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要領がいいのは理想的なのか

リアルとフィクション半々くらいのエントリーです。

現実において。
「要領がいい」というのは、あまり理想的だとは思われていません。「要領がいい」というのは褒め言葉ではないし、「要領がいい人物」というのは理想的な在り方だとはされていない。
不思議なことです。
要領がいい方が人生に於いて得なのに、なぜか理想的だとは思われていない。
親が子供を理想的に育てようと考える場合、「要領のよさ」を否定するような気がします。親が頑張って「要領のいい子供に育てよう」というのはないわけです。
(というか、要領がいい人は親から放任されているのが普通です)。

要領がいいか否かというのは、だいたい小学生くらいで決まっています。
20歳くらいで要領のいい若者がいるとします。この場合、彼は子供の頃から要領がよかったはずです。経験によって成長する余地がないとは言わないけど、わりと子供の段階で決まっていると思います。要領がいい奴は小学校の頃から要領がいい。

要領のよさを「判断力」として考えるのは適切ではない気がします。
なぜなら性格の問題だから。
囲碁や将棋の手順の問題ではなく、性格的にどういう選択をするかの問題だと思うのです。


さて、フィクションに話を移します。
フィクションでも、要領がいいのは嫌悪されています。
主人公は愚直であることが求められる。漫画だと、主人公は「漫画的な馬鹿」であるのが求められたりするわけです。
(頭が悪いというのではなく、愚直な選択をするわけです。損をするとわかっていても)。

ラノベで「中二病作品」と称されるものがありますが、これは主人公が愚直でない作品のことです。「自分は利口」みたいな自意識を主人公が持っていると中二病と呼ばれるわけです。
私たちは主人公が愚直であるのに馴染んでいますから、「利口な主人公」というのには違和感を憶えるのです。

この場合の愚直か利口かというのはキャラクターの問題です。
たとえば「カイジ」において、カイジがどれだけ天才的なひらめきを示しても、彼は愚直の極みなのです。
「カイジ」の愚直さを批判する人を見たことがありません。
「カイジって馬鹿じゃん!」というような批判を見ることはないです。
逆に主人公が利口みたいな中二病作品だと、生理的嫌悪を示す人が必ずいます。

どうして人間は利口な選択を嫌うのだろう、というのは興味深いです。
(正確に言えば、理想を求める場合に、利口さを嫌悪するということですね)。
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ラノベでは女子大生がヒロインだとダメなのか?

ライトノベルにおいて女子大生がヒロインというのは少ない。
なんでラノベではヒロインが女子大生だとダメなのか?
単純に言って女の子の魅力のピークが15歳から17歳くらいだと思われているから。
そういう認識が(異常な)ロリコンなのか、それとも正しい認識なのか、というのは難しい。

女子大生というと、垢抜けた存在という固定観念がある。物語に女子大生が出てくるなら、垢抜けた存在にしなければならない、と思われている。特にアニメやラノベに女子大生が出てくると、ステレオタイプに垢抜けた存在だったりする。

ライトノベルは基本的にイノセントなヒロインを描くことを目的としており、大学生の垢抜けた感じは好ましくない。

・女子高生はイノセントな存在
・女子大生は垢抜けた存在

というのがラノベ的お約束である。

あくまでイメージの問題である。人々は女子高生にはイノセントさを夢見る。
現実にイノセントであるかどうかはどうでもいい。
イノセントな理想を描きやすいかどうかという問題。
逆に女子大生だと、イノセントさを期待しない。現実の女性の個人差など問題ではない。作者や読者が共有している幻想の問題が重要であり、現実にどうかなんて問題ではない。

あと、大学というのが、ラノベの舞台として好まれないのかもしれない。高校だと様々な義務に縛られているけど、大学だとそうではないので物語が作りづらい?

大学生を出すからには、大学生活を謳歌しているみたいに書かないといけない固定観念があるのかもしれない。「大学生活の楽しさ」を中心に据えても、物語的に面白いかどうか。(平均的な大学生を考えた場合、「垢抜けて青春を謳歌している」かどうか疑問があるが)。

幼少期のトラウマ話はOK(母子葛藤はNG)

登場人物にトラウマを設ける場合、幼少期に虐待されていたというのがいいようである。

・明らかな虐待でなくてはならない。
・10歳未満の幼少期のことでなくてはならない。

中途半端に色々傷ついたというのは、駄目かもしれない。親子関係の葛藤などは駄目。特に母子葛藤はNG。漫画、ラノベ、アニメの類で母子葛藤というのは、ほとんど見掛けない。絶対にないわけではないんだけど、明らかに避けられているテーマだ。

日本社会だと、母親との葛藤関係はすごいありがちなはずだ。
お母さんの言いなりになっていれば面倒を見て貰えるという微温的な支配。
これはフィクション以外の話題としても避けられる。ともかく書いてはいけないテーマである。(母親から明確な虐待を受けていたというのならいいが、共依存的な支配はNGということです)。

昨年の電撃大賞最終選考落ちで出版された「嘘つきみーくん、壊れたまーちゃん」は幼少期の虐待話で話題になった。私はこの作品嫌いなので、あんまりまともに読んでいないが、絶賛している人を結構見掛ける。
「なつき☆フルスイング」(銀賞)も幼少期の虐待話である。こちらはかなり陳腐。「嘘つきみーくん」がエキセントリックな方向を目指した作品だとすると、「なつき☆フルスイング」はベタなトラウマ話だ。
「ミミズクと夜の王」(大賞)は現在進行形での話なので扱いが難しいが、虐待話なのは確か。
「扉の外」(金賞)には母子葛藤話が少し出て来るが、母親は登場しない。仮に本格的に書いていたらNGだったかも。「扉の外」は隠喩として巧く描いているので、そのあたりが評価されたと思う。(そもそも「扉の外」はゲーム的な部分がウケたのであって、母親云々の部分は蛇足だけどね)。
「世界平和は一家団欒のあとに」(金賞)に関しては、過去のトラウマが出てきますが、これは虐待とは無関係なので、典型的なトラウマ話とは言えない。

幼少期に明らかな虐待でトラウマを負うのは、物語的にはOKのようだ。というか、明らかな虐待でなければならない。
親子関係の葛藤だとNG。

親が子供の面倒を見ながら支配するというのが一番ありがちな問題だが、それを書いてはいけない。面倒を見ながら支配するみたいな日本的母子関係はNG。
単純に言えば、「甘えている」という批判を排除するために明確な虐待行為として描かなければならない。

「ゼロの使い魔」13巻を読んだ



「ゼロの使い魔」は個人的には一番好きなラノベと言ってもいいんですが、最近の手抜きっぷりにはうんざりしていました。

「ゼロの使い魔」は第七巻と第八巻がすごい面白くて、その頃は絶賛していたんですが、第九巻から第十二巻までの流しっぷりは酷すぎます。
話を進めて破綻すると困るからどうでもいい話で巻数を稼ぐというのは人気作品にありがちだけど、四巻連続でゆるいとさすがに……。


今回の第十三巻でようやく物語は動き始め。
今までみたいに手抜きで流せない感じのシリアスな展開にしたところで「十四巻に続く」となりました。

どうなんでしょうね。

今回だけでは何とも判断できません。
この第十三巻でようやくストーリーが動き出したという感じなので、評価は次の第十四巻を読んでから。

強力なヒロインを設定するのは看板作品の特権

強力なヒロインを設定するのは、大ヒットする作品の特徴です。
でも、普通の作品でそれが許されるのか、というと難しいのです。

電撃文庫の「灼眼のシャナ」が大ヒットしていても、電撃の新人賞で「灼眼のシャナ」みたいな作品は見掛けません。
異能者ヒロインがスーパーパワーを行使するというのは、大ヒット作品の特徴ではありますが、新人賞でそういう作品は意外と見掛けない。
(プロの人が売れ筋のパターンばかりを書くので、新人賞では別のものをという考えなのかもしれないです)。

異能者ヒロインが多大な力を持っていたりすると(つまりパワーバランスを破壊するようなヒロインがいると)散漫な話になりがちです。
300ページの小説があるとして、その300ページの中で鮮やかに完結して大団円とはなりづらい。

物語を
・キャラ優先
・設定優先
に分けるとします。

明確に分けるのは難しいんですが、ある程度分けられます。

ヒット作の特徴はキャラ優先。典型的なキャラクター小説です。
でも新人賞とかになると、設定優先の地味な作品が選ばれやすい。
設定優先の作品も一応キャラクター小説ではあるんですけど、キャラ優先の度合いの問題ですね。
やっぱり設定優先の作品の方が、物語構造として、よい作品なのです。
強力な力を持った異能者ヒロインを中心に据えるような作品は、物語として評価が低いかもしれません。

語弊のある言い方になりますが、キャラ優先のヒット作が魅力的に感じるのは、売れているからかもしれないのです。
売れていない作品なのに、キャラ優先で書かれてもどうなのか、というのはあるわけです。

もちろん大ヒット作も、出した瞬間から売れてるわけではないですが、売れ線を狙っているわけです。
売れなかったら評価されない部類の作品になってしまうのではないかと。
設定優先できちんと書けている作品は、たとえ売れなくても「よい作品」なのです。
キャラ優先の作品で売れないのは、散々プロデュースして失敗に終わったアイドルのようなものです。

ブログが叩かれていた頃

2002年頃に東大の人が、ブログを普及させようみたいなことをやって叩かれていたことがあります。

多くの個人サイトの人たちが、「俺達を無視するな」とボコボコに叩いたのです。
でも、今ではブログが圧倒的に普及しています。


当時の議論の詳細はよく見てませんが、ブログのSEO効果の高さを指摘している人はいなかったはず。
絶対に無かったとは言い切れないけど、多くの意見は「日記システムは昔からある」みたいなものでした。
「さるさる日記がすでにあるじゃん?」みたいな意見。

ともかく2003年とか2004年あたりになると、ブログのSEO効果の高さがネットの勢力図を変えました。

・既存の大手サイトの人は、被リンクを失いたくないので今までのところに留まる
・アクセス数が今ひとつのところは思い切ってブログに切り替え

みたいな感じですかね。

既存の大手はわりと頭打ちになり、ブログに切り替えたところの方がアクセス数を伸ばした感じかと思います。

2002年の段階ではトラバとpingが強力だとは思われていませんでした。
検索エンジン的にブログが有利だとも思われていませんでした。
(現在だと検索エンジン的にブログが有利とは言い切れませんが、2003-2004年あたりは確実に有利でした)。

人間関係的にリンクを維持するみたいな発想が昔は強かったんですが、現在ではそういう発想はほとんど無くなっています。

ブログの一番の革命はリンク関係を変えることだったのです。

2002年当時、それを指摘している人がほとんどいなかったというのが興味深いです。

正義と善行は違う

フィクションで正義を描くという場合、それは善い行いを繰り返すことなのだろうか。
お婆さんを背負って歩いたり、環境問題に取り組んだり。
(環境問題に取り組んでいる人が本当に立派な人なのかというのは置いておきます)。
ともかく普通の意味での善行とか立派な行いをするのを描くことだろうか。

フィクションの正義はそういうことではない。
結論から言えば、「屈辱を晴らす」ということだ。

特に漫画だとそうだ。

屈辱を受ける→屈辱を晴らす

の反復だけで物語を動かしている作品が多い。

漫画の主人公は毎週毎週何かで屈辱を受けては、それを晴らす。この場合の屈辱は自分自身のものとは限らず、仲間その他も含みます。あるいは赤の他人の屈辱を晴らす方が正義の味方っぽいかもしれない。
逆にラノベだと、「屈辱を晴らす」ことを動因にしている作品は少ない。「屈辱を晴らす」というのは、カタルシス構造を作るのに一番強力な方法なので、このあたりが漫画の面白さということかもしれない。

ラノベでは腕力コンプレックスや生徒間ヒエラルキーの話題は避けられることが多く、主人公が屈辱感を感じることも少ない。
ラノベの主人公も一応は正義のために行動したりするが、漫画に比べると、メリハリが弱いかもしれない。

異世界ヒロインと外国人ヒロイン

金髪美少女みたいなのがオタク向けの作品に登場するとしても、それは基本的に外国人ではない。
名前と容姿が外国人でも、キャラとしては外国人ではない。

・異世界ヒロイン
・外国人ヒロイン

に分けてみよう。


異世界ヒロインとは、異世界ファンタジーの登場人物だったり、異世界から地球にやって来る美少女とする。
外国人ヒロインとは、アメリカから留学してくる感じの美少女とする。

同じ金髪美少女でも、異世界ヒロインと外国人ヒロインでは認識のされ方が違う。
そして、外国人ヒロインはあまり好まれない。
異世界ヒロインは数え切れないほどいても、外国人ヒロインは避けられる。

金髪美少女っぽい女の子には需要があります。
でも「外国人」という設定だと、たぶん需要がない。

「外国人需要」があるというのなら、ギャルゲーには外国からの留学生がお約束的に配置されているはずだ。
(眼鏡っ娘がお約束的に配置されるように)。
でも配置されない。
外国人萌えの人があまりいないからだ。


金髪美少女が出てくるとして。
留学生みたいな設定だと、文化の違いとか、いろいろ障壁を感じてしまったり。
逆に、異世界からの金髪美少女という設定だと、馴染みやすい。
「外国人」として登場させてしまうと、文化の違いをステレオタイプ的に描くことになってしまうので、それが面白くないのかもしれない。

異世界ファンタジーのヒロインは(容姿と名前からすると)外国人だらけのように思えるが、受け取る側の問題として「外国人」とは認識されていない。
「ゼロの使い魔」を読む場合に、ルイズを外国人と認識しているかというと、していないはずだ。
(ルイズの髪の毛は桃色ですが)。

「Fate/stay night」のセイバーは多少外国人属性があるかもしれない。
でも典型的な外国人としては登場していません。もちろん異世界ヒロインである。

「ローゼンメイデン」の真紅は、典型的な外国人風の容姿ながらも外国人ではない。
「ローゼンメイデン」の他のキャラもわりとそうである。

たぶん外国人と日本人が接するというシチュエーションが好まれない。
容姿や名前が外国人風のキャラは頻出し、萌え対象だが、設定が外国人だと何となく厳しい。
「アメリカ人と日本人」みたいな取り合わせは、萌えない。

単純に言えば、外見が金髪美少女で中身が日本人のキャラなら萌えるということなのだけど。

幼馴染み以外が女友達だとまずいのか?

ラノベその他で幼馴染みが使われる理由としては、二つあると思う。

(1)イノセントなことを書きたいとき
以前のエントリーでも書いたんですが、何らかのイノセントなことを書きたい場合に、幼馴染みを使うことがある。5歳から7歳くらいまでの曖昧な記憶を掘り起こすことで、イノセントな物語を作ったりする。


(2)女友達をあてがう場合
主人公に女友達をあてがう場合、幼馴染みにすると据わりがいいようだ。
逆に言うと、女友達は幼馴染みでないとダメなのかということになるのだが……。
たとえば高校に入って知り合って仲良くなった女友達はまずいのか?
別にまずくはないと思うが、距離感の近い女友達というと、幼馴染みにしておいた方が妥当なようである。
高校で知り合った女友達がいて、距離感が近いとなると、フィクションとしては違和感がある。

あるいは女友達と言っても、お節介を焼いたり、主人公の面倒をみたりする存在である場合は、幼馴染みでなければまずいと思う。(つまり幼馴染みは通常の女友達とは別枠であると)。

現実なら、高校生にもなって幼馴染みと距離感が近い友達関係というのは変だろう。
(これは現実の妹と妹萌えは別物であるという議論にも通じるが)。

ともかくお約束的な問題として、女友達は幼馴染みとしておくのが一番無難なようである。
幼馴染みではない女の子が幼馴染み的なポジションで世話を焼いてくれるという設定も変化球としてはアリだと思うのだけど、ある種のリア充だから、感情移入に問題が出てくるのかも。
(エロゲーなら、主人公=プレイヤーだから、高校で知り合って仲良くなった女友達というのがいてもいいかもしれない)。

「DALK外伝」を999階までクリアした



このゲームを一体何年プレーしたのだろう。
最初の頃にどんなゲームだったのか、すっかり忘れました。

アリスソフトの「DALK外伝」。
思いついたときにチマチマとプレーして、かなりの年月を掛けて999階に到達。
クリアしたら「貴殿にDALK MASTERの称号を与える」というのが出るだけ。

その後はたぶんエンドレスで999階をクリアするということだと思います。

アリスソフトの作品だけあって、出来はよいです。
ただし、移動方式にやや不満があります。
基本的にぬるいゲームなので、移動のシビアさが求められることもなく、たいした問題ではないですけどね。

確実に面白いけど、オーソドックスなゲームなので、それほどお薦めではないかも。
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