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自己犠牲の交換原理

フィクションは基本的に自己犠牲的な行動が求められる。

ジャンプ漫画で「努力・友情・勝利」と言う場合の"友情"は基本的に自己犠牲という文脈である。
他人と交流し友誼を深めていく話ではなく、自己犠牲で感動させる話が求められているわけだ。

なぜ自己犠牲で感動するのかと言えば、自己犠牲は感動するからという単純な答になる。
あなたも物語の登場人物が自己犠牲的な行動取るの好きでしょう?

少なくとも物語的には(ジャンプ漫画的には)友情を示すためには、自己犠牲的行動を取らなくてはならない。
あるいは、自己犠牲のない単なる友情では、<物語>としてピンと来ないだろう。
友達と仲良く遊びました、終わり、ではストーリーにならない。
(四コマベースのコメディーなら、それでもいいのだけど。感動のカタルシスがなくても、オチが付いていて楽しめればいいのだから)。

自己犠牲は、登場人物を死なせるのと同じレベルの安っぽさも持っているのだが、登場人物死亡というクリティカルなエピソードとは違って、何度でも使える。
何度も何度でも繰り返し自己犠牲。
あなたが自己犠牲するから私も自己犠牲。
フィクションでは、自己犠牲が交換的なものとして成り立っているということでもある。
(現実で自己犠牲やったら、単に犠牲になって他人の踏み台になるだけだと思うが)。
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サービス精神とサービスシーン

言葉を使うのは難しい。その言葉に貼りついているイメージで思考を展開する必要があるからだ。その展開の仕方は定型化されていて、だから誰もが同じことを言うのだ。

さて、サービス精神について話そうと思ったのだが、フィクションの話の文脈で”サービス”というと、パンツがたくさん飛んだりする場面を思い浮かべたりするだろう。
「サービス」という言葉に囚われると、フィクションの本質を見失う。「サービスシーン」と「サービス精神」はまったく違う。

たとえば主人公を劣勢にするのは、サービス精神である。形勢逆転のための舞台を作っているのだから。逆に言うなら、主人公が終始優勢なんて展開はサービス精神ではない。

宮部みゆきが読者を楽しませようとする場合、パンチラパンチラ書いたりするだろうか? もしくは(仮に)今度の「けいおん!」の二期で製作者が視聴者にさらなるサービスをしようと、パンチラたくさん出したらどうするのか。キャラが不自然におっぱい出す場面があったらどうか。二期はサービス精神旺盛で素晴らしいですね、というのだろうか。言う人もいるかもしれないが、それはまさにパンツが乱舞する「サービスシーン」なのである。

本当の意味でのサービス精神とは、出来るだけ面白い展開にするとか、出来るだけ面白いオチを付けるとか、そこを全力で頑張ることである。視聴者を楽しませるために、(安直な方法に頼らずに)面白い発想を捻り出そうと脳味噌を振り絞って考えている製作者が、本当の意味でのサービス精神のある人なのだ。

こう書いてみても、サービス=お色気、みたいなイメージが抜けないので、「エロに頼らないサービス精神」とか、そういう言い方をすればいいのかもしれない。何にせよ、作品の品位を損なわず視聴者を楽しませてくれるサービス精神が必要だ。そういう志がないから、非実在青少年云々でオタオタするのだ。「アキバblog」が喜んで取り上げる類の作品は消えて貰って構わない。本当の意味でのサービス精神を持って頑張っている製作者こそ、視聴者は応援するべきだろう。パンツが出てきた時だけ、「サービスがあった!」と歓喜するのではあまりにもレベルが低いし、本当に頑張っている製作者が可哀相である。

「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は二度見れば普通に面白い作品



「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」をボロクソに酷評するために最初からもう一度作品を見るという不毛なことをやっていた。二度目の視聴では、何も期待してなかったためか、それなりに楽しい作品に思えた。

この作品の問題点は、初見だと世界観が「アングル」としてわかりづらいということだ。

実は非常に素朴な設定の作品なのだ。ローマ時代をモデルにした遠未来という感じの設定。主人公達の属するヘルベチア共和国は、ローマと戦争をしていて、物語開始時点では休戦している状態。それだけなのだ。

少し前まで戦争をやっていたということは、教会の戦災孤児のエピソードなどで描写されてはいる。だが、この作品を普通に見た場合、あまりにも安楽な休戦状態というイメージだ。平和な田舎町を描写しているだけ、というのが実際のところだろう。

第七話のフィリシアの回想で、過去に戦争をやっていたことはわかる。だが、初見でこれを見ても、過去に戦争をやっていたという漠然としたイメージが得られるだけで、「アングル」がさっぱりわからない。

尺が足りないからこうなったというわけではない。この作品は全12話だが、仮に全24話だったとしても、休戦状態をほのぼの描いていたと思われる。軍服を着ている少女達の安楽なモラトリアムなのだ。(リオのモラトリアムだったと言ってもいいのだが)。よくも悪くも、それがこの作品の特徴なのである。

それに細部もちゃんと描いている。たとえば第十話でリオが去る場面などは初見では端折りすぎのように思えるが、二度目ではちゃんとわかる。二度目の視聴でバラバラなパーツを繋ぎ合わせていくと構図が見えてくるのだ。つまり物語のシークエンスが(意図的な説明不足で)繋がっておらず、二回見ないとわかりませんよ、ということなのだ。

最後のローマとの戦いの部分は、この作品らしいファンタジーということなのだろう。そもそもリアリズムとは無縁なのだ。実際、主人公がトランペットをやるという初期設定からして、「音楽で戦争を止める」みたいなファンタジーは予想の範囲内ではあっただろう。結局は、そういうファンタジーを受け入れるかどうか、というだけの話だ。

リオが最後に休戦させる場面も、初見では突拍子もないように思えるが、実際はそういう流れになることが当然という設定になっている。初見だと、イリア公女殿下とリオが姉妹であるという基本的な設定さえわかりづらいのだが、二度目の視聴だと、姉のイリアの死で進まなくなった休戦協定を、妹のリオが代わりにやるという流れは自然に思える。リオの内面の葛藤は明示的に描写されていない。初見だと何かに悩んで荒れているように思えるだけだ。二度目の視聴でようやく、イリアの役割を受け継ぐことへの葛藤ということが了解され、リオの苦悩や部隊から姿を消したことが腑に落ちる。

もし「二度見ないとわからない」という手法を使わず、物語のシークエンスを普通に繋いでいったら、この作品はどういう評価を受けたのだろう。陳腐だけど面白いという評価もあったかもしれないし、陳腐でつまらないという評価だったかもしれない。いずれにせよ、とてもシンプルなお話を、わかりづらく描いているだけなのだ。

「そらのおとしもの」と不幸な少女



今さらだが、「そらのおとしもの」をレビューしてみよう。
原作は少年エースで連載されているそうだが未読。
あくまでアニメ版を見ただけでの感想である。

空からエンジェロイドなる女の子が降ってきて、その子が不思議な力を持っていて、それによるハプニングが起こったりするドタバタ劇。あまりにもテンプレ作品だ。最初の頃の、パンツが乱れ飛び、パンツが輪舞する模様は、早々と視聴を打ち切らせるくらいのエネルギーがあった。決してコメディーとしての出来が悪いわけではなく、むしろ気圧されるほどにくだらなくて、両手を広げて半笑いするしかないような心地よい脱力感があったのだが、これを延々と見せられるかと思うと反吐が出るほどげんなりしたわけである。

幸いなことに、パンツの乱舞は最初の二話くらいで、だんだん普通のコメディになっていく。その後はニンフという別のエンジェロイドの女の子がやって来て、主人公の学校に転校してくることになったり、テンプレの極みなのだが、合間合間に描写されるニンフの悲劇的な境遇との対比が効果的で、私は徐々にストーリーに引き込まれるようになったのである。ニンフは「リリカルなのは」のフェイトちゃんと似たような立ち位置とも言えるのだが、かなりツンデレ属性である。悲劇的な背景を持つツンデレ少女と学園生活を送って、幸せにしてあげるという、そういう暖かみのあるストーリーが展開される。不幸な女の子を幸せにしてあげようとするベクトルだと、「Kanon」の真琴シナリオを典型とするKey作品が思い浮かぶが、昔の童話で不幸な女の子の物語はよくあるから、古典的とも言えるだろう。「そらのおとしもの」は、そういうお話を効果的に描ききったのである。

問題なのは、この後に二期が予定されていることである。よく知らないが、一期が意外と好評だったのだろう。一期がわりとよかっただけに二期で崩壊しないことを祈るのみである。

フィクションで追試の場面が多い理由



別に統計を取って調べたわけではない。
久しぶりに「けいおん!」を見ていて、唯が追試を受けさせられる場面を鑑賞しつつ、フィクションでこういう場面多いなあと、つらつら考えただけである。

さて、追試をなぜ受けさせられるのか。
学校における試験勉強というのは、みんなが一生懸命やるものではない。
他人を出し抜くためのレースなのだ。
いかにして、他人を勉強させないか、というレースだ。
勉強してないフリをして、自分は影で猛勉強みたいな奴は必ずいたはずだ。

フィクションの登場人物だと、他人を出し抜くのはまずい。
他人には勉強してないフリをして、影で猛勉強みたいなのは、主人公やヒロインには向かない。
だから正々堂々と勤勉さを前面に出して勉強するか、あるいは、「勉強してない」と言って本当に勉強してない、というあたりになるのだ。

テスト勉強しないことで好感度の高いヒロインを造形するというのは変な話ではあるのだが、学校という奇形的な場所では、出し抜くレースという側面があるから仕方がない。
「勉強してないよ~」と言って本当に勉強してない子はフィクションでの好感度が高い。
もちろん現実の人生では明らかにマイナスである。

「市民ケーン」を久々に観た感想




最近は著作権切れの映画のDVDが500円とか、あるいはそれ以下の金額で売られていたりする。私が今回買ったのは「市民ケーン」と「ジェーンエア」と「第三の男」が三枚セットで999円という代物である。

さて、「市民ケーン」を久々に観た。1941年の作品であり、実在する新聞王をモデルにドキュメンタリータッチで描いた映画。公開当時はこの新聞王が妨害したため、興行的には不振に終わった。しかし現在では、映画史上最高傑作とも言われる。

ともかく、久々にこの映画を鑑賞し、あらためて非常に素晴らしいと思ったわけだが、この映画をつまらんという人もいるようである。確かに昔の作品だから映像が不鮮明だったり、ストーリーに関しても「24 -TWENTY FOUR-」みたいに次々と出来事が発生して引きつけられるようなものではない。だったらどういう性質の面白さなのかと言うなら、浸る面白さである。この映画を観つつ、描かれるテーマに耽溺する、そういう時間を過ごすことだ。「スタンドバイミー」の楽しみ方だ。「バックトゥーザフューチャー」みたいな楽しみ方が出来る作品ではないですよ、ということ。

「栄光と挫折」とか「光と影」とか、そういう陳腐な表現が「市民ケーン」にはふさわしい。陳腐なテーマをとても鮮烈に描いているのだ。テーマが陳腐であるというのは、ある意味、普遍的で根源的なテーマであるということでもある。たいていは陳腐なテーマを選べば陳腐な作品に仕上がってしまうのだろうが、「市民ケーン」は、成功者の孤独みたいなものを、最高に素晴らしく描ききっているのである。

ジョン・レノンやカート・コバーンに憧れる男の子の感性と言えるのかもしれないし、あるいはメタから相対化してしまうなら、成功者に挫折を期待するワイドショー視点だとも言える。「市民ケーン」がドキュメンタリータッチであるのは、成功者の転落をゴシップ的に描いて、われわれ庶民に提供するためでもある。つまり、主人公に同一化して観るのと同時に、まさにわれわれが、小市民的な観客でしかないという立場でもあるのだ。

この作品が永遠の名作と謳われるのは、社会的な成功者と自分との関係という問題を扱っているから、でもある。社会的に大成功した人物というのは、この世界のシンボルでありアイコンだ。そういう遠い憧れを自分たちの目線に下げるとしたら、ワイドショー的な存在になってくれるのが一番で、その部分が実は「市民ケーン」の最大の共感的構造なのかもしれない。

「逆理の魔女」雪野 静



第八回スーパーダッシュ新人賞の佳作。
2009年9月出版。

学園異能のテンプレのような作品。
お話自体はかなり陳腐。
ひねりがあるのは、ヒロインである逆理の魔女より、主人公の姉が活躍すること。
自分はこの作品、あんまり受けつけなかった。
主人公と逆理の魔女が出会って二人で問題を解決するストーリーだろうと思い込んで読んでいったら、主人公の姉が活躍しすぎて変だなあ、と首をひねっているうちに作品が終わってしまった。

これは姉のスーパーパワーな言動を楽しむものなのだろう。
そこにハマれるかどうかだ。
ラノベは、わがままな女の子が暴れ回ったりするとウケるわけだけど、この作品では主人公の姉がその役割なのだ。

それこそ「涼宮ハルヒ」だって、ハルヒがむかつくから嫌いという人がいるわけですよ。
だから、全員が面白いという必要はない。
ただ男のオタクが「逆理の魔女」を読んで楽しめるのかという問題はあると思う。
何で”姉”にしたのだろう?
せめて妹にしておいてくれれば、こちらも頭を切り換えて読めたのに。
やはりラノベなら「妹」ですよ。
そこはひねらない方がよかった。
テンプレ作品出すならそれでもいいのだけど、それなら「妹」にはこだわって欲しかった。
設定変更は極めて容易なはずだ。
「姉」を「妹」にするだけだから。
このあたりにスーパーダッシュ文庫の不振の原因があるのではないか、と思った次第。

主人公のポテンシャルへの信仰

われわれが現実において失敗すれば、それは価値が落ちたということだ。
リカバリーが不可能というわけでもないが、基本的には、価値の低い階層に固定されたということだ。
その低階層で、そのまま人生を受け入れるということである。
下層ルートに固定されて、あとは惰性。

フィクションの主人公は、このような現実法則に縛られない。
失敗しても価値が下がらない。
ミスしても価値が下がらないし、負けても価値が下がらない。
もちろん作品内では針のむしろに座らされたような状態になる。
しかしポテンシャルとしての価値は落ちていないのである。

空想とフィクションの違いはこのあたりにある。
空想だと、次々とプラスの出来事が起こるようなことをイメージしがちである。
着実に加点していくのが現実的な成功だからだ。
失敗すれば、そこで限界が見えたということだ。
フィクションはそれとは反対なのである。
主人公が負けたとしても、ポテンシャルへの疑いはない。
ポテンシャルへの肯定感情と言ってもいいだろう。
主人公が苦況に陥っても、われわれ読み手は、主人公のポテンシャルを信じ、それが証明されることを願うのである。

空想とフィクションはどこが違うのか

ある意味根源的な問題で、とても難しいのだが、空想とフィクションの違いについて考えてみよう。そもそも「空想」は人それぞれであり、「フィクション」だって、絶対的な法則はないから、正解は無いのだけれど。

空想とフィクションの違いはおそらく、すごろくの上がりではないかと思う。空想をする場合、われわれはたぶんすごろくで上がったような楽しい状態を考えがちだ。何かが順調に達成されて、いろんなものを手にしたような感じだ。

フィクションはそういうものではないのだ。すごろくで上がった状態を描くのではない。やや語弊のある言い方をすれば、フィクションは未完で苦しい状態なのだ。投げっぱなしで未完性という意味ではなく、「上がり」ではないという意味で未完なのがフィクション。もちろん<目標>があり、その<達成>を目指すし、まあ最後の結末で「上がる」のも求められるけど、すごろくで上がって悠々自適みたいな、そういうものではないのだ。

フィクションで「続編」が失敗することがある。その理由の一つが、すごろくで上がった状態から始めてしまうからではなかろうか。主人公は”未完”でなければならないのに、完結して上がった後の話を描いても仕方がない。上がりを決め込んだような連中の話のどこが楽しいのか?

優れたフィクションが描ける人は、「未完」という感覚を上手く掴んでいるのだと思う。フィクションは<目標の達成>を目指し、エンディングではそうなるにもかかわらず、基本的には未完なのだ。

失敗を空想して楽しむ人はいないだろう。しかしフィクションでは失敗が必要である。針のむしろに座るような、そういう状況が必要である。そして、そういう状況だからこそ、巻き返しの<展開>があるのである。主人公が針のむしろに座るような状況になってしまったら、読者としてはハラハラする。ひとまず抜け出してくれないと落ち着かない。そして作者が物語を展開させ、主人公を危機から脱出させると、われわれ読者はカタルシスを得るわけだ。

稀代のストーリーテラーである浦澤直樹は、そういう「未完」の作り方がとても上手い。未完の連続を作り続け、手に汗を握らせる物語を作る天才である。それが高じて、作品のラストも投げっぱなしだったりするのだ。

ひとまず結論めいたことを書くと、空想とは「完成した楽しいイメージ」なのだ。何かが完成した状態をイメージすること。それを楽しむのが空想。フィクションは未完なのだ。完成を目指しながらも、そこに辿り着けない連続的なシークエンス。それが物語なのだ。

企画書だけ仕上げて、その後のストーリーはスカスカなのが「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」



第十話まで視聴。

原作はなく、アニメのオリジナル企画。
アニメオリジナル作品には頑張って欲しいと思っている。
ラノベに映像付けるのがアニメの役割だとしたら寂しいことだ。
だが、この作品。
”企画倒れ”という表現がふさわしい。
企画だけいろいろ詰め込んで、その後の展開が杜撰すぎる。
売れる要素を集めて企画を通したけど、そこからは度が過ぎる空気アニメ。

作画がとても綺麗で、萌えっぽい女の子が軍服着ているとか、ロボットみたいなのが出てきたり、音楽が意味を持ちそうだったり、優しい世界観とか、売れそうな要素を詰め込んだだけの作品である。

問題は、ばらまいたパーツが全然展開しないことである。
軍服を着せたが、着ているだけ。
ロボットが出てくるけど、これも、パーツとして出してるだけで物語として展開しない。
音楽に関しても、あまり効果的ではない。
たとえばトランペットという地味な楽器を使って、ある種の「うんちく」でもやればよかったのに。
いや、この現実世界の歴史と繋がってないから、トランペットのうんちく話は少し難しいけど。
ともかく効果的に使えなかった。

登場人物にトラウマを持たせるのは、アニメ作品の常道で、本当はいいはずなんだけど、これも展開がない。
「灰羽連盟」の出来損ないを見てしまった感じだ。
この「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」という愚作を見ると、「灰羽連盟」が如何に練られているかよくわかる。

あと、「目標」が設定されてないのも、難点。
コメディを延々とやる人気作品たくさんあるけど、ああいうのは四コマをベースにしてるから、短い間隔でオチがあり、テンポがいい。
「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」はダラダラしているだけ。

もしかすると、謎を作ろうとしたのかもしれないが、まともに作れていない。
これなら、もう少し単純な目標を設けて、それに向かって泣いたり笑ったり、という展開の方がよかった。

あるいは長期目標無くても、一話完結で優しい世界観の良作というのがある。
「ARIA」みたいな。
そういう作品にもなれなかった。

ともかく、企画を通すのだけ全力だった、という感じだ。
物語が空っぽすぎる。
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