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廃部寸前の部活という設定は多用されるけど

主人公が完成された部に入部することは少ない。
どちらかと言えば、「人数が足りなくて、このままだと廃部になる」というような部活だったりする。
あるいは、自分たちで部活を0から作ったり。

漫画などで、先輩後輩の上下関係があまり描かれないのと関係しているだろう。
主人公が一年生で、先輩に頭下げながら草むしりに徹するというのでは、主人公らしくない。

要は主役になれる場所ということだ。
廃部の危機という寂れた部活だと、助っ人みたいな感じだし、主役という感じになる。

部活の存亡が掛かっているというのは、条件設定としてもいいのだろう。
条件を満たさないと部活滅びますよ、という設定は、プロットとしてメリハリがある。

<条件分岐>とはそういうことなのだ。
エロゲーの無意味な選択肢のことではなくて。
部活を存続する条件を満たさないと廃部という、そのような設定こそが、物語の根幹的な意味での条件分岐なのだ。
そういう真の条件分岐をうまく設定している作品は面白いのだ。

もちろん廃部になった場合の世界は描かれない。
だから<条件分岐>という言葉はやや語弊があるかもしれない。
ただ、廃部になってしまうバッドエンドというのは、どこかで想定されており、それを懸命に避けることで物語は進行するのである。
漫画やラノベでそういうバッドエンドは決して描かれないが、仮想的なバッドエンドの圧力で物語に緊張感を与えるのだ。

任務に失敗したらヒロインが死んでしまうという<条件分岐>の物語があるとして、ヒロインが死ぬバッドエンドは描かれない。でもそれは仮想されており、それを避けて勝利することで、バッドエンドから逃れたというカタルシスを得るのだ。
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「本格推理委員会」日向まさみち



積ん読を崩す。
第1回ボイルドエッグス新人賞受賞作で2004年のデビュー。
この作者はこの一作で消えている、のかな。

この作品は、タイトルとは違って、ラノベで推理小説めいたことをやってみるという具合。あるいは、殺人事件の解決という定番ではないので、物足りないのかもしれない。推理が稚拙という部分もあるのだろうが、まず事件自体が面白くない。それがかなりのネックである。
事件自体が興味を惹くかどうかが、推理小説ではかなり重要だ。推理小説の場合、刺激的なエピソードを並べていけばいいのであり、興味を惹くことに成功しさえすれば、たとえば登場人物がフェイドアウトしたり、話が二転三転して変な方向に行っても許容される。極端に言えば、構成が破綻しても、面白ければいいのだ。「本格推理委員会」はそういうエピソードの刺激性に欠ける。

問題があると感じたのは文体だ。ラノベ風味の半端な推理小説を書きながら、はじけ切れてない。文体はきちんとしており、丁寧だ。これがまずい。すんなりと読める文章だけれど、ラノベな感じが足りない。ユーモラスに書こうとしているものも、どっちつかずだ。「ラノベの文体」ではないのだ。ラノベの文体はふざけているように見えて、ある種の洗練されたものである。簡素に平板に書けばいいというものではない。この作品の妙に律儀な書き方はラノベに合ってない。演技に喩えると、大根なのかもしれない。役者がセリフを棒読みしている感じ。律儀できちんとした文章であり、読みやすさという点ではかなり良いが、ラノベ的にノリが悪いのだ。

もちろん、ラノベだから「軽く」書くのが義務というわけではない。筆力が特別に高ければ、読者を酔わせるような重厚な文体もありだ。しかしこの作品の場合、名文でもない。単に凡庸に律儀に書いてるだけ。中途半端な律儀さが、はじけ切れてない。

作品内容に関して言えば、一人称で男性主人公が書きつつ、ほとんど主人公中心の物語であるのがマズイ。一応美少女キャラを並べているのだから、彼女たちに活躍させないと。美少女キャラたちの「見せ場」がとても少ないので、ほとんど印象に残らない。このあたりもラノベの基本を守れてないところ。

結論的には、中途半端な作品を読まされてしまったという印象。文章は丁寧で律儀なので、そういう意味でのストレスはなかったが、軸足の定まらない作品である。
批判だらけのエントリーになってしまったが、この作品はそれなりに面白い。そこそこ面白いだけに、あちこち物足りなさを感じる。

「伏線が未回収」という口癖があるが、たぶん作品の構成力の問題

作品を批判する時に「伏線の未回収」という言葉を使う人が多い。
これは口癖のように使われているので、ある意味本質が見えづらくなっている。
本当に言いたいのは伏線の問題なのか?
伏線が回収されるかにこだわって、そんなに読んでいるのか?

たぶん、作品の構成力が問題なのだと思う。
構成力不足の作品というのがある。
ストーリーが蛇行していたり、あるいはいきなり話が飛んだりして、キッチリまとまらない作品。
こういう作品に出会った時に「伏線が未回収」という口癖が出るのだと思う。

きちんと作られている作品なら、伏線など未回収でもいいのだ。
たとえば「灰羽連盟」に説明不足の要素が多いとしても、別に伏線の未回収とは思わない。
説明されなかった部分は、何らかの隠喩であり象徴であり、それをわれわれは受け取り解釈するべきなのだ。
いちいち全部説明してる作品が良い作品というわけでもあるまい。

ストーリーの軸が定まらず、話が飛んだりして、投げっぱなしで進んでいくような構成力欠如の作品こそが問題なのだ。
そういうストーリーは思いつきの垂れ流しであり、継ぎはぎだらけであり、まともに完成された作品とは呼べない。
構成に統一感のない作品が悪いのであり、伏線がどうこうは副次的なものだ。

主人公が不器用なのは、プロットに説得力を持たせるため

作品のプロットは、作者が作るものである。
しかし作者がプロットを作れば、それで終わりというわけではない。
読者に届けなければならない。
プロットが変であるなら、それは読者に届いてないということなのだ。

プロットが読者に届くためには、物語の登場人物たちが、その通りに動かなくてはならない。
主人公が不器用だったり馬鹿正直だったりするのは、その方がプロットが安定するからだ。
主人公がごく普通の小市民的な意味で利口だったり器用な性格だったりした場合、(読者から見て)プロットと噛み合わない可能性がある。
利口であれば、楽なルートを見つけてしまうはずだからだ。
面白いプロットとは、難易度の高いルートを歩くことだが、これは、主人公が馬鹿だといいわけである。
説得力がある。

主人公が「禁欲的」であるというのは、楽な選択を拒むということだ。
妥協を拒むということ。
中間的で曖昧な解決という着地点を探さないということだ。
目標はひとつであり、そこに突き進んでいくことで、物語は面白くなるし、緊迫感も出てくる。
そういうプロットに説得力を与える人物というと、やはり「馬鹿」がいいのだ。

小器用な人物では、プロットに説得力がない。
そういう物語を読まされる読者は、説得力のないプロレスを観戦させられる被害者だ。
「馬鹿」だからこそ、プロットと真剣勝負が出来るし、説得力が増すのだ。
プロットは、作者が読者を説得するものだから、八百長だと見抜かれたプロレスみたいなものであってはならない。

もちろん重点は説得力である。
だから、プロットの説得力を確保出来るのであれば、「馬鹿」を使う必要はない。
たとえば状況設定が極めて緊迫性のあるものなら、小利口な人物ばかり出てくる話でも、説得力があるかもしれない。
なんであれ、説得力があれば、物語は面白い。
説得力に欠ける物語はつまらない、ということなのだ。

目標と欲の違い

前回書いたエントリーの捕捉というか、その前段階の話を確認してみよう。

主人公は目標を持つ。
コメディではないまともなストーリーなら目標を持つ。
目標達成のためには熱心でアグレッシブで努力家だったりするわけだ。
でも無欲な努力家、という感じなのだな。
ただただ目標に邁進し、世俗的な欲は持たない。

ベートーベンという人物をわれわれが物語として理解する時、彼は、音楽の情熱のためだけに生きていて、世俗に関心はないと規定する。
実際本人のエピソードからして、そういうタイプなのだろう。
頑固な情熱家で、世俗には無欲というか、ある種の敵意を持っていたりする。
熱情はすごくても、欲はない、のだ。
(もちろんベートーベンの本当の実像はわからないが)。

モーツァルトとサリエリの関係を描いた「アマデウス」なんかは、サリエリの凡人らしい欲が描かれるが、これもモーツァルトを引き立てるためのものだ。
モーツァルト単体だと、あんまり主人公っぽくないので、サリエリと組み合わせることで、成り立っているわけだ。
(もちろん映画としては素晴らしくても、実際のサリエリがどうだったのかは知らない)。
この作品は、サリエリの視点からわれわれに引きつけて、批評はしやすいかもしれない。

たとえば誰でも知っているオーソドックスな作品として、「北斗の拳」の漫画批評を書こうと考えてみよう。
意外と難しいのだな。
主人公のケンシロウは目標と情熱があるけれど、無欲であり、まさに正統派の漫画的主人公なのだが、ケンシロウの無欲さが批評を拒んでいるような気がするのである。
「批評」するよりは、素直にこの傑作を楽しんだ方がよい、ということになる。
仮に批評するなら、フィクションとしての構造性がいかに優れているか、という書き方になるだろうか。

文学なら欲があるのかもしれない。
日本文学の最高峰である三島由紀夫の「金閣寺」は、人によっては読みづらいかもしれないが、欲を持ちながらも悩む青年を描ききっている大傑作だ。
決してピュアな苦悩ではなく、世俗的な欲を抱えながら、それを叶えられない人間として生きるのだな。
傷つけられた弱者が逆にマッチョ的なものを求めるような、そういう欲が放火に繋がるわけで、秋葉原事件の加藤とかあのあたりの抱える問題と通底している。
「金閣寺」なら評論は書きやすいだろう。作品そのものは取っつきにくいけれど。強者になり損ねた青年の苦悩が見事に描かれていて、それは現実のわれわれとシンクロしているから。
(ただし秋葉原の加藤のような悩みとまったく無縁な人には、奇妙な作品にしか見えないかもしれない)。

結論めいたことを言えば、現実のわれわれとシンクロ率が高い作品の方が批評はしやすいわけだ。ある種の自分語りや、あるいは社会評論の延長として書ける。
われわれの実像とシンクロ率が低いヒーローものだったりすると、フィクションとして如何に素晴らしいかという書き方が求められるので、アプローチが別になる。

主人公に欲がないので、アニメ批評や漫画批評は難しい

われわれはいろんな対象を批評する。
よく知らないような対象でも批評するわけだ。
人間は批評する動物だ。
しかしアニメとか漫画が相手となると「批評しづらい」という感覚をおぼえる。
最近見た面白いアニメとか、面白い漫画とか。
それを”批評”するとなると、どうも立ち往生してしまうことが多いのだ。

主人公に欲がないというのが物語の基本だから、それで批評がしづらいのかもしれない。
批評の多くは、われわれが現実を理解する言説でしかないから。
物語は、ある意味通俗的な理解を拒んでいる。
何しろ主人公には欲がないのだから、通俗性を超越しており、そういう対象を批評するのはとても難しい。

たとえば秋葉原事件の加藤が対象なら、とても批評しやすいわけだ。
彼の人生とか、欲望とか、彼が直面した壁のようなものは、われわれの世界の構成要素であり、加藤を語ることで自分たちの社会を語るというアプローチが可能になる。

フィクションの主人公は、アキバ事件の加藤のようなリアリティは持っていないし、社会問題も抱えていない。
批評がある種の俗世了解だとするなら、物語はその彼岸にあるのだ。

ともかく言いたいのは、フィクションの主人公は現実の人物とはまったく立ち位置が違う。
だから、普段の批評的アプローチの仕方では立ち往生してしまう。
日常的に批評めいたことを言っている人間でも、物語の登場人物には肩すかしを食らってしまう。

だから物語そのものへの批評はとても難しくて、「物語を見ているオタクを批評する」というサブカル的なアプローチにもなりがちだ。(私はそれはあまり好きではないけど)。
オタクなら現実の人物だし、まあブサイクな恋愛弱者だろうから、そういう彼らについては批評が可能なわけだ。
現実の中でのポジションがわかりやすいから。
ある意味批評とはポジションを説明する行為である。

批評しやすいアニメと、批評しづらいアニメがある。
「エヴァンゲリオン」は、エディプスコンプレックスをはじめとして、現実の象徴を突きつけてくるような作品だから、われわれに重ね合わせて批評しやすい。
エヴァを通して自分を語るとか、エヴァを通して現代社会について語るというアプローチが可能だからだ。

逆に言うと、多くの作品は、自分や現実を体現しているような象徴性を欠いている。
何しろ主人公に”欲がない”から、俗世的な構造性を欠いているわけだ。
そういう作品を前にすると、”作品を通して自分や社会について論評する”というのが封殺されているわけで、立ち往生してしまうのだ。
面白いとかつまらないという感想文を書くのが精一杯になる。

「戦鬼 ―イクサオニ―」川口士



三年以上前の作品を今さらレビューするのもなんだが、積ん読を崩した中で面白いと思った作品をレビュー。

第十八回ファンタジア長編小説大賞の大賞作品。
鬼ヶ島の鬼が桃太郎率いる悪い奴らを倒すみたいな、ある種のパロディ作品。
素直に面白い。
ごく普通に、一気読み出来るのだ。
筆力も高く、歴史ある賞の大賞に輝いたのもうなずける。

その一方で、冷静に考えると陳腐だ。
この作品は、桃太郎がワルであるというアイデアの面白さ、つまりパロディ的な面白さにかなり依存している。
もしこのアイデアを外して作品を構成するとしたら……、たとえば、鬼が妖魔を倒すみたいな話だとしたら、かなり陳腐だし、凡作といえるかもしれない。相当に退屈で、賞にかすりさえしないレベルかも?
まあ作品なんて、みんな似たようなものだし、そういう意味ではこの作品は「アイデア勝ち」と言えるのだろう。

ガン×ソード



たまには昔のアニメ作品のレビューでも書いてみよう。
2005年の「ガン×ソード」。
後にコードギアスを世に送り出すことになる谷口悟郎監督の作品である。
原作の漫画や小説はなく、要はアニメオリジナル企画。
(メディアミックス的に漫画や小説は出ているらしいが未見)。

ロボットアニメである。
全26話。
序盤は、性格的にボンクラというか、脱力系の主人公が西部劇コメディみたいな世界観の中で生きて、つまんない戦闘をやったりするだけの話。
このあたりもなかなか味があって面白いのだが、この脱力的な序盤で挫折してしまう人が多いのかもしれない。

この作品が本当に面白くなるのは中盤からである。
ネタバレしたくないので、細かくは書かないが、かなりのジェットコースター展開だ。
それぞれの登場人物の物語が白熱してぶつかり合う。
このあたりは「コードギアス」と似ていると言っていいだろう。
ダイナミックにエピソードが投下され、急展開に次ぐ急展開。
こういうジェットコースター的展開はアメリカのドラマの24から生まれたと言われがちだが、それより前のアニメ作品「まりんとメラン」に似ているかなと思う。
(「ガン×ソード」と「まりんとメラン」は脚本家がともに倉田英之)。
「まりんとメラン」は知名度が低いアニメだが、これは24以前の作品ながら、とても展開が速いジェットコースター作品であり、かつ名作である。

「ガン×ソード」はテーマ性という点ではややマイナス評価になるかもしれない。
後半部が息詰まる面白さであるのは間違いないのだが、振り返ってみると単なるジェットコースターというシニカルな見方も出来る。
まあいずれにせよ、「コードギアス」の展開が好きだった人は「ガン×ソード」も視るべきである。
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