まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

物語の在り方性欲のない男主人公

男の子向けの媒体では、あんまり性欲を持たない男主人公が好まれます。

物語効果としての問題と、それ以前の表現上の制約の問題があるでしょう。

男の子向けのメディアの場合、性に関して、表現上の制約が厳しいというのがあります。
少女漫画なら許される描写でも、少年漫画だと許されない。
近年では男の子は18歳にならないと、エロ本を買えない。
(ただしインターネットがありますから、エロ本の必要はないでしょうが)。
女の子は性情報にたくさん触れても構わない。

さて、そのような表現上の制約からして、男主人公がやりまくる作品はそもそも描きづらいのですが、物語効果的にも、そういう作品は好ましくないと思われます。
女好きな男が主人公だと、普通の作品は成立しづらい。
(女の子向けの作品だと、主人公がいろんな相手と経験して……というのが物語になるらしいです)。

たとえば男の子向けの作品で、男主人公がイケメンでいろんな女の子と付き合うとなると、それはヒロインの相対化です。
記号として「美少女」が成り立たない。
「美少女」とは手が届かない憧れの存在です。
簡単に手が届いたら、どんなに可愛くても「美少女」ではないのです。
(男の子向けの作品では、男主人公をイケメンに描いても、恋愛に興味を持たなかったりするのが、「自然」なのです)。

フィクションでは、みんな可愛いわけです。漫画とかで全員の顔を可愛く描くのは簡単です。小説では特に容姿を描写しなくても、読者が頭の中で勝手に可愛い女の子をイメージしながら読みます。
つまり顔かたちはみんな可愛いのです。
そういう可愛さと、「ヒロインとしてキャラが立っている」こととはレベルが違うのです。
(ともかくヒロインは、手が届かない存在というポジションにしないとダメなのです)。

またヒロインを立てることを目的としない作品(男主人公が活躍する少年誌的な作品)でも、恋愛をしない主人公の方がいいのです。
ジャンプやマガジン系の漫画では多くがそうでしょう。
ヤングマガジンの「頭文字D」で恋愛の場面を描くことは読者から不評だったようです。
作者は、恋愛を描くのが必要だと思って、不評ながらも敢えて描いていたようです。
これは作者のミステイクだったと思います。
「頭文字D」の恋愛の場面は漫画のお約束を破った。
恋愛の要素は割愛するのがお約束なのに、普通のドラマみたいなことをやってしまった。
(「頭文字D」はヤンマガの作品ながらも、少年誌っぽい作品でしたからね。そのあたりのズレもあったんでしょう)。

たとえば「スラムダンク」で登場人物の恋愛エピソードが描かれたらどうですか?
仙道が恋愛する場面とかが描かれたら、男読者は違和感を持つし、女読者は怨嗟の叫びを挙げていたでしょう。
仙道が恋愛しないのは、少年ジャンプとして、極めて「自然」なのです。

(ちなみにエロゲーでも恋愛ノベルゲームの系統の主人公はストイックに描かれることが多いです。5人のヒロインがいて、それぞれのルートでやるとしても、それは平行世界での独立した出来事なわけです。ひとつのルートで五人というのは、普通はありません)。
【2007/07/29】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「i.d.」三雲岳斗



一応ネタバレ注意です。
作品の核心部分については言及を避けてますが、普通に作品設定の説明はしています。


第一巻:
高校に変なサークル(同好会)があって、それに入部させられそうになる、というのはよくある設定です。
その後、高校生たちが学校に閉じこめられるというストーリー。
こういう風に十代の若者がどこかに閉じこめられるというのは非常に古典的で、今までどれだけこういう作品を見たかわかりませんが、設定として面白いから、繰り返し使われるわけです。
……と思っていたら、サークル(同好会)中心の話ではないし、学校に閉じこめられて特殊環境の中で人間関係が進むというストーリーでもないです。
サークルは異能者が集まる場所という程度だし、学校が封鎖されるのは、結界の中で戦うという程度のものですね。
序盤の設定を見て、面白い話になりそうだと思ったので、途中から普通のバトル物になったのは残念。

第二巻:
主人公が変わってますね。
ストーリーは第一巻と繋がってます。
一連の事件があって、それぞれを別の人物の視点から描いていくと言えばいいのか。
(つまり第一巻の出来事と第二巻の出来事は深い関連性があるわけです)。
サスペンス仕立てですね。
やや底が浅いミステリー風ですが、すんなり読めます。
素晴らしいサスペンスだとは言い難いのですが、普通に面白いです。
中盤で、第一巻の主要人物も出てきますが、物語にはそれほど深く関わりません。

第三巻:
第一巻と第二巻が合わさるストーリーです。
ライトノベルのテンプレみたいな作品です。
普通に面白い作品ではありますが、オーソドックスな異能者バトルだと言っていいでしょう。
【2007/07/28】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「電波的な彼女」片山憲太郎

ネタバレ控えめですが、設定などは簡単に説明してます。

これは個人的にはかなりお薦めの作品です。

第一巻から第三巻までありますが、一巻ごとに一区切り付いてます。

第一巻から第三巻まで同じテイストなので、第一巻の最初の方を読んで面白くなかったら放棄した方がいいかも。
面白かったら第三巻まで読むべきだと思います。



第一巻:
文章に関しては、三人称としては、比較的珍しい感じですかね。
ラノベだと普通、地の文では状況の記述だけして、あとはセリフで作っていく感じかと思われますが、この作品の場合、地の文で物語るという具合です。
三人称だけど、一人称を読んでいるような感じ……。
そういう「語り口」が、この作品に関しては、読みやすいですね。
この作品はコメディ的なテイストですから、こういう「語り口」が有効なのでしょう。
ストーリーに関しては、殺人事件が起こったりします。
雰囲気がコメディな推理小説風の作品と言えばいいのかな。
サスペンス性があるので、普通に続きが気になって、一気読み出来ます。
ただ、謎解きその他の痛快さはありません。
読んでいて面白いけど、謎解き自体は陳腐です。
粗筋だけ見るとダークですが、ナンセンスな話なので、読んでいて鬱になることはないと思います。



第二巻:
犯人探しの話なので、一気読み出来ます。
内容は……。
ネタバレになるので語るのはやめておきましょう。
これもダークな話ですが、ナンセンスなので、いわゆる鬱作品ではないです。



第三巻:
今回も犯人探しですね。
面白いです。
ただ、事件のスケールが小さいのがやや難点です。
面白いことは面白いけど、物足りない部分も。
犯人探し系の作品は、どういう事件にするかで、かなりの部分が決まりますね。
【2007/07/28】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「ある日、爆弾がおちてきて」古橋秀之



短編集です。
7つあるストーリーに関連性はありません。
すべて独立した話です。

なお、ネタバレ控えめのつもりですが、多少はネタバレがあるかも。

■ある日、爆弾が落ちてきて
表題作です。
最初の方を読んだ段階で展開が見えてしまったような。

■大きくなあれ      
架空の病気はフィクションでよく使われますね。
架空の病気は物語を面白くします。
(実在の病気と違って表現上の制約がないのもいいでしょう)。
この話はコメディーとして、よく描けてますね。

■恋する死者の夜
変わった設定の不思議な作品ですが、なかなかいいです。
この設定で長編は難しいはずなので、短編ならではのものでしょう。

■トトカミじゃ
わりと普通の話ですが、最後の部分はいいかも。

■出席番号0番
この話はどうなんだろ?
自分としては、最後のオチが今ひとつピンと来なかった。

■三時間目のまどか
こういう設定の作品は、よくありますね。
かなり既視感がありました。
いや、テンプレ的なのは悪いことではないですけどね。

■むかし、爆弾が落ちてきて
何とも言いがたい作品。
面白いことは面白いです。
【2007/07/28】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「黒白キューピッド」中村九郎



この作品は、普通の小説ではありえない書き方をしています。
普通、三人称の小説は、誰かの視点に固定するわけです。
たとえば主人公の視点から見えている世界を記述するという書き方をします。
しかし、この「黒白キューピッド」は、そうではありません。
作者が登場人物を眺めながらポエム混じりに語っているという具合なのです。
三人称では普通は使わないポエムな表現が多々出てくるわけです。

作者の視点から登場人物を眺めて描写する作品は、ラノベだと少なからずありますが、この「黒白キューピッド」は視点に一貫性が感じられず、ただ単に視点がブレて、おかしいだけです。

ラノベの場合、視点が切り替わっていく書き方もよくありますが、それとも違う。

読者の側からは「読みづらい」という批判がかなりあったようです。
確かに商業作品で三人称でこの記述スタイルは普通あり得ないので、読みづらいでしょう。

逆に絶賛する人もいるようです。
地の文をポエムみたいに書くことは通常はありえないのですが、この作品では多用されるので、そういうところが独特な感性に溢れていると感じる人もいるのでしょう。

ストーリーに関しては、それほど悪くないのかもしれません。
オンラインゲームと現実を重ね合わせて書いていくわけですが、まあまあ面白いのかも。

ヒロインの描き方はラノベとしては、少し変わってます。
普通はアニメっぽい美少女のキャラになりますが、そういう普通のラノベとは全然別の次元で変わった女の子と言えばいいのか、ある意味リアルっぽいと言えばいいのか……。
【2007/07/28】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「リビスの翼」円山 夢久



「リングテイル」の作者の作品。

とてもよいです。
舞台は100年くらい前のヨーロッパの雰囲気かな。
そこにファンタジー要素を混ぜた感じです。

筆力は確かで、ちゃんとストーリーを読ませる手堅さもあります。
プロットも練られていて感心します。
問題なのは、、、なんだろ?
オーソドックスで手堅い作品なんだけど、キャラクターの魅力が薄いんですかね。
あと、ストーリーはよく練られているものの、展開が読めるというか、陳腐と思える部分も結構ありました。

ライトノベルとして出ているわけですが、かなり古典的なファンタジーです。
こういう作品に関して需要がないのかな?
アニメっぽい、キャラが立っている作品を人は求めていて。。。。
これはそういう要素がないから。。。

読めば間違いなく面白いけど、読まなければ読まないでもいいオーソドックスな作品ということになるのかも。
素晴らしい作品なのは確かなんですけどね。
【2007/07/28】 | レビュー | トラックバック(0)



物語の在り方フィクションでは、確率の低いことが成功してもいいのです

フィクションでは確率の低いことが成功するのを描いてもいいのです。
一万人に一人しか成功しないとすると、一人は成功しているわけで、その一人を描いてもいいのです。

そして、失敗した場合の保険があるのでは物語として面白くなりません。
失敗したら全てを失うみたいな設定にする必要があります。

そしてそういう設定に人生論を絡ませることもあります。
退路を断つのが漢だ!みたいな話です。
失敗した場合に逃げ道があるのは恥ずかしいということです。
(現実には、逃げ道がなければ恥ずかしいことになると思うんですけどね)。

ともかく常識的な確率は無視していいのです。
いや、無視するというよりは、確率が反転している状態を描くべきと言えばいいのか。
つまり、確率が低いと成功する。
そういうロマンなのです。
(現実に実行してはいけません)。


少し話は違いますが、偶然もわりと許されます。
普通は起こらないような「偶然」があってもいいのです。

ただ、あまり偶然過ぎると、御都合主義と言われるでしょう。
どういう偶然だと認められて、どういう偶然だと御都合主義になるのかは、難しいところです。

推理小説とかで、名探偵が毎回毎回事件の現場に居合わせることは認められてます。
これは意外性を作る偶然ではなく、お約束的な偶然ですね。
【2007/07/27】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方セカイとヒロイン

一昔前、セカイ系という言葉が流行り掛けたことがあります。
でも、この用語は、作品を分析するための言葉というよりは、他人を批判するための用語として用いられたため、あまり使われなくなりました。
サブカル系の人が絡むと、「こういうラノベを読んでいる奴は……」という議論をしたがるのです。
サブカル系の人間は作品の中身に関しては分析しないのです。読者がどんな奴かという話が好きなのです。作品そのものを語る言語が発達していません。

舞台設定から社会的な枠組みが欠落しているという状態を定義するものとして、セカイ系という言葉を使用しているということだったようです。
でもラノベなどのフィクションのストーリーでは、そういうものが欠落しているのは当然です。
ラノベの作品の社会性を問うのは荒唐無稽です。

「セカイ」は重要なのです。
セカイの中にヒロインがどう組み込まれるかが問題なのです。
重要なのはセカイの架空性です。
架空セカイをきちんと作れているかどうかが問題です。
通俗的な社会の中にヒロインを雑然と登場させてはいけないのです。

「最終兵器彼女」や「イリヤの空」や「エヴァンゲリオン」みたいなバッドエンドに向かうものだけが、架空のセカイを用いているのではありません。
バッドエンドに向かう問題と、セカイ設定の問題を混同しているのが、セカイ系の議論でした。

普通のハッピーエンドの作品でもラノベ的なものは架空セカイです。
この現実世界とは別の法則で組み立てられた亜現実です。

だいたいヒロインそのものは似たようなものなわけです。
フィクションの女の子はみんな可愛い。
(容姿に関する描写がなくても、美少女だと推定しながら読んだりするわけです)。

ヒロインの魅力をキャラクター性として切り出して考えるのは間違いではないですが、的確ではないです。
たとえば二次創作的にヒロインを面白く使えるとすれば、それは元の作品がきちんと構築されているからです。
元の作品がつまらないのに、そのヒロインをうまく使おうとしても無理なのです。
つまりキャラクターだけ切り出して使用されているように見えても、実際は違うのです。

受け手のツボを付くのは、セカイの中でのヒロインの立ち位置なのです。
ヒロインのポジションが物語として面白いかどうか、の問題です。
それを抜きにして萌えとかを語るのは基本的に不毛です。

もちろんキャラだけ提示するような売り方もありますよ。
デ・ジ・キャラットとか。
でもそれは、サンリオのハローキティ的な売り方だと思うのです。
フィクションにおけるキャラクター性を説明する場合にデ・ジ・キャラットを引き合いに出すのは間違いなのです。

セカイの中にヒロインがどう存在しているか。
漠然とした日常世界に、何となく魔法使いの女の子がやってくるというのではダメなのです。
セカイはフィクションの舞台としてきちんと構築されていなければなりません。
地球全体を舞台にするのも、主人公の身の回りだけの世界も同じことです。
架空セカイとして、考え抜かれている作品が面白いのです。
またセカイ設定の中に上手く組み込まれているヒロインだからこそ、キャラクターとして展開出来るのです。
「キャラクターが魅力的」というのは、かなり雑な言い方です。
実際は作品世界がしっかり出来ているから、キャラクターが魅力的になるのです。
【2007/07/24】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方亜現実な舞台設定

ライトノベルの舞台設定について考えてみたいと思います。

雑然とした話になってしまいますが、とりあえず仮のエントリーという程度です。

次の四つに分けてみましょう。

・現実世界
・亜現実
・近未来
・異世界

異世界に関しては言うまでもないです。
一昔前大量にあった異世界ファンタジーです。

近未来も言うまでもないです。
SFでよくある、近未来の世界について書くものです。

「亜現実」というのは……、(これが用語として適切かどうかはわかりませんが)現実の亜種みたいなものです。
つまり異世界でもなく、近未来でもなく、今の日本社会なんだけど、少し変形させてあるということです。

現実世界が舞台である作品と亜現実が舞台である作品とは、明確に線引き出来ません。
日常的な現実にかなり近い舞台設定でも、多少は亜現実っぽい要素(漫画っぽい要素)があり、それの区分けは難しいです。

ただ厳密な分類は出来なくても、亜現実な要素を明確に入れているかどうか、というのはあるわけです。
たとえば「灼眼のシャナ」のトーチなどは、社会の構成のされ方に亜現実的な要素を組み込んでいると言えます。
つまり道具立てとして、亜現実的にしようという意図があるかどうか……。


何が言いたいのかというと、舞台設定自体でどれだけの工夫があるかということです。
ライトノベルというと、日常的な生活を送っている主人公のところに魔法を使える女の子がやってきて……みたいなのも多いですが、果たしてそれだけで面白いのか?
(それだけで面白い場合もあるとは思いますけどね)。

異世界に行くという設定でないのなら、誰かがやって来るこちらの世界の組み立て方に工夫が必要なのではなかろうか、ということです。
【2007/07/21】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方集団よりも個人が強いのがライトノベル

すごい基本的なことですが、一応書きましょう。

ライトノベルやアニメなどの系統の作品では、集団より個人が強いです。
主人公やヒロインがそういう特別な力を持っているということです。

たとえば喧嘩に自信があっても、相手が五人とか十人なら、普通はどうにもならないでしょう。
でもフィクションだと、個人が強くて、相手の五人とか十人をちぎっては投げちぎっては投げ……ということでもいいのです。

あるいはラノベやアニメではなくとも、剣士が出てくる時代劇などでは、殺陣の場面で、数十人の相手を一人で次々と倒していくというのがよく描かれます。
現実なら、四方を取り囲んで一斉に斬るようにするはずですが、それはフィクションだとありません。
数十人が一人ずつ主人公に掛かってくるという効率の悪い攻め方をするわけです。

あるいはロボットアニメでも、主人公の搭乗する機体が戦局を決定付けるように描かれます。
実際に数千機の相手を倒せるスーパーロボットでもないのに、主人公機の勝敗が全体の勝敗を反映しているように描かれたりするのです。

ともかく、どう描くにせよ、個人が集団より強いと描くわけです。
一個人がスーパーパワーを持っていて、それが全体を左右する。

ただ、大量の雑魚を蹴散らす場面を描く一方で、ライバルとは互角の戦いをして勝つというのも基本です。
スーパーパワーで敵を全部倒して終わり、、、だとストーリーにならないですからね。

なお、普通の小説とかドラマでは、個人は集団よりも弱いという前提で描かれます。勝てない者には勝てないという重苦しさからリアリティーを作っていくわけです。漫画やラノベだと、そこからスーパーパワーに覚醒して……となりますが、普通の小説やドラマではそうはなりません。

要するに集団が強いという現実を、「ヒーロー」という媒介で覆すかどうかということですね。
【2007/07/17】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方恋愛をしないヒロイン

ツンデレというと、恋愛プロセスの中での状態変化として定義されることが多いようです。
それが間違いというわけではないですが、やや的を外している気がします。
ツンデレの一番の本質は、恋愛をしないタイプのヒロインだということです。
物語の結果として恋愛をさせてもいいが、基本的に恋愛をしないヒロインとして登場します。
主人公と恋愛をしないまま物語が進んでそのままということも少なくありません。

ともかく、キャラとして恋愛をしないということが重要なのです。
そういうヒロインと主人公が恋愛をするというタイプの物語もたくさんありますが、同時に、恋愛にならないタイプの物語もたくさんあるのです。
雑に言えば、エロゲーだと、一応恋愛をさせてくっつく。
ラノベだと、恋愛をしないまま進んでいくのです。

「ツンデレと称されている類型の物語は昔からあった」という人がいるのですが、これは、普通のラブコメのことでしょう。
ラブコメの場合、初期段階では主人公との恋愛がスムーズに進みませんが(スムーズに進んだら物語になりませんが)、恋愛そのものに否定的なヒロインというのは、あまりいないと思います。

「恋愛をしないヒロイン」がたくさん描かれるようになったのは、最近の現象だと思われます。
男の子向けの媒体にヒロインが出てきて、ヒロインが実質の主役で、主人公の男が脇役というのは、ラノベの発展とともにたくさん生産されました。
そういうタイプの作品で使われるのが、「恋愛をしないヒロイン」なのです。
【2007/07/15】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



ネット社会はてなスターという時代錯誤

ブログ以前は「人に人が集まる」という構図がありました。
掲示板やフォーラムの話ではなく、サイトの運営スタイルがそうだったのです。
トラバもpingもなかったですから、(アクセスを流してもらうために)人間関係作る営業が必要だったわけです。

ブログが登場してからも、別の意味で、そういう幻想がありました。
WEB2.0時代のカリスマブロガーが……みたいな。

でもいろいろこなれてきて、そういう部分も薄れてきました。

人に人が集まることはない。
もちろん少人数で馴れ合う場合は別の話で、そういうのはmixiなどのSNSに移行したわけです。

たくさんの閲覧者を集めるサイトがあるとして、それは別に運営者個人のカリスマ性によるのではないです。
「情報に人は集まる」というだけです。
情報をたくさん出せるところに人は集まります。
運営者の能力として言えば、情報を出せるかどうかの問題であり、カリスマ性の問題ではありません。

運営者のキャラが立っている大手ブログはありますが、その多くは有名人(知名度の低い有名人)が運営しているものです。
純然たる素人の運営しているブログは、運営者のキャラが立たないブログだと言っていいでしょう。
(昔は人間関係が濃かったので、大手サイトの運営者のキャラはかなり立っていました)。

ともかく、現在において、サイト運営とは「情報に人が集まる」という基本原理に従ってやらなくてはならないのです。
「人に人が集まる」というのを否定しなければならない。

そこに登場したのが「はてなスター」です。
悪い仕組みですね。
これは単なる拍手機能ではありません。
拍手している者同士の関係を作ろうとする仕組みです。
単純に言えば、「お互いに褒める人間関係」みたいなのを志向しているわけです。

こういうのは、一般閲覧者向けのブログを目指している人にとっては迷惑なはずです。
一般閲覧者ではなく、「お友達ブログ」の方を気にしながら運営しなければならなくなります。
これだと、まるでブログが登場する以前に引き戻されたかのようです。

まあブログとSNSの融合みたいなのは、最近やっているところが多いんですけど、これが強制になると、もはやブログではなくなってしまうと思います。
【2007/07/12】 | ネット社会 | トラックバック(1)



雑記強者と弱者とヒロイズム

刑務所に入ったり、死刑になったりしてもいいのであれば、弱者が強者に致命的な攻撃を加えるのは簡単です。
強者とは言っても不死身とかいうわけではなく、むしろ逆です。
不死身どころか、むしろ簡単に死んでしまうからこそ、強者・弱者のルールはあるわけです。

なぜこのルールが守られているのか?
それは法治国家で、そういうルールがあるからです。
刑務所に入りたくないから。

でも、そのルールの根底にあるのはヒロイズム(英雄願望)だと思います。
このヒロイズムは、人間の本能に組み込まれているのか、社会的な産物なのかはよくわかりません。
いずれにせよ、強者として相手を打ち倒したいみたいなヒロイズムが、わたしたちにはあるのです。
つまり、弱者として、強い相手に忍び寄って、後ろから鈍器で殴るみたいなのは、人間の欲求に反します。
(もちろんむかつく相手を排除したいという怒りや憎しみならあるだろうが、快楽に結びつくような欲求ではないのです)。

鬱屈した人間が事件を起こす場合にヒロイズム(英雄主義)的な言動が見られるのはこのあたりが原因かと思います。
本当に相手を殺めるつもりなら、強いも弱いもないのですが、弱い相手を狙ってヒロイズム的な立ち位置を求めたりするわけです。

そしてヒロイズムは、基本的には幻想です。
というより、強いか弱いかは最初から決まっているので動かせないと言えばいいでしょうか。
弱い者が強くなるというのはフィクションでは頻繁に描かれますが、これは現実に困難だからこそ描かれるのです。

ヒロイズムの描き方として、強い者がさらに強さを求めるという作品もたくさんありますけどね。
これにしても、強さに対する憧れとして描いているわけです。
(つまり強い奴は普通に強いみたいな話ではない)。
【2007/07/12】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方価値観や考え方を巡っての論争

フィクションの中で、価値観や考え方が対立して論争になることが時々あります。
テーマ性を持たせたい場合によくある手法です。

陳腐な例で言えば、ガンダムSEEDでの
「争いはさらなる争いを生む」
「争いをやめるために戦争をしている」
みたいなやつですね。

なんか論争させておくと、テーマ性のある作品みたいになるのです。

あるいは、主人公の内面での葛藤みたいなことで描くのもよくありますね。
そうやって動機を形成していくのです。

そして、そういう論争や葛藤の結果が、その後の登場人物の行動として反映されるわけです。

物語に、そういう種類のテーマ性が必要なのかというと、何とも言えません。
特にテーマ性もなく進んでいく人気作品は結構あります。

価値観や考え方の違いを巡って対立させたり葛藤させるのは、面白い物語の必須条件ではないと思われます。

有効に使われている場合もあれば、全然使われなくても構わない、、という感じでしょうか。
【2007/07/09】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方フィクションの中で事件が起きた場合に、ワイドショーが押し掛けてくるかどうか

フィクションの中で、何か事件が起こるとしますよ。
たとえば人が殺されるとか。
その場合に、ワイドショーが押し掛けてくる場面とかが描かれなくても、それほど不自然ではありません。
これはフィクションのお約束のようなものです。
もちろん、テレビクルーが大挙して押し寄せてくる場面が描かれることも多々あります。
でも、描かれなくても著しい不自然ではないのです。

小説とかを読んでいて、「こんな大事件が起きたら、ワイドショーが押し掛けてくるし、それがないのは変だな」と思うことも時たまあるわけです。
でもそれは大きな違和感ではないわけです。
「こんな事件が起こったらワイドショーが押し掛けて大変なはずなのに、それが描かれないから、この作品は破綻している」とかいうことはないのです。

このあたりは自由度があるのです。
現実世界で事件が起これば、テレビ局が押し寄せてきて大変なはずですが、フィクションにおいて、それは描いても描かなくてもいい。
たぶん描かない方がいい場合が多いでしょう。

単純に言えば、何か事件が起こった時に、ワイドショーが押し寄せてくると、ストーリーが成り立たなくなることもあるわけです。
登場人物でその事件を解決することに専念出来なくなるとか、そういうことです。
テレビ局への対応に忙殺されるところを描いても無意味です。
だからほんの少し不自然でも、「事件が起こったがワイドショーが来ない」ということにしてもいいのです。
【2007/07/05】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方ライトノベルは恋愛が嫌いな人のためにある

ライトノベルは恋愛が嫌いな人のためにあるのです。

だって、ライトノベルでラブストーリーってあんまりないですよ。

こういうことを言うと、

「電撃文庫でこんな素晴らしいラブストーリーがあるんだよ!」

みたいな反応があるかもしれません。

確かにあるでしょう。
別に素晴らしい作品でなくても、ラブストーリー的な作品を探せばあるでしょう。
でも、割合の問題として少ないと思います。

ストーリーの序盤で男とヒロインが出会って、最後には結ばれるというタイプの作品は少ないはずです。
奇特なタイプの話が少ないというのならわかりますが、ラブストーリーは非常にありがちなもののはずなのに、ラノベでは敬遠されています。

理由としては、ラノベでは性描写がしづらいというのがあるでしょう。
厳禁というわけではないですが、ある程度禁止に近いでしょう。
ただ、それだけではないと思います。
ラブストーリーを読みたいという需要があれば、そういう作品が増えるはずです。

増えないのは、ラブストーリーを読みたくないラノベ読者が多いからです。

結論的に言えば、恋愛をしないアイドルみたいなヒロインを希求しているのです。

だから、恋愛を書いてはいけないのです。

ヒロインの性格に問題があるから男が近寄らず、そんなヒロインと主人公が奇妙な縁で出会って行動を共にするという話が好まれるわけです。
主人公に求められるのは、ヒロインと行動を共にすることだけであり、ラブストーリー的な手続きを踏んでいくことではないのです。

だったら「ゼロの使い魔」みたいな話はどうなのか?
あれはオタクに優しい話だからいいのです。

要するにですね、「恋愛をする」というのはある種の特権性なので、それが窺える作品だとダメなのです。
特に大きなお兄ちゃんが読者の場合、高校生が恋愛で青春しているみたいな作品は好まないのです。

だったらエロゲーはどうなのか?
ああいうのは、恋愛に対する疎外感を刺激しないような作りになっているのです。
【2007/07/04】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



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