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性欲のない男主人公

男の子向けの媒体では、あんまり性欲を持たない男主人公が好まれる。
物語効果としての問題と、それ以前の表現上の制約の問題があるだろう。

男の子向けのメディアの場合、性に関して、表現上の制約が厳しい。少女漫画なら許される描写でも、少年漫画だと許されない。近年では男子は18歳にならないと、エロ本を買えない。(ただしインターネットがあるから、エロ本の必要はないだろうが)。女子は性情報にたくさん触れても構わない。

さて、そのような表現上の制約からして、男主人公がやりまくる作品はそもそも描きづらいのだが、物語効果的にも、そういう作品は好ましくないと思われる。
たとえば男の子向けの作品で、男主人公がイケメンでいろんな女の子と付き合うとなると、それはヒロインの相対化である。記号として「美少女」が成り立たない。「美少女」とは手が届かない憧れの存在である。簡単に手が届いたら、どんなに可愛くても「美少女」ではない。

フィクションでは、みんな可愛いわけだ。漫画とかで全員の顔を可愛く描くのは簡単である。小説では特に容姿を描写しなくても、読者が頭の中で勝手に可愛い女の子をイメージしながら読んだりす。
つまり顔かたちはみんな可愛い。
そういう可愛さと、「ヒロインとしてキャラが立っている」こととはレベルが違う。

またヒロインを立てることを目的としない作品(男主人公が活躍する少年誌的な作品)でも、恋愛をしない主人公の方がいいのである。
ジャンプやマガジン系の漫画では多くがそうだろう。
ヤングマガジンの「頭文字D」で恋愛の場面を描くことは読者から不評だった。
作者は、恋愛を描くのが必要だと考えて、不評ながらも敢えて描いていたようが、これは作者のミステイクだったと思う。「頭文字D」の恋愛の場面は漫画のお約束を破った。恋愛の要素は割愛するのがお約束なのに、普通のドラマみたいなことをやってしまった。「頭文字D」はヤンマガの作品ながらも、少年誌っぽい作品だったから、そのあたりのズレもあったのだろう。

たとえば「スラムダンク」で登場人物の恋愛エピソードが描かれたらどうだろう?
仙道が恋愛する場面とかが描かれたら、男読者は違和感を持つし、女読者は怨嗟の叫びを挙げたかもしれない。
仙道が恋愛しないのは、少年ジャンプとして、極めて「自然」なのだ。
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「i.d.」三雲岳斗



一応ネタバレ注意です。
作品の核心部分については言及を避けてますが、普通に作品設定の説明はしています。


第一巻:
高校に変なサークル(同好会)があって、それに入部させられそうになる、というのはよくある設定です。
その後、高校生たちが学校に閉じこめられるというストーリー。
こういう風に十代の若者がどこかに閉じこめられるというのは非常に古典的で、今までどれだけこういう作品を見たかわかりませんが、設定として面白いから、繰り返し使われるわけです。
……と思っていたら、サークル(同好会)中心の話ではないし、学校に閉じこめられて特殊環境の中で人間関係が進むというストーリーでもないです。
サークルは異能者が集まる場所という程度だし、学校が封鎖されるのは、結界の中で戦うという程度のものですね。
序盤の設定を見て、面白い話になりそうだと思ったので、途中から普通のバトル物になったのは残念。

第二巻:
主人公が変わってますね。
ストーリーは第一巻と繋がってます。
一連の事件があって、それぞれを別の人物の視点から描いていくと言えばいいのか。
(つまり第一巻の出来事と第二巻の出来事は深い関連性があるわけです)。
サスペンス仕立てですね。
やや底が浅いミステリー風ですが、すんなり読めます。
素晴らしいサスペンスだとは言い難いのですが、普通に面白いです。
中盤で、第一巻の主要人物も出てきますが、物語にはそれほど深く関わりません。

第三巻:
第一巻と第二巻が合わさるストーリーです。
ライトノベルのテンプレみたいな作品です。
普通に面白い作品ではありますが、オーソドックスな異能者バトルだと言っていいでしょう。

「電波的な彼女」片山憲太郎

ネタバレ控えめですが、設定などは簡単に説明してます。

これは個人的にはかなりお薦めの作品です。

第一巻から第三巻までありますが、一巻ごとに一区切り付いてます。

第一巻から第三巻まで同じテイストなので、第一巻の最初の方を読んで面白くなかったら放棄した方がいいかも。
面白かったら第三巻まで読むべきだと思います。



第一巻:
文章に関しては、三人称としては、比較的珍しい感じですかね。
ラノベだと普通、地の文では状況の記述だけして、あとはセリフで作っていく感じかと思われますが、この作品の場合、地の文で物語るという具合です。
三人称だけど、一人称を読んでいるような感じ……。
そういう「語り口」が、この作品に関しては、読みやすいですね。
この作品はコメディ的なテイストですから、こういう「語り口」が有効なのでしょう。
ストーリーに関しては、殺人事件が起こったりします。
雰囲気がコメディな推理小説風の作品と言えばいいのかな。
サスペンス性があるので、普通に続きが気になって、一気読み出来ます。
ただ、謎解きその他の痛快さはありません。
読んでいて面白いけど、謎解き自体は陳腐です。
粗筋だけ見るとダークですが、ナンセンスな話なので、読んでいて鬱になることはないと思います。



第二巻:
犯人探しの話なので、一気読み出来ます。
内容は……。
ネタバレになるので語るのはやめておきましょう。
これもダークな話ですが、ナンセンスなので、いわゆる鬱作品ではないです。



第三巻:
今回も犯人探しですね。
面白いです。
ただ、事件のスケールが小さいのがやや難点です。
面白いことは面白いけど、物足りない部分も。
犯人探し系の作品は、どういう事件にするかで、かなりの部分が決まりますね。

「ある日、爆弾がおちてきて」古橋秀之



短編集です。
7つあるストーリーに関連性はありません。
すべて独立した話です。

なお、ネタバレ控えめのつもりですが、多少はネタバレがあるかも。

■ある日、爆弾が落ちてきて
表題作です。
最初の方を読んだ段階で展開が見えてしまったような。

■大きくなあれ      
架空の病気はフィクションでよく使われますね。
架空の病気は物語を面白くします。
(実在の病気と違って表現上の制約がないのもいいでしょう)。
この話はコメディーとして、よく描けてますね。

■恋する死者の夜
変わった設定の不思議な作品ですが、なかなかいいです。
この設定で長編は難しいはずなので、短編ならではのものでしょう。

■トトカミじゃ
わりと普通の話ですが、最後の部分はいいかも。

■出席番号0番
この話はどうなんだろ?
自分としては、最後のオチが今ひとつピンと来なかった。

■三時間目のまどか
こういう設定の作品は、よくありますね。
かなり既視感がありました。
いや、テンプレ的なのは悪いことではないですけどね。

■むかし、爆弾が落ちてきて
何とも言いがたい作品。
面白いことは面白いです。

「黒白キューピッド」中村九郎



この作品は、普通の小説ではありえない書き方をしています。
普通、三人称の小説は、誰かの視点に固定するわけです。
たとえば主人公の視点から見えている世界を記述するという書き方をします。
しかし、この「黒白キューピッド」は、そうではありません。
作者が登場人物を眺めながらポエム混じりに語っているという具合なのです。
三人称では普通は使わないポエムな表現が多々出てくるわけです。

作者の視点から登場人物を眺めて描写する作品は、ラノベだと少なからずありますが、この「黒白キューピッド」は視点に一貫性が感じられず、ただ単に視点がブレて、おかしいだけです。

ラノベの場合、視点が切り替わっていく書き方もよくありますが、それとも違う。

読者の側からは「読みづらい」という批判がかなりあったようです。
確かに商業作品で三人称でこの記述スタイルは普通あり得ないので、読みづらいでしょう。

逆に絶賛する人もいるようです。
地の文をポエムみたいに書くことは通常はありえないのですが、この作品では多用されるので、そういうところが独特な感性に溢れていると感じる人もいるのでしょう。

ストーリーに関しては、それほど悪くないのかもしれません。
オンラインゲームと現実を重ね合わせて書いていくわけですが、まあまあ面白いのかも。

ヒロインの描き方はラノベとしては、少し変わってます。
普通はアニメっぽい美少女のキャラになりますが、そういう普通のラノベとは全然別の次元で変わった女の子と言えばいいのか、ある意味リアルっぽいと言えばいいのか……。

「リビスの翼」円山 夢久



「リングテイル」の作者の作品。

とてもよいです。
舞台は100年くらい前のヨーロッパの雰囲気かな。
そこにファンタジー要素を混ぜた感じです。

筆力は確かで、ちゃんとストーリーを読ませる手堅さもあります。
プロットも練られていて感心します。
問題なのは、、、なんだろ?
オーソドックスで手堅い作品なんだけど、キャラクターの魅力が薄いんですかね。
あと、ストーリーはよく練られているものの、展開が読めるというか、陳腐と思える部分も結構ありました。

ライトノベルとして出ているわけですが、かなり古典的なファンタジーです。
こういう作品に関して需要がないのかな?
アニメっぽい、キャラが立っている作品を人は求めていて。。。。
これはそういう要素がないから。。。

読めば間違いなく面白いけど、読まなければ読まないでもいいオーソドックスな作品ということになるのかも。
素晴らしい作品なのは確かなんですけどね。

フィクションでは、確率の低いことが成功してもいいのです

フィクションでは確率の低いことが成功するのを描いてもいいのだ。一万人に一人しか成功しないとすると、一人は成功しているわけで、その一人を描いてもいいのである。

そして、失敗した場合の保険があるのでは物語として面白くない。失敗したら全てを失うみたいな設定にする必要がある。

そしてそういう設定に人生論を絡ませることもある。退路を断つのが漢だ!みたいな話。失敗した場合に逃げ道があるのは恥ずかしいということである。
(現実世界だと、逃げ道がなければ恥ずかしいことになると思うんですけどね)。

ともかく常識的な確率は無視していい。いや、無視するというよりは、確率が反転している状態を描くべきなのだ。つまり、確率が低いと成功する。そういうロマンなのだ。

少し話は違いますが、偶然もわりと許される。普通は起こらないような「偶然」があってもいいのだ。

ただ、あまり偶然過ぎると、御都合主義と言われるだろう。どういう偶然だと認められて、どういう偶然だと御都合主義になるのかは、難しいところ。

推理小説とかで、名探偵が毎回毎回事件の現場に居合わせることは認められている。
別に御都合主義とは言われないし、立派なお約束である。

セカイとヒロイン

一昔前、セカイ系という言葉が流行り掛けたことがある。でも、この用語は、作品を分析するための言葉というよりは、他人を批判するための用語として用いられたため、あまり使われなくなった。サブカル系の人が絡むと、「こういうラノベを読んでいる奴は……」という議論をしたがるのだ。サブカル系の人間は作品の中身に関しては分析しないのである。読者がどんな奴かという話が好きなのだ。作品そのものを語る言語が発達していない。

舞台設定から社会的な枠組みが欠落しているという状態を定義するものとして、セカイ系という言葉を使用しているということだったようである。でもラノベなどのフィクションのストーリーでは、そういうものが欠落しているのは当然である。ラノベの作品の社会性を問うのは荒唐無稽です。

「セカイ」は重要である。
セカイの中にヒロインがどう組み込まれるかが問題。
重要なのはセカイの架空性である。
架空セカイをきちんと作れているかどうかが問題である。
通俗的な社会の中にヒロインを雑然と登場させてはいけない。

「最終兵器彼女」や「イリヤの空」や「エヴァンゲリオン」みたいなバッドエンドに向かうものだけが、架空のセカイを用いているのではない。バッドエンドに向かう問題と、セカイ設定の問題を混同しているのが、セカイ系の議論だった。

普通のハッピーエンドの作品でもラノベ的なものは架空セカイである。この現実世界とは別の法則で組み立てられた亜現実だ。

だいたいヒロインそのものは似たようなものなわけだ。フィクションの女の子はみんな可愛い。(容姿に関する描写がなくても、美少女だと推定しながら読んだりするわけです)。

ヒロインの魅力をキャラクター性として切り出して考えるのは間違いではないですが、的確ではない。たとえば二次創作的にヒロインを面白く使えるとすれば、それは元の作品がきちんと構築されているからだ。元の作品がつまらないのに、そのヒロインをうまく使おうとしても無理だ。つまりキャラクターだけ切り出して使用されているように見えても、実際は違う。

受け手のツボを付くのは、セカイの中でのヒロインの立ち位置なのである。ヒロインのポジションが物語として面白いかどうか、の問題。それを抜きにして萌えとかを語るのは基本的に不毛だ。

もちろんキャラだけ提示するような売り方もある。デ・ジ・キャラットとか。でもそれは、サンリオのハローキティ的な売り方だと思う。フィクションにおけるキャラクター性を説明する場合にデ・ジ・キャラットを引き合いに出すのは間違い。

セカイの中にヒロインがどう存在しているか。漠然とした日常世界に、何となく魔法使いの女の子がやってくるというのではダメである。セカイはフィクションの舞台としてきちんと構築されていなければならない。地球全体を舞台にするのも、主人公の身の回りだけの世界も同じことである。架空セカイとして、考え抜かれている作品が面白い。またセカイ設定の中に上手く組み込まれているヒロインだからこそ、キャラクターとして展開出来る。「キャラクターが魅力的」というのは、かなり雑な言い方であり、実際は作品世界がしっかり出来ているから、キャラクターが魅力的になる。

集団よりも個人が強いのがライトノベル

主人公やヒロインは、相手が五人とか十人でも、ちぎっては投げちぎっては投げ……ということでもいいのである。

あるいはラノベやアニメではなくとも、剣士が出てくる時代劇などでは、殺陣の場面で、数十人の相手を一人で次々と倒していくというのが見せ場として描かれる。現実なら、四方を取り囲んで一斉に斬るようにするはずだが、それはフィクションだとない。数十人が一人ずつ主人公に掛かってくるという効率の悪い攻め方をするわけだ。

あるいはロボットアニメでも、主人公の搭乗する機体が戦局を決定付ける。
まあこの場合は、雑魚として敵を全部倒すわけではなく、雑魚を倒す場面を挟みつつも、主人公機の勝敗が全体の勝敗を反映しているような錯覚で描いたりすることが多いかもしれない。

ともかく、どう描くにせよ、個人が集団より強いみたいなヒロイズムが根底にある。
一個人がスーパーパワーを持っていて、それが全体を左右する。

普通の小説とかドラマでは、個人は集団よりも弱いという前提で描かれる。勝てない者には勝てないという重苦しさからリアリティーを作っていく。漫画やラノベだと、そこからスーパーパワーに覚醒して……となるが、普通の小説やドラマではそうはならない。

要するに集団が強いという現実を、覆すかどうかという問題。
まあ強い個人が集団を雑魚扱いするのがアニメでは基本だが、やり過ぎるとつまらないなと思ったりもする。

恋愛をしないヒロイン

ツンデレというと、恋愛プロセスの中での状態変化として定義されることが多いようである。
これはツンデレの元祖が「家族計画」の高屋敷青葉であり、あの作品を念頭にツンデレを考えたりするからだろう。

だが高屋敷青葉から離れて言えば、ツンデレの一番の本質は、恋愛をしないタイプのヒロインなのだと思う。
キャラとして恋愛をしないということが重要なのだ。

「ツンデレと称されている類型の物語は昔からあった」という人がいるのですが、これは、普通のラブコメのことでしょう。ラブコメの場合、初期段階では主人公との恋愛がスムーズに進まないが(スムーズに進んだら物語にならないが)、恋愛そのものに否定的なヒロインというのは、あまりいないと思う。

「恋愛をしないヒロイン」がたくさん描かれるようになったのは、最近の現象だと思われる。
男の子向けの媒体にヒロインが出てきて、ヒロインが実質の主役で、主人公の男が脇役というのは、ラノベの発展とともにたくさん生産された。
そういうタイプの作品で使われるのが、「恋愛をしないヒロイン」なのである。

そういうのは、高屋敷青葉のような物語性を持っておらず、ツンデレとしてパターン化されている、というかですね。。。
普段のキャラが男を拒んでいて、時々気まぐれに優しさを見せたりするような。。
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