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「勉強」をテーマにした作品は少ない

受験漫画みたいなのは定番としてある。
ただスポーツ漫画に比べれば圧倒的に少ない。

漫画で「勉強」というと、試験前に慌ててやるのがお約束である。学校は勉強をするところではない、ということなのか。普段は人間関係の場であり、勉強は一夜漬けと。

「勉強」が物語にならないというわけではない。前述したように、受験漫画は定番ジャンルではある。とはいえ、少し変わった分類にされがちだ。ある種の特殊ジャンル扱い。

勉強は「生きる」ことと相反するのかもしれない。だから、勉強しないことで生きることを表現できる。ゆとり教育なども、そういう発想から生まれたのだろう。

だが、実際には社会はNerd化しているのである。
そもそも人類が人類足り得るようになったのは、運動能力を捨てて脳を重くしたからである。
また特に産業革命以降は、頭脳重視の社会になっている。
これからのコンピューター化社会で、ますますNerd化は進む。

ゆとり教育はそれに逆行する誤りだった。
だが原始的本能として、「勉強」が異物であるのも確かである。
「勉強の面白さ」を伝えることも可能だけど、それよりは、モテたり運動やる方が面白いし、物語にもなりやすいという問題。
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原始的生存競争というイニシエーション

私たちの社会は(普通の動物のような)生存競争を必要としていない、はずである。

もちろん社会的な競争はする。
だがそれは、nerdとかgeekと呼ばれがちな技術的頭脳の競争だ。
純然たるマッチョは必要ない。
私たちの社会は高度に知性化されていくので、本来はすべてがnerd(geek)になるべきなのである。

とはいえ、動物の原始的本能が私たちの根底にある。
人間の普通の感覚としてnerd(geek)は変である。
運動能力を捨て去り、知性を選び取ったのが人間なのだが、でもやっぱり運動できて容姿がいい方がいい。
頭脳の実用性を最も重んじる形で現在の社会は成り立っているが、本能的に今ひとつしっくりこない。

そもそも頭脳が重要視されるようになったのは、産業革命以降である。産業革命の要因のひとつとして、技術的知性の重用というのがあったはずである、たぶん。頭脳最優先で社会を高度化させるという流れになったのは、(人類の歴史の中で)ほんのつい最近だとも言える。

ともかく頭脳中心なのが今の社会。とはいえ、あんまり据わりがよくない。だから原始的本能として、私たちはマッチョ的な生存競争をやることもある。技術的頭脳による高度化を目指す近年の社会には似つかわしくないのだが、原始的な本能の方がしっくりくるのだ。

漫画でも小説でも、原始的な生存競争を描くためのものかもしれない。

あるいは誰でも通う中学校という場所は、原始的生存競争をやらせるための収容所かもしれない。多くの人が中学校の三年間を特別なものとして扱うのは、そのあたりが原因だろう。人が中学時代を回想する場合、「素晴らしい学校生活だった」というのではなく、多くは原始的生存競争の回想になるのだ。そしてそういう肉体的なものが物語になりやすいのである。

評論系ブログの衰退

ブログが一般に普及してから五年くらい経つ。
最初の頃は、論客的なブログが目立っていた。
「ブログは自分の意見を書くツールである」という素朴な理念そのままの。

そしていろいろバトルが繰り広げられたり、あるいはそうでないところでも、論客系のところは粘着アンチが湧く確率100パーセントだった。端から見ていて、運営負担が重そうなのは容易に見て取れた。

2008年現在では、「ネット論客」とか「ネットのご意見番」みたいなブログは、やや勢力が弱まったという印象である。(ブログ以前から実名でメディアに出ていたような有名人は除く)。

今では出来るだけ自分の意見は書かないというのがノウハウになった。あるいは、情報ブログの方が優勢になったと言うべきか。「自分の意見」を押し出さず、情報だけ黙々とエントリーしていたところが、現段階では勝ち組。
そして、この場合の情報にしても、残念ながらコアな情報であることは少なく、すでにある情報の整理整頓だ。

運営負担の重さの学習が進んだことで、「論客」とか「ご意見番」的なブログを今さらやる人はいないだろう。しかし評論そのものが死んだわけではない。最近の傾向としては、ロジックで明晰に説明するタイプの評論ブログが地味に人気あるように思える。特にアンチが湧いてることもない。評論的なものを書く場合にはロジックだけを書くのが現段階では正解ではないだろうか。

たぶんブログ初期の頃は「評論家願望」でやっている人が多かったのではないかという気がする。評論家先生的なポジションで物言いをすることを希求していたブロガーが多かったのだ。それはネットの可能性を見誤っていたのだろうと思う。
「評論家」とは発言内容よりはポジションの問題なのだ。知識人とは、巨大なオールドメディアの演出である。そしてオールドメディアの衰退で、かつての知識人自体がポジションを失いつつある。
(もちろん彼らの場合、多くは大学教授で終身雇用なので、影が薄くなっても安泰だが)。

「ねくろま」第六巻で完結(あと、ラノベ部第二巻発売されるそうです)

平坂読の「ねくろま」がようやく完結。



ただし後書きによれば、後日談的なものが、もう一冊出るということ。その後日談が「ねくろま7」になるのか、外伝的なタイトルで出るのかは未定。作者はまだ一行も書いてないという。

私としては、一番好きなラノベが「ねくろま」で、毎回必ず発売日に買ってきたわけだが、第六巻は何とも言えず。バトルとしては巧く書けていたという評価も出来るかもしれない。ただ、「ねくろま」本来の面白さは無かった。「ねくろま」が本当に面白いのは第一巻と第二巻だけ。第二巻までの独特の面白さが、だんだん無くなっていってしまったのが……。

まあ平坂読の他作品「ホーンテッド!」や「ソラにウサギがのぼるころ」に比べると、うまく完結したという程度。

あと、「ねくろま6」の後書きによれば、「ラノベ部」の第二巻が出るそうである。

最後に宣伝です。
この本が出るちょっと前に『ラノベ部』という新作を書かせていただきました。
僕の作品の中では最もファンタジー色の強い作品になっております。
『ねくろま。番外編(仮)』の前に、多分こちらの2巻が出るかと思います。ひとつよろしくお願いします。
あと、それ以外にも新しいシリーズを着々と準備中です。


オタクネタを散りばめるというタイプの作品には食傷気味なのだが……。
といいつつ、第二巻も惰性で買ってしまいそうな予感。


たぶん「喰霊」はまとめて一気に視た方がいい作品

「喰霊」は現在第8話まで放映。



アニメというのは、一週間に一度視るというのが基本なわけである。
「かんなぎ」のような作品なら、それがちょうどいいのかもしれない。

だが作品の性質によっては、一週間ごとに視るのが辛いということがある。
「喰霊」はそういうタイプ。

二時間の映画があるとして、それを10分ごとに切られて、一週間ごとに視るとしたらどうだろう。

「喰霊」は(かなり意図的に)展開が早く、そして唐突な作品なので、「一週間おき」の視聴スタイルには合わない。

たぶんこの作品は放送が終わってからまとめて視た方が楽しめるはず。

初音ミクの消費



初音ミクは一時的にブームにはなったが、ひとまず沈静化してしまった状態ではある。
ネットでよく見られる現象である。一時的に盛り上がって消費されて、その後は……という構造になりつつある。ネットでの「消費」は、何も残らない。お金が残らないことも多いし、業績として認められることもない。初音ミクがこのまま消えた場合、数多の楽曲は忘れ去られるのか?

関心の断絶という問題。オールドメディアでは「国民的関心事」を演出出来たが、ネットだと、関心のある人はあるけど、関心のない人はない。ネットの地図を作って初音ミクの分布図とか描いたら、かなり局所的ということになるのかもしれない。

初音ミクが一人前の歌手になれたのか、というと疑問である。(少なくともプロのアーティストと同列にミクの曲が聴かれることはなかった)。

だが、VOCALOIDの進化は続く。初音ミク段階で充分に完成はしていると思うが、今後はさらによくなるだろう。初音ミクが単なる一個人なら「消費されて終わった」となるのかもしれないが、VOCALOIDというツールなわけである。

あと、「関心の断絶」という問題はあるにせよ、ネット自体の地位も、将来は上がっていくだろう。

それに活動自体が停止したわけではなく、今でも曲は作られ続けているし、これからも続く。

ある意味、初期の過熱が終わったから、ここからが真のスタートなのかもしれない。ネットって、我々が思うよりも規模が小さいし、関心の断絶もあるのだが、どうも勝手に先走って幻想を抱きがちだ。無限に拡大すると思っていたら、すごい局所的な現象だったというのを頻繁に体験する。

10年くらいしたら、プロのアーティストとVOCALOIDが同列に並んで聴かれている状況だってあると思う。残念ながら2008年段階ではそうならなかったし、しばらくはならないと思うが、問題はここからなのである。たぶんアニメや漫画の黎明期だって、こういう扱いだったのだ。

「鉄のラインバレル」はロリ系の萌えキャラが足りない



「鉄のラインバレル」第八話まで。

ベタな王道を斜めから揶揄しつつ進める感じの作品。
「機動戦艦ナデシコ」風か。

少なくとも私は面白いと思って見ており、最後まで完走すると思うのだが、ヒロインが物足りない部分も。
この点を検証してみる。

ヒロインが物足りないのは、これが少年漫画的な構造だからなのだろうか?
古典的な少年漫画だとヒロインのキャラを立てづらい。誰にでもわかりやすい事例で言うと、ドラゴンボールとかスラムダンクに萌えキャラを入れづらいという意味。男が主人公であるのはそういうことである。

「コードギアス」に萌えが少ないのも、少年漫画的構造だから。あと、主人公のルルーシュが美少年だからというのもある。萌えは偶像崇拝なので、美少年の視点からだと成り立たない。

さて、「鉄のラインバレル」の話。
この作品は萌えを許さないような構造だろうか?
決してそうではないと思う。
むしろ萌え要素をもっと増やして欲しい作品。

この作品のヒロインは物足りない。
正確に言えば、ヒロイン構造が物足りない。

主人公はヘタレなわけである。少年漫画の王道主人公に見えつつ、実際はそうではないという斜め的なキャラなわけである。男性原理で動いている作品ではない。

この作品は、ヒロインが一人足りないという気がする。

幼なじみの新山理沙子はデフォである。主人公を好きになる担当。
一応のメインヒロインの城崎絵美もいいでしょう。主人公にわりと好意的なヒロイン。

もう一人、やはりロリ系の無口で生意気なキャラを追加したい。ある種のメインヒロイン的でありながらも、主人公と疎遠であるような立ち位置で。全体として、女性陣が主人公に好意的なので、それとは違うアクセントが欲しい。
遠藤シズナ、イズナは生意気だけど、あんまり中心ではないからな。

萌えキャラの入る余地がない作品なら仕方ないのだが、この作品の人間関係を考えた場合、もう少し工夫は出来たような気がする。

私の特殊な願望を言っているのではなく、この手のアニメの定番的な配置の問題を言っているのだ。

人気と消費

人気は消費されるものである。
人気と消費は時間性の中にある。
我々は一時的に何かに関心を集中させる。
それが消費だ。
別の関心事が発生すればそちらにシフトし、時間は更新される。
今までの関心対象は、現在の時間から棄却され、こぼれ落ちる。
消費され終わったということだ。

アフィリエイトが普及する前、多くのサイトは「人気」のために運営していたのである。しかし、そういうサイトがどうなったか。まさに「人気は消費される」の法則通りである。広告で儲けてでもいなければ、後には何も残らないということになる。

「アフィリがモチベーション」というのも、人気を集めることの不毛性が浸透してきたからである。他人の事例を見て学習したからだ。(要するに昔は「人気を得ることがモチベーション」だったのだ)。

そして事態はさらに「悪化」した。本当の意味で人気者になろうとするブログはほとんどない。
昔話的なので、あえて古い喩えで言うなら、昔はみんなビートたけし的な存在になろうとしていた。今では小堺一機みたいなポジションを目指す。それは妥当なのだろう。本当に人気があると消費されるから。全力で面白いことをやろうとするタイプのサイトは無くなった。

ともかくネットで何かをやろうとする場合は、「人気と消費」という問題に自覚的であった方がいいだろう。ブログでなく、動画投稿とかそういう類のでも同じこと。サービスを提供する側も、創作者へのフィードバックシステムを多少は用意しないと「人気が出ると消費される」というのを学習されて衰退するだろう。

「とらドラ!」は主人公に惚れているサブヒロインがいないので……

「とらドラ!」は第八話まで進行。
憎悪して見ていたこの作品も、ようやく慣れてきた。
最近は恋愛感情が飛び交わないから安心して見られるのだな。この後の展開は知らないが。
(第八話の少しツンデレっぽい感じは原作通りなのかどうか知らない。原作は挫折したので)。

この手の作品だと、サブヒロインが主人公に惚れてくれる場合が多い。メインヒロインが我が儘でも、何となく主人公が承認されるのだ。

オタクとしては、「とらドラ!」の初期設定に違和感ありまくりなのだが、「主人公に惚れるサブヒロイン」の不在も理由の一つだった。

たとえば恋愛とか青春とかが中心でも、「おねがい☆ティーチャー」はオタク的に素晴らしい作品である。「おねがい☆ティーチャー」は基本的に主人公と風見みずほ先生の恋愛関係なわけである。
そして(ネタバレ回避のためあまり書かないが)森野苺がこの作品のスーパーヒロインであり、苺たんはオタクアニメの歴史の中で金字塔のような存在である。

「おねがい☆ティーチャー」を普通に見ていると、縁川小石の存在を忘れがちである。主人公に片想いしている「縁川商店」の女の子だ。彼女はサブヒロインとしてとても重要なのだ。

「おねてぃ」の素晴らしさは、主人公とみずほ先生のわりと安心出来るラブコメがあり、そしてスーパーヒロインである苺たんの物語もあり、それに加えて、縁川が主人公に惚れているという点でも王道が守れているということなのだ。

「とらドラ!」はこの手のオタク風作品にしては、「ゼロの使い魔」のシエスタとか「シャナ」の吉田さん的なキャラがいないのだ。「とらドラ!」で川嶋亜美がああいう二面性のあるキャラなのは、女子の感情の交錯がメインということ。川嶋亜美はオタク向けのセーフティーネットではないということだ。


セルゲイ・スミルノフのストイックさが新鮮に見えてしまう昨今のアニメ情勢

「ガンダム00 セカンドシーズン」は第七話まで進んでいる状況。ここまではセルゲイ(左の頬に傷のある軍人)のキャラが光ってます。

ストイックな漢っぷりみたいなのは物語の古典的王道であるはずです。しかし、セルゲイの漢っぷりが、やたらと新鮮に見えてしまうのです。

女の子とオッサンの組み合わせだと、最近なら、オッサンが幼女に萌えたりするのが普通です。だから、セルゲイのソーマ・ピーリスに対する漢な姿勢が極めて新鮮に見えるのです。オッサンなのに少女にロリ性欲も抱かず、ここまで漢になれるなんて……と。

最近のアニメがおかしいのかもしれません。本来はセルゲイのような漢が標準的であるはずなのです。古典的な王道キャラであるはずのセルゲイがすごい斬新に見えてしまうのは、私の見ているアニメが偏っているのか、日本のアニメ全般に偏りがあるのか……。

ガンダムは影響力の強い作品です。
ストイックさで感動を生み出すという古典的王道が失われつつありますが、セルゲイの影響で、こういう漢なオッサンキャラが増えるかも。
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