Headline


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ルルーシュは100パーセント確実に生きている。物語的に死んだのはナナリーだ。

「コードギアスR2」最終回の最後のカットの折り鶴の意味が話題になっています。
ナナリーが折ったと思われる折り鶴です。
そして「なあ。ルルーシュ」というC.C.の台詞からしても、馬車の御者はルルーシュであると思われます。

何度も何度も繰り返して見たんですが、C.C.が「なあ。ルルーシュ」と言う場面では、明らかに御者の方に目をやっています。御者は間違いなくルルーシュだと断定していいでしょう。C.C.がナナリーの折り鶴を持ち歩いているとしたら変だし、あれは御者のルルーシュの宝物なのです。

そして重要なのは、ルルーシュが生きている方が、青春小説的に筋が通るということです。

この最終回の前半部でナナリーは、「ダモクレスは憎しみの象徴になります」「憎しみはここに集めるんです。みんなで明日を迎えるためにも」と述べます。
ナナリーレクイエムです。
ルルーシュと全く双子のような考えをナナリーは持っていたわけです。
ナナリーは自分が罪を被って死ぬつもりだったんです。
ルルーシュにとってナナリーは半身のような存在なので、同一の考えを持っているのはフィクションの構造として自然だと思います。

ルルーシュがナナリーにギアスを掛けたのは、自分の分身であるナナリーの罪を引き受けるためです。
ゼロレクイエムとナナリーレクイエムは同一ですから、意志のねじ曲げはありません。

青春小説って誰かが死んで、それで物語が完結したりすることがあります。
あるいは死でなくても、何らかの断念や喪失を含めて物語が終わったりする。
これって象徴的には去勢なんです。
主人公ルルーシュはラストで去勢されて青春が終わったんです。

ゼロの仮面を被って世界を動かしていた男が、自分は死んだということにして、外国の片田舎でひっそり暮らす。
これは去勢です。
雑に言うと、夢を諦めて平凡な暮らしをするような展開です。

主人公であるルルーシュからすれば、ナナリーが死んだようなものなのです。
ルルーシュが駆け抜けるように生きてきた青春の文脈の中でナナリーは死んだんです。
社会的に死者となり、ナナリーと永遠の別れになるというのは、ルルーシュが去勢されたということです。

そして、そういう去勢的なラストがあるからこそ、駆け抜けた青春がパノラマのように駆けめぐるのです。
去勢されたラストからの視点だからこそ、「コードギアス」の過去のエピソードの数々が、失った青春の残像として生き生きとよみがえってくるのです。
非常に素晴らしい構造のエンディングだと思います。

また青春物語の特徴として、何かを失った苦みがありながらも、少しだけ救いを獲得したりします。
ルルーシュにとって、それは荷台に載っているC.C.の存在です。
「ギアスという名の王の力は人を孤独にする。少しだけ違っていたか。なあルルーシュ」
と語りかけるC.C.は、心安らぐ仲間となるはずです。
半身であるナナリーを失い青春が終わって去勢されたルルーシュにとって、腐れ縁のC.C.は余生のパートナーとして極めてふさわしいのです。
スポンサーサイト

「憎しみを自分に集める」という共通の意志を確認したので、ルルーシュはナナリーにギアスを掛けた

「コードギアス」に関しては、今後何度も何度も見返すつもりなので、気づいた点をその都度書き留めていきます。

最終回でルルーシュがナナリーにギアスを掛けた場面について。

まず最終回冒頭のところでナナリーにギアスを掛けるかどうかルルーシュは葛藤します。

ルルーシュの内面の声「ナナリーの意志までねじ曲げたら……、俺は……」

ここでオープニングテーマが入りますが、その後の方で再びこの続き、

ナナリー「それは卑劣なのです。人の心をねじ曲げ、尊厳を踏みにじるギアスは」
ルルーシュ「ではダモクレスはどうだ。強制的に人を従わせる卑劣なシステムではないのか」
ナナリー「ダモクレスは憎しみの象徴になります」

ここでルルーシュが驚いて目を見開くカットが入ります。

ナナリー「憎しみはここに集めるんです。みんなで明日を迎えるためにも」
ルルーシュ「そうか。ナナリー。おまえも……。なら……」
そしてルルーシュはナナリーにギアスを掛けます。

台詞をよく読めば説明の必要もないでしょう。

ナナリーのこの部分での発言は、ルルーシュのゼロレクイエムと全く同じ発想です。
ナナリーも、言うなれば、「ナナリーレクイエム」を行おうとしていたのです。

ルルーシュは「ダモクレスの鍵を渡せ」とギアスで命じますが、これはナナリーの意志をルルーシュが代わりに実行しようという行為です。つまりルルーシュはナナリーの意志をねじ曲げたのではなく、ナナリーの意志を引き継いだのです。

「コードギアス」では、ナナリーが他人の手を握ると思考が読めるような描写がよくあります。
(他人の手を握って、「それはウソですね」と発言したり)。
このナナリーの力に関しては作品内で説明が無いので詳細は不明です。

ともかく最終回の最後の部分でナナリーは瀕死のルルーシュの手を握り、ルルーシュの内面を見るのです。

ナナリー「そんな……。お兄様は今まで……」

ナナリーは、ルルーシュが自分とまったく同じ考えで行動していたことに気づき号泣するのです。

「コードギアス R2」最終回の感想をひとまず

「コードギアス R2」最終回。
この作品に関してはじっくり見返してから語りたいと思うんですが、ひとまず感想。
(後で繰り返し見た後で、見解を変えるかもしれませんけど)。

ラスボスはルルーシュ自身でした。
ナナリーとルルーシュの対決がまともになかったので拍子抜け。

ラスボスのルルーシュが倒されて世界が平和になるというのは、なんかいきなりRPGのパーツを貼り付けたようなオチでした。というか、なぜこういうラストを選択したのか、が議論のポイントになりますね。RPGで魔王を倒して世界が平和に……みたいな展開にしたことの意図は?

まず単純に言って、第二十一話での父親との対決が事実上の最終回だったため、その後にもう一度クライマックスを作るのに多少の無理があったかと思います。一言で言えば蛇足であり、その部分は批判されるべきなのかもしれません。

「コードギアス」って象徴性を多用した作品だと思うのです。
「ガンダム00」は中途半端に現実の政治紛争に近づけて失敗したと思うんですが、「コードギアス」はシンボリックに対決しているので、細かい部分はあまり問題になりません。対決のシンボル性が保持されていれば、政治や戦争の実地的な部分は雑でも構わない。そういう作品なのです。

「コードギアス」って象徴劇なのです。
強大な王としての父、王国からの追放、死んだ優しいお母さん、ライバルとの対決、本当は僕は王子様……。
普遍的な人間存在の象徴がパーツとして並んでいるから、ギアスは評論の対象になりやすいのです。

最後の部分の「魔王を倒して世界を平和に」というベタベタな物語も、蛇足なりに上手くまとめたのかも。
プロレス的なアングルがあれば、細かい部分は問わない作品だから。ただ、違う格闘技のアングルを貼り付けてしまった感じかもしれません。

平坂読の「ラノベ部」はくだらないクイズ番組ですね



私の一番好きなラノベは平坂読の「ねくろま」です。
なので、あえて先日発売されて話題の「ラノベ部」を批判しようと思います。

「ラノベ部」はオタクな女の子が集まって、いろいろオタク的な会話をしたりするという、「らき☆すた」みたいな作品で……。まあ昔の漫画で言えば「全日本妹選手権」のノリですかね。

さて。
「ラノベ部」。
企画としては面白いと思うんです。
「ラノベ部」というふざけたタイトルも秀逸です。
オタクネタを扱うのは最近ありがちですが、流行を押さえたとも言えます。

よく小説は序盤の書き出しが重要だというけど、最初の部分の構図の作り方が問題だと思うのです。
文章が洒落てるとかではなくて。
企画的に面白そうだと思わせるかどうか。
それに関しては成功してます。

でも読み進めると、単にダラダラとオタク会話しているだけです。そして、それがあまり面白くない。「全日本妹選手権」のような濃さが無いのです。「全日本妹選手権」は、話が飛躍しつつも、妙に説得力のあるオタク論だったりして、面白い漫画でした。「ラノベ部」はそのあたりがダメなのです。いろんな作品のパロディを散りばめているだけ。

「らき☆すた」と一緒で簡単なクイズ番組的な構成なわけです。有名作品のパロディがたくさんあって、その元ネタを当てるだけ。作品内で正解は出されないけど、簡単なクイズだから問題なし。

あと、「らき☆すた」はオチがないと言われることもありますが、実際は結構それなりに四コマとして成り立っているかと。「らき☆すた」って、わりと短いスパンでオチが入って、切り替わりが早いから人気があると思うのです。「ラノベ部」はそのあたりのオチが今ひとつ。

あと、この手の作品のオタクのクイズみたいなの、意味あるのでしょうか?
いや「ハヤテのごとく!」だってそういう要素を入れているし、そういう流行なのかもしれない。
でも「ハヤテのごとく」は三千院ナギのコミカルなキャラの色づけとしてオタク話をうまく使ってるけど、「ラノベ部」は雑談だけ。「ハヤテのごとく」のように物語作品として完成しているものは素晴らしいけど、「らき☆すた」の劣化版みたいなのは持て囃すべきではありません。
(いや、買う人がいる限りは出るのだろうけど)。

あと、「ラノベ部」はちょっとキャラが多いかと思います。「ラノベ部」はラノベに興味のない女の子(物部文香)がラノベ部に入るという掴みで、そこはかなり面白い。でも、ちょっとキャラが多いので、最初のアングルがやや曖昧になってしまっている。登場人物をもう少し割愛して、物部文香中心に話を進めた方がよかったと思います。そうすれば雑談ラノベにはならなかった。
うまくやれば「ハヤテのごとく」みたいになれたかもしれないし。三千院ナギという魅力的なキャラに比べると、「ラノベ部」の女の子たちはオタク雑談してるだけの無個性人間。「ラノベ部」は単なる雑談だから、これ以上読む価値無いですね。

よくよく考えると、最初の掴みがよくても、だんだん脱線してくるって平坂読の作品全般に共通しているような……。「ホーンテッド」も「ソラにウサギがのぼるころ」も「ねくろま」も進むにつれて脱線して、終わっていったような。(「ねくろま」はまだ完結してませんが)。
この作者って、物語がどんどん展開して盛り上がっていくような作品は書けないのではないかと。
取っ掛かりだけ面白くて、その後の展開はボロボロ。

「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」は魔法で奇跡が起きない物語

「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」の退屈さは興味深いと思うのです。
失敗作ではなく、かなり意図的な退屈さなのです。
普通のアニメと違う文法で話が進んでいくので、逆に普段見ているアニメのパターンが陰画のようにくっきり見えてきます。

この作品の特徴は、魔法が社会的であることです。
反セカイ系と言ってもいいです。

通常の場合、登場人物が魔法を使えたら、現実のルールを超えられます。
そういうのが魔法なのです。
一般人がみんな従属しているルールを踏み越えられるのです。

この「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」は、そういう多くのアニメ作品とは全く逆なのです。魔法は社会的な技能であり、そして多少忌まれているもので、魔法遣いの方が一般人に頭を下げないといけないのです。

そして特徴的なのは、その世界観がそのまま続くことであり、その受容プロセスがテーマなのです。他人から拒まれたらギアス能力を使って世界をぶちこわすという作品とは対極です。

2003年に放映された「魔法遣いに大切なこと」では魔法のエキセントリックな使い方というのも結構ありました。でも今作ではほとんどないです。序盤で落下する電車を止める場面とかあるけど、それは研修を始める前の話。研修を始めたら、社会のルールに組み込まれて、あくまで制限された技能として使うのです。
(研修前は派手に魔法使う場面出して、研修が始まったら魔法を制限されるというのはたぶん意図的かと)。

要するにこの作品の登場人物は(魔法が使えても)普通の少年少女として扱われるのです。
魔法という技能を使う過程で躓いて、そこから普通に立ち直っていく。
(ギアス能力で打開するみたいなのは全くありません。そういう作品とは対極なのです)。
普通の人生でありがちな失敗とか挫折を描いて、それを受容するというプロットの繰り返しです。
異能者バトルで「問題解決」するようなアニメに慣れていると、この作品はちょっと退屈に思えたり。

つまりアニメ作品で魔法が出てくると「問題解決」の仕方が、異能力で逆転してカタルシスを得るようなものだったりするわけです。「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」ではそういう解決方法が否定されています。
たとえば肥大した自我が不適合を起こすなら、それを現実社会に合わせたサイズにすることが、この作品の「解決」なのです。
(ルルーシュならギアス能力で世界の方を変えるんですけどね)。

漫画でもアニメでも下方修正による適応というのは、かなり少ないです。
基本的に100点か0点かで考える主人公が基本です。100点が無理な状況でも100点を求め、自爆的に特攻していくのが普通です。(フィクションだからそれで切り抜けてしまうんですけどね)。
「魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~」はそれとは対極で、100点が無理なら70点で世界と折り合っていこうという現実的な作品です。
オールorナッシングのアニメに慣れていると、なんじゃこりゃと思うかも。

「コードギアス」に限らず、社会を超越した異能力で動いていくアニメが普通だから、「夏のソラ」は退屈に思える人も多いでしょう。社会的なルールを異能力で超越するという展開を予想して見ていると、かなり期待はずれということになるはずです。

この作品は(全12話のうち)第九話あたりから盛り上がって、そして今ひとつ問題が解決されないまま終わります。
(というか現実を変更することが出来ないので、その現実と折り合うだけです)。
これはこの作品全体の特徴です。
魔法で現実の仕組みは超えられない。
その枠組みの中での心の表現が魔法なのです。
だから最終回近辺のカタルシス度合いも薄くて、不満な視聴者も多いはず。
でも、魔法で世界は超越できないという点で一貫性はある作品です。
(まあ現実をぶち破るカタルシスが無いと消化不良と言われるんですけど)。

「コードギアス」でのルルーシュとマリアンヌの関係について

ルルーシュはマリアンヌのことを「死んだ優しいお母さん」という風に認識していたはずである。
R2の第二十話まではそうだった。
しかしR2第二十一話で母親が生き返ると、会話がかみ合わない。
母親は父親の人類補完計画を支持するばかり。
「おまえら親は俺とナナリーを捨てたんだよ!」
とルルーシュは魂の叫び声を上げ、両親は消え去る。

これは変なのか?
表面的に見ると変ではある。
優しかったはずのお母さんと、(R2第21話の)エゴを持ったお母さんは矛盾している。制作者は最初の設定を忘れたのか?

でも、これは心理学の基本的な構造だと思う。家庭にもよるが、子供というのは、ごく幼い頃は親から愛されるのではないか。特別に悪い親だと虐待などもありえるが、例外的でしょう。幼い頃は無償の愛が基本。

でもある程度子供の自我が育ってくると、エディプス三角形が生じる。
父ー母ー息子の三角関係になる。
ごくごく幼い頃はお母さんから無償の愛を貰うけど、それを過ぎると父親が入ってきて、断ち切られてしまう。

エディプスコンプレックスでは父と息子が争うわけですが、「コードギアス」では父が勝者だ。両親は第21話で消えてしまうけど、母親は父親を選んで死んだ。

「コードギアス」はエディプスコンプレックスにおいて、息子が負けたケースを描いている。ルルーシュの全能感の肥大と承認不足は、こういう親子関係の結果として、当然かと思う。(現実の自分が認められてないから反逆して世界を変えるという発想は、そういうことです)。
ルルーシュがブリタニアから追放されたのも、エディプス的関係です。ルルーシュは母親争奪戦の敗北者として日本に追放されたのです。そこからの尊厳回復の物語なのだが、何しろお母さんの奪い合いで負けているわけだから、歪んだ戦いになるのは致し方ない。母親を奪い取られた息子は生涯に渡って尊厳の傷を負う。

問題が解決しない作品の方が批評意欲を掻き立てられる

物語って、解決するのが基本です。
特に漫画だと勝利による解決ですね。
勝ったぜイエーという作品。

こういうのは評論しづらい。
あるいは、人間存在と絡めたような評論がしづらいと言えばいいかな?

我々の自我構造は基本的に抑圧的です。
抑圧されて生きて、そして死んでいく。
「勝利で解決」の作品は、抑圧から解放されてイエーなので、我々の自我構造にそぐわない。

新世紀エヴァンゲリオンが、あの当時、多大な批評意欲を掻き立て、今日でもなお批評する人がいるのは、そういうことだと思うのです。抑圧からの解放がないから。解決による脱出がないので、抑圧的な我々の自我そのものなのです。

「勝利で解決」されると、それ以前の抑圧がどうでもいい過去になってしまう。勝利のカタルシスで、過去は流される。ピッコロ大魔王倒したら、それで終わり。ドラゴンボールで敵が次々味方になるのは、勝利することで過去がチャラになるからです。抑圧がリセットされるから、平気で仲間になったりするわけです。

やや語弊があるけど、人間の人生は基本的に問題が解決しません。問題が解決されないままダラダラ生きているのが普通です。だから、解決されないエヴァ的な作品に人は強烈に惹かれることもあるのです。解決しないからこそ、エヴァに出てくる様々な事象は抑圧の象徴に見えるのです。仮にエヴァで碇シンジが強くなって問題解決したら、使徒はピッコロ大魔王的な敵になり、抑圧はリセットされてしまう。

バッドエンドにすればエヴァになれるという単純な話ではないですけどね。
作品内での問題の未解決性が、我々人間の本質を深く突いているかどうかが重要です。

視聴者は道徳的バランスを監視しながらアニメを見ているので

コードギアスR2第二十三話「シュナイゼルの仮面」の感想。
ネタバレもあるので注意。

今回気になったのは、シュナイゼルに悪事をやらせたこと。
付け焼き刃で悪の親玉にするために、いろいろやらせたという印象。

つまりシュナイゼルを極悪人ポジションにすることで、今までのルルーシュの道徳の問題に決着を付けるという嫌な流れが予想されるのです。
ルルーシュよりシュナイゼルの方が悪いという構造を作ることで、これまでのルルーシュの道徳的問題をなし崩しにしてしまうのではないか、という懸念が……。

「コードギアス」という作品をきちんと纏めるためには、こういうことをやってはいけないはず。
我々視聴者は道徳的バランスを監視しながら、見ているわけですからね。

どんな漫画とかアニメだってそうです。道徳的な因果応報が保たれているかどうかが基本的に重要です。別に単純な因果応報である必要はなく、物語として納得のいくケリの付け方、というのですかね。

仮に「コードギアス」の結末が、極悪人シュナイゼルを善玉ルルーシュが倒して、ルルとナナリーが仲直りという結末だったら、陳腐すぎます。ラストで極悪人を出してきて、それを倒して道徳的バランスを取るなら、ご都合主義の極みです。それだけは避けて欲しいかと。

ルルーシュとナナリーのラスボス対決を予想してみましょう(コードギアスR2第二十二話を見ての感想)

コードギアスR2第二十二話「皇帝ルルーシュ」のネタバレ感想です。

もっとも第二十二話では、ほとんど話は進みませんでした。最後にナナリーが出てきて、それで次回に期待を持たせただけ。繋ぎの回と言ってもいいでしょう。最近は急速な超展開の連続だったんで、拍子抜けしましたけどね。最終回が近いわけですが、(第二十二話のスローペースからすると)あまり急ぐ必要がないということなのか?

シュナイゼルがラスボスなんて小物だよねとか言っていたら、どうやらナナリーがラスボスになりそうで。。。
ナナリーが何らかのギアス能力を持っていて、最終回で目を開いたりするのでしょうかね?

さて。

ナナリーとはなんぞやというのを、考えてみたいと思います。
本来なら第二十三話を見てから結論を出すべきなのですが、あえて事前の予想です。

ナナリーは主人公のナイーブさを外部化するための存在です。
わかりやすく言えば、ルルーシュを、アムロ・レイや碇シンジみたいなキャラにはしないということです。
ナナリーは純粋性の担保。
無限の純粋性の象徴だから、ルルーシュが何をやっても「ナナリーのため」で全部返済出来ます。

「コードギアス」は(デスノート的でありながらも)デスノートみたいな主人公は選択しなかった。
ナイーヴな主人公という立ち位置はキープ。そのナイーヴさは碇シンジのように内面で問答するのではなく、「ナナリーのため」というスタンスで維持するのです。

ナナリーは必要不可欠ではない。いなくてもいいキャラではあります。ただそうすると、主人公のメンヘル度が増すでしょうね。ルルーシュがいろいろ他人を騙して操作して暴れて、「でも僕はピュアなんだ」ということだと、境界性人格障害丸出しなキャラになってしまう。まあ境界性人格障害の極みをやってくれてもいいのだけど、普通はやらない方がいいでしょう。ルルーシュの純粋性はナナリーに投影して、本人は悪漢だということにしているのです。これで嘘つきと純粋性がキャラ分けされて、境界性人格障害丸出しは回避できます。

話を少し広げますが、「コードギアス」は主人公の内面的尊厳の回復のための物語です。
ピッコロ大魔王が襲ってきて悟空が戦うのとは対極なのです。

ある意味「コードギアス」でルルーシュは戦う必要ないのです。
別にピッコロ大魔王が襲ってきているのではないのだから。
ブリタニアをぶっ壊すというのは、主人公の内面のためです。

端的に言えば、承認不足の状態に置かれた主人公の話であり、極めてアニメファンに好まれる設定です。狭義のアニメファンということですね。承認不足でトラウマ持ち主人公は、アニメファンにウケます。

ナナリーに関しては、基本的に純粋性の担保でしかないので、ルルーシュの問題解決に関わる必要はないのです。シスコンっぽいテイストになってますが、要はナナリーはルルーシュの分身なのです。

物語構造的に「ナナリーとの対決」は話がこんがらがると思うんですけどね。
父親とのバトルが最終話だと思っていたのですが……。
(つまり第二十一話みたいなのを最終話とするべきではないかと)。
「死んだ優しいお母さん」も生き返らせて、リアルの母親らしいエゴを見せてしまいましたからね。

ラスボスはナナリーで最終話へ向かうと思われますが、どうするつもりなのか?
成長物語的な展開だと、主人公の分身は死ぬんですけどね。純粋性を仮託されてきたナナリーは死んで、ルルーシュは「成長」するというのが最もありがちな展開だと思われます。でも成長物語的にケリが付く感じではなくなっているので。。。
難しいところです。
ナナリーの死と引き替えに問題が「解決」されてルルーシュが生き残ると私は予想しておきます。
かなり苦い結末になりそうな?
基本的にハッピーエンドは難しいかと。

もっとも、いきなり人類補完計画が出てくるアニメだから、何があるかわかりません。

天地無用をハーレムと呼んだ奴のせいでハーレムの定義がややこしくなっている

ハーレムアニメという場合、どういうのを指すのでしょうか?
極めてわかりづらいですね。

別にアニメでなくても、エロゲーとかラノベ含めてもいいのだけど。
ランスとハルヒは同じになるのでしょうか?

とりあえず三つに分類してみましょう。
(1)ランスみたいな文字通りのハーレム。いろんな女と結合。
(2)主人公がリア充っぽい感じで、いろんな女にモテる。
(3)平凡な男の周りに美少女がたくさん配置される。

(1)はとりあえず議論から外しましょう。というか、(1)はガチハーレムと呼んでおきます。ランスとかバスタードはガチハーレム作品ということで。

(2)に関しては、エロゲーをアニメ化するとリア充っぽくなるというのがあるかと。主人公=プレイヤーなので、凡人設定にこだわる必要なし。あと、アニメだとルート分岐がないから、一つの話にたくさんヒロインが詰め込まれる問題。

(3)こそが、ハーレムなのだと思います。
平凡な男の周りに美少女がたくさん配置される。天地無用をハーレムと呼んだのはある種の揶揄としては適切だったはず。ただ、議論を混乱させる元になっている。ハーレムというとランスみたいなガチハーレムをイメージする人もいるでしょうからね。

(3)の特徴は、性的な関係性が省かれていること。
お色気サービスはあるにしても、その先は無し。女の子が迫ってきても、主人公は拒むのがお約束。
つまりラブストーリーに展開することは避ける。女の子に好意を持たれているが、主人公は奥手……と言えばいいのか。

(3)のパターンは多くの人気作品に見られる構造なのですが、「ハーレム」と呼んでしまったために、議論がややこしくなる。たとえば「ローゼンメイデン」とかは(3)のタイプの作品だけど、「ローゼンメイデン」をハーレム作品と呼ぶと何となく違和感あったり。「サクラ大戦」をハーレムと呼ぶべきか?

つまりですね。
ある種の類型パターンはあると思うのですよ。
女の子を三人から五人くらい用意して、主人公と女の子は適度に親密ながらも発展はせず、主人公は女の子に囲まれつつ、いろんな問題に取り組む……みたいな。異能力を持った女の子たちの名目上のリーダー(あるいは狂言回し)になる感じ?
大人気作品に多く見られるパターンなのですが、定義がしづらい。
やはり「ハーレム」と呼んだ奴が悪い。

まあ適当に用語を提案しておくと、
(1)「ランス」みたいなのは「ガチハーレム」
(2)エロゲーのアニメ化にありがちな、わりと容姿のいい男がモテるのは「リア充ハーレム」
(3)「ハルヒ」や「ローゼンメイデン」みたいなのは「凡人ハーレム」

凡人ハーレムが人気作品に一番多く、そしてハーレムと言うのは揶揄であり、実際は狂言回し的ということです。恋愛の要素がないからこそ人気が出るというのはあるのです。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
アクセスランキング