まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

レビュー地域紛争を上から目線で描いた「機動戦士ガンダム00」第一期が最終回

ガンダム00の第25話。
ようやく第一期が最終回です。

見ていて、「もしかして第一期で打ちきりか?」と思ったんですが、最後の方で第二期への伏線が張られていたので、たぶん第二期もやるんでしょう。打ち切りだと喜ばせておいて、最後に伏線を張りまくるなんて……。
(これだけ悪あがきのように伏線張って、それでも打ち切られたら面白いんですが)。

第一期は結局戦っている理由がわからないまま……。
最初の設定段階で世界大戦などしておらず、結構平和なので、そこに介入するのが意味不明でした。
最終回で「地球連邦平和維持軍」が発足するんだけど、初期段階とあんまり変わっていないわけです。
地域紛争とかテロが課題だったわけで、それがどうなったのか?
世界がまとまっても地域紛争やテロはあるのでは?

地域紛争が描かれるわりには、妙に大国中心でグローバルな「上から目線」なんですよ、このアニメは。
そのあたりが「世界の歪み」なのかもしれないけど。

ガンダム00の場合、商業的にも今ひとつなので、そういう意味でも第二期を続ける積極的な理由がない気がします。前作のガンダムSEEDはネットでの意見だけ見てるとすごい不人気のように思えますが、実はDVDなどは記録的な売り上げを残しています。(特に「ガンダムSEED DESTINY」は驚異的な売り上げでした)。

ガンダム00は、素直に世界大戦でも描いておけばいいものを、地域紛争とかテロに(上から目線で)焦点を当てるから、こうやって破綻したわけです。地域紛争とかテロを描くにしても、その人達の深刻な視点から描けば、刹那やロックオンの等身大の物語にもなり得た。世界観が「上から目線」だから、そのあたりが噛み合わなかったのです。
(ガンダム00は上から目線で地域紛争を描いているから、刹那やロックオンの人生が浮いてるんですよ。彼らの人生をきちんと描くなら、地域紛争をその当事者の目線から描かないと)。
地域紛争の場面が映像として出てくるわりには、物語として全然描かれてないんです。地域紛争のイメージ映像があるだけで、脚本として(地域紛争の中身が)まともに描かれてないのがこの作品。
【2008/03/30】 | レビュー | トラックバック(1)



レビュー「狼と香辛料」の羊飼い少女に萌える

「狼と香辛料」についてまとめておきましょう。

原作は2005年の電撃大賞で銀賞に選ばれた作品。
(この話題になると、大賞の「お留守バンシー」の悪口が言われる展開になりがちだが、私は「お留守バンシー」も結構好きですよ)。

「狼と香辛料」はちょっと萌え不足ながらも、小説としての出来の良さが評価され、かなり売れてると思います。
ラノベでは異能力でドカンと解決してしまう作品が多いんですが、この「狼と香辛料」では、あくまで社会ルールの仕組みに従って物事を解決していきます。(ホロの力で解決してしまうことも結構あるんですが、まったく見せ場がないのも困るということでしょう)。
売れているわりには、どうもヲタ受けが悪いという印象でした。原作の挿し絵に関しては賛否両論ありますが、少なくとも萌える絵柄ではないので、ヲタ商売的にどうなのかと。

さて、アニメの方。
全13話ということですが、このうち第七話はDVDのみ収録となるそうです。
テレビで放送されたのは全部で12話ということになります。

アニメは(原作に欠けている)萌え成分の増加という点で成功した印象があります。
私的には特に羊飼いノーラに萌えましたね。原作ではどうでもいいキャラだったのに、アニメのキャラが可愛すぎる。
(ちなみに私は金髪少女にかなり萌えるので、その意味で点数が甘すぎるかも)。

問題なのは、羊飼いノーラが今後は出てこないということですね。今回のアニメでは原作第二巻まで消化したわけですが、第三巻以降(長編では)ノーラは出てきません。せっかく金髪少女のいいキャラを見つけたのに……。

もちろんこの作品のメインはホロなので、その部分での萌え評価がどうなのか。
私としては、ホロには萌えないので、ちょっと難しい。
羊飼いノーラが出てこない「狼と香辛料」なんて見る価値あるのか?
でも他人の評判を見ると、ホロに萌えている人もいるようなので、第二期もあるだろうと予想。

【2008/03/29】 | レビュー | トラックバック(0)



評論「狼と香辛料」は社会的縛りを描いている希有なラノベ

普通の作品だと、主人公が無一文になるってよくあるんですよ。
で、あんまり困らない。いや、一応困るけどあくまで漫画的に(コメディ的に)困ってみせるだけで、ある種の自由人として生きていけたりする。ボヘミアンですよ。

「狼と香辛料」でも、これが凡百のラノベなら「無一文になったらなったで、わっちと一緒に自由に生きていけばよいでありんす」みたいな展開になる気がします。主人公が商人を辞めて、狼の謎を探す旅をする展開とか。主人公には実は狼を操る能力があったりとか。
(実際の「狼と香辛料」では、主人公はあくまで商人として社会的に生きていくのが大前提です)。

ほとんどの漫画・アニメ・ラノベでは、経済的な義務とか社会的な縛りが描かれないのです。主人公が無一文になっても、ある意味漫画的自由を得られたということであり、本当の意味で心理的負担は感じてないのです。決して経済問題としては描かれず、コメディとして扱われるのです。

「ナニワ金融道」がかなり衝撃的だったのは、借金を返せないことの恐ろしさを漫画で描いたからです。
普通の漫画の文法だと、借金したらボヘミアンになるだけで、別にいいんですよ。
「ナニワ金融道」は社会的縛りを非常に濃く描いて見せた。それは漫画では極めて例外的だったので、私たちは衝撃を受けたのです。(お金を借りたら返さないといけないという単純なことを描いたら、漫画読者には衝撃的だったのです)。

「狼と香辛料」でも、社会的な掟や縛りをちゃんと描いています。
というか、ボヘミアンルートを禁じている。
普通のラノベだと、主人公が社会から放逐されそうな展開になったら、その後は普通にボヘミアンルートなんですが、「狼と香辛料」では、あくまで社会的商人の立場に留まろうとするのです。

なんで「借金」というのをまともに描く作品は少ないのか?
なんで無一文をコメディとして描いてしまう作品が多いのか?
お約束だから……としかいいようがないのですが、基本的にボヘミアンルートを読者は求めているのです。主人公が社会的縛りから逃れていく展開のラノベが多すぎるのです。だから「社会的縛り」から逃れられない前提の作品に出会うと新鮮に感じるのです。


【2008/03/27】 | 評論 | トラックバック(0)



雑記(現実でもフィクションでも)背後から攻撃するのは禁止

フィクションなら何をやってもいいというわけではありません。むしろ現実のルールに結構縛られます。ある程度まともにバトルをする作品では背中からの攻撃は禁止。力くらべは尊重されなくてはならない。

よくよく考えてみると、背中から攻撃するのが禁止だというのは興味深い。
他人を殴るとしますよ?
正面から殴るのと、背中から殴るのとでは罪の程度が違うんですか?

私たちは小さい頃から力関係に従うことを教えられます。たぶん正面から殴るのは、力関係に反してないので、まあ普通の暴力です。背後から殴るのは力関係自体への反逆なので破壊活動です。
(俺は強いから背中から殴られても平気だという人はいないはず)。

腕力100と腕力80の人間がいたら、必ず100の側が勝たないといけない。
それがルールです。
(腕力100の側が不死身だというわけではなく、そういうルールなのです)。
「強い側が勝つ」という「ルール」は、弱い側が勝ってしまうような方法を反則とすることで成り立ちます。

「勝つ」のと「破壊活動」は違うのです。
弱者が強者を攻撃する方法はたくさんありますが、それは「勝利」ではなく「破壊活動」です。
「勝つ」ためには、ルールの中で「強さ」を示す必要があるのです。

フィクションでもこのルールは守られます。
腕力80が腕力100を背中から攻撃して破壊するのは禁止。
(犯罪などを描く作品ではあり得ますが)。

「決闘」のシチュエーションを作るというのがバトルの基本なわけです。
「決闘」というのは、強い側が勝つということです。

「決闘」において弱い側が戦略で勝つこともありますが、その場合も、戦略の勝利として認められることが重要です。
その弱者の戦略がフェアであることが重要なのです。
卑怯な手段を用いてはならない。

フェアとか卑怯とかいうのも、強い側を守るための理屈なんですが……。
ともかく「フェア」であるのが重要なのです。
【2008/03/26】 | 雑記 | トラックバック(0)



レビュー「ねくろま」第四巻を読んだけど……



私は最近一番面白いラノベは「ねくろま」(平坂読)だと思っているのです。
積んである作品がたくさんあるので、新刊に手を出すのも面倒だが「ねくろま」は発売日に買って発売日に読む。
で、今日発売された第四巻もそうやって読んだんだけど。。。

第三巻で懸念していた方向性が第四巻でさらに強まっています。
こういう方向に進んでほしくないという方に見事に進んでいた。

ある意味ラノベにありがちだと思うのです。ちょっと遊び加減の作品になるのは。
「ねくろま」が大人気作品なら、途中で手抜きモードの巻があってもいいけど、そうではないだけに第四巻のこういう書き方はどうなのか。
「ねくろま」は基本的にコメディだから、脱線するのはいいんだけど、第四巻の脱線の仕方はちょっと。「ねくろま」はふざけた作品だからこそ、ストイックに書いてほしいのです。
第一巻と第二巻は、ギリギリのバランスで保たれていたと思うのです。特に第一巻は出来がよいですね。「ねくろま」第一巻はホントに素晴らしいですよ。ふざけているのに、ストイックに我慢して書いている。

作者が自作のキャラで遊ぶみたいなのは、好きな人もいるのでしょう。
私は「Fate/stay night」のファンディスク「Fate/hollow ataraxia」があんまり好きではないのですが、でもファンには人気があったと言える。「月姫」のファンディスク「歌月十夜」も然り。私は好きではないけど、ファンの人は受け入れています。作者の人が二次創作的なノリで書くのは私はイヤなんだけど、これはこれとして受け入れられる場合もあり。

なお「ねくろま」第四巻のあとがきによれば、第五巻もあるそうで、
「このシリーズも次からいよいよクライマックスに突入します」
と書かれている。

まあ第三巻以降が今ひとつに思える理由として、私が「ねくろま」の中で一番好きなのが金髪美少女の生徒会長だからというのもあるんですけどね。(私は金髪美少女キャラに偏愛があるのです。生徒会長がたくさん出てくるという理由で第二巻が一番好き)。
第三巻以降生徒会長の存在感が薄まっているので、そのあたりの(私個人の)好き嫌いの問題もあるかと。
【2008/03/25】 | レビュー | トラックバック(0)



物語の在り方登場人物の心境の変化には「きっかけ」としてのイベントが必要

(現実だと)人間の心境の変化って、何となくじゃないですか?
必ずしもドラマはありません。

フィクションだとこれは好ましくないのです。登場人物の意志が変わるなら、基本的には「きっかけ」となるエピソードが必要です。何となく心境が変わったということでは、メリハリがありません。

Aという心境

(何となく)

Bという心境

だと、読者(視聴者)としては今ひとつすっきりしません。



Aという心境だった

ドラマティックな出来事

Bという心境になった

という感じだと、ドラマとしてはっきりするのです。

あるいは、心境の変化はイベントの結果ではなく、イベントに直面して何らかの感情を出し、その感情で乗り越えるみたいな感じですかね。

困難なイベントに直面

勇気を出す

勇気でイベントを解決

みたいなのが一番ありがちなパターンかと。
(そういうイベントの通過によって「成長」したりするわけです)。

普通の人生なら心境の変化にイベントが絡むとは限りませんが、フィクションではドラマ性のあるイベントで心境が変化するのが望ましい。
(これをやりすぎるとメロドラマと言われます)。
【2008/03/25】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



雑記逆アクセスランキング(手動です)

よく逆アクセスランキングというのがありますが、多くはJavaScriptで表示させています。
Googleのクローラーの場合、(過渡期だと思いますが)JavaScriptで表示させたリンクは追わない可能性があるので、「逆アクセスランキング」はちょっとどうかと思うのです。
ハイパーリンクを貼ってもグーグル的にノーカウントなら、貼ってないのと同じではないのかと。

なので、うちは手動でやります。
(柱リンクは一度貼ると外しづらいので貼りたくない。機械的に逆アクセスランキングとするのは、エントリーの内容に人間関係が影響するのを避けるため)。

最近1ヶ月間で(うちのブログに対して)10以上のアクセスがあったところ。
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/
http://d.hatena.ne.jp/izumino/
http://d.hatena.ne.jp/kaien/
http://dontakt.blog32.fc2.com/
http://crusherfactory.net/~pmoon/mt/
http://mkt5126.seesaa.net/
http://tekitounaotoko.blog4.fc2.com/
http://blog.goo.ne.jp/skripka/
http://retro85.blog33.fc2.com/
http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/
http://kamina.jugem.cc/
http://sukumiu.blog99.fc2.com/
http://sorakale.blog83.fc2.com/
http://tg1130.blog.shinobi.jp/
http://miruto.org/
【2008/03/25】 | 雑記 | トラックバック(0)



レビュー登場人物の背景が秘密であることが存在感を生むこともあるが、ガンダム00は完璧に失敗している


第24話まで視た。
私としては4月に始まるコードギアス第二期に向けてわくわくしている状態なので、ガンダム00の破綻ぶりは結構許せる。もうすぐコードギアス第二期がやってくるのです!

ガンダム00の第一期は25話で終わります。残り1話ですね。半年後に第二期をやる予定らしいんですが、これだけつまらないのをまだ続けるのか。

さて、ガンダム00の特徴は、ソレスタルビーイング(主人公達)の背景が不明だということです。そういうのが存在感を生むこともあるんです。登場人物の経歴が謎というのは、使い方によっては物語効果が強いです。
でもガンダム00の場合、経歴が謎なのが、単にキャラの薄さに繋がっているだけ。ソレスタルビーイングの若い女の子二人組もキャラが薄すぎですよ。

やっぱり登場人物の背景を謎にするのなら、好奇心を煽る構造になっていないと駄目ですね。
ガンダム00は「謎」ですら無いんですよ。「謎」にするためには、「謎」として提示する必要があるんです。視聴者的にその「謎」が気になって仕方がない構図にする必要があります。

とにかく動機が不明で、その不明であることに好奇心が湧かないのが問題。
この人達が何のために戦ってるのかさっぱりわからないですよ。


【2008/03/23】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記伏線の回収という言葉がイヤな理由

「伏線の回収」という言葉がイヤなのは、これが物語の根幹であるかのように思っている人が多いから。言葉の定義にもよるけど、単なる地味な伏線なら回収しなくてもいいと思うのです。単なる地味な設定を伏線と見なして、(その設定がフェイドアウトすると)「伏線の未回収だ!」と騒ぐのはどうなのか?

伏線と、物語の重要エピソードは分けて考えるべきです。たとえば学園物で「最近夜中に校舎をうろついている人物がいるらしい」という話を出すとします。(もちろんこれは重要エピソードです)。当然この後の方で、その不審人物の解明へと展開するわけです。この事例で考えた場合、伏線という言葉を使わなくても説明出来る気がします。

夜中に誰かがうろついている

だったら俺達で探そうぜ

不審者を見つけて、なんらかの事情が説明される

こうした場合、不審者の噂が「伏線」で、不審者を発見し動機を解明したことを「伏線の回収」と呼ぶべきなんでしょうか?
呼んでもいいけど、伏線ではなく、イベントやエピソードと呼んだ方がいいです。

だって「夜の学校に不審者がいる」って仄めかしではなくて、明らかに解決を迫るエピソードです。
これを伏線と呼ぶのか????

フィクションの中のイベントやエピソードは解決を求めているわけです。
「夜の学校に不審者が……」というエピソードがあった段階で、これを探そうという圧力が働きます。

たとえば主人公の妹がひき逃げされたとしますよ。
これは伏線ですか?
明らかに解決を迫る圧力のあるエピソードです。

「解決圧力(解決を迫る圧力)」がある重要エピソードは伏線と呼ぶべきではないのです。

解決圧力(解決を迫る圧力)を持たないエピソードは、別にいいんですよ。
それが放置されたらそれまで。
伏線の未回収だとか大騒ぎする必要はないのです。

解決圧力の強いエピソードが並んでいると物語は面白いんです。
地味な伏線の回収・未回収に神経を尖らせるのは、物語の面白い読み方ではないのです。
【2008/03/23】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方主人公が信念を曲げたらゲームオーバー

あくまでシリアスなストーリーに関して。
主人公には「言動の一貫性」が必要です。
信念に行動を合わせていくことが必要です。

リアルだと、言動の一貫性に拘泥していたら変人かもしれません。状況や相手によって言ってることが変わるのが普通です。臨機応変ということです。

(シリアスなストーリーの)フィクションの主人公に臨機応変は許されません。主人公には不器用なキャラが求められることとも関係しますが、場当たり的に妥協してはいけないわけです。信念があれば、その信念を貫く。
信念を曲げるかどうか踏み絵を踏まされる場面とかが出てきますよね?
信念のある主人公がいると、そういう場面が必ずあります。
こういう場面で信念を曲げたら物語の破綻です。
(もちろん信念を貫いたら損をする構図になっているわけです。それでも信念を貫く選択をするのです)。

あるいは視聴者(読者)である我々も主人公の言動の一貫性をチェックしているわけです。
こいつは第三話でこう言っていたのに、第十五話で別のことを言ってやがる!みたいな。

主人公というのは、言動の一貫性を守れるかどうか、ということを気にして行動しているわけです。
「信念」の設定は重要です。物語の柱です。そこから物語が展開するわけです。信念を曲げたら物語のルールを曲げることになるので、フィクションとしては破綻です。
(現実の人生なら、うまく妥協して果実を手にしたらOKということになると思います)。

最初に信念があり。
それを曲げないように生きていく。
曲げて妥協したらゲームオーバーというルールなのです。
これがフィクションの主人公なのです。

最初に決めた信念を完全に貫かないといけないというわけではなく、「内面的格闘」の果てに、落とし所を見出すのは許されます。得をする妥協であってはいけないのですが、主人公として筋が通っていればいいのです。
ともかく主人公として、日和見や臨機応変は駄目であると。
【2008/03/21】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方記憶の反芻と過去の克服

過去のイヤな出来事を憶えていると、「昔のことをいつまでも……」とか言われます。でも、イヤな出来事を全部憶えているのは普通なのです。われわれが他人に対して「昔のことをいつまでも……」というのは、面倒くさいから「時効だろ」と切り捨てているわけです。

「憶えている」とか「憶えていない」という言い方も、ある意味不正確なのです。
実際は反芻するかどうかなのです。
イヤな記憶を憶えているという場合、それは「イヤな記憶を反芻している」というのが正しいのです。
単に憶えているだけなら、結構人間は憶えています。
小学校の頃に遠足に行って、それが無難なものだったとします。そうだとしたらわざわざ思い返さない。でも「小学校の頃あそこに遠足に行ったよね」とか言われれば、「そう言えば遠足で行ったことあるな」くらいには思い出すはず。つまり、忘れているというのは、反芻していないということです。決して記憶から抹消されているわけではなく、普段は回想したり反芻したりしないだけです。

さて、フィクションでは過去のイヤな記憶(トラウマ)を反芻する場面が多々出てきます。過去の記憶を反芻しながら生きている主人公というのは結構います。その過去の忌まわしい記憶が作品の中心軸であることも多々ある。主人公の(負の)アイデンティティーであり、物語の動機付けの起点になるわけです。

特にアニメだと過去の回想は多用されます。
アニメの場合、「過去回想」をやると映像の使い回しが出来るので都合がいいからかもしれません。

ラノベとかだと、「過去の記憶の反芻」をやっても、それで尺が潰せるというメリットがないです。
むしろ小説媒体で回想場面を多用すると時間の前後関係が不明確になり、逆効果であることも。
だから「過去の記憶の反芻」はあんまり露骨にはやらないかもしれません。

でも、過去のネガティブな記憶を反芻しながら生きるのは人間の本質なので、多くのフィクションで、結構使うわけです。
ポイントとなる重要場面では使われます。

フィクションでは、過去にとらわれている主人公は、その過去と向き合い克服する場面が与えられます。
初期設定で主人公に「過去の負の記憶」が設定されていれば、後半の方でそれと対決して克服する場面があるんだろうなと予想出来るわけです。
そして過去を乗り越えて解決するのです。過去の課題の克服です。過去の自分との対決です。こうやって解決してしまうのがフィクションの特徴です。
(実際の人生だと、過去の課題は克服することが出来ず、単に反芻するしかないんですが……。あるいは「昔のことを……」と言われて終わりか)。
【2008/03/20】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方周囲からの人気で容姿レベルを規定する

ライトノベルの手法のひとつとして、周囲の人気でヒロインの魅力を規定するというのがあると思います。
「クラスの男子の間で大人気」とか。
「毎日告白されて大変だ」とか。
「ラブレターが山積み」だとか。
「他の高校にまで美少女ぶりが知れ渡っている」とか。

地の文で、このヒロインの顔はこんなに可愛いんですよ、と長々と書いても効果があるかわかりません。
ラノベのヒロインの「顔の描写」で萌えたことありますか?
普通は「顔の描写」では萌えないですよ。
だから周囲の人気で規定するわけです。

主人公個人がヒロインを可愛いと思うよりは、みんなの中で大人気とした方が欲望を刺激すると言えばいいですかね。(人間は他人の欲望を模倣する)。

でも、難しいのは、こういう手法を使わない人気作品も結構あることです。
「このヒロインはこんなに人気がある」という書き方をしてない人気作品はたくさんあります。
周囲の人気ポイントで魅力を表す、というのが行われていなくても、ヒロインは魅力的であり得る。
地味なポジションでも、充分に魅力的なヒロインは存在しうる。

結局は16歳くらいの少女を出しておけば、読者が勝手に脳内補完してくれるとも思うんですけどね。(これは女子高生はみんな可愛いという世間の感覚と同じであり、ヲタだけが異常補完力を持っているわけではないです)。
周囲からの人気がなくとも、普通の十代の少女なら、少女全般の可愛さがあるので、それでOKということもあるかなと。

物語の中でのヒロインの魅力って物語構造的なものだと思うのです。物語的に萌えるかどうかなんです。「顔の描写」に萌えるのではない。リアルなら、顔だけがすごい可愛ければそれだけ萌えるんだろうけど、物語の中での可愛さはそれとは別なのです。シチュエーションが必要なのです。
【2008/03/19】 | 物語の在り方 | トラックバック(1)



雑記女の論理について:自分に無関係な暴力は非難、しかし自分を守ってくれる暴力には嬉し泣き

これは現実にもフィクションにも共通する問題です。
女は自分と無関係なところで暴力が行われていると非難します。でも、自分を守ってくれる暴力については正当化します。嬉し泣きして、ありがとうである。

同じ暴力でも「男が女を守る」みたいなのは、他のものとは扱いが違う。
たとえば誰かが殴り合いをするとしても、「男が女を守る」という文脈だと別扱い。

「男が女を守る」みたいなのは、男の子向けの作品でも、ある程度基本的なルールです。
女の子が実質主役みたいな作品でも、肝心な部分では男が女を守る構図になります。
「クレイモア」みたいに女が強くてそのままみたいなのは少数派です。
(ちなみに「クレイモア」はアニメ版しか見ていないので、もしかすると原作では「男が女を守る」エピソードがあったりするかもしれないが)。
ともかく、結構強気な女の子でも、どこかで「男に守られる」というエピソードが出てきて、しおらしい態度を見せたりするのが基本です。(たとえば「とらドラ!」でヒロインが一貫して延々と強気だったら、誰も読まないですよ)。

話が脱線しますが、エディプスコンプレックスもたぶんこのあたりと関係あると思うんです。
(これは私見なので、まともな説明ではないことをお断りしておきます)。

エディプス的な関係って、
父親:ジャイアン
母親:スネ夫
息子:のび太
的な構図があると思うのです。

父親が強くて抑圧者として君臨して、母親がそれを正当化して媒介すると。
フロイトの場合、父親は優しい人物だったようなので、優しい父親への罪悪感みたいな方向から書いてますけどね。
ともかく「父−母−息子」の関係で、母がどちらに付くかがキャスティングボードを握るのはどの家庭でも共通。母が父の側に付くと、父と息子が明確に対立するエディプスコンプレックスになるでしょう。

アニメとかだと優しいお姉さんみたいなお母さんが出てきて、フラットな家族関係を作っていることが多いですかね。親にエゴがあるのは(現実なら)普通ですが、それをまともに書くと物語として不愉快になりがちなので、その部分は避けることが多いかも。
『コードギアス』で主人公の母親が最初から殺されているのは、フィクションとして描きやすいエディプスコンプレックスにするためかと思います。語弊があるが、母親を死なせた状態での三角関係だから口当たりがいいのです。母親が生きている状態でエディプス三角関係をやってしまうとリアルすぎてちょっと見たくない……。『巨人の星』とか『エヴァ』で母親が死んでいるのもそういうことだと思います。

話を戻すと、「男が女を守る」と言えば聞こえはいいですが、ある意味、女がけしかけて男同士を喧嘩させるということでもあります。
女は三角関係力学を作ろうとするものであり、その力学が働かない暴力には拒絶反応を示すのです。
【2008/03/17】 | 雑記 | トラックバック(0)



雑記能力スペックと内面(あるいは性格)

私たちは、内面とか性格についての話を好みます。
別に内面の素晴らしさを求めているわけではなく、あるいは、根本的にそれを探究しているわけでもなく、しかし語りたがる。なんで語りたがるのだろうかと考えると、「性格」という概念から理解しないと物語れないからです。

性格という概念は「的」なんですよ。
感情の射撃のターゲット。
あなたが他人に対して批判的になる場合、「性格」という単語を使うはずですよ。
愛したり恋したりする場合も、そういう感情を相手の「性格」に思い入れるのです。
(あなたが誰かに恋するとして、顔だけに恋するのは難しいはずです)。

フィクションでも内面から語らないと話にならないのですよ。
この子は性格的にこうだから……。
主人公は性格的にこうだから……。
内面とか性格とか動機とかそういう部分から物語るのです。

実際はスペックの力学で(この世界の法則に従い)駒として動いているだけでも、そういう観点から語ったら、物語にならないのです。

他人の意見を引用すると、
http://red.ribbon.to/~kiriko/rule3.htm
さて、ここでひとつゲームの話をしよう。題材は『スーパーマリオ・ブラザーズ』。
このゲームは、誰もが一度はプレイしたことがあると思う。あのゲームは、マリオが幽閉されたピーチを助けに行くという「物語」が設定されている。「囚われの君を助けに」というのは、宮崎駿が『カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』で書いたお話である。この二作は掛け値なしに傑作であり、私も見るたびに感動して、「シータよかったね」、「クラリスよかったね……」と思ってしまう。
それでは聞くが、貴方は『スーパーマリオ・ブラザーズ』の結末で感動しただろうか? 「ピーチ姫よかったね、マリオよかったね……」と思っただろうか?


つまりですね。
能力スペックだけで動いているのが実状でも、それだけだとマリオブラザーズになってしまうのです。
容姿とか、運動能力とか、身長とか、知的能力とか、(そういうステータス依存の)駒として動いているのが実状でも、別の説明をしないと物語にはならないのです。内面力学で動いていると説明しないと物語にならないということです。飛車は飛車としての意思で動く。角は角としての意思で動く。そう説明した場合に「物語」になるのです。
(そう説明しないなら、コンピューター同士が将棋を挿しているようなものです)。

でも物語でスペックが無視されているかというと、全然そんなことはないのです。
スペックのヒエラルキーは重視される。
これからは逸脱しないように描かれます。
飛車は飛車の能力として。角は角の能力として。
でも物語の展開は内的な動因によるものとして説明されるのです。
【2008/03/16】 | 雑記 | トラックバック(0)



レビューソレスタルビーイングという人災(「機動戦士ガンダム00」第23話までの感想)

ガンダム00は第25話で第一期が終わり、半年後に第二期が再開されるとされています。

第25話まで視ないとわかりませんが、少なくともここまでは支離滅裂です。ナレーションによって世界大戦が行われているという誤解が生まれていますが、最初から世界大戦はやっていません。テロリズムや地域紛争はあります。要するに現在の私たちの社会に近い状態を描いています。

第一話あたりから説明すると、世界に対して主人公達(ソレスタルビーイング)が戦いを吹っ掛ける。
なんで戦っているのかわからないまま第15話まで続きます。
(繰り返すが、最初から世界大戦などやってないし、結構平和なのです)。

15話のラストでトリニティという新しいガンダムが出てくるのですが、こいつらが悪い奴らで、主人公と敵対します。主人公達と悪いガンダムが戦うわけです。
その悪いガンダムも第22話で退場します。

第23話になったわけですが、こうなると、何で戦っているのか意味不明極まりないのです。
ただ単に主人公達が大国群と戦う。
何のために???
さっぱりわかりません。
というか主人公達も何のために戦っているのかわかってないのです。

ソレスタルビーイングはイオリア・シュヘンベルグという人物によって創設されたという設定ですが、その目的の真意は謎なのです。そして謎であるところが、物語を面白くさせているか?
断じて否です。
単に「戦っている理由がわからない」という状態を作っているだけです。
主人公達でさえイオリア・シュヘンベルグの真意がわからないわけですから。

エヴァンゲリオンだと一応使徒は悪と言えば悪でした。
使徒の正体は不明でも、戦わないといけないという切迫状況はあったわけです。
ガンダム00の場合、人間同士が戦っているわけですから、単なる人災です。
しかも主人公達(ソレスタルビーイング)が作り出した人災なのです。
ソレスタルビーイングがいなくなれば、世界は元通り平和になるのでは?

第一期終了まで残り2話しかないですから、どうなるんでしょう?
第25話で「イオリア・シュヘンベルグの真意」とかを説明して第二期に繋げるのかどうか。。。
【2008/03/16】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記容姿が記述されていなくても(読者が)ラノベのヒロインを美少女に脳内変換する問題

ライトノベルというのはヒロインへの萌えが目的とされているわりには、容姿の描写に文字数をたくさん割いているとは言い難い。

ラノベで求められている「美少女」は、実は少女全般のイメージです。「美人」とは違う。
美人特有の美しさではなく、少女全般の可愛さがイメージされているから、デフォでみんな美少女みたいな感じ……だと思うのです。少女なら誰でも持っている可愛らしさだから、特別な美しさに対して使用される語彙はふさわしくない。(絶世の美女を表現するのに使うような語彙はラノベのヒロインにはふさわしくない)。
美人の特権ではなく、少女全般の特権を前提としているのです。

ラノベの読者は、作中に容姿が記述されていなくても、ヒロインその他を美少女に脳内変換すると言われますが、これは(世間的に)女子高生がみんな可愛いとイメージされるようなものです。10代後半の女の子ならみんな可愛いはずだ、というのは世間の感覚としてあるわけです。ラノベにそういう年代のヒロインばかり出てきて、容姿の細かい描写無しに可愛いさが記号的に前提されていても、それはおかしくないのです。

十代の少女はみんなイノセントな可愛さを持っているという幻想がすでにあるから、ラノベはそれを利用している。(容姿をあんまり描写しなくてもこの年代の少女なら可愛いだろう、という形で利用しているのです)。

ある意味「美少女」という言葉自体が紛らわしいかも。
「美」はたぶん本質ではないのです。
「少女」ならみんな可愛いみたいな感覚だと思うので。
ラノベのヒロインがみんな十代なのは、「美」よりも「少女」に関心のある人が中心読者だからです。
【2008/03/13】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方ヒロインの我が侭に対して主人公は不愉快にならなくてはならない(でも本当に不愉快であってはならない)

特にライトノベルに関して。

ツンデレという場合、必ずしもヒロインがツンデレというわけではないのです。
作者がツンデレなのです。

作者がヒロインに対して、「この子はツンデレだから」と書くのは原則的によくないのです。
仮にそう書いたら、ツンデレが成立してないことになります。

あくまで「この女は性格が悪くて我が侭」と書き続ける。主人公の内面描写をする場合でも、主人公がヒロインに不快感を抱いていると書かなければならない。それでいて(記述されないにもかかわらず)ヒロインへの愛情が滲み出ていないといけないのです。

ツンとデレの二重構造は作者が抱えていなくてはならないのです。「この子は実は結構性格が優しいんだけど」とか書くのは禁止。そう書いてしまったらツンデレは不成立になります。作者はあくまで否定的にヒロインを描く。それにもかかわらず微笑ましくなるかどうかの問題なのです。

くどく言えば、主人公はヒロインに対して不愉快な感情を持たなくてはなりません。
ヒロインのわがままに対して(主人公が)「この子はツンデレだから可愛いな」とか思ってはいけないのです。
あくまで(主人公は)不快感。
不快だ不快だと言いつつ、実は不快ではないという構造。
(こう考えると主人公もツンデレであると言えます)。
【2008/03/11】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方フィクションでも登場人物は我慢するが……

フィクションは無制約なのか?
無制約の意味にもよりますが、登場人物が「これはフィクションだから自由にやっていいんだ」となることはありません。(実験的なメタフィクションならあり得るが、普通の作品では無い)。

フィクションだから我慢無しに適当にやるなんてことはない。
あんまり我慢しないですぐに喧嘩するキャラとかも結構いますが、それはそれでリアルと似たようなものでしょう。
ともかく、フィクションの基本は(リアルと同程度の)我慢です。
登場人物が(リアルと同水準で)我慢するのが大前提。

でもリアルとフィクションでは「解決」の格差があります。リアルだと何か問題があっても、それが解決されないまま生きているのが普通です。でもフィクションだと、最後に解決します。
(必ずしもハッピーエンドでなくても、主人公らしい「解決」の仕方をするわけです。リアルの私たちが問題を解決しないまま生きているのとは違う)。

あるいは、我慢というのはポジションの問題なのです。
イヤな出来事は誰にも平等に訪れる事故ではなくて、ポジションゆえの問題。
現実の人生だと、ポジション(人間関係)における我慢は覆せることが少ないので、我慢は単なる我慢です。
でもフィクションだと、ひとまず我慢してもその後の展開で「見返す」とか「やり返す」ということになるわけです。

現実だと「見返す」とか「やり返す」のが困難なことが多いので、ルサンチマンが人間存在の本質なのです。「見返す」とか「やり返す」のは、ルールに則って行うことが必要なのですが、普通は不可能になっているのです。ルールの実質を端的に言えば、立場が逆転すれば反撃してもいいということです。普通はそんなことは起こらないのです。
卑俗な例えで言うと、背が低いのを馬鹿にされたことに対抗して背を伸ばすとか。ブサイクなのを馬鹿にされたことに対抗して美形になるとか。そういうのは出来ないわけです。学歴を馬鹿にされたから東大に入ることにした、、とか漫画でありそうですが、現実には難しいわけです。

まあフィクションでも単に我慢するだけの人を描いてもいいわけですよ。
(リアルっぽい話にしたいなら、不可能性を描いてもいいわけです)。
でも多くの場合、フィクションで我慢が描かれたら、(その後の方で)見返すとかやり返す展開になるのです。
【2008/03/10】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



レビュー「機動戦士ガンダム00」大国と小国

現在第21話まで放映中。

最近第一話から見返していたのだが、ようやく第21話に追いついた。
二回見て、話の輪郭は掴めました。(でも面白さはわからず)。

「機動戦士ガンダム00」の設定は、公式には以下のように説明されています。

西暦2307年。
化石燃料は枯渇したが、人類はそれに代わる新たなエネルギーを手に入れていた。
3本の巨大な軌道エレベーターと、それに伴う大規模な太陽光発電システム。
しかし、このシステムの恩恵を得られるのは、一部の大国とその同盟国だけだった。

3つの軌道エレベーターを所有する3つの超大国群。
アメリカ合衆国を中心とした『ユニオン』。
中国、ロシア、インドを中心とした『人類革新連盟』。
ヨーロッパを中心とした『AEU』。
各超大国群は己の威信と繁栄のため、大いなるゼロサム・ゲームを続ける。
そう、24世紀になっても、人類は未だ一つになりきれずにいたのだ……。

そんな終わりのない戦いの世界で、「武力による戦争の根絶」を掲げる私設武装組織が現れる。モビルスーツ「ガンダム」を所有する彼らの名は、ソレスタルビーイング。

今、ガンダムによる全戦争行為への武力介入がはじまる。


この設定を普通に読むと、ユニオンと人類革新連盟とAEUの三つで世界大戦をやっていて、そこにガンダムが介入するという風に思えます。でも実際にはそんなストーリーではありません。そもそも三つの大国群は世界大戦をやっていない。あちこちで地域紛争があるだけ。

第一話からガンダムがいろいろ戦いますが、多くは地域紛争への介入です。
そして紛争の舞台は小国です。
雑に言えば、パレスチナとかチベットみたいなイメージと言えばいいかな?
つまり大国同士は戦争をやっていなくて、小国で紛争があるという構図になっています。

そして第十四話では、ガンダムに対抗するために(三つの大国群である)ユニオンと人類革新連盟とAEUが同盟を組むので、ゼロサムゲームとは何だったのか極めて不明です。
要は現在の世界情勢に近いことがイメージされているわけです。大国同士は戦争をやっておらず、小国で地域紛争はあると。

このアニメが一回見ただけではわかりづらいのは、ストーリーの解説やナレーションで大国同士が争っていると説明されながらも、実は平和だったりするからです。ガンダム00で描かれるアメリカも日本もヨーロッパも、平和ですからね。テロが発生したりするけど、これも現実の私たちの社会に近いわけです。世界大戦は無く、テロリズムはある世の中です。

第十五話のラストから別のガンダムが出てきて、そいつら(トリニティ)がだんだん悪くなります。
主人公のガンダムと戦うという話に切り替わります。
「大国vs小国」というのを十五話やって、それがつまらないから勧善懲悪に切り替えたと。
特に第十八話の勧善懲悪の露骨さは……。

そしてこれからの展開は「大国連合vsソレスタルビーイング」ということになりそうですが……。
果たしてどうなるのか?
というか、第十五話まで地域紛争に介入していたのは、一体何だったのか?
国際情勢っぽい話の評判が悪いから大国連合という漫画的展開にしたんだろうけど。
【2008/03/06】 | レビュー | トラックバック(0)



レビュー「機動戦士ガンダム00」は主人公が最初からガンダムに乗っているので

現在第21話まで放映中のガンダム00。

二度目の視聴中。12話まで視ました。

「機動戦士ガンダム00」がつまらない理由はたくさんありますが、そのうちのひとつは、主人公が最初からガンダムに乗っていることです。ガンダムWとかGガンダムでも最初から乗っていますが「ガンダム00」では逆効果のように思えます。

まず、普通ならどういうのが無難か?
主人公が物語開始時点で普通の少年であり、たまたまソレスタルビーイングに関わり、ガンダムに搭乗することになる、というものでしょう。
これなら、主人公がソレスタルビーイングについて説明を受けたりすることで、「解説を受ける構図」が作れるわけです。主人公と視聴者の知識レベルが同一の状態で、主人公がソレスタルビーイングについて知っていく。仮に教えられない秘密があるなら、それは主人公(視聴者)として気になるわけです。「ヴェーダについては教えられないわ」と言われたら主人公(視聴者)は気になる。

でも実際はどうか?
主人公はガンダムに最初から乗っています。また人間関係もソレスタルビーイングの中で閉じている。彼らの間で行われることは、彼らの間で了解済みです。誰かが誰かに解説を行うという構図がありません。つまり「主人公=視聴者」という構図がないのです。
ソレスタルビーイングの中で関係が閉じていて、彼らがそれに何の疑問も抱いていないから、視聴者としても好奇心が湧かないのです。ヴェーダという人工知能が命令しているらしいですが、登場人物が疑問を抱かないから、視聴者としてもどうでもいいや、という感じ。

細かく言えば、ガンダム00の第一話の冒頭は主人公の小さな頃にガンダムと出会うシーンから始まり、そこからオープニングを挟んで、時間が飛んでいるわけです。つまりソレスタルビーイングに入っていくプロセスは意図的に飛ばしているのですが、効果があるとは思えません。

別にガンダムに限らず、ある組織を描く場合、新人の視点から見ることは効果的です。
主人公が新人として組織に入る形が無難なのです。
新人視点で組織を見回したり、あるいは解説を受けたりして、情報を取得するわけです。
主人公が新人なら「解説を受ける必然性」があり、「主人公と視聴者の知識レベルが同じ」という二つの効用があります。

もちろん主人公が「新人」でない作品だってありますよ。最初からハイスキルの主人公が活躍していく作品はある種の類型としてありますね。そういう場合は主人公が解説して、別の誰かが聞くことになりますかね。
(「美味しんぼ」なら山岡士郎が栗田ゆう子に解説するみたいな構図)。

「ガンダム00」はスキルの高い主人公が活躍するタイプの話でないから厳しいですね。
必要もないのに現れて勝手に戦っているだけだから。
「見せ場」を作れていないのに、無駄にガンダムが強いのがこの作品。
でも第16話で悪いガンダムが出てから、ハイスキルの主人公が悪者を倒す構図になっているかも?
【2008/03/04】 | レビュー | トラックバック(0)



雑記GoogleのクローラーはJavaScriptを読んでいるのか?

逆アクセスランキングを設置しようかと思ったのです。
柱リンクは一度リンクすると外せないので設置したくないのです。
(サイトを長期的にやると、外せないのが面倒になるので)。
だから逆アクセスランキングが妥当かと思ったのです。
サイトの内容をリンク関係によって左右されたくないので、機械的に出力するならいいかなと考えたのです。

でも、JavaScriptで出力したものをグーグルがクロールしているのかどうか?
逆アクセスランキングはJavaScriptのコードをページに貼り付けて、リンクを表示するわけです。
ページのソースにはJavaScriptのコードが記述されるだけです。
つまりブラウザで見る場合には実行結果であるリンクの並びが表示されるけど、ソースにはコードが書いてあるだけ。
果たしてグーグルのクローラーはJavaScriptの実行結果まで見ているのか?

これが調べてもよくわかりません。
少なくとも数年前までは(JavaScriptの実行結果を)読んでないはずです。
ただ、最近は読んでいるらしいという話も。
(このあたりは過渡期なのかもしれません)。

グーグルニュースのヘルプを見てみると、グーグルニュースのクローラーはJavaScriptのリンクを追跡していないそうです。

http://www.google.co.jp/support/news_pub/bin/answer.py?answer=70872&topic=11665
Google ニュースのクローラは、JavaScript に埋め込まれているリンクを追跡することはできません。 Googleニュースのクローラは、HTMLリンクの追跡に最も適しています。JavaScriptリンクをHTMLリンクに変更し、Googleニュースヘルプセンターのこのセクションに示されている残りのガイドラインに準拠していただければ、Google ニュースで自動的にクロールされるようになります。


グーグルの検索ロボットとグーグルニュースのロボットは同じではないと思いますが、ある程度方針は似ているはずだと思うので、検索ではJavaScriptのリンクを追っていないのかな……という気も。

もちろんグーグル的にカウントされるかどうかの話ですよ。
仮にグーグル的にノーカウントでもJavaScriptで表示したものはハイパーリンクとしては機能しています。
でもグーグル的にノーカウントならリンクしていないのも同然なのがネットの現状です。

とりあえず手動で逆アクセスランキング。
(最近一ヶ月程度)。

http://golgo31.net/
http://retro85.blog33.fc2.com/
http://sorakale.blog83.fc2.com/
http://miruto.org/
http://ariel.s8.xrea.com/
http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/
http://blog.livedoor.jp/akio_live1/
http://dontakt.blog32.fc2.com/
http://blog.goo.ne.jp/skripka/
http://homepage1.nifty.com/maname/
【2008/03/03】 | 雑記 | トラックバック(0)



レビュー「機動戦士ガンダム00」って、先進国は思いっきり平和だよね



現在第21話まで放映中の「機動戦士ガンダム00」。
この作品を検討するために、第五話まで見返してみました。

主人公たち四人組が所属する「ソレスタルビーイング」は戦争を戦争で根絶するための武装組織と説明されています。
でも問題なのは、世界的に戦争をやっているように見えないこと。
(世界大戦は無く、地域紛争があるだけですね)。
戦争が行われていて、それを止めるための正義の味方として「ソレスタルビーイング」が登場するという名目なのですが、実際に戦争がまともに描かれていないのです。

たとえば仮に第一話でものすごい世界大戦を大々的に描いて、最後の方で謎のガンダムが(正義の味方として)登場して第二話に続く……というのが一番無難だったはずです。でも、そういう描き方は避けている。というか、そもそも世界大戦はやってないわけです。これは興味深いです。

第二話の冒頭で、現在の世界が三つの国家群に分かれていることが説明されます。
で、この三つでゼロサムゲームの戦いをしているそうです。
でも、ゼロサムゲームと言っているわりには、世界大戦にはなっていない。
三つの勢力で本当に争っているのか?

フィクションって、
問題の発生→問題の解決
の構図なわけですよ。
ガンダム00の場合、「問題」が描けてませんからね。
「問題」が描けていないのに、主人公のガンダム四機(ソレスタルビーイング)が現れて、問題の解決とか言っても何のことやらわかりません。

第二話で描かれているのは地域紛争なんですよね。大国間でゼロサムゲームやっているはずでは?
泥沼の世界大戦という設定にしないのは何で?

第三話も地域紛争への武力干渉です。
現在でも地域紛争はあるわけです。
ガンダム00が分かりづらいのは、国家群の大規模戦争が描かれず地域紛争ばかりであること。
(そもそも世界大戦は起こっていないわけです)。

地域紛争が世界全体の中でどういう意味を持つのかわかりづらいのです。(現在の世界でもあちこちで地域紛争はあるけど、グローバルに持つ意味は今ひとつわからないですよね)。もしかしたら製作者側が地域紛争に深い関心があるのかなと思ったり……。アニメなんだから普通に世界大戦にしておけよ、と思うんだけど。

第四話を見て、あらためて思うのは、このガンダム00は三百年後の世界といいつつ、現在の世界情勢に近いということです。世界大戦は起こっておらず、でも局地的な紛争はあるわけです。この作品が架空の暦ではなく西暦を用いているのも、現代社会への問題提起のつもりなんでしょうか?
まあつまらないのは確かです。

第五話を見て、あらためてかなり平和な世の中だなと。
世界大戦の兆しもなく、地域紛争があるだけ。
まさに現在の社会そのものですね。
やっぱりグローバルな視点から地域紛争を扱っているから、小さく見えてしまいます。
地域紛争も、その枠の中に入れば地獄みたいなもののはずですが、そういう描き方もしてないですからね。
つまり視点の問題です。地域紛争の当事者の視点が無く、平和な大国の人物ばかり出てくるから、人物と状況が乖離している状態。
【2008/03/03】 | レビュー | トラックバック(0)



物語の在り方成長物語についての試論(社会経験による成長と内面的成長の違い)

成長物語という場合、「成長」の中身が問題になるかもしれません。
あるいは、現実世界で言う成長と、フィクションの中で言う成長の違い。

これは定義の問題になりますが、
・社会経験による成長
・内面的成長(内面的課題の克服による成長)
は別個に考えた方がいいかもしれません。

青年漫画誌だと、社会経験による成長という作品がわりとあるかと思います。何らかの職業に新人として就いて、そこで経験を積んでいくみたいな。新人から見ると、そこで行われる出来事が新鮮であり、それに驚きを憶えつつも馴れていくような感じですね。
(もちろん漫画だと極端に描かるし非現実的なエピソードが多々出てきますが、ベクトルとしてはリアルでの成長に近いでしょう。経験による馴れという意味では)。

あくまで言葉の使われ方の頻度の問題ですが、「社会経験による成長」は今ひとつ成長物語とは呼ばれない気がします。(別に使いたければ使っても構わないが)。ある種の内面バトルが行われる作品の方が、「成長物語」と言われることが多いです。登場人物が内面的課題を抱えていて、内界と外界のバトルが行われるような作品。主人公が内面に壁を築いていて、それと戦う作品。
今さら「エヴァンゲリオン」を事例に挙げたくないのだが、誰も知らない作品を事例に挙げても仕方ないので、エヴァンゲリオンが典型例と言っておきましょう。社会経験が「新人→ベテラン」という流れ(経験により馴染んで適応するプロセス)だとすると、エヴァ的な作品では常に新人なのです。エヴァンゲリオンは「漫画的解決」を放棄している点で普通の成長物語とは違いますが、でも構造的には成長物語です。
ある意味「内面的成長」というのは成長の拒否なのです。多くの作品では最後の方で漫画的解決を与えてしまうので、そこが誤魔化されますが、エヴァ的な堂々巡りこそが、成長物語の基本構造かもしれないのです。(ある種の自己啓発セミナー的なノリと言えばいいか。永遠に自分探しをするために「成熟」が留保されているような)。馴染んで受け入れて適応するのが社会経験プロセスだとすれば、それとは別の非現実的アプローチをするということです。

ポジティブに問題が解決されるタイプの話としては、(誰でも読んでいるような漫画で挙げれば)「ワンピース」のチョッパー編は漫画的成長としてよく描けていると思います。チョッパーは自分が抱えている内面的課題を漫画的に克服するわけです。チョッパーみたいに問題を解決出来ることは現実には無いと思うんですが、漫画としてはとても素晴らしく感動的なのです。

まとめ的に言うと、馴れたり馴染んだりするのが現実の社会経験だが、それは今ひとつフィクションとして面白くないかも、ということです。(「馴れて馴染んで適応しました」とは全く別のアプローチの方がフィクションとしては評価が高い)。
【2008/03/02】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



物語の在り方成長物語についての試論(内面的な課題の克服)

前回のエントリーの再整理からすると、物語内で登場人物が成長するとして、
・能力レベルアップ
・内面レベルアップ
があるとします。
このうち、能力レベルアップの側面が強いものは「成長物語」とは呼ばないことにします。
(ドラゴンボールは成長物語ではない)。

主人公の内面的成長が描かれるとして……。基本的に平均よりナイーブな人物の内面的成長を描くということになるかと思います。
念を押して言っておくと、内面的成長というのは「不器用な人間が要領のいい人間になるまでの物語」ではないのです。決してそういう物語ではないです。ナイーブな人間特有の内面の物語なのです。ナイーブさは維持されます。いろんなイベントで傷ついて、それをナイーブに受け取っていくわけです。経験によってナイーブさは減少しないのです。
つまり常識的な意味での(社会経験を積む)成長ではなく、内面世界的な成熟をイメージしているわけです。
そういう「成長」が(フィクションだと)物語内の問題の解決に向かうこともあります。
内面的な課題を克服したから、問題を乗り越えることが出来た、、みたいな。

たとえば、あなたがたが好きなエロゲーで事例を挙げるなら、「Fate/Stay night」の"Fate"はセイバーの内面的課題の克服で物語が「解決」するし、"Unlimited Blade Works"は主人公の内面的課題の克服で物語が「解決」している。
("Heaven's Feel"がちょっとイヤな話なので、成長物語として上手く完結出来てないと思うんですが)。
ともかく、この場合の課題というのは、自分の内面に作っている壁のようなもので、それと戦うのです。
そして物語の「解決」が(普通の意味で幸せな)ハッピーエンドでなくてもいいのです。
内面的な課題が克服されて、物語的解決が付くということが重要です。

あるいは内面的課題が綺麗に解決されない場合でも(ある種の)成長物語と言えるかも?
定義にもよりますけどね。
主人公の内面的課題を軸に動いているかどうかが一番肝心な部分かと。
【2008/03/01】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



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