人間というのは成長しません。小学校の頃に人気者だった人は、大人になっても人気者です。小学校の頃に冴えない人物だったら、大人になっても冴えません。つまりポジションは変わらないのです。
(われわれは「努力が足りない」という言葉で管理されているが、実際の世の中はDNAスペックで序列化されるヒエラルキー社会なのです)。
成長という言葉の使い方にもよるが、人間はヒエラルキー的に不動。たとえば8歳から18歳になるまでの10年間でみんな運動能力は上がるが、同世代間でのヒエラルキーは不変。
さて、フィクションの成長物語について。
成長物語というのは、明確な定義は難しいのです。
サッカー漫画とか野球漫画なら定義出来ますが、「成長物語」って様々な定義がありえます。
(あるいは厳密に定義するべきではないのかもしれません)。
とりあえず雑に切り分けるための概念提示をすれば、「成長」する場合に、能力レベルアップと内面レベルアップがあるわけです。このうち「能力レベルアップ」の比重が高い作品は成長物語ではないと思います。たとえば「ドラゴンボール」は成長物語ではないという定義でいいでしょう。
多くの人が「成長物語」という場合、内面レベルアップのことを想定していると思われます。主人公の内面的成長で物語が動いたりすること。内面レベルアップで新しい視野が開けて新しいステージに……と言えばいいのか。能力を鍛えるという要素を含んでいてもいいが、あくまで内面的成長に重点が置かれるわけです。
物語の中でイベントがたくさん発生しても、主人公が内面的に成長しない作品はたくさんあります。主人公の内面が(自我の成長という文脈では)変化しない作品の方が多い。
それに対して、経験によって内面(自我)がレベルアップするという人間観に基づいているのが成長物語なのです。
実際の人間には「内面レベルアップ」はないと思うんですけどね。というか、能力が低いのに内面だけぐんぐんレベルアップして道が切り開けていくなんてことはありません。フィクションの成長物語もよく見てみれば、ポテンシャルの高い主人公だったりします。内面的成長の結果が(物語内の)問題の解決に結び付くのが成長物語の必須条件であるとは限りませんが。
ポテンシャルの高い主人公を描くとして、修業で強くなった(能力レベルアップ)とするか、内面の変化(内面レベルアップ)で問題を解決したとするかの問題。
成長物語は人生論的なメッセージに重きを置くので、なんか誰にでも出来るような幻想を生みだしてしまうのかも。
(現実生活だと、内面をどう作り替えても、本人の外形的なポジションは変わりません)。
また成長物語という場合、成長することの苦みを描く場合もあります。
というより、苦みによるレベルアップはある意味基本ですかね。
