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ハッピーエンドとバッドエンド

ハッピーエンドという言葉を使う時は、たいていバッドエンドの可能性があるわけである。
バッドエンドがあり得ないような作品だと、わざわざハッピーエンドとか言わないから。

いろんなケースがあるので一概には言えないが、ハッピーエンドは「生きることの肯定」なのかもしれない。
物語の流れの中で、生きる意味が揺らぐと「ハッピーエンドかバッドエンドか」という問題になる。
そういう中で、生きることを肯定出来たら、ハッピーエンドなのではないかと。

この手の作品だと主人公やヒロインは世界から疎外されていたりするから、そういう葛藤のせめぎ合いがあって、その果てで「生きることの肯定」に辿り着けたらハッピーエンドなのだ。

あるいはバッドエンドにしても、ハッピーエンドに近いバッドエンドがあると思う。
たとえば主人公やヒロインが死ぬんだけど、その死に方がある種の幸福である場合。
生きることの意味に辿り着けたら、ヒロインが死んでも実質ハッピーエンドなのではないかと。
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性描写が記号というより、実物の人間がそもそも記号

性描写について考える。
たとえばミニスカートからパンツが見えるような絵をペンで描くだけで問題視される。
これはなぜか?

答えは簡単だ。
そもそも実物の人間が記号だからである。
実物の女がミニスカートをはいたりパンツをはいたりするのも、それは記号なのである。
もちろん肉体を使った記号ではあるけれど。

絵で描かれたパンツも実物のパンツも、記号として同じなのである。
根源にあるのは記号なのである。
実物のパンツも、記号の模写。
絵に描いたパンツも、記号の模写。
記号の模写である点では同じなのである。

だから絵で描かれた性描写に対して反発する人がいるのは不思議ではない。

主人公とヒロインと疎外

思春期とか青年期という言葉は難しいが、まあ人はいろいろ悩んだりする。
そして物語のテーマ性の背後には、思春期から青年期に掛けての悩みというのがあるのだ。

このあたりの年齢において、人は自分と世界を対立させる。
自我と世界は敵対関係である。
自分の世界と他者の世界の対立と言ってもいいかもしれない。

かなり多くの物語には、疎外のテーマが含まれる。
主人公とヒロインは、何らかの形で疎外されているのが普通である。
雑に言えば、アウトサイダーなのである。
ロボットアニメの主人公の多くはそのように設定される。
ハルヒだってシャナだってルイズだって、程度の差はあれ、アウトサイダーなのだ。

逆に考えてみよう。
疎外されないで、最初から集団の一員として溶け込んでいたらどうか?
ある意味、物語を始める意味もないのだ。
物語とは、疎外が提示され、そこからの回復を目指すものなのだから。

疎外されてない者は幸福である。
だが幸福な者は世界の中に溶け込んでいるので、みんな同じ顔なのである。
主人公やヒロインではないのだ。
主人公、ヒロインになるには、自分独自の顔を持ち、世界と対決する必要があるのである。

要するに世界の調和性の問題なのだ。
世界が調和していると、物語を語り始めることさえ出来ない。
世界の中の部品のひとつとして、何の問題もなく座っていれば、そこに「物語」はないのである。
世界から疎外され、個としてはじかれた時、物語は始まるのである。

悩んでいる青少年を揶揄して「まるで悲劇の主人公みたい」とか「まるで悲劇のヒロインみたい」と揶揄するのは、それなりに的確なのだ。
自分が疎外されているという感覚からしか、「自我」という物語は生まれないのだから。
余剰物としての「自我」を持っているのが主人公であり、ヒロインなのだ。

「まりあ†ほりっく」第七話



原作未読。
暗灰色で血の臭いが少しするような刺々しいアニメ。
最初に第一話を見た時は、脱落しようかと思った。
第二話でも見切ろうと思ったのだが、何となく第三話へ。
そうやって見続けていくうちに、わりと慣れた。

この作品はクオリティーが高い。
切れ切れのシークエンスで繋がれていくコメディ。
話の筋は素直ではなく、あんまり意味はない。
見ていて心がささくれ立ってくる作品でもある。
変人キャラの曲がった言動と、シュールで毒有りで暗澹とした笑い。
本来なら見たくない作品なのだが、出来映えがよいので、継続視聴中というところ。

最初に毒満載の登場のさせ方をさせて、その後に緩めているので、何となく親密性を感じる。
反感が緩和され、だんだん馴染んできて、見ることが出来るのだ。
これは現実でも使われるテクニックだろう。
初期段階で不愉快度を高くして、その後で下げると何か親しみが……。

しばらく予備の方を中心に更新するので

このブログのテーマをちょっと絞り切れてないというか、どういう趣旨のものをエントリーしたらいいか迷うので、しばらく予備のブログの方に書き殴ることにした。

http://tsukurimono.seesaa.net/

本体の方は、ちょっと考える。
たとえばアニメ見たりラノベ読んだりするたびにエントリーすればいいのか、とか悩むので。

春原陽平の妹が嫌だなと思う



最近CLANNADのアフターがアニメ化されていたので、久々にこの作品に接したわけだが、春原陽平の妹が嫌だなと再び思った。

「昔のかっこいいお兄ちゃんに戻って欲しい」という春原妹の願いはピュアであるように思える。
だが、そういう願いは理不尽では無かろうか。
たとえば我々にとって、小さい頃父親は偉大な存在である。
でもだんだん普通のオッサンだと気づいていくわけだ。
別にヒーローでも何でもなく……。

春原と妹の関係は、他人にヒーローであることを要求する理不尽さに思えるのだ。
嫌な意味でのイノセントな感性だ。

もちろんノベルゲーム(アニメ)だから、春原陽平は妹の前で、ヒーローとしての姿を取り戻す。
フィクションだと、こうやって「解決」出来るわけだ。

ヒーローでない人間にヒーローであることを要求するというのが、このエピソードの肝である。
フィクションだから、綺麗な解決を見るのだが。。
イノセントな幻想への回帰として褒めることも可能なんだけど。

春原妹が嫌だというよりは、(私が)ヒーローになれなかった自分に自己嫌悪を抱く、と書いた方が正確かな。
春原妹のエピソードは、そういう苦みに向き合わされるのである。
小さい頃は誰でもヒーローになるつもりで……、でもなれない。
春原妹は、そういう古傷を抉ってくるのである。

「お留守バンシー」を再読してみた



「お留守バンシー」は第十二回電撃大賞の大賞作品。
この時の銀賞が「狼と香辛料」だったので、「お留守バンシー」が悪く言われたりすることもある。

久々に再読してみた。

古典的なファンタジーの登場人物?をコミカルに描く作品。
ちょっと変わったデュラハンや、ちょっと変わったサッキュバスという具合。

昔読んだ時は素晴らしいと思って、今回再読して、やはりよく書けていると感心した。
だが、感心するだけなのだな。
ユーモア溢れるコミカルな作品で文章も素晴らしいのだが、決定的な面白さがない。
描き方のうまさに感心するんだが、この作品に惚れ込むような気分にはなれなかった。
(あくまで私が、ということだが)。

あと、「お留守バンシー」が大賞作品ながらも地味な存在になってしまったのは、ラノベのテンプレとは懸け離れた作品だからである。だが、電撃大賞はあまりテンプレ作品を選ばないので、これは恒例である。

あるいは、テンプレでないだけでなく、基本的な萌え構造とかもない。
ヒットしないのは当然か。
この作品は商業展開もしづらいだろうしね。
それでもこういう作品を大賞に選ぶのが、電撃の強さなのかも?

「とらドラ!」って主人公は鈍感ではないよね



萌え系の話だと、男性主人公は「鈍感」だったりする。
主人公でなくてもいいけど、誰かが鈍感で気づかないから、恋愛が進展しない……という。
たとえば「ハヤテのごとく」のような、感じ。

「とらドラ!」はそういう鈍感さがあるのだろうか?
この作品の主人公(高須竜児)って鈍感だろうか?
決してそんなことはない。
われわれは竜児と同じ視点に立ちながら、他の登場人物の不可解さに頭を悩ませるのである。

普通の萌え作品の場合、登場人物の考えはクリアなのである。
クリアだと繋がりすぎてしまうんで、「鈍感」とか「奥手」で制御するわけだ。

「とらドラ!」は他人が本当に不可解。
他人が何考えてるんだ、という世界。
そういう不可解さの中で悩みながら作品を見ないといけない。

まあある意味「とらドラ!」は現実に近いのだけどね。

サブブログ

このブログも方向性とか迷うわけである。
エントリーとか書くとして、これはテーマに合ってるのか、と躊躇うことが多々ある。

なので、サブブログを作って、テーマに合わないものはそっちに放り込むことにした。

この本体の「まぼろしのつくりもの」は”フィクションのルール”がテーマ。
それに応じたエントリーをする。

それ以外はサブブログのTsukurimono Addictの方に。
これは本体の方のテーマに合わないと思われるものを投げ込んでおく程度。
だから統一性のないブログということになる。

「とある飛空士への追憶」犬村小六

一年くらい前に話題だった作品のレビューを何周も遅れて書く。



作者が「ローマの休日」と「ラピュタ」を意識したというように、映画的なラノベである。
物語の軸となるのはヒロインの内面の変化。
普通の作品で内面の変化というと、いわゆるツンデレ的なパターンでしかない。
(ツンとデレが反復されるだけ)。
あるいは単に状況に応じた反応。

この作品は違うのだ。
ヒロインの内面変化が物語そのものなのである。
誤解を恐れずに言えば、ストーリー展開はない。
ストーリーが展開するのではなく、ヒロインの内面が展開するのだ。
その内面の展開のされ方が王道的で素晴らしいのである。
(ここで言う王道とはラノベ的王道ではなく、古典的王道)。

意外性は無い。
読者が普通に読んでいて、だいたい思った通りに話が進行するはずだ。
それでも……、というか、それだからこそ楽しめる王道的作品なのだ。
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