すっきりしているような気はするんですけどね。
まとめるのが少し面倒ですが、多大な時間が掛かるというほどではないです。

もちろん、ひとつのエントリーに無理してまとめる必要もないわけです。
一話ごとに感想を書いて、それをカテゴリーとしてまとめても、さほど問題はないわけです。
カテゴリーの部分をクリックすれば、並べて表示されるわけですからね。
(最終話の方から感想が並んでしまうという問題はありますが)。

あるいは、ある意味一番シンプルなのが、

4、その日に見たアニメの感想を普通に書く。

つまり今日は○○の第三話を見てこんな感じ、、△△の第四話を見てこんな感じ、、という具合に、日記の中に、今日見たアニメの感想を普通に書くというやり方ですね。

もしかすると、この書き方をしている人が一番多いかもしれないです。
この書き方だと、過去ログとして見る場合に、ひとつのアニメの感想をまとめて見れないので、その点では問題がありますけどね。
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