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過去を引きずる性格のアニメ主人公は人気が出る

最近、18歳の少年が中学の時の教師を恨んで刺しに行ったニュース。これに対する反応で個人差があるのが興味深いのです。(もちろんこの少年自体は特殊なケースだと思いますよ。あくまで雑にとらえた場合)。

人間には「勝ち癖」が付いている人と「負け癖」が付いている人がいると思うんですよね。単純に勝ちの経験と負けの経験の差もあるけど、内面の受け取り方の問題として。勝つつもりで生きている人と、負けると思って生きている人の違いと言ってもいいかな。

で、今回の事件でも、「勝ち癖」の人と「負け癖」の人で反応が違うなと。リア充っぽいこと書いてるサイトとかだと「いつまで過去のこと引きずってるんだ。ゲラゲラ」みたいなこと言っていたり。やっぱりこういうのは、普段の姿勢で反応が分かれるなと。「勝ち癖」が付いている人だと「いつまで過去のことを(笑)」という反応をするでしょうね。

ところで。

フィクションって、負けと隣り合わせです。
最後は勝利で終わるとしても、戦う前は分が悪いわけです。
まあ主人公が勝ち戦しかやらないとか、勝ち馬に乗るみたいな思考法だと面白くない。
負け戦を勝利するカタルシスが基本になります。
(そういう意味ではフィクションって悪いお手本だったりするんですよね。負け戦を好んで選ぶという意味で)。

過去を引きずるという問題について言えば、引きずるのが主人公的性格ではあります。
いや、「ドラゴンボール」とかはそういう作品ではないけど、"過去を引きずる主人公"って、かなり多くの物語に出てくるかと思います。あるいは、漫画より、(漫画が原作ではない)アニメ主人公に「過去を引きずる性格」は多々見られると言った方がいいかも。

アニメでは、過去のトラウマとの格闘というのは、頻繁に使われます。トラウマ的性格というのは人気作品の条件かなと思う部分も。

過去と現在は不可分です。「いつまでも過去のことを……」というのは欺瞞がある。その証拠に、勝ち癖付いている人は、過去に上手くいったことは自慢します。トラウマに対して「いつまでも過去のことを……」と言うわりには、勝利自慢はいつまでもやるわけです。要するに、勝ち癖付いてる人と負け癖付いている人は、ベクトルが違うだけ。成功体験の反芻か、トラウマの反芻か。

漫画よりアニメの方がトラウマ設定が多いというのは、私の適当な仮説なので、統計を取ったわけではありません。あくまで雑な印象として、人気アニメの登場人物に過去のトラウマが設定されていることが多いなと思うだけ。
もしかすると、アニメの視聴者には負け癖付いている人が多いので、それに合わせているのかも。
嫌なことがあるとトラウマになる、という単純な話ではなく、負け癖的な性格の問題もありますからね。
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ヒロインはヲタクに割り当てられた恋人ではない

http://d.hatena.ne.jp/YUYUKOALA/20080728/Oshii_Interview

この押井守の今回の発言の細かい部分への批判というわけでもないのだけど。
アニメの監督がヲタ批判する事例がよく見られるので、ある程度ステレオタイプな意見と受け取って、批判してみようと思う。

庵野秀明とか富野由悠季にも言えるが、彼らは物語作家なので、物事を内面の問題としてとらえる。
「不細工だからモテない」という即物的な発想はしない。外的な問題を内面の問題として了解するのは、ある程度人間の基本なのだが、物語作家なら、なおさらそうなのである。

ヲタクというのは端的に言えば容姿の魅力が欠落した存在である。それを内面の問題とするのは、ある種のバッシングの場合もあるし、押井・庵野・富野のように、物語作家的な発想であることもある。

富野は人間を内面からとらえるからアムロ・レイを造形出来たし、庵野も人間を内面からとらえるから碇シンジを造形した。

たとえば碇シンジを冷静に見た場合、背が低くて運動できない中学生ならあんなもの。低身長・運動音痴の典型キャラ。低身長・運動音痴で外向的・活発な性格なら、その方が変。
万が一碇シンジの身長が急に伸びて180センチくらいになったら、あの作品は成り立たない。実際に中学生だといきなり身長伸びることあるが、それがあったらエヴァンゲリオンは成り立たない。碇シンジの身長が180センチだったらかなり不自然だから。

ともかく、それでも内面の問題としてとらえることが「物語」。我々は現実でも人間をそのようにとらえる。身長が低ければ弱虫だし、容姿が悪ければ恋愛が出来ない人格的欠陥。

これは良い悪いを超えた問題。外的なスペックを内面の問題としてとらえるのは、ある程度人間の基本だから。物語作家であればなおさらそういう思考法になる。

さて、さらに述べる。
ヲタ作品のヒロインの問題。
ヒロインがヲタにあてがわれた恋人であるというような見方があるが、これは正しい部分と間違った部分が。。。
言うなれば、誰も手に入らないアイドルのような存在なのである。ヲタ作品のヒロインは原則として主人公と恋愛しないし、男が近寄りがたい存在。古典的なアイドル性を持った存在である。

つまり、恋人としてあてがわれているというのは明らかな誤り。誰のものにもならない存在。手の届かない対象として位置づけられる。要はアイドル幻想ということ。綺麗なダッチワイフを配っているみたいに言うのは誤り。

庵野とかのヲタ批判はアイドルに触れるなという部分もあると思う。
アイドルをダッチワイフみたいに消費するなという、至極当然な要求をしているのだ。
ヲタがヲタを批判するのはアイドルファン同士の牽制。
つまりヲタアニメ監督がヲタを批判するのは、アニメ絵のアイドル産業の一環だと思う。
自分たちが売っているアイドル商品の管理の一環。

トルストイが「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は……」と言うのは

トルストイの有名な言葉で、幸福な家庭はみんな似ているが、不幸な家庭はそれぞれ違う、みたいなのがある。

訳文を比較しているページがあるのだが、
http://tomoki.tea-nifty.com/tomokilog/2006/04/anna_karenina_b.html
訳によって受け取り方が違うということはないようだ。

さて、トルストイのこういう考えは小説家として正しいのだと思う。なぜなら、幸福な家庭に「物語」を感じ取るのは難しいから。

たとえば、裕福な家庭に生まれて能力も恵まれて努力家の人がいるとしよう。この人は、終始リードを保ったまま生きて成功していくだろう。そこに「物語」は見いだしづらい。

要するに、小説家視点だと、劣勢の挽回とか、背水の陣からの逆転とか、あるいは不幸をどん底に描くとか、そういうのが「物語」なのだ。優勢を保っているのは「物語」ではない。
あるいは小説家ではなく、読者視点でもそうである。他人として他人を見る場合にも、リードした状態の持続には物語を見いだしづらい。

たとえばサッカー漫画とかで主人公のチームが5-0で勝つのを描き続けることはない。優勢に進めていくのは物語ではない。「劣勢」が必要だから。

つまり、、、幸福な人生には中身がないというのではなく、劣勢の挽回という要素がないと、「物語」ではないということなのだ。幸せな人が愛する人と結ばれた、ということがあれば、それはその人にとっては至福の物語だけど、他人から見た場合の「物語」はない。本人にとっては鮮烈な体験でも、他人から見ると、恵まれた人が幸せになったとしか認識出来ないのである。

コードギアスのチェスにはシンボルとして意味がある

コードギアスにチェスが出てくるのは意味があります。
単純に言えば、「チェスのように戦う」というシンボルとして出しているわけです。
主人公の姿勢の問題。
そのシンボルがチェスです。
チェスのイメージの問題だけど。

どうでもいい趣味としてチェスが出てくるわけではなくて、「コードギアス」という作品の思想の問題。
実際のチェスがどうなのかというのは、あんまり問題ではなく、イメージの問題ですね。
たとえばこれが麻雀ならもっと泥臭くなるかもしれません。
福本伸行作品なんかわかりやすいけど、麻雀ってお金掛かっていて、人生そのもの。チェスはそれとは違うということです。貴族のお遊び的なイメージ?
(現実のチェスがお遊びかどうかという話ではないです。物語的なシンボルとして)。

コードギアス(第一期)の第一話のチェスにはお金が賭けられています。
でも、これは賭け事に軽く勝つということなわけです。
ギャンブルにあっさり勝てるのです。
敗北は全くあり得ない。
「天才」ということですね。
それがゆえにコードギアスは戦略が雑でも構わないのです。
何しろ天才だから。
第一話でのチェスの勝ち方が、この作品全体の在り方を示しているのです。

「日本人はサムライ」という物語と格差社会

人間って「物語」を生きているわけですよ。でも物語って、損する構図だったりするから、他人に物語を要求する格好になるわけです。

他人が恋愛するとむかつくから、少年漫画の主人公は恋愛しないことになる。
他人が得するとむかつくから、損な性格の主人公が好まれるとか。

「共感」の正体はそういうことです。他人に損して欲しい。

サムライの物語も、そういう理由で好まれます。フィクションでもリアルでも。人間は物語的に生きており、そしてそれは(自分では実行する気もない)他者への要求だったりします。他人を非難する時だけ、もっともらしい物語を持ち出したり。

ところで。

我々日本人はなぜサムライだということになってるんでしょうか?
(私の先祖は百姓なんですが……)。

封建主義という言葉の定義は難しいですが、武家社会の封建主義が、村社会の封建主義にシフトして、日本人はサムライという理屈になっているのかも。実際は地主と小作人の関係なのに、それが妙な感じで「サムライ日本人の美徳」とされている気もします。

私も「自分の先祖は百姓だから」と言いつつ、どうも自分の先祖がサムライみたいな感覚があるのです。サムライ日本的なイデオロギーの中に住んでいるからかもしれないけど。「日本人はサムライ」という発想がとても強いので、このあたりは混同されてます。小作人はサムライ。このエントリーでも混同して書いてしまっています。区別が付かないのがこの問題の本質だと思うので。

多くの人の先祖は小作人であるはずなんですが、なぜかサムライにすり替わっている。貧乏な百姓として抑圧されていたはずなのに、サムライとしての美学になっている。日本的な精神主義を物語にする際に「サムライ」という記号がバッチリだったのかもしれないです。


サムライという物語は、

敗北
黙って我慢
損をする
切腹

とか、そんな感じです。
(端的に言うと、日本の古くさい精神主義そのまま)。
サムライの物語は実際のサムライとはまた別かと思います。サムライというのはフィクション性が強いと思います。何しろ、実際の先祖が小作人でも「日本人はサムライ」とか思っている人が多いくらいですから。


ある程度平等性があった頃は、みんなで我慢するのが日本人の美徳みたいな感じで、サムライ思想に合理性がありました。これが最近だと、平等性が無いので、サムライ思想の欺瞞が出ているかと思います。
(具体的には自己責任論。責任が曖昧な社会なのに自己責任とは何故)。

サムライ思想においては、責任を「自分」が負う。この場合の「自分」とは、ヒエラルキーが下流の者に限られる。上層部は責任を負わない。

サムライ思想とは、要するに封建社会のことなので、一方的な流れです。下流に責任を流していって自己処罰させるというのがサムライ思想です。特に階層構造が強くなると、下の側が責めを負うという構図が強くなる。

たぶん不況になる前の日本だと、封建社会的な発想でも平等性があり、バランスが取れていた。
今だと、本当の封建社会です。
あるいは階層社会を封建社会的な物語で了解していると言えばいいか。

「人のせいにするな」と言われると日本人は大ダメージを受けるみたいなんですが、この言葉などは典型的なサムライ思想です。
AがBに対して「人のせいにするな」という場合、それはBのせいにしているわけです。「~のせいにするな」というトリッキーな言葉自体がサムライ的かと思います。下に責任を流していく封建社会的言説。最近の日本の自己責任論というのも、「日本人はサムライ」という物語に依拠しているように思えます。

切腹の美学が好きな人が勝手に「俺のせいだ」と言って切腹するのは自由ですが、実際には「人のせいにするな(おまえが切腹しろ)」ということです。特にネットの議論とかだと、お互いに「人のせいにするな」って切腹を要求しあって、ぐるぐる回っているみたいな。上流の人間が下流の人間に「人のせいにするな(上の方に責任を問うな)」というのが封建的思想ですが、ネットでは立場が無く言葉だけ浮遊するから、変なことになります。

総中流的な構造が壊れると、サムライ思想はかなり欺瞞が出てくると思います。
我慢の平等性がないから。

本人が実行したいのならいいけど、我々は他人に対して、「サムライ」であることを望みますからね。
自分で実践する気はさらさらなく、切腹というジョーカーを押しつけあうのが、サムライ日本人。

ひだまりスケッチ × 365



単純に言えば、「あずまんが大王」系の作品。
新房昭之監督。
「ぱにぽにダッシュ!」と同じ人。

私は「ぱにぽにダッシュ!」のヒロインのベッキーがすごい好きなのだが、作品自体は今ひとつ好きではない。ベッキーが登場しない回とか全然面白くない。この系統の作品にしてはわりと毒もあるので、今ひとつ。

さて、「ひだまりスケッチ × 365」。これは以前放映されていた「ひだまりスケッチ」の続編。
第三話まで見た。第二話まで見たら、なんか中途半端にストーリーがあって、前作とテイストが違うかなと思ったのだけど、第三話は前作そのままかな。この作品は無意味なところがいいので、ストーリーも無意味であって欲しいのだけど。

「ひだまりスケッチ」も「ひだまりスケッチ × 365」も、いい人ばかり出てくる作品なので、見ていて不愉快だという人はいないだろう。「ぱにぽにダッシュ!」はバラエティー番組のいじり的な要素があるので、必ずしも好きにはなれないのだが、「ひだまりスケッチ」は思いっきりゆるい作品。視ていて眠くなってしまうことも。ギャグのキレとかそういうのは今ひとつかも。まあ、いい人ばかり出てきて、女の子の楽しげな日常がゆるゆるに描かれる作品です。「陸上防衛隊まおちゃん」が好きな人にはお薦め。

それにしても、この系統の作品を見るたびに「あずまんが大王」の偉大さを思い知らされるばかり。

運動会から考える「活躍」とか「成功」の物語

主人公とは漫画の中だけの話ではない。現実の我々も主人公であることを求められたりする。

我々は現実でも、「物語」を求め、求められる。子供の頃に、運動会に出るとなると、親から「活躍」を求められたりするだろう。(あるいは男子なら女の子にかっこいいところを見せたいとか)。でも実際は運動が得意でないと活躍出来ないわけである。

脇役でもすんなり生きていける人もいれば、脇役に違和感持つ人もいる。能力高ければ、そのあたりの問題には直面しない。運動会の事例で言えば、仮に運動が得意なら「脇役としてどう生きるか」という問題には直面しない。

漫画の主人公的な性格というのは、推奨されたりするのだけど、実は好ましくないのかもしれない。
脇役として運動会を無難に流して終えるという発想は主人公にはない。
主人公は活躍しなくてはならないという縛り。

運動会という舞台は、「活躍」という物語に縛られている。運動会で「活躍しなければならない」と思うのは、個人の狂った観念ではなく、運動会という場が要求するもの。でもみんなが活躍出来るはずもないわけだ。活躍する人間の裏には対極の人間が存在する。

普通に漫画とか見ていて、主人公が活躍するのは、ごく自然に受け取るのだけど、運動会のような現実の舞台を考えると何か妙だなと思ったりする。

このあたりは個人の受け取り方が大きくて、活躍出来なくても何とも思わないタイプの人も結構いる。主人公願望(ヒーロー願望)が濃いか薄いかは個人差がある。

醜いライバル関係は描かれない

最近桐野夏生の「グロテスク」を読んだんですが、この作品は人間の醜さについて書いてます。
特に前半部は、我々の人生で思い当たるレベルの見栄とか高望みの問題などが描かれます。
(後半は少し暴走しすぎで非現実的だと私は感じましたが、でも後半部を評価する人も多いようです)。

「グロテスク」はかなり独特な作品だと言われたりするけど、そんなに特殊な作品なのか?
筆力とか力量の問題は別として、テーマの選択問題として言えば、「誰も思いつかないこと」をやったわけではない。

どうして「グロテスク」が独特な話として扱われるかというと、多くのフィクションでは、物語として面白くないことは書かないからです。現実にはよくあることでも、読んでいて不愉快になる話はフィクションのテーマにならない。(「グロテスク」はあえてそういうのをテーマにして評価されました)。

エゴの側面とピュアな側面が人間にあるとします。漫画とかで人間のエゴが描かれたら、それはピュアな側面によって一掃されるのです。エゴがピュアによって退治される。ありがちなエゴを延々と書くのって、普通はないですからね。嫌なことばかり続けて書くのは簡単なのだろうけど、普通は面白くならない。

たとえば人間の対抗意識みたいなものを考えましょう。我々の友人関係って、お互いの幸せを喜ばないようなのが多いと思うのです。でもそういう友人関係は、あんまりフィクションには出てきません。
そういう類の友人関係を描いて、誰が読みたがるのか?
(余談として言えば、現実においてよい友人関係とはあまり張り合わない関係ではないかと。ライバル意識は基本的に醜いと思います)。

漫画でライバルというと、ほとんどは主人公に承認を与える人物です。
優れたライバルが主人公を認めてくれるわけです。
(優れた人間からライバル視されることで、主人公の価値を示すわけです)。

対抗意識を持つライバルもあるけど、漫画だとそれで足を引っ張り合うことはないですからね。「スラムダンク」で桜木と流川の仲が悪くても、お互いの足の引っ張り合いを「グロテスク」風に描くことはないわけです。

フィクションで母親のエゴが描かれないのも同じ理由です。漫画やアニメの母親はみんな「無償の愛」の象徴ですよね。母親のエゴは描かれない。やはり母親のエゴを描いても、物語として全然面白くないからでしょう。

だから母親のエゴは描かれない。
こう書くと、「魔法少女リリカルなのは」のフェイトの事例とかで反論されるかもしれません。フェイトは母親から虐待されてるじゃん、とか。確かにああいうパターンなら、たくさんあるのです。母子葛藤はフィクションで極端に避けられていますが、「虐待」はテンプレとしてあります。「リリカルなのは」のフェイトは母親から虐待されているからいいのです。つまりあそこまで行くと、もはや母親との関係云々を超えてしまっているから。そういうのはいいわけですよ。幼児期に実験されて虐待されていたというテンプレキャラが多いのはそういうことです。

「コードギアス R2」の今後を予想してみる(第十四話まで見て)

「コードギアス R2」は第十四話まで進みました。

この後の展開を考えてみましょう。
(もちろん適当な予想ですよ)。

■ブリタニアの日本への支配は解消される
この作品の特徴のひとつとして、設定の軸であるはずの「ブリタニアの支配」が今ひとつ描かれていないというのがあります。たぶんこの部分は、適当に扱われるでしょう。ただ放置するわけにもいかないので、一応ブリタニアが日本から撤退し、日本が独立するという結末にするのではないかと。この部分はおそらく本質的には描かれず、とってつけたような撤退を予想。

■ルルーシュは悲惨な結末になる
第十四話を見た限り、ルルーシュに悲惨な結末が訪れないと、物語として収まらない気がします。
どういう具合に悲惨なのか、というのはわからないけど、ルルーシュに苦い結末を与えないと、非常に座りの悪い作品になるかなと。

■父親との対決で、父殺しはあるかも?
一応今後は父親との対決を軸に話が進むでしょう。ブリタニアと日本という対立関係を借りた父子の対決の物語、というのがこの作品です。父子の代理戦争として、ブリタニアと日本の関係があるだけ。
その部分が先鋭化される。
父親との対決で、基本的に父親は死なない気がします。
ただ「コードギアス」は結構人が死んで、そのままの作品なので、予想外のキャラが死ぬことはあり得ます。ルルーシュが父親の首を斬るような展開にして、その父殺しの罪を負うような形で悲惨な結末にするかも。

ルルーシュの父親は悪人として描かれているので、ルルーシュが父親を殺したら勧善懲悪と言えないこともないけど、そういう解釈はたぶん無理がある。相手が父親である以上、「父殺しの罪」という物語解釈になる。この作品の構造自体が、父親との内面的対決ということだったりするので。
(ブリタニアが日本を支配しているというのは、父子関係のシンボルだから)。
父殺しが大罪であるという枷は外さないはず。

単純に言うと、孫悟空がフリーザを倒すような感じのテイストにはならないだろうと。
ルルーシュの「勝利」では終わらない。
この展開でルルーシュが勝利すると、さすがに酷すぎるので。
ルルーシュに苦い結末が訪れて、でもブリタニアの支配は終わる、あたりで纏めるはず。

ルルーシュと父親が和解するというストーリーはほとんどあり得ないはず。
万が一和解するとしても苦い結末は変わらないかなあ。

いろいろ書いてみたが、ルルーシュが勝利してカタルシスを得るラストはあり得ないという思いこみの話です。
実際は、ルルーシュがドラゴンボール的に勝利してイエーという結末だったりして。

「誰でも強くなれる」という幻想、「誰でも恋愛できる」という幻想

男子向けの作品に関して。
ラブストーリーが今ひとつ受け入れられない、という話。

男から見て、同一化しやすい話と、しづらい話があると思う。同一化しやすい幻想と、同一化しづらい幻想があると言ってもいい。

男子からすると、「誰でも強くなれる」という幻想は同一化しやすい。「誰でも強くなれる」というのは現実にはウソなんだけど、幻想としては抱きやすい。男子は強さへの同一化を簡単にできる。

逆に男子は「誰でも恋愛できる」とは思いづらい。男子は「誰でも恋愛できる」とは思わないので、ラブストーリーがあんまりウケない。(「BOYS BE」みたいな作品が大ヒットしたこともあったけど)。

女の子だと「誰でも恋愛できる」という幻想抱きやすいかもしれない。若い女の子であれば、(ごく一部の人を除いては)一応可愛いから。

五年くらい前に「宇宙のステルヴィア」という作品があった。
私はこの作品嫌いだった。恋愛は一部の人のためのものである、というのをこの作品見てると感じるのである。
でも、「宇宙のステルヴィア」って、わりと人気があったような気もする。私はこの作品に抵抗感あったんだけど、受け入れたヲタも結構いるようなので、恋愛の要素が多い作品はタブーではないのかもしれない。恋愛の要素があると抵抗感持つ人がいる一方で、ニッチな需要があるのかも。

「おねがい☆ティーチャー」なんかは、男子が見てほとんど抵抗感のない恋愛ドラマだろう。
主人公とみずほ先生の恋愛よりは、苺たんの話が実はメインだから、そういう意味では主人公とヒロインのラブストーリーとはちょっと違う部分があるからか。多くの人は苺たんに萌えていたと思うので。実はラブストーリーではないのかもしれない。
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