まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

物語の在り方スポーツ漫画はあまり体育会系ではない

当たり前と言えば当たり前なんですが、スポーツ漫画でモロに体育会系というものは少ないです。

上下関係が厳しいスポーツ漫画は少ない。
ないわけではないんだろうけど、リベラルな人間関係であることの方がずっと多いです。

指導者がものすごい厳しいスポーツ漫画も少ない。
いや、鬼教官的なキャラの監督が出てくる作品もなくはないけど、本当に怒鳴り散らしているだけみたいなのは、あまり見掛けません。

「巨人の星」は例外ですけどね。あれは親子の共依存を描いている漫画だから、普通の作品とは違うでしょう。
普通のスポーツ漫画で、運動部に入ったら星一徹みたいな監督がいるということは無いと思います。

フィクションというのは、ある程度現実のルールに従っていることが多いですが、物語効果が低いものはカットされます。

「厳しい上下関係」というのは、物語効果が低いですから、運動部を描く場合でもカットされます。
仮に厳しい先輩を描くとしても「スラムダンク」の赤木のように至ってまともな人物だったりする。
運動部にありがちな理不尽な先輩はあまり出てこない。

体育会系というのは、理不尽さの固まりだと思うんですが、(その理不尽さに慣れる神経がないと体育会系にはなれない)、漫画ではあまり描かれません。

もちろん「嫌なことを敢えて描く」という作品は必ずあるので、体育会系の理不尽さを軸にした作品もあり得るでしょう。

でも人気のあるスポーツ漫画の多くは、体育会系的要素を省いています。

懸命に努力するとしても、それは勝利に向かった合理的でピュアな努力なのです。
運動部的な人間関係に基づいた不合理なしごきはないわけです。
【2007/08/22】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方親子のライバル関係

物語で、主人公の少年に対して父親が敵対的なライバルとして登場することがあります。

こういうのについて色々考えたのですが、難しいですね。

「巨人の星」や「エヴァンゲリオン」などのエポックメイキングな作品で主人公の前に君臨する父親みたいなのは出てきますが、全体的には、そういうキャラは少ないかな、、とも思うのです。
印象深い一方で、必ずしもそういう作品は多くない。

たぶんお約束的なパターンではないと思うんですね。
こういう要素が無い作品の方がずっと多い。

とりあえず、思いついたことを書き並べておきます。


1,親が子供をライバルと見なすのは現実ではどうなのか?

たとえばJリーグのサポーターとかがチームの低迷に憤慨して座り込みとか抗議活動をしたりすることがあります。
もちろんこれは異常行動ですが、心情としてはわかるでしょう。
あなたが何らかのスポーツを応援しているとして、チームや選手が不甲斐ないと、ある種の敵対的な感情が浮かんでくることはあるはずです。
それを行動に移すと変な人になってしまいますが、応援している対象に反感を持つこと自体はよくあります。

応援したり期待したりすると、相手が活躍して思い通りになるわけではありません。
実際はその逆で、うまくいかないことが多いわけです。
だからイライラするのが自然です。

あるいは、子供を素直に応援するのがプライドに触るから、「敵対」することでプライドを維持するというのがあるかもしれません。
ともかく、親が子供に対して「敵意」を持つのは普通にあると思うのです。

(単に子供が嫌いという場合もあると思われますが、これはフィクションの材料にはならないでしょう)。

2,父親がライバルの作品はなぜ面白いのか?

主役と脇役の転倒があるから、だと思います。
主人公の人生にいろいろ食い込んでくるから。

応援する側が単なる脇役ではなく、ある種の主役になると面白いのです。

親が子供のライバルになろうとするのは、ある種の主役として参加しようという願望です。
子供の人生の脇役に飽きたらず、主役の一人になろうとする場合、その方法のひとつが「ライバル」になることです。

「エヴァンゲリオン」の場合は、父親だけではなく、周りの大人たちも、主人公の人生に深く関与してきます。
14歳の少年に大人が群がって食い込んでいくところが面白いんでしょうね。

もちろん現実ではある種の異常行動です。
でもフィクションなら面白いのです。

主人公に対して親がライバルとして君臨するような「他人の人生への参加の仕方」が、読者が作品に感情移入する構造にフィットするのです。
子供が主役で、その主役を食うような存在として親がライバルとして登場すると、(フィクションとしては)面白いのです。
【2007/08/19】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



雑記伊達杏子はなぜダメなのか?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070817-00000048-spn-ent

まだ懲りないんですね。伊達杏子。

世界初のバーチャルアイドル、伊達杏子(年齢非公表)が、6年ぶりに芸能活動を再開することになった。17日正午から、インターネット上の仮想世界「セカンドライフ」のDEJIMAライブスペースで、チャットイベントを行う。

伊達は大手芸能事務所ホリプロがネット上にデビューさせ、1990年代後半から2000年にかけて、CD発売やラジオ、大学のネット講座のナビゲーター役などで活躍。01年から充電期間に入った。セカンドライフの出現などネット環境が急速に発展したことから、活動再開となった。

伊達は「やっと時代が私に追いついた!?って感じです。久しぶりのお仕事なので緊張気味です」とコメント。イベントは、事務所の後輩の谷澤恵里香(16)のDVD発売記念。


伊達杏子はそもそもデザインがダメすぎですが、それは本質ではありません。
テライユキのように、デザインだけは可愛いバーチャルアイドルも含めてダメなのです。

たとえばオリエント工業さんのドールのようなデザインだと想定してもいいですよ。

↓参考
http://www.orient-doll.com/gallery/petit.html

こういう可愛いドールとしてデザイン出来たとしても、、苦しいと思いますね。

どうしてでしょう?

やはり世界観が確立されていない気持ち悪さですね。

世界観から言葉が紡ぎ出されてくるものではないから、その時々で裏のおじさんがセリフを考えているというイメージがしてしまうわけです。
本当はキャラクターというのは、語らずとも言葉がイメージ出来なければいけないのです。
(たとえばローゼンメイデンのキャラがどういうことを言いそうかというのは、イメージ出来るでしょう)。
伊達杏子やテライユキにはそういうキャラクター性が無いのです。
場当たり的に裏のオジサンがセリフを考えているというイメージが気持ち悪いのです。
【2007/08/17】 | 雑記 | トラックバック(0)



雑記「攻殻機動隊」絶賛で吉野紗香さんのブログ炎上

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070815-00000924-san-ent

芸能人には興味がないので、この人が誰だが知らないのですが、一応取り上げてみましょう。

8月15日20時19分配信 産経新聞

タレント、吉野紗香さん(25)が自らのブログ「吉野紗香の黄色いお家」で人気映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」について書き込みをしたところ、批判的なコメントが殺到。謝罪に追い込まれたことが15日、分かった。

炎上したのは、8月5日の書き込み。1995年公開の同映画を最近観たという吉野さんが、「こんなに魅了された映画は初めてでした。(中略)本当に本当にかっこいい!!本当に本当におもしろい!!そして芸術的で奥が深くて繊細で完璧でした。。」と大絶賛した。しかし、その後に続けて「もし実写で映画化される事なんてあったら、是非是非、主人公の草薙素子を私がやりたいです!!その為にも今から肉体と精神を鍛えねば!!」とコメント。女優としての素直な意気込みを語ったようにも見えるが、これがネット上で集中砲火を浴びた。

批判の主は、大半が同作品や登場人物を高く評価する“アニヲタ”や熱心な「攻殻ファン」とみられ、「オタクに媚びて仕事を得ようという魂胆が見え見えです。自分が素子を演じられるキャラかどうかぐらい分かるはず。ふざけるなと言いたいですね」「自分のことを何もわかってないんですね。驚きました」と、吉野さんに演じる資格がないとばかりに言いたい放題。また、吉野さんが同作品を「アニメーションですが、あえて映画と言わせて下さい」と紹介したことも、「アニメを見下してる感がプンプンします」などと火に油を注ぐ結果となった。

一方で、「個人のブログで、夢を語るのもいけませんか?」「大半のオタはこんなことしないのに、オマエラのせいでオタクが嫌われる対象になってんだよ」と吉野さんを擁護する立場からのコメントも書き込まれた。

これを受け、吉野さんは12日の書き込みで「私の浅はかな日記から不快な思いを多くの方々にさせてしまい大変申し訳在りませんでした。(中略)映画を観て感じたままの興奮に身を任せて日記にしてしまいました。」と謝罪した。

ブログの炎上といえば、非常識でモラルに欠ける言動を披露したり、特定の個人や集団を中傷したりする際に起こるケースが多い。確かに、吉野さんのブログでも、発言を「非常識」とみなすコメントが目立った。しかし、今回のように鑑賞した作品を絶賛する書き込みが批判の対象となるのは異例といえる。芸能人がブログを書くのはいまや珍しくないが、何がきっかけで炎上するか分かりにくいブログ特有の危うさを改めて露呈した格好だ。


この記事だと、派手に炎上しているような印象を受けますが、実際はそれほどではありません。

↓また震源地は「痛いニュース」だと考えていいでしょう。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1014629.html

2ちゃんねるでものすごい話題になって、、、というよりは、「2ちゃんねるのスレが痛いニュースで取り上げられて盛り上がった」ということだと思われます。

突撃したオタクに問題があるのは言うまでもないですが、アニメに限らず、マニア的な連中がいる分野に関してはコメントを慎重にした方がいいですね。
知識自慢系の人の前で中途半端なことを言うと、ものすごい反発を食らうことがあるので。。。
実用性のない知識を持っている人ならではの恐ろしさというのがあるわけです。
彼らは初心者的な言動にかなり噛み付きますから。
【2007/08/16】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方泣かせる作品は評論家受けが悪い

泣かせる作品というのは、一般読者的な受けはいいはずですが、評論家タイプの人は否定的な反応を示すことがあります。
ここで言う「評論家」とは生業が評論業だという人に限らず、そういうスタンスで読む人という意味も含みます。
小説を読み慣れていると、どうしても評論家的になるでしょう。

十代の読者とかだと、泣かせる作品はすごい素直に読んで泣くかもしれません。
でも、ある程度の年齢になると、そういう作品には否定的な反応を示すようになったりする。

このあたりは何とも言えません。
シニカルな評論家視点で読む人間はウザイという言い方も出来るでしょう。
でも、そういう視点で読む人が多いのも確かです。
また泣かせる作品は安直であることが多いのも否めないかと思います。

ともかく、泣かせる作品というのは、すごいベストセラーになったりすることもありますが、冷たい目で読まれることもあるわけです。
(冷たい目で読まれて終わりということの方が多いでしょう)。

泣かせる要素を入れるのは、物語にとってプラスになるとは限りません。
下手にそういう要素は入れない方がいいという場合も多いのです。
【2007/08/14】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



評論「デスノート」



読んだことないひとはあまりいないと思いますが、万が一未読の人は以下の文章を読まないでください。


さて。

最初から犯人がわかっていて、その犯人が捕まらないように見守るサスペンスなわけです。
ある種の古典的な手法であり、映画だとよくありますが、漫画だとわりと珍しいかも。

特に前半は主人公が捕まらないように願いながら見る。
中盤でLが死んでから、ちょっと迷走している気がします。
主人公の妹が誘拐されるあたりは、とても通俗的なサスペンスでいただけません。
これは無理矢理話を続けようとしたからかな。
Nを後半に出してから、キャラが立つまで、少し時間が掛かりました。
終盤の方になると持ち直してきて、前半の頃のような面白さになったと思います。
(最後の方は、主人公が負かされるのを期待して見る感じでしょう)。

この作品は葛藤を描きませんね。
普通、こういう風に、「他人を殺すことも出来る」なんて道具があれば、ある種の葛藤を描くことが多いわけです。葛藤した結果、寸止めで殺さないとか。ギリギリのところで止めたりするわけです。
でも、この作品の場合、最初からあっさり次々と殺めています。
ある意味新鮮だと言えるでしょう。

あと、主人公にトラウマがない。
たいていこういう作品だと、主人公が世の中を恨んでいたり……、という類の背景があるものですが、それがありません。
「本当に人を殺してもいいのか」という禅問答が繰り返されることもありません。

道具の使用を(使用される前に)阻止するという話ではないのです。序盤から思いっきり使いまくっている。
コロンブスの卵と言えばいいんですかね。



あと、話は変わりますが、ノートにルールがあるのがいいです。
何らかの能力があって、それが万能に使えてしまうとなると駆け引きが描けない。
制限を加えることで、駆け引きを上手く描けています。
「カイジ」みたいな感じと言えばいいのか。
この「デスノート」は「カイジ」的な駆け引きを劣化コピーではなく上手くやれた作品だと思います。


「デスノート」が興味深いのは、超常現象を出しながらもサスペンスが出来ていることです。
普通、超常現象があるとサスペンスはやりづらいと考えてしまう。
超常現象は「何でもあり」の印象があるから、謎解きが成り立たないと思えるわけです。

「デスノート」は「ノート」という固定的なものにしたことで、「何でもあり」の状態を回避出来たのかもしれません。
仮に「ノート」というアイテムを使わず、死神を呼びだして殺すということだったとすると、曖昧な感じになってしまうはずです。
いや、死神を呼び出しても、その死神が限定的なことしか出来ないということにすればいいんでしょうけどね。
逆に言えば、ラノベとかで魔法使いの女の子が出てくる場合とかは、何が出来るかが大雑把だからサスペンスが成り立たないのかもしれません。
「デスノート」みたいに、限定的なことしか出来ないということにしておけば、サスペンスが成り立つのかも。

ラノベだと、「ある限られたことしか出来ない」と縛りを設けるよりは、奥の手が次々出てくる感じのことが多いですからね。
でも、それはそうしないといけないというわけではないはずです。
「ごく限られた能力しか使えない」としても、違和感はないと思われます。
そういう作品が増えた方が、面白いと思いますね。
(宮部みゆきの作品でも、限られた能力しか使えない超能力者みたいなのが出てきて、サスペンスが成立してますからね。能力を限定すればサスペンスは可能なのです)。
【2007/08/13】 | 評論 | トラックバック(0)



レビュー「Alice」川崎康宏



文体は、作者の視点から登場人物を眺めて描写するというラノベ的なものです。
ラノベを読み慣れていないと、読みづらいと感じるかも。

舞台は架空のトーキョーです。
現実の東京とは全然別のルールで動くトーキョーを描くわけです。
コミカルなSFと言ってもいいかな。
亜現実な設定をちゃんと作っているのはよいです。

ストーリーは今ひとつです。
世界設定は細かく練っているんだけど、ヒロインが戦う動機が今ひとつピンと来ない。
漠然と戦闘が行われているだけという印象です。

単純な問題として、
・「掴みが弱い」
・ヒロインがキャスティングボードを握っていない
ということが言えます。

ヒロインの立ち位置が曖昧です。
乱雑なトーキョーの中に、漠然と存在しているだけ。

何となく面白いんだけど、ストーリーの中でヒロインの重要性が乏しいのが問題です。
【2007/08/13】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「セルロイドヘブン」くげよしゆき



基本的に文章は巧いです。
ラノベの場合、文章が下手で読んでいて辛いということがよくありますが、この作品は、そういう問題はありません。

作品の設定だけ見ると暗い作品に思えますが、非現実的なので、身に迫ってくるような嫌な話ではありません。

舞台は19世紀のヨーロッパみたいなイメージで、魔法とかそういうものは出てきません。

貴族に飼われている少年の話……ですね。

ストーリーに関しての評価は難しいです。
特にどこがおかしいというわけではなく、オーソドックスに書けてますが、今ひとつという印象。

初期段階での設定がよくないと、その後のストーリーをどう切り回してもダメということなのかもしれません。
出来の悪い作品というわけではないですが、初期設定で奇を衒ったのが全然効果的ではなく、むしろ物語としてマイナスになってますね。
やはり設定がよくない。

いっそのこと鬱な話に徹すれば、まだ初期設定が生きたのかも。
ダークな設定でハートウォーミングに書こうとして、どっちつかずになってしまったという印象。
【2007/08/13】 | レビュー | トラックバック(0)



物語の在り方「性格が恐い女の子」を描く場合、恐い根拠は無い方がよい

ヒロインを「恐い性格」だと設定することがあります。
(必ずしもヒロインで無くてもいいです。ヒロインに準ずる女の子でも)。

その場合に、本当に恐ろしく描く必要はないのです。
というより、描いたらダメでしょう。
具体的にヤバイ理由を列挙して、「(常識的に考えて)こんな奴には近づきたくない」というのではダメです。

つまり○○をやっているとか××をやっているとか、本当にまずいことをやらせる必要はないのです。
ろくに根拠もなく怖がられているとした方が可愛くてよいです。
(あるいは、洒落になるレベルの「可愛い悪事」をやらせて、それが恐いということにするか)。

青年誌の男主人公とかだと、洒落にならない悪事を次から次へとやらせてキャラを立てるということもありますが、女の子の場合、それをやると単なるアバズレになってしまう。
ヤクザの情婦みたいなのを描写したいならそれでいいですが、ラノベやアニメで魅力的な女の子を描く場合、「恐い」という設定にしても、本当に恐くてはいけないのです。
男キャラの場合、不良行為でキャラが立つこともあるが、女キャラの場合、単なるマイナスなのです。

これは現実でもある程度そうです。
男が不良行為をやるのは、必ずしも壊れることではないが、女の子が不良行為をやると、それは壊れたということです。
ヤンキー系の壊れた女の子は、ヤンデレのキャラとしてもよくないです。


何の根拠もなく、ヒロインのことを周りがやたらと畏れている状態が描かれると、「なんでこんなに恐れる必要がある?」と言いたくなることもあります。
でもそれはそれでいいのです。
恐怖する具体的な理由が無く、それでも「性格が恐い」ということの方がいいわけです。
(前述したように、「具体的な理由」がヤンキーっぽい内容だとダメだということです。楽しめるような理由ならよいのです)。
【2007/08/08】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方作品世界は本質的に架空でなければならない

普通の小説などでは話は違うと思いますが、アニメや漫画やラノベなどにおいては、作品世界は本質的に架空でなくてはなりません。

わりと現実世界に近い設定で描かれていても、架空である必要があります。
常識が働いてはダメということです。

「常識的に考えれば、現実でこういうことはないよね」みたいな判断があってはいけません。
作品内で違和感がなければいいのです。
(作品内で違和感があるようなことはダメですよ。あり得ないことを描いてもフィクションとして上手くはまっていればいいということです)。

たとえば福本伸行の「カイジ」の設定で言えば、実際に債務者にあんなことをやったら捕まるでしょう。
でも、それは考えなくていいのです。
「債務者にこんな強制労働みたいなことをさせたら捕まるから『カイジ』は破綻している!」ということはないわけです。

逆に、仮に「カイジ」の中で、「このゲームでの、この戦略は間違いだろう」という部分があれば、それは作品として破綻していることになります。


漠然とした現実世界の中に登場人物を放り込んではダメなのです。
舞台が架空セカイとして練られていなければならない。
その架空セカイは現実世界の常識を超越していても構わないのです。
(というか、超越した方がいいのです)。

よく出来ている作品は、舞台が架空セカイとしてよく出来ているのです。
よく出来ていない作品は、舞台が漠然としているのです。
【2007/08/03】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方物わかりのよい女の子はヒロインに向かない

ヒロインは状況全体が見えていてはダメだと思うのです。

全体の状況を把握して、自分の立場をわきまえてくれるような「いい子」はヒロインには向きません。
聞き分けがない女の子の方がキャラが立つという単純な問題。
周りが常識的な説得をしようとしても、それに応じない方がヒロインにふさわしいのです。
ヒロインがあれこれ配慮して常識的に行動すると、状況が中和されてしまいます。
自分のことだけ考えて動いてくれた方が、ストーリーとして面白くなりやすい。

もちろん性格がいいヒロインだってたくさんいますよ。
言いたいのは、意外と少ないということです。

性格が優しくて物分かりがいい女の子は男の理想のはずですが、そういう女の子をヒロインにすると、ストーリーとしては面白くなくなってしまうかもしれない。
フィクションとしては、我が儘な女の子の方がいいのです。

宮崎駿の作品などは、わりと物分かりがいい女の子が多いので、そういう作品が絶対にダメだということはないでしょう。

性格のいい女の子にするとしても、あまり全体状況は見えてないことにした方がいいと言えばいいのか……。
周りがあまり見えていない方が、男からすれば異物である女の子の可愛らしさがある、と思います。
女の子が周辺状況を常識的に妥当に理解してしまうと、女の子の不思議さみたいなのが無くなってしまう。
(現実だと、女の子の不思議な部分が厄介なのかもしれませんが。フィクションではそれが面白いのです)。
【2007/08/01】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



ネット社会Googleが無かった頃

Googleの日本法人が出来たのは2001年8月だそうです。
Google自体が日本語に対応し始めたのは、これよりも前のはずです。
2000年のいつからか……。ちょっとあやふや。
ともかく2001年あたりから、日本では多くの人がGoogleを使い始めたわけです。

Googleが登場するまでは、ロボット型検索エンジンの質は極めて低かったです。
検索語を分解してしまうものが多かったのと、何よりも、検索精度が悪い。
Googleに較べたら、極めて使いにくいものでした。

だから、Yahoo!のカテゴリーに登録されることが重要だったわけですが、そう簡単に登録されるものでもありません。
Google登場以前は、個人サイトのリンクから辿ってネットを巡回することが多かったです。
前述したようにロボット型の検索エンジンが機能してませんでしたから、個人サイトのリンクの方がよいサイトを見つけやすかったのです。
公式サイトしか見ない人だと、また別の話になるでしょう。
個人サイトは検索エンジンから探しづらいから、リンクで繋がる関係だったということです。

Googleでそれが変わりました。
もちろんGoogleというのは、被リンクでページランクを作るものですから、Googleの検索結果は、リンク関係の反映です。
でもそうであっても、「Googleから検索して見ていく」のと「個人サイトのリンクを辿る」というのでは、かなり感触が違います。
最近柱リンクを作る人が少なくなった原因は色々ありますが、そういうリンクに実用性が無くなったというのも理由のひとつでしょう。

Googleが無い頃は、ネット全体が見えづらく、手探りでたどれる範囲内のものが世界でした。
ある種の全能感に満ちあふれた世界でしたから、ネット番長的なキャラの人が多く、あるいは暴れ回る人の粘着度もかなりのものだった気がします。
中学生にとって中学校が世界のすべてであるような感じです。
最近だとネット番長的な人はかなり減ったと思います。

あるいは、そもそもキャラクターを前面に出してサイトを運営する人はかなり減ったと思います。
(「知名度の低い有名人」がやっているブログは別です)。

個人サイトのリンク関係があまり重要でなくなったのは、2003年あたりからブログが普及したのも大きいです。
2003年あたりだと、ブログを始めるだけで、Googleで上位表示という感じでした。
これによって他サイトからリンクを貰うための様々な行為に意味が無くなり、個人サイトの関係もバラバラになったという気がします。

最近はブログの数も多く、また検索エンジンもブログ対策はしてますから、「ブログにするだけでSEO効果がある」みたいなことはありません。
でもブログ登場以前に較べれば、今でもなお、他人に読んで貰うのは容易です。
(昔は読んでもらうこと自体が大変だったのです)。

新しいものが導入されると、アクセスの流れ方が変わって、それでサイトの在り方も変わるというのは面白いところです。
当たり前と言えば当たり前ですけどね。
【2007/08/01】 | ネット社会 | トラックバック(0)



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