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成長物語についての試論(能力レベルアップと内面レベルアップ)

成長物語というのは、明確な定義は難しい。
「成長物語」って様々な定義がありえる。

とりあえず雑に切り分けるための概念提示をすれば、「成長」する場合に、能力レベルアップと内面レベルアップがあるわけだ。このうち「能力レベルアップ」の比重が高い作品は成長物語ではないと思う。たとえば「ドラゴンボール」は成長物語ではないという定義でいいでしょう。

多くの人が「成長物語」という場合、内面レベルアップのことを想定していると思われる。主人公の内面的成長で物語が動いたりすること。内面レベルアップで新しい視野が開けて新しいステージに……と言えばいいのか。能力を鍛えるという要素を含んでいてもいいが、あくまで内面的成長に重点が置かれる。

物語の中でイベントがたくさん発生しても、主人公が内面的に成長しない作品はたくさんある。主人公の内面が(自我の成長という文脈では)変化しない作品の方が多い。それに対して、経験によって内面(自我)がレベルアップするという人間観に基づいているのが成長物語なのである。

主人公を描くとして、修業で強くなった(能力レベルアップ)とするか、内面の変化(内面レベルアップ)で問題を解決したとするかの問題。
成長物語は人生論的なメッセージに重きを置くので、なんか誰にでも出来るような幻想を生みだしてしまうのかも。
(現実生活だと、内面をどう作り替えても、本人の外形的なポジションは変わりません)。

また成長物語という場合、成長することの苦みを描く場合もある。
というより、苦みによるレベルアップはある意味基本ですかね。
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漫画で威張っている人物というとジャイアンが思い浮かぶのは

漫画で威張っている人物というと、なぜかジャイアンが思い浮かびます。
「ジャイアンのような」という形容の仕方は結構使います。
何でなのかな、と思うと、ジャイアンのようなキャラが意外といないからではないかと。。。

フィクションにおいて威張っている人物がいると、たいていは引きずり降ろされます。
威張ったキャラが登場した段階で、そいつが一泡吹かされる展開が予想出来ます。
あるいは読者もそれを期待する感じです。
(水戸黄門などは、毎回そのパターンです。水戸黄門はワンパターンで極端だけど、威張っていた人物が謝罪させられる展開はフィクションでかなり頻繁にあります)。

私たちの現実社会において立場の逆転はほとんど起こりません。立場は逆転しないと前提して行動しても問題なし。
この世の中は恨まれても大丈夫なように出来ています。
(推理小説だと、恨まれている人物が殺されたりするけど、普通のフィクションではあんまりないですね)。

恨みを晴らすには、立場の逆転が原則なのです。
(立場の逆転無しに反撃するのは、物理的には簡単ですが、刑務所に入ることになります)。
ルサンチマン云々の問題も、このあたりの仕組みと切り離しては考えられません。私たちの社会の仕組みとして、立場の認識の仕方は本質的にルサンチマン的なのです。「ルサンチマンはよくない」というのは、メッセージの縛りです。
恨みを与えておいた上で、「恨んではいけない」と縛るわけです。
私たちが他人から与えられるメッセージの多くは問題の解決に向かうものではなく、問題の未解決のためなのです。(問題解決に向かうよいメッセージを他人から貰うのは稀なのです)。

さて、フィクションの話に戻します。
威張っている人間が登場すると、たいていは「立場の逆転」が起こる。

「威張る」と「強者」では違います。
「北斗の拳」のラオウを「威張っている」とは形容出来ないでしょう。
漫画においてヒーローの部類の強者が登場すると、「威張っている」という具合には描かれません。
仮に周りに威張り散らしている様子が描写されたら、引きずり降ろされるフラグが立ったと言えばいいのか。

そういう意味でジャイアンは特異なのです。
普通なら引きずり降ろされるフラグがたくさん立っているのに、それでも延々と威張っていられる。
(そして、これはリアルに近いのです)。

アンチヒーローも「主人公が損をする」という点では正統派

主人公にふさわしい性格というのがある。たとえば平均以上の倫理観があるとか、正義感があるとか。

アンチヒーローはそれを否定するものとされる。でも人気のあるアンチヒーローは「主人公が損をする」という点で基本を守っていることが多い。

具体的に言えば、器用な人物、小利口な人物、要領のいい人物……と形容される類型の人間は主人公にはふさわしくないわけである。「得な性格」とか、中間的なポジションで立ち回りが上手いのは主人公に不向き。

主人公に求められるのは無欲さである。普通の意味での損得は無視すること。たとえば努力に関しても、(主人公は)無私な行為として努力するわけだ。
常識的な意味での出世や成功を求めるのは主人公としてはよくない。給料が高い会社に入りたいから勉強するみたいなのは、フィクションの主人公的には駄目。
雑に言えば、修行僧のように努力することが(主人公には)求められる。

アンチヒーローに話を戻すと、彼らは得するために悪事を働くのではない。
たとえば破滅に向かうために悪事を働くような。
常識的な損得を超越して悪事を行うから、共感される。損得勘定の無視が主人公の条件。つまり「損得勘定の無視」を保っていれば、主人公がかなりの悪人でも構わない。

「機動戦士ガンダム00」と架空の暦

「機動戦士ガンダム00」では、西暦が使われています。
(今から300年後の世界と設定されている)。
他のガンダムでは"宇宙世紀"などの架空の暦を用いていますが、ガンダム00だけは別。

物語の中で明確に年代を設定するのは、多くの場合マイナスになるような気がします。現代物だと後で読んだときに話が古臭い印象を与えてしまう。たとえば1998年と設定された作品を2008年現在に読むなら……。あるいは連載が続いているうちに、現在の年代と作品内の年代がずれていくとか。

過去でも、歴史に絡めるなら年代を出さざるを得ませんが、そうでない場合出さないほうが無難だと思われます。
ラノベとかで中世みたいな雰囲気で描かれている作品でも、具体的な西暦を示しているものは少ないです。

未来に関しては、西暦で年代を明示的に設定することがマイナスとは限りませんが、効果的かどうかはわかりません。
「ガンダム00」に関しては、現在の私たちの社会の延長として設定していることが、中途半端な世界情勢の話のつまらなさに繋がっているかと。

年代は不透明にしておくか、架空の暦にしておくのが無難だとは思いますけどね。
架空の暦を用いておくことで、この現実世界とは別のパラレルワールド的な亜現実だと出来るわけですからね。
(考証で突っ込まれるリスクが減るし、また世界観の自由度も上がる)。

ライトノベルに性描写が少ないのは

ライトノベルに性描写が少ないのは、PTA的な規制が理由ではないと思う。性描写は作品を破綻させる畏れがあるので、入れない方がいいのだ。もちろん必然性のある性描写もあり得るだろう。でも、そういう例外を除いては、性描写は極力避けた方がいいはずなのである。

恋愛でさえも、書かない方がいいのである。ライトノベルにラブコメはたくさんあるが、恋愛(男女交際)は少ないわけだ。主人公とヒロインが(彼氏彼女として)男女交際をするラノベは、読者があまり望んでいない。もちろん主人公とヒロインが彼氏彼女の関係である作品は存在しているけど、そうでない作品の方が明らかに人気がある。

あなたがたが好きなエロゲーだって、物語の序盤から男女交際(彼氏彼女)であるパターンは少ない。
(ここで言うエロゲーとは恋愛ノベルゲームのこと)。
それぞれのルートの終盤で告白して性行為に至るストーリーが一番多いはずだ。

あるいは、青年誌のテイストなら性描写は気軽に出してもいいが、ジュブナイルでは破綻すると言えばいいか?
エロゲーの人気作品の多くは実はジュブナイルなので、性を描くことには慎重さが求められる。
(逆に言えば、青年誌のノリのエロゲーなら気軽に性を描いてもいいのかも)。

「機動戦士ガンダム00」はなぜつまらないのか(第19話まで)

一区切りついてから感想を書こうと思っていたけど、ひとまず暫定的に書きます。

「機動戦士ガンダム00」は現在放映中のガンダム新シリーズ。
アニメ界で最も有名なシナリオライターの一人である黒田洋介がガンダムを描くということでも期待されました。私個人としても黒田洋介作品はとても好きなので、期待と不安をもって視ました。

「機動戦士ガンダム00」は第25話までをひとまず放送して、その後半年おいてから残りの25話を放送するとされています。しかし第19話まで視て、明らかに面白くないのでこれはやばいのではないかと。
半年で一区切りというのは(同じサンライズのコードギアスとの兼ね合いで)当初から噂されていましたが、世間的には打ち切りっぽく見えるでしょうね。
この状態で第二期をやれるのかと。。
(まあやるんでしょうけど)。

面白くない理由を端的に言えば、人間関係ではなく戦況を中心に描こうとして失敗したからです。複数の勢力を設けて戦うという構図なんですが、これがさっぱり面白くない。そして人間関係がとても散漫です。戦況が中心で人間関係を付録にしてしまったのがまずいですね。。。

黒田洋介がシナリオを描くのであれば、主人公の成長物語として描いて欲しかったですね。「ガンダム00」の場合、刹那は暫定的な主人公というだけであり、彼の視点で物語が動いていません。(つまり主人公の物語ではないんですよ)。
主人公中心の濃厚な人間関係とか青春を中心に描いて欲しかったのに。なんでくだらない世界情勢とかが中心になるのか?

これまでのガンダムシリーズと比較してみるなら。。。

■「機動戦士ガンダム」は明らかな成長物語ですね。戦況も描かれているが、戦況をまったく理解しなくても楽しめる。「ガンダム00」もこういう作品として描いて欲しかった。
■「機動戦士Ζガンダム」。これは比較的戦況に重きを置いた作品ですが、一応成長物語として描かれています。最後はあれなんですが……。でも苦い結末も、それはそれとして「成長」かと。
■「機動戦士ガンダムΖΖ」。明らかな失敗作なので、何とも言えず。途中からプル&プルツーでテコ入れして萌え的にはよかった作品。(「ガンダム00」の16話で投入されたネーナもテコ入れキャラっぽいですが、失敗しているかと)。
■「機動戦士Vガンダム」。これは典型的な成長物語です。ちょっと地味かも。
■「機動武闘伝Gガンダム」。これはB級作品として最高に素晴らしく仕上がっています。普通の意味での「物語」ではないので、外して考えた方がいいでしょう。
■「新機動戦記ガンダムW」。この作品は浅いけど、つかみがいいんですよ。アニメ的にキャッチーなエピソードが並んでいます。「ガンダム00」は「つかみ」が悪いんですよね。「ガンダム00」の男キャラの個性の無さに較べると、「ガンダムW」のメンバーはよく描き分けられています。「ガンダムW」は男キャラ集団を上手く描いたお手本みたいな作品です。(逆にガンダム00は最も出来の悪い見本)。
■「機動新世紀ガンダムX」。出来の悪いラノベのような作品。ラブコメ的な要素があるんですが、その点でも基本を外しており、明らかな失敗作。ヒロインのティファのキャラデザは可愛かったんだけど、ヒロインとしての立ち位置がよくないなと。「ガンダム00」と最下位争いが出来ます。
■「∀ガンダム」。私個人としてはピンと来なかった。個々のエピソードが刺激に乏しい。商業的にも失敗。一部に絶賛する人あり。
■「機動戦士ガンダムSEED」。「∀ガンダム」の地味さを反省したのか、メロドラマ的な展開の作品。奇を衒ったエピソードの羅列。私個人は面白かったですね。登場人物のドタバタを中心に回っているのがよい。好き嫌いは別として印象的なエピソードが多いです。(回想が多いから印象に残るという説もあり)。
■「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」。私個人はこの作品好きです。「ガンダム00」と違って、キャラクター中心なのがよい。アンチも多いが、商業的には成功。


結論的に言うと、「機動戦士ガンダム00」は今後かなり厳しいのではないかと。
ここまで登場人物の人間関係をまともに描いていないので、ここから方向性を変えるのは難しいと思います。
(第十九話で、唐突に青春ドラマっぽい描写が出てきますが、無理があるなと。こういうのを描くなら、最初からちゃんと成長物語として描かないと)。
人間関係の接点が無いキャラが並んでいるみたいな状態になってますが、これを今後どうするのか?

第16話あたりから刺激的なエピソードを並べ始めましたが、たぶん今後はこの路線なんでしょうね。「SEED」と別のことをやろうとして、結局「SEED」みたいな感じに。しかも下手なのが問題。黒田洋介ならまともな青春ドラマも描けたはずですが、こうなっては奇を衒い続けるしかないかと。。。


成功を想像するのが空想、失敗を描くのがフィクション

主人公が成功するのをイメージするのは空想である。それは作品として成り立っている意味でのフィクションではないのだ。

主人公が成功したり出世したりするのはフィクションとしては好ましくない。
フィクションとして描くのは好ましくないのだ。

主人公は可能性だけを持っており、成功は保留されている。
それがフィクションの在り方なのだ。

たとえば主人公が野球をやるとして、甲子園で優勝してプロで大活躍してメジャーで大活躍とか描くのはフィクションでは好ましくない。いや、実はそういう人気作品も意外とあるので反証は挙げられてしまうだろう。でも「主人公がかっこよく出世していく」みたいなのはフィクションでは邪道だ。

現実の人生の分岐点において失敗すれば、それは明らかにダメージである。不可逆的なマイナスである。でもフィクションの場合、主人公が失敗しても「可能性」は維持されている。よくある手法で言えば、主人公が挫折してもライバル(天才)が主人公を認めているとか。つまり物語の中で挫折しているんだけど、「可能性」は強く維持されている、ということだ。(挫折させることで、逆に可能性を強調したりする)。
読者として読んでいて、「この主人公は今は挫折しているけど、必ず復活する」と可能性を信じるわけだ。

ともかく可能性を持っている状態を維持させて、しかし勲章や地位は手にしない、みたいな……。
(成功して勲章を手にするような人気作品もあることはあるけどね)。

「狼と香辛料」アニメ版(第六話までの感想)

第六話まで見た感想。

他人の評判を見ると好評らしいんですが、私個人としては今ひとつ。
アニメ化することによって、この作品独特のロジックが切り捨てられているような?

アニメだと、
・メリット→映像で描ける
・デメリット→細かい説明がやりづらい
ということがあるかと思います。

つまりアニメ化すると、
・視覚情報の増加
・文字情報の切り捨て
が起こるわけです。


ロボットアニメとかだと、戦況がわかりづらくても、戦闘自体の勢いがあるわけです。
(戦況が掴めなくても、ロボットアニメは映像の勢いで楽しめる)。
「狼と香辛料」は視覚情報を増やして文字情報を減らすと、わかりづらくなるだけ。

「狼と香辛料」はアニメの映像自体の出来はいいです。問題なのはストーリーがアニメに向いていないということ。(映像で説明するのに向いていないということ)。
ナレーションで解説を加えてみては……とも思ったんですが。。。

もっともアニメはあくまでアニメだから、キャラ萌えを楽しむという見方でいいのかな。
(つまり理屈で詰めていく小説版とは別の楽しみ方をしろと)。


悪意の解除(性善説と性悪説)

物語の中で何らかの悪意が示されるとする。
(あるいは悪意をもって何かが行われるとして)。
それを止めさせたり、謝罪させたりするには。。。

悪意は絶対的なものとして描かれるのが基本。悪人を倒さない限り悪意は解除できないという構図になる。
これはリアルでもそうである。悪意は絶対的だ。
たとえばリアルにおいてイジメの解決が難しいと言われるのも、悪意を解除するのが困難だと前提されているからである。仮に説得しても頑としてイジメは止めないだろうと前提されているわけだ。

さて、フィクションで悪意を持った敵に対するとして。
悪意の解除の仕方は、物語のテイストに大きな影響をもたらす。
正義の味方が極悪人を叩きのめすこともあれば、小さな子供向けのアニメみたいに悪人が(漫画的に)やっつけられるという場合もあるでしょう。

あるいは逆に、悪意を持っている悪人側から悪意を解除してしまう物語も時たま見掛ける。
(リアルだとあんまり無いかもしれないが)。
向こうから「悪かったよ」とか言ってくる。
そういうのは、なんか性善説っぽくなるかも?

ともかく悪意をどれだけ強固に設定するか(逆に中途半端に設定するか)によって物語の雰囲気はかなり変わると思う。

「健太やります!」の感想

単なる漫画のレビュー。

最近「健太やります!」を再読したんですが……。
どうしてもこの漫画を読むと、最終回の主人公の身長の話になってしまいます。

「健太やります!」は満田拓也が1989年から1994年まで少年サンデーで連載していた作品。
身長164センチの主人公がバレーボールを頑張るという作品です。主人公は天才ではなく、特に才能もありません。普通の少年がバレーを頑張る姿を描いた名作です。
身長164センチで……というのが作品の核だったため、最終回で185センチくらい?に身長が伸びていたことは批判を浴びました。
登場人物の成長ぶりを示すために背を伸ばすのは時々見掛けます。そんなに邪道ではないはず。でもこの作品では「164センチでバレーボールをやる」というのが肝だったので、主人公の身長の急激な伸びはかなり否定的な評価を受けています。「最終回は無かったことにしたい」という愛読者が多し。

さて、身長以外の話。
昔の作品なので絵柄はさすがに厳しいです。でも進むにつれて一応マシになっているかも?
内容はかなり王道的な少年漫画で、古き良き少年サンデーのテイストです。話の繋ぎ方が上手く、一気読み出来るタイプの作品。
作者の満田拓也は現在は「MAJOR」を長期連載中ですが、「MAJOR」とは結構違います。(もちろん同じ作者が描いているのだから似ている箇所も多々ある)。
「MAJOR」は現在65巻くらいまで進んでいる作品で、主人公が幼稚園児から大人になるまで描いています。だから最初の方と最近の話では別物なんですが、わりと馬鹿野球漫画っぽいです。最初は「健太やります!」に近い感じで、でもだんだん馬鹿野球っぽくなってくると言えばいいかな?
「MAJOR」はあんまり必殺技みたいなのは出てこなくて、現実に可能な範囲のプレーだけですが、テイスト的には必殺技が出そうなタイプの野球漫画。(「健太やります!」があまりにも等身大の主人公の作品なので、これと比較するとほとんどの作品が超人的になってしまうかも)。

私個人としては「MAJOR」はかなり好きな作品なんですが、テイストが馬鹿野球っぽいので、客観的に見た場合高くは評価出来ません。
(馬鹿野球と言ってみたのはふざけているという意味ではない。真剣そのものの馬鹿。いわゆる劇画です)。
すごく面白いんだけど大雑把かなと。
勢いに乗って読める人にとっては「MAJOR」はかなり面白い作品です。乗り切れなければ駄作。



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