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父親の味方をする母親を切り捨てた「コードギアス」第二十一話

ネタバレ感想です。

「コードギアス」第二十一話「ラグナレクの接続」はかなり予想外の展開でした。

母親マリアンヌは前回姿を現していたので、「マリアンヌのルルーシュへの立ち位置」が問題だったわけです。

アニメとかでは、基本的に母親のエゴとか描かないと思うんです。
現実の母親はエゴの固まりだったりするけど、あくまで「無償の愛」の象徴としてアニメでは描かれたりする。
みんなそういう幻想を守りたいからですね。

でもコードギアス第二十一話では、母親マリアンヌの存在をルルーシュがエゴと切り捨てる展開。
これはちょっと珍しい。

(現実において)父親・母親・息子の三角形において、父親が強いと、母親が息子を見捨てるケースが多いと思います。
フィクションでは、そういう現実描写を避けるために、父親が王様みたいなタイプだと、母親を故人にします。
死んだ優しいお母さんという扱い。
生きていると母親のエゴが露呈してしまうので、死亡扱いにするのです。

コードギアスでも基本的には「死んだ優しいお母さん」だったわけですよ。
それを生き返らせたから。。。。

「コードギアス」では母親のエゴをどう扱うのか、、、私は注目してました。
そしたら息子ルルーシュが両親を切り捨てるという格好に。
母親マリアンヌが王様である父親の味方になったので、ルルーシュが両親消去に向かうのは自然なのですが、そういう展開にしたのは意外。

まあエゴ云々ではなくて、母親が父親と息子のどっちの味方に付くかということなんですけどね。
母親が父親の味方になると、エゴとして扱われるだけの話。
(母親が息子の味方になると、無償の愛の象徴の母性となる)。

結局、母親が、息子への母性を優先させるかどうかの話で。。。
マリアンヌは優先しなかったから、ルルーシュによって消去されたと。
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ブラスレイターがつまらないのは「軸となる人間関係」がないから

現在放映中のアニメで「ブラスレイター」というのがあります。
ニトロプラスが手がけているということで、一応見てるんですけど、はっきり言ってつまらない。
なんでつまらないのか、というと人間関係の軸がないからです。
誰と誰の人間関係を中心に見たらいいのかわからない。
登場人物が散漫的に存在しているだけ。

ストーリーには時間軸というものがあります。
時間に従って、お話が進んでいく。
その一方でキャラの人間関係は固定的で反復されます。
人間関係に時間は無い。
あるいは、時間の中に常駐して反復されると言ってもいいけど。

人気のある作品は、こういう人間関係が絶妙に作られているのです。
関係の反復だけで面白いという。
「ブラスレイター」では、そういう人間関係がない。

「ブラスレイター」では、移民が排斥されるみたいな社会問題が出てきます。
これに関しても、見ていて普通に不愉快なだけです。

まあ排他性をテーマに描きたいのなら、その元凶の巨悪を設定すればいいのですが、「ブラスレイター」では、排他性を、みんなが持っている悪い性質としているので……。
フィクションって問題が設定されて、それが解決されるという構図が基本なわけだけど、移民問題は解決する対象として設定されてないから、単に不愉快なだけかと。

あと、登場人物にトラウマを設定するのはアニメの基本なので、それはそれでいいのだけど、移民問題は陳腐過ぎるかと。それに移民問題の話が長すぎて、話の焦点がぼやけてしまっている。

仮にこの作品を楽しむとしたら、視聴者の側で視点を補完しながら見るしかない気がする。
普通に見ていると感情移入するポイントがないのだから。

イジメという本能を肯定するのがドラえもんという作品

なんか、この意見がすごい批判されてるみたいなんだけど。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080826/edc0808260809004-n2.htm
また無自覚の「刷り込み」で、子供がマンガの登場人物をモデルに他人を評価しているのではと、吉村さんは危惧(きぐ)する。
 「ドラえもんが象徴的です。私は『ドラえもん包囲網』と呼んでいるのですが、メガネをかけて少しドジな人は『のび太』というマンガのキャラクターをモデルに、子供は友達を評価している。メガネをかけているだけで、『お前はのび太だ』といじめられるのではと心配しています」

私はそれほど変な意見だとは思わないんですけどね。

反発の多くが、「イジメはドラえもんと無関係で本能的なもの」みたいなのが気になりますね。
つまりドラえもんを支持する人はイジメに肯定的なのです。
ドラえもんは原因ではなく結果だと言えばいいのかな。
イジメに肯定的な人はドラえもんに惹かれると。

というか猛烈に反論する人が多いのがちょっと疑問。
フィクションは影響力があると私は思うんですが。
フィクションって本当に影響力がないのか?
この記事に反論している人は、「フィクションに悪影響はない」というイデオロギーに囚われているだけではないかと。
「フィクションは現実の人生に影響力がある」という当然の意見を言うと、規制に繋がると危惧してヒステリー反応が起こるんでしょうね。

あと、本能説に関して。
たとえば貴族制度は人間に貴賤があるという「本能」の生み出したものです。
でもそういう本能は否定されてますよね。

肌の色が白いと黒いより優れているというのも本能的判断でしょう。
でも民主主義社会では、その本能は否定されてますよね。

男が女より偉いというのも本能的判断でしょう。
これも民主主義社会で否定されています。

つまり、本能だからというのは正当化の理由にはなりません。
本能という「原始的なエゴ」を否定しているのが民主主義社会なのです。

「ドラえもん」も原始的で本能的なイジメ関係なのだろうけど、それを否定していくのが良くも悪くも我々の民主主義的社会です。
「イジメは本能だから認められるべきだ」という人は民主主義を否定しているわけです。

女の方が小説の文章が上手いのは



最近「話を聞かない男、地図が読めない女」という定番的な本を読んだんですけど。

この中に女はおしゃべりを省略しないというのがあって。
女がおしゃべりすると、起こった出来事を逐一話したりするのです。
細々と話すから、男からすると「早く結論を言ってくれ」と思う。

ここから先は私が勝手に敷衍した内容なので、何の保証もありませんが。。。
男って概念で整理して考えたりするわけです。
言葉を少し超えたところで物事を整理して、その結果を言葉として出力する。

小説的文章において女の書き手の方が上手いと思われるのは、女は普段から出来事を逐一おしゃべりする習慣があり、それが小説的文章に向いているのではないかと。
逆に言うと、男は整理して結論だけ言葉にする思考法なので、小説的文章を書くには向いてないのかもしれません。

もちろん小説と言ってもいろいろあるでしょうが、出来事を逐一丹念に書いていくような文体に限ると、女の作家の方が上手いと思います。
女の小説家で上手い人って、出来事を逐一細々と書いて引き込ませる人が多いかな。
語彙が豊富なおしゃべりを洗練させた感じの。
女の方が日常的な語彙はかなり発達している。

そういう小説ばかりではないですけどね。
抽象的な説明が多くなるような小説だと、男の方が得意なのかも。

自分が気に入らない作品のみをオナニーと呼ぶのは……

フィクションというものがなぜ存在しているのか?

それは現実において生きている我々が、ある種の暫定的な姿だからです。いや、その暫定的な姿こそが現実なのですが……。つまり、ある種の「未達成な状態」が現実なんです。何かを達成してクリアした状態が現実ではないのです。

このあたりは個人差がそれなりにあるでしょう。今の自分に大満足(リア充)な人もいるでしょう。あるいは50点くらいの人生でも、まあいいかという平凡な人もいるでしょう。
ただ、我々がこの世界に置かれている状態からして、多くの人は「不本意」だったりするし、「暫定的な状態」だと思ったりするわけです。

これは人間の極めて基本的な在り方です。これを否定するのなら、宗教も否定するべきです。今の自分で完結していて、それが最終結論だというのなら。。。

残念なことに、この現実社会は、「根源的な欲望」を叶えていくプロセスではありません。叶えられる人もいるのだろうけど、ごく例外です。だからこそ、宗教やフィクションが存在する。それが受容されるのは、我々が「現実の自分」より「達成されてない自分」の方に真実味を感じているからなのです。

こういう観点から捉えて、作品を批判するのはたやすい。
漫画やアニメは「未達成」の正当化ですからね。
未達成=無限の可能性の宝庫、という発想ですね。
何かが達成される話でも、そうなんですよ。
(隠れた可能性が花開いたみたいな)。

フィクションの本質的問題。。。
全部の作品がそうです。
でも嫌いな作品だけ取り上げて、こういう分析をする奴がいるからなあ。
気にくわない作品だけを「オナニー作品」と分類して否定しようとしたり。

自分より上に嫉妬するのが女。自分より下を探す王様が男。

直接的にアニメや漫画の話ではないんですが。。。
嫉妬とかそういう類のことはよく出てくるので、そのあたり。

嫉妬とは何かというと、自分より上だと感じた人間を引きずり下ろそうとすることです。
女はそういう心理を持っている。
女はそれを恥ずかしいと思わない。
そしてグループで結託して人気者の足を引っ張るようなことをする。

フィクションで女の人間関係を書く場合も、こういうのは必須かもしれません。
女が嫉妬で足を引っ張るみたいなのは定番的に描かれます。

こういう女の特性を男は嘲笑します。
女はくだらない生き物だから嫉妬する(笑)と。
確かに男は嫉妬しません。
嫉妬するというのは、男性原理に反するからです。

では、男性原理とは何か。
王様として振る舞うことです。
一番安直な方法としては、自分より下の相手を探すことです。
たとえば「ドラえもん」のジャイアンは王様キャラとして受け入れられています。
のび太に勝っても強さは強さであり、帝王です。
"のび太に勝っても強いことにはならないだろ"という反応はされない。
ジャイアンとラオウは同じ扱いです。

男性原理とはそういうものです。
王様になること。
自分より下を探して王国を作るのが手っ取り早い。
最近は強い父親というのが減っているかもしれないが、昔だと、父親が王様みたいに振る舞っている家庭が標準的だったでしょう。家父長制を男性原理の象徴と見なすのは適切なのです。あばら屋の王様という意味で、男性原理の典型的な実態なのです。

たとえば2ちゃんねるを見ても。
既婚女性板だと、人気のありそうな女性有名人に延々と食いついたりします。
逆に男が多い板だと、出来るだけ下を叩くという流れになります。

女の子はチアリーダー的で、集団でチヤホヤしたり、嫉妬したりする生き物です。
「少女革命ウテナ」の天上ウテナと姫宮アンシーは、典型的な事例となるでしょう。
ウテナ的なキャラをチヤホヤする側面もあれば、アンシーのような女を警戒して叩くという側面もある。
女の子の世界はチヤホヤと嫉妬の交錯で描かれるのです。

強大な父親と息子が対立する作品では、安易に母親が故人になってるよね

「マクロスFrontier」の第十九話を見て、またか……と思った。

父親と息子が対立していると、必ず母親は死んでいる。
ほぼ例外なく……、と言っても言いすぎではないと思う。
現在放映中のアニメだと「コードギアス」もそういう設定である。

父親と息子が対立すると、なぜ母親は死なないといけないのか。
それは母親のエゴを描きたくないからである。
「母親は子供に無償の愛を注ぐ」という幻想を守りたいからだ。
母親を生かしておくと幻想が破綻するので、「死んだ」という扱いにされるのである。
「マクロスFrontier」でも死んだ母親から愛されていたという描写がなされる。

現実には、父親と息子が対立しているような家庭で母親が息子を愛することなど無い。
というか、無いと思われてるからこそ、(フィクションでは)母親が故人扱いになるのだ。
父親が王様みたいに振る舞っていたら母親は父親の犬になる。
息子を盾にして保身を計るくらいは平気でやる。
そういう描写を避けるために「すでに母親は死んだ」という扱いになる。

父親が王様である家庭においては、母親は単なる飯炊き女。
母親は父親の下僕であり、決して息子の味方ではない。
繰り返すが、それが現実だと思われているからこそ、(フィクションにおいて)父親と息子が対立すると母親は故人扱いなのだ。

だったらどうすればいいのか、という問題ではない。
母親のエゴは、誰も受け付けないので、描かれない。
母親が死んだということにしてでも母性は守る必要がある。

父親と息子が対立してるけど「死んだ母親は無償の愛を注いでくれていた」という構図は悲しいものがある。
父親が強い家庭では母性が死ぬというだけのこと。
母親は犬のように生存していても、母性として死んでいるのだ。

やっぱり自分の母親がスネ夫みたいな性格の飯炊き女だとは思いたくない。
「無償の愛を注いでくれる母性」を人は求める。
それが母親の故人設定の正体である。

「現実の自分は仮の姿」という二重性がフィクションを生み出す

この世界に存在している自分は、とりあえず割り当てられた役割にしか過ぎない。
「本当の自分は別だ」という考え方があり得ると思います。

そしてフィクションは、現実を仮のものと見なす発想から生まれるのです。
今の自分は非本来的で、どこかに本来的な自分がいる、という人間的願望がフィクションを生み出します。

フィクションの物語は、多かれ少なかれ自己愛の問題があると言っていいでしょう。
まあ自己愛の定義にもよるけど、「ドラゴンボール」みたいな素朴なヒーロー願望も、ある種の自己愛かもしれません。

現実において、我々は「主人公」ではありません。主人公として世界に関わるという在り方は原則的に認められていない。主人公と世界の関係ということ自体が自己愛なのです。主人公中心に物語が動いていくというフィクションの構造自体が自己愛。
「ドラゴンボール」の素朴な自己愛がひねくれて受難者的になると「コードギアス」化する。

「コードギアス」では、非本来的な自分から本来的な自分への回帰というテーマが繰り返されます。
本当は王子様だったのに王国から追放されているという設定からしてそうですが、ルルーシュは常に非本来的な仮の姿なのです。非本来的に存在させられた受難者としての物語。
「ドラゴンボール」みたいな単純なヒーロー願望の作品と比べて、どっちがいい悪いではないですけどね。

「コードギアス」で、ルルーシュがゼロとして仮面をかぶるのは、主人公として世界と対峙するヒーロー願望。それでいて承認はされないという受難的な構図です。素顔では認められない。
(ルルーシュの素顔を認めようとしたシャーリーは殺されてしまう)。

「コードギアス」はかなり古典的な物語だと思うのです。
昔の童話とかは、非本来性から本来性への回帰というのがたくさんありますからね。古典的な作品は不幸への慰謝という側面を持っていると思うのです。そういう作品だと、現在の自分は仮の姿だという願望を背景にした構造になります。

自己愛は人間の本質なのです。「現実の自分は仮の姿で、本当の自分は別」みたいな意識は人間の本質です。もちろんそういう意識は現実では裁断されます。そして、その切り捨てられた部分を受け入れるためにフィクションは存在しています。
ちなみに言えば宗教もそうですね。

自力救済が物語の基本

私は専門家ではないので雑な意見になりますが、法律では「自力救済」は原則的に認められていません。何かが起こった時に「自力」で解決してはいけない。警察力を自分で行使してはいけない。

でも実際に世の中で発生したトラブルすべてに警察が出てくるとか、トラブルのすべてで裁判やるなんてことはないわけで。。。
「自力救済」は認められているのが実情ではないかと。

念を押して断っておきますが、私は専門家ではないので雑に話してますよ。法理論的に間違っているとか言われても困ります。(あくまで世の中の実態を普通に話しているのです)。

ともかく雑に言って、自力救済はある程度認められている。そして、物語になるのはそういう部分だったりします。他人は助けてくれない。自分で自分を助けるしかない。

他人は助けてくれないというよりは、警察が助けてくれないと言えばいいか。正義の味方が「法律で裁けない悪を……」とかいうスタンスなのも、自力救済的な発想ですね。正義の味方もある種の自力救済でしょう。

端的に言うと、学校とかは思いっきりそういう舞台なわけです。学校で他の生徒から殴られても警察には言えない。(学校に男が侵入してきて生徒を殴ったというのなら警察沙汰ですよ)。
単純に言えば人間関係に警察は介入しないので、「自力救済」が求められる。そしてそういう場は、物語の格好の舞台なのです。

ともかく物語の本質は自力救済なのです。
別に学校でなくてもいいですよ。
学校だと舞台になりやすいだけで、自力救済の論理で動いている場なら何でもいいのです。

自力救済の論理は現実だと理不尽ですが、それがゆえに、フィクションでは自力で救済するカタルシスを描くのかなと。

余談として言えば、中学校の頃の話に人間がこだわるのは、自力救済の空間だからだと思います。
自力救済空間においては、人は単なる一般人ではなく、その場の力の網の目の中で具体的に位置づけされますからね。
(大人になると、トラブルは警察にとなりますからね。似たような一般人のうちの一人となるのです)。

普段は強い者の味方なのに、フィクションで正義の味方の話を好むのは(遠くの弱者は安心して助けられる)

我々は、普段は強い者の味方なのに、フィクションで正義の味方の話を好むのはなぜか?
いろいろ理由があります。
そのうちのひとつとして。

人間は近くの他人は助けないが、遠くの他人は安心して助けられる。
たとえば慈善活動するとしても、見知らぬ人とか、遠くの発展途上国が対象だったりする。
イジメとかでも、自分の周辺の問題だと「他人がいじめられると自分が助かる」というのがあります。

相手が本当に無力で、自分と無関係なら安心して助けるわけです。
身体障害者とか発展途上国の人とか。
助けても大丈夫な人。
逆に言うと、身近な弱者を迂闊に助けると、反撃してきたり、自分のポジションを奪われるかもしれません。

我々が漫画の正義の味方の話を好むのは、漫画に出てくる弱者は助けても大丈夫な存在だからです。助けても自分の地位が脅かされない。無垢な弱者ですからね。彼らは、あくまで無力なポジションであり、我々と競合する関係にないから。(それに対して、近くの弱者は無垢ではない)。

我々の日常で強者と弱者という場合、そこには多少の欺瞞があります。強者が恐ろしいほど無敵で、弱者が恐ろしいほど無力というイメージになりますが、冷めた目で見れば、そんなに差はないでしょう。というか、プロレスラーでも刃物で刺されれば死んでしまうという表現でもいいか。つまり強い弱いは確実にあるけど、人間の肉体は不死身どころか、ガラス並みなので。あくまで掟の問題です。

弱者が本気で強者を殴ったとして、弱い奴に殴られても平気だなんてことではない。だからこそ、力関係を明確にしようとするのです。

力関係というのは考えれば考えるほど不思議ではあるんですけどね。強者=不死身というのは、かなり信仰されているので。
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