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人間存在を内面的に了解するのは人間が人間であるゆえんだが

人間が、物事を内面とか精神の問題として語るのは、変ではないです。
かなり人間らしいと思いますね。

フィクションでも現実でも。
我々の存在は、CPUとかメモリのスペックのように語られるものではない。
内面として語られるべきものです。

フィクションでも、「内面」がうまく描けている作品は素晴らしいと思いますね。
内面から人間を説明し、内面によって物事が動く。
それはいいのです。
(「キン肉マン」みたいな作品だって、筋肉が黙々と対決しているのではなく、一応内面的な動機で動いているわけですよ。漫画的な友情とか勇気とか、そういう動因で動いているわけです)。

ただ、現実において我々が人間を語る場合に、「内面」を言い過ぎると欺瞞的になる気がします。
卑俗な例で言うと、秋葉事件の加藤が「イケメンでないからモテない」と言っていたのに対して、「イケメンでなくてもモテる。加藤は内面が腐っているからだ」という意見をよく目にしました。
でも私は加藤の認知は歪んでいないと思う。
あの程度の容姿だと、「もてない」のは自然だと思います。
容姿による単純な選別を否定するなら、それこそ認知の歪みです。

加藤に歪みがあったとすれば、「モテない」という単純な事実のとらえ方でしょう。
彼の場合、自分の存在が否定される経験を積み重ねてきたと想像されるので、モテる以外に脱出路が無いという感じだったと思われます。
もてなくても、それなりに居場所のある人であればいいのですよ。
加藤に必要だったのは、モテのノウハウではない。モテないなりに楽しめる仲間を見つけるとか、そういう方が現実的に可能な選択肢です。つまりモテないと世界から孤立してしまうという構図が彼の場合問題なのです。あの容姿だと女にモテないこと自体は普通。

容姿の問題を内面の問題と関連づけるのは、きわめて人間らしい行為だと思うんですね。
我々は顔を愛することは出来ない。
あなたが美少女に憧れるとしても、惚れたらそれは「内面」を好きになっているのです。
人間存在は内面的了解によって成り立つのです。
綺麗な異性に惚れるのでも、内面への恋慕として了解するのです。
それが人間のシステムです。

内面的に了解するのが人間の仕組みというだけです。
内面だけで動いているのではなく、了解システムが内面的なのです。

フィクションにおいては、外的スペックと内面的了解を分解して考える必要はなく、「内面の動き」で物語ってもいいのです。それが優れた物語だから。

でも現実に適用すると欺瞞があります。
貴族だから高貴で誇り高い、という物語はフィクションとして楽しめます。
でも、現実に貴族って内面が高貴なのか?
平民は内面が卑しいの?
フィクションならいいけど、現実でそういうのは変ではないか。
(というより、身分制度のある時代はこういうイデオロギーがまかり通っていたのです)。

人間を内面から物語るのは、人間の仕組みとして自然なんだけど、現実に冷静に考えたらそれは違う。
フィクションではこのあたりを相対化する必要はなく、内面で突き進んでいいけど、現実をそのように説明するのは、ちょっとどうかと思う。
(何度も述べたように内面的に了解するのが人間が人間であるゆえんなのだが、現実の議論においては、それを相対化するべきである)。
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ラノベでは主要登場人物以外は「その他大勢」としてくれると読みやすい

これはあくまで読者として読みやすいかどうか、という話。
面白いかどうかは別。

アニメなら登場人物が多くて、それぞれの個性を描いてもいいわけですよ。
学園に人がいろいろいるとして、20人とか30人くらいのキャラを描き分けてもいい。
たとえば何年か前に「極上生徒会」というアニメがありました。
(有名な作品だから説明しなくていいか。説明は割愛)。
「極上生徒会」はアニメで絵があるから、登場人物が多くても全然かまわないわけです。
でも、ラノベでこういう感じに描かれると厳しいなと。。。
私の読解力の問題かもしれないけど、ラノベで登場人物多いと厳しいですよ。

もちろん登場人物が多くて、一人一人の個性が描かれているラノベだって結構あるから、別に駄目というわけではないでしょう。でも単純な読みやすさに関して言うと、名前付きのキャラが限定されていて、後は「その他大勢」として扱ってくれると、物語が把握しやすい。脇役には迂闊に名前を付けずに「その他大勢」にしてくれた方が(読みやすいので)有り難い。
「読みやすい」と「面白い」はイコールではないので難しいですけどね。
(脇役一人一人が丹念に描かれている素晴らしい小説というのもありますからね)。

勝利によるカタルシスと悲劇によるカタルシス

たとえばKeyの作品とかは、古典的な物語によくある構造だと言われたりする。
お伽噺とか昔話的な。。
まあ説明するまでもなく、不幸な女の子がヒロインって、昔の作品によくあるわけだ。

Keyの作品が少年ジャンプに連載可能かというと、たぶん無理でしょう。
媒体による制約というのはあると思う。
少年漫画だと基本的に勝利のカタルシスなわけだ。
不幸な女の子のお伽噺とかって、少年漫画で絶対にあり得ないというわけではないけど、媒体的にやりづらいと言っていいだろう。
もしこの世の中に少年漫画しかなかったらKey作品は世に出られなかったかもしれません。
(One、Kanon、Air、CLANNAD的な作品が新鮮なのは、古典的なお伽噺が少年漫画から排除されていたというのもあるかと思う)。

たとえば人魚姫はかわいそうだけど、ヒロインとしてはキャラが立っているわけだ。
悲劇的にキャラを立たせるのは、古典的な作品では基本である。

男性向けの作品で悲劇があり得ないわけではない。
日本だとサムライ的な敗者の美学はよくある。
それこそ映画で言えば「ラストサムライ」的な。
少年漫画でも、サムライ的な文脈での敗北はわりと描かれたりするかと思う。

実際の我々の人生だと敗北は単なる物語の破綻だと思うのだが、フィクションの主人公的にはいいわけです。
(現実において)ネガティブな人間に対して「おまえは悲劇の主人公のつもりか?」なんて言ったりしますけど、まさにそういうことです。
現実では敗北はなかなか物語性を持たない。
現実において自分が敗者であることを物語として語ろうとすると、「悲劇の主人公気取り」ということになります。

ラノベでも、悲劇によるカタルシス系の作品はあり得る。
一昨年の電撃大賞の「ミミズクと夜の王」なんかは(古典的な)お伽噺的な文脈で、不幸な女の子ヒロインの素晴らしい作品である。
でも、プロが売れ線を狙ったらああいう悲劇的作品は出ないのかも。
悲劇的構造は物語の基本ですが、続編続編続編とやりづらいと思う。
勝利していく構造の方が続編を出しやすい。
(「ミミズクと夜の王」は電撃大賞作品で評価が高いのに続編が出ないのは、そういう理由だと思う)。

ヒーロー願望の罠(フィクションの主人公には才能限界がないけど)

人間にはそれぞれ才能の限界というのがあります。
凡人がどんなに頑張ってもプロ野球選手にはなれない。
努力努力と気軽に言うけど、人間にはある程度器というものがあります。

漫画だと違います。

たとえば「はじめの一歩」みたいなタイプの作品。
漫画の主人公にはありがちですが、才能限界がないのです。
「隠れた才能」があり、努力した分だけ強くなる。
(主人公以外には才能限界が設定されたりします)。

「はじめの一歩」は、ある意味弱者の否定なわけです。
ボクシングの才能で強くなって、はじめて弱さを克服できるというのだから……。
弱いままだと存在出来ないのか?
弱いなりに生きるというノウハウはあり得ないのか?
「ボクシングの隠れた才能」を開花させて強くならないといけないのか?

フィクションだと主人公の才能に限界がないので"強くなる"のは簡単なんですよ。
ヒーロー願望を最大限満たせる。

努力して勝利するというのは、ヒーロー構造の基本です。
これってある程度ポテンシャルの高い人だから可能なこと。

ヒーロー願望って"才能や力が人一倍ある"のが前提だから、限界が見えてしまう現実では苦しい。
「勝つ」とか「一番になる」ことが絶対的価値だとしてしまうと、それが成り立たなくなったときは諦めるだけ。

ある意味ヒーロー願望って、「なれない自分」を抱えていることです。
正義の味方が弱者を救う話とかでも、弱者は無力で自己解決能力がないわけですよ。
弱者と正義の味方の構図って、ヒーロー願望の自我構造なのかなと。
(現実の弱い自分と、ヒーローであるべき理想の自分の二重構造)。

もちろん明らかにポテンシャルの高い人なら大きく求めてもいいですよ。
そうでない人だと逆に跳ね返ってくるかも。
「漫画の主人公みたいな性格」は現実にはよくないなと。
主人公にならないようなタイプの方が現実にはいいのです。
たとえばスネ夫とか。

「ウィザーズクライマー」感想



「巣作りドラゴン」で有名なソフトハウスキャラの作品。

前作の「王賊」は典型的な戦略SLGでした。
オーソドックスでよく出来たゲームだったのですが、ミッションクリア型の戦略SLGの性質上、なかなかクリアできなくてイライラする部分も。このあたりは好みの問題。ミッションクリア型の戦略SLGって、多少難易度が高いところがあって、負けたらリセットして何度も戦うみたいなのが基本ですが、「王賊」はまさにそういうゲームでした。
この種のストレスを楽しめるかどうか……。
「王賊」に対する評価は、ストレス掛かるゲームが好きかどうかという個人差が大きいかと思います。
(ゲームとしての完成度は高いです。あと、後半は経験値稼ぎが出来るので、簡単になる)。

今回の「ウィザーズクライマー」は、周回型の育成シミュレーションという感じ。雑に言うと、一周するのに数時間かかって、(経験値を引き継ぎつつ)何周もしていってクリアという作品。ターン制限的な縛りは何にもありません。
失敗しても一応経験値は引き継がれて次の周回でもう一度という具合だから、ゆるゆるです。

こういうゆるさは、(同じメーカーの作品の)「巣作りドラゴン」、「南国ドミニオン」、「グリンスヴァールの森の中~成長する学園~」にも共通しています。

そして「ウィザーズクライマー」はゆるゆるながらも、メリハリがちゃんとあります。こういう作品って育成した成果が手応えとして感じられるかどうかが重要だと思うのですが、「ウィザーズクライマー」にはそれがあります。「育成する作業→実戦で成果を試す」という繰り返しがよく出来ています。
「南国ドミニオン」と「グリンスヴァールの森の中~成長する学園~」は、ゆるゆるに作業的育成だけして、それで終わりという印象が強かった。育成してそれがどうしたみたいな失敗作。
「ウィザーズクライマー」は育成した結果が手応えとして感じられるので、とてもいいゲームです。

唯一の難点はエロゲーであること。
「ウィザーズクライマー」は魔法少女?を育成していくとても良質なゲームなんですが、エロが余計。
(まあエロゲーとして出さないと商業的に成り立たないというのはあるのだろうが、このゲームに関してはエロが無い方が高く評価されたはず)。

「ウィザーズクライマー」が「巣作りドラゴン」に劣るとすれば、育成計画で頭を悩ませたりする部分が足りないところだろうか?
こういうシミュレーションゲームって、「今週はこの作業をして、来週はあの作業をして、その次の週は……」と計画を練りながらやる部分が楽しいわけですが、「ウィザーズクライマー」には、そういう要素が欠けている。
でも逆に言うと、そういう要素がないので、ゆるくプレーできるという部分もある。
(計画性が必要なゲームだと、頭の中で予定を把握しつつプレーする必要があるから、そのゲームに没頭する必要が出てくるかなと)。

(中だるみはギャルゲーの基本なのに)「EVER17」だけが中だるみと批判されるのは

ネタバレ控え目に書くつもりなので、未プレーの人にはわかりづらいかも。

エロゲーとかギャルゲーについて考えていたら、「EVER17」のレビューを書きたくなったので書く。
ちなみにプレーしたのは何年も前なので、記憶はかなり曖昧だったりする。


基本的にギャルゲーとかエロゲーって中だるみなんですよ。
起承転結もクソもないのです。

多くのエロゲーやギャルゲーは……、

序盤:五人くらいのヒロインを含む人物紹介
中盤:(何人かのうち一人の)ヒロインとフラグを立てていく
終盤:ルートに完全に入ったら、そのヒロインとのシリアスな物語

という感じでしょう。

複数ヒロインがいて、それぞれの物語がある以上、序盤の「つかみ」には制約がある。
「家族計画」みたいに序盤の掛け合い漫才が超絶的に面白い作品もありますが、やっぱり「つかみ」ではないんですよ。攻略対象のヒロインたちが紹介されるのが序盤の役割。
五人くらいのヒロインと脇役連中の紹介が一通り必要だから、どうしても自己紹介し合う平板な構造になりがちで、独特なつかみにはなりづらいのです。

中盤にしても、フラグ立てが基本になるから、多くのギャルゲーはどうしてもだるい。
中盤の展開がエキサイティングなエロゲーとかギャルゲーは少ないと思うのです。

フラグ立てに必要な選択肢を選ぶたびに物語が動的に動くということは、あんまりありません。フラグ立ての結果が現れるのは終盤です。フラグ立てはスタンプカードにハンコを押してもらうようなものです。そのヒロインのスタンプカードが全部埋まると、終盤になって(そのヒロインとの)物語が本格的に始まる感じです。
(スタンプカードを埋めている間は意外と物語が動かないのです)。
中盤の無機質なフラグ立てで張られていた伏線が終盤で展開されるのです。
「クラナド」なんか、30分の感動のために100時間の中だるみをしているようなものです。
それぞれのルートの終盤になって(そのヒロインとの)短編小説がスタートするのです。そこまでずっと中だるみ。いや、最初からたるんでいるから、中だるみ以上か。

さて、「EVER17」の話。
これって実はギャルゲーの中ではかなり中だるみが少ないと思うのです。中盤でも、ギャルゲーとしては比較的エキサイティング。それなのに「EVER17は中だるみ」と批判される。

「EVER17」は最終ルートの解決編で物語がまとまるわけです。
それぞれのルートでは必ずしも完結しない。

「中だるみ」と言われるのは、ひとつのルートで多少の説明がされるのに、別のルートでも似たような説明の繰り返しになるから、謎解きとして冗長性があるということだと思います。雑に喩えれば、推理小説の中盤でコメディーを長々と見せられたり、同じようなところを堂々巡りしてる感じ。中だるみはギャルゲーの基本なんだけど、「EVER17」はサスペンスとして続きが気になるから、ギャルゲー的なフラグ立てとか面倒なんでしょうね。

つまり「EVER17」はギャルゲー的なフォーマットに忠実だったので、推理としては緊張感が薄い作品になってしまった。最終ルートの目が覚めるような解決編で、だるい感じは払拭されるけど、やはりサスペンスとしてだるいのは事実なわけで。繰り返しプレーは厳しいゲームかと思います。

「EVER17」はサスペンスゲームの大傑作になり得たのに、ギャルゲー的なフォーマットに従いすぎて、面倒くさいゲームになったのです。(硬派なアドベンチャーゲームにすればよかったのに、ギャルゲー的に売ろうとしたから……、という言い方でもいいかな)。



すべてのヒロインが攻略対象でないと怒るエロゲーユーザーがいるけど

ギャルゲーって、たぶん元々の在り方としては、ヒロインが5人とか10人とか出てきて、それを全員「攻略」するというものかと思います。登場する女の子にはすべて「攻略ルート」があるのが基本フォーマットなのでしょう。

でも、ギャルゲーやエロゲーが物語として発達してくると、そういうフォーマットに無理が生じることもあるのではないかと。端的に言えば、「削った方がいいルート」が結構あるのではないか?

誰でも知っている作品で言えば「君が望む永遠」の茜ルートはいらない。「君が望む永遠」の物語構造を考えた場合、茜ルートは蛇足以外の何物でもない。でも、蛇足であってもルートを用意しておかないと怒る人がいるから入れるんでしょう。

敢えて攻略ルートを設けない場合もあり得るでしょう。「Fate/stay night」ではイリヤを攻略するルートがない。これに不満を唱える人を時たま見掛けるが、しかしイリヤルートがないことでこの作品の価値が落ちているとは思いません。

「ヒロイン攻略のためだけのルート」が並んでいて、薄っぺらい似たような紙芝居を見せられて辟易ということもあるわけです。物語の構造的に蛇足であるルートは省いて欲しい、と思ったりもするわけです。

まあこれも正解がない問題で……、というか、「ヒロイン攻略」という観点からプレーしたい人も確実にいるんでしょうね。自分は、ヒロイン攻略という観点からギャルゲー(エロゲー)をプレーしてないので、「このルートは蛇足だから消してくれないか」と思ってしまうんですけど。

ギャルゲー(エロゲー)はヒロイン攻略を越えたところまで来ていると思うのです。
素晴らしく完成度の高い物語がたくさんあります。
ヒロイン攻略のために無駄なルートを入れると、つまらない紙芝居を見せられるだけになるので、(攻略ではなく物語を期待している人にとっては)マイナスではないかなと。
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