まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

物語の在り方ギャンググループ(漫画)とピアグループ(ラノベ)

児童心理学で、ギャングとかピア(peer)という言葉を使って友人関係を説明することがあります。

ギャングとは、言葉の通りで、徒党を組んだりするような排他的友人関係のこと。
ピアというのは、趣味で繋がる内面的な友人グループみたいなものですね。

人間は小学二年生くらいまでは、必ずしも決まった友人関係は作らない。
小学三年生くらいから「ギャングエイジ」と呼ばれる排他的グループを作ったりするようになる。
(とりあえずギャングエイジという場合、それは小学三年生から小学六年生を指します)。

基本的に人間はギャング的人間関係からピア的人間関係に移行していくことが多いとされます。
(そしてこの過程で出来る少数の親友のことをチャムと呼びます)。

実際は、みんな揃ってギャングからピア(趣味・文化的友人関係)へ移行するわけではありません。
ずっとピアな人もあれば、ずっとギャングな人もいるでしょう。
ギャング的人間関係を作りたがる人は年齢を問わずどこでもいます。

ただ傾向として言えば、ギャングからピアへ移行するのです。
中学生と高校生の人間関係を比較した場合、中学生はギャンググループが多く、高校生はピアグループが多いというのは(傾向として)あります。


ラノベと漫画を比較すると、漫画では明らかにギャング的人間関係が好んで描かれます。
逆にラノベではピアグループが描かれます。

ラノベではクラス内に権力関係がないのが普通です。
少し変ではあるんですが、でもピアグループ自体は高校生の在り方として一般的なのです。
高校生くらいになると、序列関係やギャング的発想は薄まることが多いです。
ラノベはみんながピアグループになった理想的状態を描いているのかもしれません。
【2007/12/30】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



雑記要領がいいのは理想的なのか

リアルとフィクション半々くらいのエントリーです。

現実において。
「要領がいい」というのは、あまり理想的だとは思われていません。「要領がいい」というのは褒め言葉ではないし、「要領がいい人物」というのは理想的な在り方だとはされていない。
不思議なことです。
要領がいい方が人生に於いて得なのに、なぜか理想的だとは思われていない。
親が子供を理想的に育てようと考える場合、「要領のよさ」を否定するような気がします。親が頑張って「要領のいい子供に育てよう」というのはないわけです。
(というか、要領がいい人は親から放任されているのが普通です)。

要領がいいか否かというのは、だいたい小学生くらいで決まっています。
20歳くらいで要領のいい若者がいるとします。この場合、彼は子供の頃から要領がよかったはずです。経験によって成長する余地がないとは言わないけど、わりと子供の段階で決まっていると思います。要領がいい奴は小学校の頃から要領がいい。

要領のよさを「判断力」として考えるのは適切ではない気がします。
なぜなら性格の問題だから。
囲碁や将棋の手順の問題ではなく、性格的にどういう選択をするかの問題だと思うのです。


さて、フィクションに話を移します。
フィクションでも、要領がいいのは嫌悪されています。
主人公は愚直であることが求められる。漫画だと、主人公は「漫画的な馬鹿」であるのが求められたりするわけです。
(頭が悪いというのではなく、愚直な選択をするわけです。損をするとわかっていても)。

ラノベで「中二病作品」と称されるものがありますが、これは主人公が愚直でない作品のことです。「自分は利口」みたいな自意識を主人公が持っていると中二病と呼ばれるわけです。
私たちは主人公が愚直であるのに馴染んでいますから、「利口な主人公」というのには違和感を憶えるのです。

この場合の愚直か利口かというのはキャラクターの問題です。
たとえば「カイジ」において、カイジがどれだけ天才的なひらめきを示しても、彼は愚直の極みなのです。
「カイジ」の愚直さを批判する人を見たことがありません。
「カイジって馬鹿じゃん!」というような批判を見ることはないです。
逆に主人公が利口みたいな中二病作品だと、生理的嫌悪を示す人が必ずいます。

どうして人間は利口な選択を嫌うのだろう、というのは興味深いです。
(正確に言えば、理想を求める場合に、利口さを嫌悪するということですね)。
【2007/12/29】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方ラノベでは女子大生がヒロインだとダメなのか?

ライトノベルにおいて女子大生がヒロインというのは少ないです。
(ラノベ以外の小説では避けられていません。女子大生がヒロインなのは普通です)。

なんでラノベではヒロインが女子大生だとダメなのか?
単純に言って女の子の魅力のピークが16歳か17歳くらいだと思われているから。
そういう認識が(異常な)ロリコンなのか、それとも正しい認識なのか、というのは難しい。
ラノベの場合、読者の年齢層が中学生から大きなお兄ちゃんまで幅広いので、何とも言えません。

それ以外の理由を考えると。。。

女子大生というと、垢抜けた存在という固定観念があります。物語に女子大生が出てくるなら、垢抜けた存在にしなければならない、と思われている。特にアニメやラノベに女子大生が出てくると、ステレオタイプに垢抜けた存在だったりする。

ライトノベルは基本的にイノセントなヒロインを描くことを目的としており、大学生の垢抜けた感じは好ましくない。

・女子高生はイノセントな存在
・女子大生は垢抜けた存在

というのがラノベ的お約束です。

あくまでイメージの問題です。人々は女子高生にはイノセントさを夢見ると。現実にイノセントであるかどうかはどうでもいいのです。イノセントな理想を描きやすいかどうかという問題。
逆に女子大生だと、イノセントさを期待しない。そういう構造なんですよ。現実の女性の個人差など問題ではないのです。作者や読者が共有している幻想の問題が重要であり、現実にどうかなんて問題ではない。

あと、大学というのが、ラノベの舞台として好まれないのかもしれません。高校だと様々な義務に縛られているけど、大学だとそうではないので物語が作りづらい?

大学生を出すからには、大学生活を謳歌しているみたいに書かないといけない固定観念があるのかもしれません。「大学生活の楽しさ」を中心に据えても、物語的に面白いかどうか。平均的な大学生を考えた場合、「垢抜けて青春を謳歌している」かどうか疑問がありますが。

男性主人公が高校生であることが多いから、相手が女子大生だとまずいというのがあるのかも?
でも高校生くらいだと、女子大生に憧れたりするような気もするんですが……。
ヒロインが主人公より年上というのは、わりと基本を外した話とされますよね。いやテンプレとして「年上ヒロイン」は確実にあるんですが、それはあくまで基本を外して狙っているのだと思うのです。

【2007/12/28】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方ヒロインのわがままは聞かなくてはならない

ライトノベルだと、ヒロインがわがままをいうことがあります。

ヒロインのわがままは聞かなくてはならない。
一時的に喧嘩することはあっても、本格的に「愛想を尽かす」のは許されません。

読者として作品を読んでいて、「もういいよこの女。主人公も見捨てろよ」と思うことがあるかもしれません。
そういう読者は脱落すればいいのです。
物語が続いていくためには、ヒロインのわがままを聞く必要があるのです。

わがままを言わないヒロインというのも、ある意味困ります。
わがままによる存在感というのがあります。
ヒロインの物分かりがよいと、物語が平板になってしまう。

「女は現実的」という言い方があります。
これは通常、女は現実的な判断をするという意味のようですが、実際は女が現実そのものなのです。
女がブランド物を欲しがったら、ブランド物には現実的価値があるということです。

ヒロインがわがままを言ったら、それは叶えないといけないものであり、物語の中の目標として設定されるわけです。
女が設定した目標は現実そのものです。
わがままだからこそ、重力としてのし掛かってきます。
フィクションの中の目標設定として「ヒロインが要求したから」というのは物語効果が高いのです。
(これは古典的な物語でも結構あります。お姫様の要求を叶えるために男が競うみたいな)。
【2007/12/26】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方幼少期のトラウマ話はOK(母子葛藤はNG)

登場人物にトラウマを設ける場合、幼少期に虐待されていたというのがいいようです。

・明らかな虐待でなくてはならない。
・10歳未満の幼少期のことでなくてはならない。

中途半端に色々傷ついたというのは、駄目かもしれません。
親子関係の葛藤などは駄目です。特に母子葛藤はNGのはず。漫画、ラノベ、アニメの類で母子葛藤というのは、ほとんど見掛けません。絶対にないわけではないんだけど、明らかに避けられているテーマです。

日本社会だと、母親との葛藤関係はすごいありがちなはずです。
お母さんの言いなりになっていれば面倒を見て貰えるという微温的な支配。
これはフィクション以外の話題としても避けられますね。ともかく書いてはいけないテーマです。(母親から明確な虐待を受けていたというのならいいが、共依存的な支配はNGということです)。

昨年の電撃大賞最終選考落ちで出版された「嘘つきみーくん、壊れたまーちゃん」は幼少期の虐待話で話題になりました。私はこの作品嫌いなので、あんまりまともに読んでいないんですが、絶賛している人を結構見掛けます。
「なつき☆フルスイング」(銀賞)も幼少期の虐待話です。こちらはかなり陳腐です。「嘘つきみーくん」がエキセントリックな方向を目指した作品だとすると、「なつき☆フルスイング」はベタなトラウマ話です。
「ミミズクと夜の王」(大賞)は現在進行形での話なので扱いが難しいが、虐待話なのは確かです。
「扉の外」(金賞)には母子葛藤話が少し出て来るんですが、母親は登場しません。仮に本格的に書いていたらNGだったかも。「扉の外」は隠喩として巧く描いているので、そのあたりが評価されたと思います。(そもそも「扉の外」はゲーム的な部分がウケたのであって、母親云々の部分は蛇足ですけどね)。
「世界平和は一家団欒のあとに」(金賞)に関しては、過去のトラウマが出てきますが、これは虐待とは無関係なので、典型的なトラウマ話とは言えません。

幼少期に明らかな虐待でトラウマを負うのは、物語的にはOKのようです。
というか、明らかな虐待でなければならないのです。
親子関係の葛藤だとNGです。

親が子供の面倒を見ながら支配するというのが一番ありがちな問題ですが、それを書いてはいけない。面倒を見ながら支配するみたいな日本的母子関係はNG。
単純に言えば、「甘えている」という批判を排除するために明確な虐待行為として描かなければならないのです。
【2007/12/25】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方ラノベ設定における「集団は雑魚」と「集団の圧力」

ライトノベルとかアニメとかで。

ヒロインを突出したパワーの持ち主にして、「集団は雑魚」みたいな作品はよくあるわけです。
特にヒットしている作品には多いでしょう。

でも物語としては、「集団の圧力」みたいなのを描いた方が緊迫感があります。

つまり、

・「集団は雑魚」の爽快感
・「集団の圧力」の緊迫感

どちらを機軸にすればいいのかという問題。


個人が強くて集団を蹴散らしていくみたいな作品はウケることはウケるし、ヒット作もたくさんあるんだけど、大雑把になりがちかも。

主人公(そして仲間のヒロイン)が特別な力を持っておらず、個人の力の限界と言えばいいか、集団の圧迫感がある方が、物語としての緊迫性は出ます。

どちらがいいのかと言えば、「集団は雑魚」の類型の作品の方がヒットしやすい。
こっちの方が明らかに好まれてはいます。
(ただしありがちなパターン過ぎるので、新人賞では好まれない)。

「集団は雑魚」でありながらも、所属している組織には従わされるみたいな話も多いですけどね。
古典的な作品で言えば、「機動戦士ガンダム(初代)」なんかは、突出した力を持ちながらも、集団の中のちっぽけな存在でしかないというのを両立して描けているかも。

少年漫画とかだと、主人公にとって「集団は雑魚」であり、しかし強力なライバルに圧倒されるみたいなのが多いですね。
ラノベの場合、男性主人公が形式的な主役でヒロインが実質的な主役であることが多いので、ライバルの配置が難しいですけど。
【2007/12/24】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「ゼロの使い魔」13巻を読んだ



「ゼロの使い魔」は個人的には一番好きなラノベと言ってもいいんですが、最近の手抜きっぷりにはうんざりしていました。

「ゼロの使い魔」は第七巻と第八巻がすごい面白くて、その頃は絶賛していたんですが、第九巻から第十二巻までの流しっぷりは酷すぎます。
話を進めて破綻すると困るからどうでもいい話で巻数を稼ぐというのは人気作品にありがちだけど、四巻連続でゆるいとさすがに……。


今回の第十三巻でようやく物語は動き始め。
今までみたいに手抜きで流せない感じのシリアスな展開にしたところで「十四巻に続く」となりました。

どうなんでしょうね。

今回だけでは何とも判断できません。
この第十三巻でようやくストーリーが動き出したという感じなので、評価は次の第十四巻を読んでから。
【2007/12/23】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記強力なヒロインを設定するのは看板作品の特権

強力なヒロインを設定するのは、大ヒットする作品の特徴です。
でも、普通の作品でそれが許されるのか、というと難しいのです。

電撃文庫の「灼眼のシャナ」が大ヒットしていても、電撃の新人賞で「灼眼のシャナ」みたいな作品は見掛けません。
異能者ヒロインがスーパーパワーを行使するというのは、大ヒット作品の特徴ではありますが、新人賞でそういう作品は意外と見掛けない。
(プロの人が売れ筋のパターンばかりを書くので、新人賞では別のものをという考えなのかもしれないです)。

異能者ヒロインが多大な力を持っていたりすると(つまりパワーバランスを破壊するようなヒロインがいると)散漫な話になりがちです。
300ページの小説があるとして、その300ページの中で鮮やかに完結して大団円とはなりづらい。

物語を
・キャラ優先
・設定優先
に分けるとします。

明確に分けるのは難しいんですが、ある程度分けられます。

ヒット作の特徴はキャラ優先。典型的なキャラクター小説です。
でも新人賞とかになると、設定優先の地味な作品が選ばれやすい。
設定優先の作品も一応キャラクター小説ではあるんですけど、キャラ優先の度合いの問題ですね。
やっぱり設定優先の作品の方が、物語構造として、よい作品なのです。
強力な力を持った異能者ヒロインを中心に据えるような作品は、物語として評価が低いかもしれません。

語弊のある言い方になりますが、キャラ優先のヒット作が魅力的に感じるのは、売れているからかもしれないのです。
売れていない作品なのに、キャラ優先で書かれてもどうなのか、というのはあるわけです。

もちろん大ヒット作も、出した瞬間から売れてるわけではないですが、売れ線を狙っているわけです。
売れなかったら評価されない部類の作品になってしまうのではないかと。
設定優先できちんと書けている作品は、たとえ売れなくても「よい作品」なのです。
キャラ優先の作品で売れないのは、散々プロデュースして失敗に終わったアイドルのようなものです。
【2007/12/23】 | 雑記 | トラックバック(0)



ネット社会ブログが叩かれていた頃

2002年頃に東大の人が、ブログを普及させようみたいなことをやって叩かれていたことがあります。

多くの個人サイトの人たちが、「俺達を無視するな」とボコボコに叩いたのです。
でも、今ではブログが圧倒的に普及しています。


当時の議論の詳細はよく見てませんが、ブログのSEO効果の高さを指摘している人はいなかったはず。
絶対に無かったとは言い切れないけど、多くの意見は「日記システムは昔からある」みたいなものでした。
「さるさる日記がすでにあるじゃん?」みたいな意見。

ともかく2003年とか2004年あたりになると、ブログのSEO効果の高さがネットの勢力図を変えました。

・既存の大手サイトの人は、被リンクを失いたくないので今までのところに留まる
・アクセス数が今ひとつのところは思い切ってブログに切り替え

みたいな感じですかね。

既存の大手はわりと頭打ちになり、ブログに切り替えたところの方がアクセス数を伸ばした感じかと思います。

2002年の段階ではトラバとpingが強力だとは思われていませんでした。
検索エンジン的にブログが有利だとも思われていませんでした。
(現在だと検索エンジン的にブログが有利とは言い切れませんが、2003−2004年あたりは確実に有利でした)。

人間関係的にリンクを維持するみたいな発想が昔は強かったんですが、現在ではそういう発想はほとんど無くなっています。

ブログの一番の革命はリンク関係を変えることだったのです。

2002年当時、それを指摘している人がほとんどいなかったというのが興味深いです。
【2007/12/23】 | ネット社会 | トラックバック(0)



物語の在り方正義と善行は違う

フィクションで正義を描くという場合、それは善い行いを繰り返すことなんでしょうか?

お婆さんを背負って歩いたり、環境問題に取り組んだり。
(環境問題に取り組んでいる人が本当に立派な人なのかというのは置いておきます)。
ともかく普通の意味での善行とか立派な行いをするのを描くことでしょうか?

フィクションの正義はそういうことではないですね。
結論から言えば、「屈辱を晴らす」ということです。

特に漫画だとそうです。

屈辱を受ける→屈辱を晴らす

の反復だけで物語を動かしている作品が多いのです。

漫画の主人公は毎週毎週何かで屈辱を受けては、それを晴らすのです。
この場合の屈辱は自分自身のものとは限らず、仲間その他も含みます。あるいは赤の他人の屈辱を晴らす方が正義の味方っぽいかも。
逆にラノベだと、「屈辱を晴らす」ことを動因にしている作品は少ないです。
「屈辱を晴らす」というのは、カタルシス構造を作るのに一番強力な方法なので、このあたりが漫画の面白さということかもしれません。
ラノベでは腕力コンプレックスや生徒間ヒエラルキーの話題は避けられることが多く、主人公が屈辱感を感じることも少ないですね。
【2007/12/22】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方遺伝子操作をする話は意外と少ないような気がする

ラノベやアニメなどの設定で。
遺伝子操作が使われるのは意外と少ない気がします。

「ガンダムSEED」のようなヒット作もありますけどね。
設定として、遺伝子操作は避けられているような気がします。


理由としては。。。

(1)誰でも思いつくから。
遺伝子を操作された人間が主人公みたいなのは誰でも思いつきそうなので、回避されるのかもしれません。
アイデアの段階で極めて陳腐に思えてしまうのかも。

(2)医学的な手法以外で、能力が賦与される話はたくさんある
何かが憑依して云々とか。
あるいは平凡な少年が何かに巻き込まれて異能力を身につけてしまったとか。
医学以外の手法で能力が向上する話ならたくさんあります。
「寄生獣」なんかも、そういう類の話かもしれません。
医学的に遺伝子操作するよりは、「寄生獣」的な手法で能力を向上させた方が物語として面白いです。
つまり、ファンタジー的に料理した方がいいので、医学的に操作する話は少なくなるかもしれないです。

(3)肉体スペックの操作は物語を壊すかも
肉体スペックをゲームの改造コードみたいに操作出来るとなると、物語の根幹が壊れるのかも。
整形手術で美人になったヒロインが登場しないのと同じ理屈なのかな、と。
ファンタジー的に能力が賦与されるのも同じと言えば同じですが、遺伝子操作は即物的過ぎるかもしれないです。

(4)生物学に従って描くのかどうか
遺伝子操作を描くとして、生物学的を無視して描いてしまっていいのか、という問題がありますね。
生物学的にあり得る範囲となると、話が限られてしまうかも。
あり得る範囲を越えて漫画的に描くなら遺伝子の話は前面に出さないでファンタジー的にやった方がいいですね。

(5)人工的にヒロインが製造される話ならたくさんある
遺伝子操作によるスペックの向上とは別に、人工的に作られているようなヒロインは結構出てきます。
最初から根本的に人工的という話。
ロボットだったり、あるいは人工生命みたいな。
人間ではないものと規定されることが多く、悲劇的な展開になるのが普通です。
人工的に作られているのである種の欠陥があり、その欠陥が悲劇になるように描かれます。

(6)組織で実験されているヒロインはたくさんいる
「組織で実験されているヒロイン」という設定は頻繁に用いられます。
被検体としてコードネームで呼ばれているようなヒロインはテンプレと言ってもいいでしょう。
(使われ過ぎなので、もう使ってはいけないという感じかも)。
こういうのも遺伝子操作的な話に含めるのなら、かなりたくさんあると言えるかも。
でも直接的に遺伝子を操作するものは少なく、薬漬け・洗脳などの扱いを受け、メンヘル的な感じになるのが中心だと思われます。
実験されるのが極めて不幸なこととして描かれ、ほぼ例外なく悲劇的展開です。
組織で実験されて能力が向上してハッピーみたいなのは見掛けません。

(7)結論
とりあえず結論を言えば、遺伝子操作をするよりは、他のファンタジー的手法で能力変化や能力賦与を行った方が物語効果が高いのではないかと。
【2007/12/21】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方小説を完結させなければならないのは

小説は完結しなければならないのです。
この論理を難しくするのがキャラクター小説という概念です。
キャラクター小説とは、「灼眼のシャナ」「ゼロの使い魔」「涼宮ハルヒ」みたいにヒロインのキャラクターで引っ張れる作品のことです。

実際は、すべてのラノベは多かれ少なかれキャラクター小説とも言えるんですが、その要素が濃いか薄いかの問題です。

とりあえず次の二つに区分してみましょう。
1,キャラクター小説(キャラクターがいればエンドレスで続く)。
2,状況解決的な作品(状況が解決したら話が終わる)。

繰り返しますが、「状況解決的な作品」でもキャラクター小説です。またキャラクター小説でも、一応問題が発生して、それを解決するのです。
どちらに力点が置かれているか、という問題です。

プロの人が作品を書く場合、キャラクター小説として書く場合が多いのだろうと思われます。
シリーズ化を見据えた形で書いているはずなので、キャラクター中心の方がいいのです。
シリーズ化の野望があっても失敗したというケースはたくさんあるでしょうけど、結果はともかくシリーズ化前提で設定を組んでいるはずです。
(出来るだけ続編を出しやすい構造にしようとするわけです)。

小説の構造として考えた場合、キャラクター小説は舞台設定が平板になりやすい気がします。
状況を絞ってしまうとシリーズ化が困難になるので、わりと普通の日常に異能者キャラを放り込んだりする感じかと思います。
たとえば極限状況に登場人物を置いたら、それを解決した段階で話が終わってしまうから困るわけです。

「ヒットしている作品」はシリーズ化されていることが大半なので、キャラクター小説が多くなります。
キャラクター小説が本質的に面白いのか、というと難しいです。
物語構造としてはつまらないかもしれないのです。
状況よりキャラを優先させるような作品は、物語構造がゆるくなりがちです。

設定が練られている作品は、結末に向かって手に汗握るようになっているのです。
そして終われば、そこですべてが終わりなのです。

多くの人が知っている作品で言えば、(ラノベではないけど)「君が望む永遠」なんかは、状況設定が強力な作品の代表と言えるでしょう。
「君が望む永遠」はキャラを入れ替えても成立する作品です。
それくらいに、設定が素晴らしい。あの設定があれば、キャラは誰でもいいと言ってもいい。
もちろんキャラクターもとても印象深いんですが、キャラを全部入れ替えても成立するくらいに物語構造がしっかりしている作品です。

ラノベの場合、売れている作品はたいていシリーズ化されているキャラクター小説なので事例を挙げるのが難しいんですが、昨年電撃大賞に選ばれた「ミミズクと夜の王」などは、きちんと完結させたお手本のような作品と言えます。
「ミミズクと夜の王」は何百年か前の人に読ませても通用するような物語です。
(つまりラノベ的に王道なのではなく、人類の物語全般において王道なのです)。
「ミミズクと夜の王」は、萌えキャラを適当に出して流している凡百の作品とは違って、物語構造自体がしっかり作られています。作品を完結させないといけないというのは、しっかり作られた作品は続編があり得ないくらいにきちんと終わるということなのです。
そういう作品だからこそ、(エンディングに向けて)読者を引き込む力を持っているのです。
【2007/12/19】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方異世界ヒロインと外国人ヒロイン

金髪美少女みたいなのがオタク向けの作品に登場するとしても、それは基本的に外国人ではありません。
名前と容姿が外国人でも、キャラとしては外国人ではないのです。

・異世界ヒロイン
・外国人ヒロイン

に分けてみましょう。


異世界ヒロインとは、異世界ファンタジーの登場人物だったり、異世界から地球にやって来る美少女とします。
外国人ヒロインとは、アメリカから留学してくる感じの美少女とします。

同じ金髪美少女でも、異世界ヒロインと外国人ヒロインでは認識のされ方が違うのです。
そして、外国人ヒロインはあまり好まれないのです。
異世界ヒロインは数え切れないほどいても、外国人ヒロインは避けられます。

金髪美少女っぽい女の子には需要があります。
でも「外国人」という設定だと、たぶん需要がない。

「外国人需要」があるというのなら、ギャルゲーには外国からの留学生がお約束的に配置されているはずです。
(眼鏡っ娘がお約束的に配置されるように)。
でも配置されません。
外国人萌えの人があまりいないからです。


金髪美少女が出てくるとして。
留学生みたいな設定だと、文化の違いとか、いろいろ障壁を感じてしまったり。
逆に、異世界からの金髪美少女という設定だと、馴染みやすいのです。
「外国人」として登場させてしまうと、文化の違いをステレオタイプ的に描くことになってしまうので、それが面白くないのかも。

異世界ファンタジーのヒロインは(容姿と名前からすると)外国人だらけのように思えますが、受け取る側の問題として「外国人」とは認識されていないのです。
「ゼロの使い魔」を読む場合に、ルイズを外国人と認識しているかというと、していないはずです。
(ルイズの髪の毛は桃色ですが)。

「Fate/stay night」のセイバーは多少外国人属性があるかもしれないです。
でも典型的な外国人としては登場していません。もちろん異世界ヒロインです。

「ローゼンメイデン」の真紅とかだと、典型的な外国人風の容姿ながらも外国人ではないのです。
「ローゼンメイデン」の他のキャラもわりとそうです。

たぶん外国人と日本人が接するというシチュエーションが好まれないのです。
容姿や名前が外国人風のキャラは頻出し萌え対象ですが、設定が外国人だと何となく厳しい。
「アメリカ人と日本人」みたいな取り合わせは、萌えないのです。

単純に言えば、外見が金髪美少女で中身が日本人のキャラなら萌えるということなんですけど。
あるいは異世界ファンタジーにおいては、主人公の男も、名前や外見が外国人なのに、中身の発想は極めて日本人的だったりします。
【2007/12/17】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方幼馴染み以外が女友達だとまずいのか?

ラノベその他で幼馴染みが使われる理由としては、二つあると思います。

(1)イノセントなことを書きたいとき
以前のエントリーでも書いたんですが、何らかのイノセントなことを書きたい場合に、幼馴染みを使うことがあります。5歳から7歳くらいまでの曖昧な記憶を掘り起こすことで、イノセントな物語を作ったりします。


(2)女友達をあてがう場合
主人公に女友達をあてがう場合、幼馴染みにすると据わりがいいようです。
逆に言うと、女友達は幼馴染みでないとダメなのかということになるんですが……。
たとえば高校に入って知り合って仲良くなった女友達はまずいのか?
別にまずくはないと思うんですが、距離感の近い女友達というと、幼馴染みにしておいた方が妥当なようです。
高校で知り合った女友達がいて、距離感が近いとなると、フィクションとしては違和感があるようです。

あるいは女友達と言っても、お節介を焼いたり、主人公の面倒をみたりする存在である場合は、幼馴染みでなければまずいのかもしれない。
(つまり幼馴染みは通常の女友達とは別枠であると)。

現実なら、高校生にもなって幼馴染みと距離感が近い友達関係というのは変かもしれません。
(これは現実の妹と妹萌えは別物であるという議論にも通じますが)。

ともかくお約束的な問題として、女友達は幼馴染みとしておくのが一番無難なようです。
幼馴染みではない女の子が幼馴染み的なポジションで世話を焼いてくれるという設定も変化球としてはアリだと思うんですけどね。
【2007/12/16】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方最初から非日常の状態で物語を始めるのはどうか?

多くのフィクションの作品の場合、最初は日常的な生活があります。
そこに何かが入り込んできて非日常が始まる。
多くの作品が「出会い」から始まるのはそういうことです。
出会いによって、主人公の平凡な日常にドラスティックな変化が生じるということです。

ファンタジー要素が無い作品だってそうなのです。
(何かと出会って、今までの平凡な人生が劇的に変わるというような)。

ただ、

日常的な生活を主人公が送っている

主人公が謎の少女に出会う

少女と行動を共にすることになり、生活が一変する(非日常への突入)

というのが多すぎです。


だからこれを意図的に外している作品も見受けられます。

たとえば主人公が少女と出会うとしても、その三ヶ月後から書き出すとか。
「この少女と出会ったのは三ヶ月前だ」と説明したりするわけです。
物語の開始時点で、すでに非日常的なルートに突入している。

あるいは、主人公は(物語開始時点よりずっと前から)非日常的な属性を元々持っており、すでにそういう特殊な存在として活動しているとか。

日常→非日常の使用頻度が高すぎるので、最初から非日常というのは、もう少し使われてもいいような気がします。
【2007/12/15】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「DALK外伝」を999階までクリアした



このゲームを一体何年プレーしたのだろう。
最初の頃にどんなゲームだったのか、すっかり忘れました。

アリスソフトの「DALK外伝」。
思いついたときにチマチマとプレーして、かなりの年月を掛けて999階に到達。
クリアしたら「貴殿にDALK MASTERの称号を与える」というのが出るだけ。

その後はたぶんエンドレスで999階をクリアするということだと思います。

アリスソフトの作品だけあって、出来はよいです。
ただし、移動方式にやや不満があります。
基本的にぬるいゲームなので、移動のシビアさが求められることもなく、たいした問題ではないですけどね。

確実に面白いけど、オーソドックスなゲームなので、それほどお薦めではないかも。
【2007/12/15】 | レビュー | トラックバック(0)



ネット社会「個人サイト」とは、ある限られたサイト群のことなのか

これは最近の話というよりは、一昔前によく思っていたこと。

個人サイトとは何か?
個人がやっているサイトのことです。

でも、「個人サイトについて語る」みたいな文脈になると、普通の趣味の個人サイトは個人サイトとして認識されないのです。

たとえば個人サイトを語るという場合、囲碁や将棋の個人サイトは語られるのか?
麻雀の個人サイトは語られるのか?
野球やサッカーの個人サイトは語られるのか?
料理や編み物の個人サイトは語られるのか?

語られないですよ。

育児の個人サイトとかたくさんありそうだけど、それをわざわざ語る人はいない。
自転車や自動車やバイクが趣味の人のサイトがあるとして、それをわざわざ語る人はいない。
釣りやゴルフなどのアウトドアの趣味のサイトも語られない。

単純に言えば、PCやオタクに関係のないサイトは語られない。

そして語られるのは、「サイト群」を形成した場合ですね。
この場合でも将棋の個人サイト同士が仲良くやる程度では「サイト群」とは言えない。

なお、「語られる・語られない」と私が言っているのは、それが存在の認識の問題として重要だからです。
語られることで他人から位置づけられるのですから。
もちろん「他人から位置づけられる」必要などないんですけどね。
将棋の個人サイトを細々やっていて、ある程度の閲覧者がいたとする。
それは興味のない人の視界には入らない。
他人から語られるところの「座標軸」には存在しない。
それはそれでいいのかもしれないです。

ともかく、「ネットについて語る」みたいな場合、PCとオタク系のサイトのことしか語っていない人が多いのではないか、という話。
【2007/12/15】 | ネット社会 | トラックバック(0)



雑記劇画というのは

「劇画」について考えてみたいと思います。
明確に定義できるわけではないので、雑然とした話になってしまいます。
というより、普通に「劇画は劇画」と言えばそれまでですけどね。

まず、劇画というのは、歴史的な経緯から説明されることが多いようです。
手塚治虫とは別のタイプの作品云々……というものです。
このエントリーでは、そういう部分は省きます。
つまり歴史的な時間軸を取り除いて、作品類型として考えるということです。
あと、劇画というと「劇画風の絵」という絵柄的分類もありますが、それも取りません。
あくまで物語のパターンとして。


さて本題。

「劇画」と「普通の漫画」の違いは何か?
劇画は登場人物の行動が極端である。
また登場人物が変人ばかりだったりする。
主人公が何かをやるなると、それは求道的で命を賭けるものとなり、手法は極端なものばかり。

「普通の漫画」でも多少は極端な行動を取ります。
常識的な行動ばかりではつまらないから。
人格をどこまでデフォルメするかの問題なんですかね。。。
フィクションの登場人物は多かれ少なかれ変ではあるけど、その変わり者っぷりを徹底させたのが劇画なのかなと。

「スラムダンク」は漫画で、「アストロ球団」は劇画。
根性を見せるという場合、「スラムダンク」では常識の範囲内に収まりますが、「アストロ球団」では異常行動ばかりになります。

「ヒカルの碁」は漫画で、「月下の棋士」は劇画。
将棋や囲碁を懸命にやるという点では同じですが、「月下の棋士」の登場人物たちは異常行動の繰り返しになります。

劇画の定義をするなら、登場人物の言動がかなりデフォルメされた作品……、あたりになるでしょうか?
どこまでデフォルメされると劇画なのかは難しいです。
「少女革命ウテナ」だって劇画かもしれませんね。登場人物のキャラや言動が妙にデフォルメされているという点では。

ラノベだと劇画的にデフォルメされた作品は少ないかもしれません。
あるいは、ラノベの基本的なキャラ造型は劇画と相反すると言えばいいのか。
「デビル17」は劇画っぽい気がします。
「デビル17」は最もラノベらしくないラノベですけどね。
【2007/12/14】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方異常者が異常なことをやるのはよい

倫理的な問題として、主人公がこんなことやったらまずいだろ……、というのはあるわけです。
でも「異常者」と設定すれば、かなり受け入れられます。

「まともな人物」が人を殺めたら据わりが悪い。
フィクションとはいえ、違和感を感じます。
でも異常者ならよいのです。
フィクションで「まともな側」の人物が人を殺したりしてはいけませんが、異常者設定のキャラならいいわけです。
善人のキャラだと善人の立場を守らなければいけない。それを壊したらフィクションとして成立しません。
逆に悪人なら、かなりの悪事を描いても読者は違和感持ちません。

たとえば道徳性を残した状態で他人にルサンチマン的な復讐をしてはいけない。でも異常者なら、正当化される。
「Fate/stay night」の間桐桜は異常者設定ではないので、ああいう結末になる。
「月姫」の琥珀さんは異常者設定だからああいう結末になる。

「異常者」というのは、本質的に狂っているかどうかの問題ではなく、倫理的な立ち位置の問題でもあります。
他人の道徳が通じる対象であるか否かの問題。
「デスノート」は、主人公に良心の呵責が無いから成り立つんです。
仮に良心の呵責を描いたら、かなり違和感がある。
「デスノート」の主人公は別に気がふれているわけではありません。キャラクターとしての異常者ですね。そのあたりも巧く出来ていると思います。
【2007/12/11】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「狼と香辛料」の第六巻はゆるすぎ



ラノベでは、ある程度人気が出てくると、日常パートだけで軽く流すというのが、よくあるわけですよ。
単純に言えば引き延ばしですね。
「狼と香辛料」の第六巻もそういう感じ。
「狼と香辛料」の場合、ストーリーの面白さが売りなだけに、こういう流し方はどうなのか?

こういう間奏曲的な話は、キャラが好きな人向けですからね。。。
逆に言えば、ストーリーの面白さに惹かれている人は脱落するのではないかと。

第五巻もストーリーが少し物足りない感じでした。
第六巻ではちゃんとしたストーリーにして欲しいと思っていたら、ほとんど雑談だけです。
キャラが会話しているだけで、丸ごと一巻なのです。
(もちろん意図的に軽く流したということでしょう。良くも悪くも、雑談的な話にしておけば破綻はしないから)。

ちなみに第七巻は、電撃hpでの連載をまとめた短編集になる模様です。
読んでないのでわかりませんが、あまり本格的な話ではないでしょう。
第五巻から第七巻までゆるいということになるのか?

「狼と香辛料」は普通のラノベとは少し違います。
男性主人公がちゃんとした主役で、彼を中心に物語が動いていきます。
ヒロインがいなくても成り立つ話なんです。
もちろんヒロインがいなかったらラノベにならないので、ヒロインの機嫌を取る構図なども巧く設けてラノベっぽくしています。

第四巻までは息詰まるエキサイティングなストーリーです。
とても緊迫感があります。
正直言うと、この作品のヒロインは生理的に好きではないんですが、何しろ物語が面白いので、それだけで楽しめます。好き嫌いを越えて、ストーリーの面白さが確固としてあるのがこの作品です。
(あくまで第四巻までは)。

「狼と香辛料」は部数はかなり売れてるんだけど、オタ受けは今ひとつなわけです。
ストーリーが面白いから本は売れたけど、グッズがたくさん売れるタイプの作品ではない。
キャラ萌え的に展開したいんだろうけど、どうなのか?
【2007/12/11】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記表現のタブーとお約束とエラー

表現にはタブーというものがあります。
これは説明の必要がないでしょう。


表現にはお約束というものがあります。
これも説明の必要がないでしょう。



表現にはエラーというものがあると思います。
タブーではないから書いてもいいけど、でもフィクションとして据わりが悪いということです。

たとえば主人公が順調に出世したらそれはエラーです。
主人公がお金を儲けるのもエラーです。無一文になるのが漫画的お約束です。
大金持ちのお嬢様が10兆円使うのはいいけど、主人公が100万円儲けたらダメなのです。
主人公が順調に出世したり儲かったりする話は法律で禁じられてはいないが、フィクションとして据わりが悪いのでエラーなのです。

「爆弾が爆発するぞ!」という状況で、あっさり止めてしまうのはエラーです。(爆発寸前まで粘らないとダメなのです)。

あるいはあなたがお母さんとの間に葛藤を抱えているとして、それをテーマに小説を書いたら確実に没になるでしょう。
「そんなものは読みたくない」というのはエラーです。


私たちは作品に対して、面白いとかつまらないとか言いますが、「つまらない」にも色々あるはずなのです。
お約束過ぎてつまんないということもあれば、フィクションのルールに反しているから読むに耐えないということもあります。
そして、お約束の作品には及第点が付くけど、エラーの作品は0点ということかもしれません。もちろんエラーの部分が作品全体に渡っているかどうかという問題もありますが。
【2007/12/10】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方漫画だと「天才」が主人公のライバルとして登場するけど

漫画って、天才がライバルとして登場することが多いわけですよ。

誰でも知ってる作品ということで「ヒカルの碁」を事例に挙げます。

進藤ヒカルには、塔矢アキラという天才がライバルとして現れます。
天才との間に因縁が生じて、「君とはいずれ決着を付けよう」みたいになるわけです。

藤崎あかりという幼なじみがヒロインとして登場しますが、脇役です。
というより、後半では登場機会がとても少なくなります。



もし仮に「ヒカルの碁」がラノベだったら……?

進藤ヒカルの前に幼なじみの藤崎あかりが現れる。

藤崎あかりは魔術的な碁の天才だった!

(どんな理由でもいいけど)進藤ヒカルの協力が必要。

進藤ヒカルは藤崎あかりの鞄持ち。ご機嫌取るのが役目。

藤崎あかりと塔矢アキラが対決するがラノベらしい戦い。

という感じかと思います。


つまり進藤ヒカルのライバルは登場しない。
藤崎あかりがどんなに天才でも「主人公のライバルとして登場する天才」ではない。

ラブコメ要員として「シャナ」の吉田さんみたいなのは登場するでしょう。
吉田さんが進藤ヒカルにアプローチして、藤崎あかりがイライラするわけです。

藤崎あかりと塔矢アキラが対決しても、進藤ヒカル(鞄持ち主人公)の視点から見たら、盛り上がりに欠けます。
主人公が天才と対決するという漫画みたいな展開が、ラノベでは少ない。
藤崎あかりのライバルの女の子を用意するとしても、やはり主人公はサポート役。

もちろんこの設定なら、藤崎あかりのキャラは立つわけです。
週刊少年ジャンプだと影の薄い藤崎あかりも、ラノベなら魔術的な碁を指すキュートな女の子として萌えますよ。
つまり、藤崎あかりをどれだけ魅力的に描くかを考えるなら、ラノベ的手法がいいわけです。
【2007/12/09】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方ライトノベルの主人公は交換可能な存在

ライトノベルを読んでいると、この主人公いらないよねと思うことがよくあります。
あるいは、別にこいつでなくても物語は成り立つ、ということ。
交換可能な存在。(別の人間でも代役が務まる存在)。
ヒロインの話し相手が出来るなら誰でもいい。

もちろん主人公であるからには「必要である理由」を便宜的に設けます。
この主人公でなければならない理由を設定として付け足す。
でも多くは苦肉の策であり、本質的に主人公は交換可能です。

単純に言えば、ヒロインは超人気の美少女アイドルで、主人公は同じ事務所の売れないタレント。
抱き合わせで番組に出してもらえるだけ。
だからいらない。
一応「番組の中での役割」は与えて貰えるけど。
基本的には誰でもいいのです。
それがライトノベル。



漫画好きな人がラノベを読むと物足りないと感じるのは、主人公の脇役性に違和感が大きいのではないかと。
主人公中心に物語が動いていないから、物足りないということです。

漫画の主人公の場合、学校に行けば喧嘩になる。街に出れば不良に挑発される。
何かにつけてトラブルが発生し、主人公が決着を付けないといけないことになったりする。
挑発や屈辱の繰り返しの中で発生した因縁を、主人公の「腕力」で解決するわけです。

ラノベの場合、異能者バトルがあっても、それに男の子の尊厳は掛かっていないことが多いです。
負けても男として屈辱ではないのがラノベ。
(逆に言えば、「男としての屈辱」に訴え過ぎなのが漫画だとも言えます)。
ラノベで「腕力」の比重が低いのは、男中心で動いていないからでしょうね。
女の子の場合、腕力で屈辱を晴らすという発想はないです。
ラノベのヒロインの勝利が「屈辱を晴らした」という文脈で扱われることはない。




ではラノベはみんな男主人公が脇役なのか?
そうでない作品もあります。

最近ヒットしているラノベ作品では「狼と香辛料」。
主人公が本当に主人公なので、ラノベ的ではない。
「狼と香辛料」は主人公が商人で、「商人スキル」を持っています。
そのスキルでの「商人バトル」があるわけです。
主人公がまさに主役であり、自分の命運を掛けてバトルをするのです。

それでいながら、「狼と香辛料」はラノベの読者も離しません。
冷静に見ると、ヒロインは「必要ない」のですが、でも主人公がヒロインのご機嫌を取ることでラノベらしさを出しています。
ラノベのテイストもちゃんと守っています。
(「狼と香辛料」の場合、ヒロインが交換可能だと言ってもいい。別のヒロインでもこの作品は成り立ちます)。
【2007/12/07】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



評論「ワンピース」のドラム島編と成長物語

現実において、人間はポジションが固定されているので成長しません。
たとえばあなたが10歳から20歳になったとしても、ポジションはそれほど変動しないはずです。

10歳の頃不細工だったのに、20歳になったらイケメンになることはない。
身長や運動に関しても、同年代の間でのポジションは変わりません。
知能や学力のポジションもそれほど変動しないでしょう。
(10年間いろいろやっても、同世代の中でのポジションは変化しないということ)。

もちろんポジションが変化することはあります。
子供の頃は小さかったのに中学あたりで身長が急激に伸びる奴は時々いますね。
一念発起して猛勉強して、劣等生から脱却するとかあり得るでしょう。

でも、大雑把に見れば、それほどの変動はないのが人生です。
生まれた段階である程度ポジションが決まっているのです。

だからこそ、ポジションの変化話は好まれます。
恵まれない境遇に生まれた人の成功話がわざわざ本になるのは、与えられたポジションから脱却するのが例外的なことだからです。

フィクションでも「成長物語」は好まれます。
最初から成功するのがわかってるような奴が成功する話ではなく、「例外的なポジション変化」の話が好まれます。

典型的なのは「はじめの一歩」みたいに、何らかの才能があって、それで懸命に努力して、ポジション変化させるような話です。
物語の多くが何かに「出会う」ことから始まるのは、ポジション変化をやりやすいからです。
○○との出会いで人生が変わったということです。
その出会ったものと関わり努力しながら、人生が塗り替えられていく……。


それとはまた別に、メンタルな部分での成長に重点を置いた話もあります。
私が好きなのは「フィギュア17」なのですが、ほとんど知られていないので、「ワンピース」のドラム島編あたりを例に挙げましょう。
「ワンピース」は"漫画的な面白さ"を極めたような作品ですが、ドラム島編は、その究極と言えるでしょう。
万が一読んでいない人がいると困るのでストーリーの説明は控えますが、メンタルな部分でいろんなことを克服して成長していくのが最高に素晴らしく描かれています。
このドラム島編は「ワンピース」の中で最も感動的と言っていいでしょう。
非常に大きなカタルシスを得られます。

逆に言うと、現実の人生では、なかなかこういうのが難しいんでしょうね。
いろんな意味で人は変わることが出来ない。でも自分の殻を破りたい願望は持っています。それをフィクションとして見事に描いたのがドラム島編なのです。
この話は本当に素晴らしいと思うのと同時に、現実だと無理だよなと思って悲しくなる部分もあります。

ドラム島編のようなものを「漫画的成長」と言っておきましょう。
漫画的プロセスで、人が自分の殻を破って生まれ変わる。
新しいステージに旅立つのです。


こういう「漫画的成長」をさせずに大ヒットしたのが「新世紀エヴァンゲリオン」ですね。
普通なら碇シンジを「漫画的に成長」させるはずなのが、ひとつも成長させません。
殻を破れない碇シンジは周囲からなじられる。
(漫画の主人公みたいに漫画的成長をさせてもらえないから)。
殻を破れない主人公を描いても「未完」になるしかありませんが、それが逆に多くの人の心をつかみました。
エヴァンゲリオンの「未完」は、人が変われないことの隠喩です。主人公が殻を破れないと、フィクションでは未完になるしかないのです。
一昔前「エヴァンゲリオン」に熱狂した多くの人は、アニメのエピソードを現実の出来事のように見なして語ってました。
やはり殻を破れないのが、リアルの相似形だということで、胸に響いたんでしょうね。
「ワンピース」とは対極の響き方ですけど。
【2007/12/05】 | 評論 | トラックバック(0)



物語の在り方ラノベの主人公が侮辱されたり屈辱体験をすることは少ない

ラノベと漫画の比較問題として。

以下のようなイベント

・主人公が侮辱される
・主人公が屈服させられる
・主人公が屈辱を体験する

これは、明らかに漫画で多い。そしてラノベでは少ない。


漫画を読んでいると、主人公や主人公の仲間などが侮辱されて、(読んでいる読者も)頭に血が昇るというのはよくあるはずです。
ラノベの場合、主人公(あるいは主人公の仲間)が徹底的にバカにされて屈服させられるというのは少ないです。


ラノベの場合、中学校とか高校とかが舞台でも生徒間のヒエラルキーがなかったりします。
主人公の身長は170センチくらいで、顔はまあまあ(ただし美少年ではない)。
腕力が強い弱いという定義を外すために普通の体格にしているようにも思います。
(異能者バトルでは、本来の腕力と無関係に異能が使えることが多い)。


ラノベでは、敵が主人公を「挑発」するとしても、ある意味紳士的だったりするような気がします。
冷血的な人物だったとしても、屈辱感を煽っては来ない。
腕力コンプレックスに訴えるような侮辱はかなり少ない。
(読者として読んでいて頭にこないということです)。

腕力による侮辱、腕力による屈服、腕力による屈辱……、漫画では頻繁に描かれるのに、ラノベでは明らかに少ないです。

侮辱というものが必ず腕力と関係しているわけではないが、やっぱりその後のバトルも含めると、そういう類の侮辱がいいんでしょうね。
(つまり腕力で勝利すれば屈辱が晴れるという構造にする必要があるので)。
【2007/12/04】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方作品内で主人公が一番の悪人ということは少ない

道徳に反する行為を避けて作品を描くことも出来るわけです。
数は多くないですが、悪事を描かない作品はわりと存在します。

逆に言うと、悪事が出てくる作品の場合、「道徳に反する行為」を作品内でどう扱うかという問題が生じます。


基本的に、主人公より悪い奴がいた方が物語が安定します。
(道徳的な問題の据わりのよさがあるという意味です)。

作品の多くが勧善懲悪的になるのは、必ずしも正義君が好きだからというわけではなく、「主人公より悪い奴」がいないと不安定になるからです。

たとえば「ワンピース」を事例に考えましょう。

「ワンピース」は極悪人の敵がやたらと出てくる作品ですが、仮に極悪人が出てこなかったら?
主人公の仲間であるナミの手癖の悪さとかが気になるかもしれないですね。
なんだこの万引き女?みたいな。

「ワンピース」は海賊と称しつつも、実質的にはトレジャーハンターのノリですが、それでもやはり極悪人を敵として出しておかないと、主人公たちが(読者から)反感を持たれる可能性がある。

ヤンキーやチンピラが主人公の作品だってそうです。
ヤンキーの主人公が本物の極悪人と対決する構図は漫画では頻繁にあります。
主人公がヤンキーで、そいつが一番悪かったら洒落にならないので、極悪人を登場させることがよくあるわけです。


だから、世の中のかなり多くの作品が勧善懲悪系になるのです。
まあ言葉の定義の問題もありますけどね。
「正義君vs悪人」だけではなく、「ヤンキーvs極悪人」的な話も勧善懲悪に含めると、かなり多くの作品が勧善懲悪に含まれます。

ヤクザが主人公の話でも、主人公より遙かに悪いヤクザが敵として出てくることはよくあります。
もちろん主人公が一番の悪人でワルの極みという作品も例外的にあります。
でも主人公に対する極悪人を登場させて、道徳的反感をそいつに集めた方が据わりがいいのです。
【2007/12/02】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方「間一髪」や「紙一重」にはうんざりするけど

「間一髪」がお約束過ぎてうんざりすることも。

間一髪で助けるとか。
間一髪で脱出とか。

でも、このお約束を外したらダメなんでしょうね。

時限爆弾が爆発するのを早めに止めてしまうとか。
仲間がピンチになる前に主人公があらかじめ待機しているとか。

そういうのはダメなんでしょうね。

「間一髪」に食傷していても、このお約束は守らなければならない。





「紙一重」も似たようなものですね。

最後の仕上げで圧勝してカタルシス的な展開はあるけど、基本的には「紙一重」が原則。
最初から最後まで一方的な展開だとまずいんでしょうね。

能力バトルとかで、紙一重で一進一退しているのを読んでいて眠くなることもあるんですけど。

でも「紙一重」が原則なんでしょうね。
【2007/12/01】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



過去記事

過去記事の目次

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ

最近のトラックバック

最近の記事


カテゴリー

月別アーカイブ

Amazon