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今だからこそ「ナイトメア・オブ・ナナリー」が楽しめる



私の一番好きなアニメは「コードギアス」である。
「ナイトメア・オブ・ナナリー」というパラレルワールド的な漫画の存在はもちろん知っていたのだが、敬遠していた。そして敬遠していてよかったと思う。コードギアスに熱中している間だと、この漫画作品は生理的に受け付けなかったかもしれないからだ。

今は熱も冷めてるので、こういう冗談作品を素直に楽しめる。「ナイトメア・オブ・ナナリー」は、コードギアス本編とはかなり設定の違う冗談作品だが、真剣に描かれており、読みやすい漫画である。

学園パートでは、シャーリーはほとんど登場しないし、ニーナはそもそも存在しないという具合。
アリスというオリジナルキャラが準主役で、学園パートの中心となる。

「コードギアス」の学園パートはルルーシュみたいな美少年が主人公であるのが原因で萌え不足だが、「ナイトメア・オブ・ナナリー」はルルーシュが脇役なので、アリスに萌えられる。
主人公が美形だとやはり萌えは難しいのだな。たとえば碇シンジの前だと惣流・アスカ・ラングレーは特別な美少女となる。だがルルーシュの前にアスカがいたらどうだろう。ルルーシュの前だと、アスカのキャラは立たないかもしれない。ルルーシュは王子様だし、女は誰でも選べるからだ。ヒロイン構造が作りづらいのだ。

ともかく「ナイトメア・オブ・ナナリー」はルルーシュの影が薄いので、女の子キャラが萌える。ルルーシュがいないことによるメリットだ。

あくまでパラレルワールドの冗談作品なので、絶賛に値するというほどではないが、「コードギアス」の本編に熱中していて、ようやく熱が冷めたという頃合いだと、「ナイトメア・オブ・ナナリー」はかなり楽しめる。
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第二次ベビーブーム世代とトーナメント戦

一昔前の漫画で、トーナメント方式がやたらと多かったのは、世代人口の問題である。狭義の第二次ベビーブームは1971-1974年生まれのことだが、その前後も人口が多いわけである。やはりこの年代あたりが中学生の頃の少年誌では、トーナメント方式が多いと思う。(まったく統計などは取ってないが)。

あんまり人間を世代で切り分けたくはないのだが、世代人口が多いと、椅子取りゲーム的な人生観を持つのが普通である。そういう椅子取りゲームが「トーナメント方式」だと思うのだ。勝ち残らないと切り捨てられる感覚。

逆に1980年代生まれ以降だと、まず椅子には座れるのが前提となるだろう。
椅子に座って、そこから……となる。

まあトーナメント戦というか、生き残りゲームは物語の王道だとは思うのだけど、たぶん1970年代生まれの人間に訴えやすい構造だ。
1960年代生まれだと、人口が多いながらも、バブル期とシンクロしたりしているので、「座れる椅子の数が限られている」という感覚は若干薄いかもしれない。
1970年代生まれだと、人口が多くて、なおかつ不景気にもあたっているので、椅子取りゲーム的な感覚がダイレクトに付きまとう感じだろう。

親子の葛藤という設定は劇薬

親子の葛藤というのは、名作によくある設定である。主人公が父親と激しく対立している名作は結構ある。だが(名作に多い設定なのに)フィクション全体としては、使用頻度が低い設定だと思う。

たぶん親子の葛藤は劇薬なのだ。上手く嵌ればかなりの名作になるが、使い方が悪いと「痛くて読めない」という作品になってしまう。「萌え」とかなら、とりあえず入れておけみたいな要素だが、親子の葛藤関係は危険物なので、入れればいいものではない。

「名作」と「痛くて読めない作品」の違いは難しい。
たとえば「永遠の仔」という作品が一昔前にブームになったが、あれなんかは、「痛くて読めない作品」の類型だ。ただ「永遠の仔」自体はよく書けている作品だったと思う。(読んだのが昔なので細部は憶えてないのだけど)。この手の作品だと、「親のせいにするな」みたいな反発を招きがちだが、主人公達が社会人として働きつつも、過去の親からの虐待のトラウマに苦しむという設定にしたことで、反発を上手く回避していた。他の部分でも「痛くて読めない」となりそうな部分を、ギリギリのところで描けていたような気がする。「永遠の仔」は痛くて読めない類の作品をギリギリのバランスで成立させた希有な事例である。これはちょっと例外だと思う。王道的に親子が対立する作品とはちょっと違う。

では、王道的な対立とは何なのか。あまり明確には言えないのだが、シンボル性を持つということかもしれない。親とはシンボルなのである。私の親とあなたの親は同じなのだ。もちろん私の親とあなたの親は別人だし、まったくの赤の他人だが、「親」として同一人物なのである。このような混同性があるのだ。親のような顔をして赤の他人に説教するのは人間の日常的行動だが、それは「親」の混同性に基づく。

星一徹も海原雄三も碇ゲンドウもシャルルも私の父親である。
そのようなシンボル性に巻き込めないパーソナルな親子の葛藤を描くと、痛くて読めない失敗作になるのかもしれない。


他人事から当事者へというのが「ガンダム00」の流れなのだけど



「ガンダム00セカンドシーズン」第12話まで進んだ段階。

この現実において、世界大戦というのは第二次世界大戦を最後に起こっていない。先進国の視点から見ると、世界は平和である。でも実は、あちこちで局地的な戦争はあったりする。貧しい国では内戦や内紛、あるいは、局地戦がいろいろ行われている。日本に住んでいれば、そういうのはCNNとかの映像を(リビングルームとかで)眺めるだけだ。つまり他人事だ。

「ガンダム00」の第一期は、そういう世界状況を意図してなぞっていた。他人事をそのまま他人事として描いていた。これは明らかな制作者の意図である。そしてつまらなかった。だって他人事だから。どこかの遠い小国で悲惨な戦争があっても、それは日本から見れば他人事だ。子供がゲリラとして銃器を抱えて走り回っていても、それは他人事だ。無関心であるのは当然だし、そういう無関心さがガンダム00第一期のつまらなさだったのだ。

第二期ではアングルを変えた。ある程度第一期から伏線は張られており、第一期で当事者で無かった人間が当事者性を持つようになっている。そして第二期は、当事者性があるがゆえに、面白いと言える。

敢えて批判的に言うなら、他人事だと他人事で、当事者なら当事者というだけだ。物語のアングルが変更されただけ。それだけの問題。(つまり当事者性に巻き込まれないなら、他人事はやはり他人事だと思うのだ)。

ともかくまだ物語の途中である。
「他人事」と「当事者」の問題は制作者が意図的にやっていると思うので、そのあたりの構図には注目していきたい。

「鉄のラインバレル」第十一話までの感想



「鉄のラインバレル」第十一話まで進行。

基本的に「斜め」な作品。登場人物の言動が斜めなのではなく、制作者の描き方が(意図的に)斜めなのだ。

で、第十一話も、クリスマスを憎んでいるデブヲタと戦う話。
「斜め」なのがこの作品の特徴だからいいんだろうけど、斜めが直球過ぎて、今ひとつ。

あと、この作品は、キャラデザが古臭すぎる。もう少し今風の絵であれば、もっと人気も出たと思うのだが……。どうも、ルリルリがいないナデシコという気がしてしまう。一応は面白い作品なのだが、ちょっと消化不良に終わりそう。

2クール全24話予定らしいんだけど、今ひとつ成功作にはなりきれない予感。

ラノベとは、フラグが立たないエロゲーである

ラノベとエロゲーは何処が違うのか?
性描写の有る無し?
それだけだろうか?

結論から言えば、ラノベでは主人公とヒロインの間にフラグが立たない。
「結ばれる展開」にならないということだ。

男性主人公とヒロインが結ばれるラノベがあってもいいが、あまりスタンダードとは言えないだろう。
ラブコメで長々とシリーズが続いたら、ラブストーリー展開して結ばれたりもするだろうが、基本的には寸止めの連続でいくでしょう。

あなたがラノベを読む時でも。
男性主人公とヒロインが結ばれる話を期待して読んでないと思う。
(逆に、エロゲーやる場合なら、結ばれることを期待してプレーするでしょう)。

こう考えるとエロゲーとラノベはかなり違うのかもしれない。似ている部分が非常にたくさんあるので、性描写があるかないかの違いだけだと思われがちだが、「結ばれる展開」にならないというのがラノベの基本で、そこはエロゲーとかなり違うのではないかと。

ブログの世界は情報整理と交通整理の人ばかり

2008年も終わりなので、現在のブログの状況でも。2003年あたりにブログが普及した頃は、血気盛んな人が多かった。あるいはその前でも、個人サイトは、全身全霊を投入してやるものだった。

だが、いわゆる超人気サイトはファンとアンチが入り乱れて面倒な問題を抱えることもある。
そして2008年現在、本当に熱烈な人気を博しているブログ(サイト)って無いと思う。

2008年になってみると、情報整理・交通整理の得意な人が生き残った。最近テレビ見ないので古い喩えで言えば、小堺一機のようなタイプばかりだ。

ブログは「個人」が「個性」を前面に出して書くツールと喧伝されていた気がするのだが、実際は、手際よく(あまり個性を出さずに)情報を切り回すスキルが重要だった。

これは過渡期なのかもしれない。現段階だと、「いかにマイナス票を少なくするか」ということになってしまう。

五年後とか十年後には全然状況が違うかもしれない。マイナス票の少なさよりは、熱烈なプラス票の多さが重要になる時代が来るかもしれない。ただ、ネットにおいての評価システムがそんなに簡単に変わるとは思えないので、小堺一機がたくさんみたいな状況はしばらく変わらない気がする。

少年漫画・ラノベ・アニメは素でプラトニックでなければ

たぶん「童貞性」という言葉で説明するのがわかりやすい気がする。とはいえ「童貞性」という言葉は、明らかにネガティブな意味を含む。ニュートラルな意味で使っているつもりでも、マイナスのレッテル貼りだと思われるだろう。

だから「プラトニック」という言葉を使う。少年漫画・ラノベ・アニメはプラトニックでなければならない。
大袈裟な意味でのプラトニックではなく、性的な話題の除外という程度の意味。プラトニックな愛を追求しているわけではない。素でプラトニックであることが必要。

もちろん例外はあるし、そういう作品が話題になったりもする。だが、話題になるのはやはり例外だからだ。プラトニックが大原則であるのは確かである。

少年向けの作品と大人向けの作品は完全に分けて考える必要がある。そして「少年向け」とは、必ずしも少年読者向けというわけではない。主人公の少年性の方が問題だ。プラトニックでイノセントな少年性を持っているかどうか。読者の年齢層で切り分けるよりは、主人公の少年性の有る無しで分けた方が、たぶんよい。
(ラノベの男性主人公の設定年齢が重要なのは、こういうことだ)。

そして少年向けと大人向けの切り分けはかなり守られている。私が特殊な主張をしているのではなく、98パーセントは守られている原則なのである。前述したように、原則から外れると話題性が生じることもあるが、それはやらない方が無難なのである。

久々に「仮面の告白」を読んだ

久々に三島由紀夫の「仮面の告白」を読み返した。


自分のホモセクシャルを告白するという体裁の作品。いつ読んでも、前半部の密度の高さと、後半部の粗さが対照的。ストーリーとしては面白くないので、文章そのものを楽しめるかどうか、ということになる。ある種の詩として読んだ方がいいかも。

三島というと、「金閣寺」と「仮面の告白」が並んで代表作みたいな部分もあるが、「金閣寺」の方が圧倒的に出来がよい。「仮面の告白」はセンセーショナルな出世作として注目度が高かったのだろう。

ところで、現実に三島由紀夫はホモセクシャルだったのか?
これは不明。
三島の伝記とか色々読んだけど、これはわからない。三島は自分がホモセクシャルだと疑われるような言動をよくするが、断定は出来ないのだ。偽悪と演技の固まりで、最後に割腹自殺までするような人物だから、本人でさえわからないのかもしれない。
(ちなみに三島由紀夫は結婚しており、子供ももうけている)。

村上春樹はラノベなのかどうか

このエントリーは、予備的なもの。村上春樹の主要作品で読んでないのもあるので、別の機会にちゃんと読んでから、また書くかも。

村上春樹はラノベなのか?

イエスかノーかで答えられる問題ではない。
文体とか世界観とか、そのあたりはラノベっぽい部分が多々あるだろう。
共通点は結構ある。

でも共通してない点も結構あるわけである。まずは登場人物の年齢設定。これは説明不要だと思うので割愛。

最大の問題はセックスに関することである。村上春樹とラノベの最大の違いは、寸止めか、ちゃんとセックスするかなのだ。村上春樹だと、展開もラブストーリー的である。(男子向けラノベでラブストーリーはかなり少ないと言っていい)。ラブコメとラブストーリーを区分けする最大のポイントは、寸止めである。寸止め多用だとラブコメ。寸止めされないとラブストーリー。

村上春樹の作品はラノベ的世界観でありながらも、セクシャルな部分が全然違うと思う。別の言い方すると、村上春樹の作品からセックスを取り除くとラノベになるのかもしれない。

最近はどうなのか知らないが、一人称作品は「村上春樹の影響」と言われすぎかと思う。(西尾維新にしてもそう)。「村上春樹の影響」と言われるのは「ドストエフスキーの影響」と評されるのとは全然別のレベルで、一人称文体の書き方を揶揄しているだけという気がする。
(作品の本質部分の影響のことがどれだけ言われているのかどうか)。

村上春樹からラノベへの影響は、セックスの書き方の問題からして少ないと思う。むしろ村上春樹に影響受けていたら(特に村上春樹の性描写含みのラブストーリーに影響受けていたら)ラノベは書きづらいのではなかろうか。性に関するアプローチが根本的に違うので。

主人公とヒロインの関係でも、村上春樹の作品とラノベでは全然違う。寸止めの問題だけではなく、情緒的交流という点でも全然違う。主人公とヒロインが内面を通い合わせるみたいなのは、ラノベだとあんまりない。

村上春樹の作品での性行為は、単にセックスするだけではなく、情緒的にわかり合えるパートナーの確保という側面があると思うのだけど、ラノベでこれはあんまりない。
(ラノベのヒロインは主人公のこと理解しないし、我が儘だし)。
雑に言えば、ラノベのヒロインは誰のものでもないアイドルみたいなもの。

もちろん村上春樹とラノベの問題というより、少年向けと大人向けの作品の違いという問題もある。ともかく主人公がヒロインと出会うとして、そこからの展開とか関わり方は似てもにつかない。
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