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「黄昏世界の絶対逃走」本岡 冬成



物語には、「単純な面白さ」というものがある。
根っこのアングルが面白ければ、話が雑でも楽しかったりするわけだ。
逆に言うと、そういう「単純な面白さ」が欠如している作品もある。
どんなに丁寧に細部を描写しても、根っこの単純なアングルがつまらないとつまらない、ということだ。

さて。
「黄昏世界の絶対逃走」。
2010年5月発売。
ガガガ文庫の新人賞の優秀作。
内容の「面白さ」に関しては0点を付けたい。
物語のアングルがつまらないからだ。

この作品は小説というよりは、ハードボイルドなポエムだ。
人によっては、この世界に浸れる人もいるだろう。
黄昏予報の時間です。
本日午後の黄昏濃度は約八十パーセント、
非常に濃くなる見通しです。
発作的な自殺には注意しましょう。
あなたは独りではありません。
あなたの周りにはみんながいます。
みんなの周りにはあなたがいます

アンニュイで退廃した世界で、主人公は「黄昏の君」と呼ばれる少女を連れ出して逃走する依頼を受ける。
前半部の逃避行の退屈さは、後半部で展開されるポエムのためだ。
イノセントに語られる幼馴染みとの想い出。
おそらくはその少女が幼馴染みであり、主人公は、依頼主を裏切って少女を連れて逃げる。
この第二の逃走部分が作者の描きたかったところであり、この叙情的な描写が評価され賞に輝いたということなのだろう。
主人公は依頼主を裏切ったことで追われることになり……。
傷を負いながら少女と共に逃げ、最後はわりと曖昧なエンディング。
ハードボイルドの雰囲気は、筆力の高い描写で細部まできっちり描かれているとも言える。
だが、物語の骨組みが面白くない。

依頼されて幼馴染みの少女を連れて行くという点ではガガガ文庫の代表作のひとつの「とある飛空士への追憶」と似てるかな、と思ったので、読み返してみた。
(多少の影響関係はあるだろうと想像する)。
読み比べると、”似たような作品”でも、「とある飛空士への追憶」の素晴らしさが際だつ。
「黄昏世界の絶対逃走」が、退廃的な世界観や少女の独自設定をうまく使いこなせていないのとは対照的に、「とある飛空士への追憶」は、幼馴染みのお姫様みたいなわかりやすいアングルで、読者を惹き付けるのである。
私は「とある飛空士への追憶」を読み返して、あらためて、この作品に惚れ惚れとした次第である。
王道的な設定をとても効果的に用いているがゆえに、私たちの肺腑の一番深いところに訴えかけてくるのだ。


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「ふぁみまっ!」九辺ケンジ



ギャグ漫画というのは、作者が才能を削りながら描くものである。
アイデアを捻り出すたびに、残りのライフが減っていくようなものだ。
それこそ才能を使い尽くしたらただの人になってしまうくらいに。

ライトノベルのコメディというのは、そういう性質のものではない。
命削って面白いギャグを捻り出すというものは少なく、まあ日常的なジョークに近い。
日常生活でジョークを言っても、干涸らびたりしないのと同じで、ラノベで取り交わされるコメディは基本的に雑談レベルだ。

さて、「ふぁみまっ!」という作品。
GA文庫の新人賞の奨励賞。
2010年4月発売。
パラパラと捲ってみただけで、テンプレな話だとわかってはいたのだが、金髪美少女フェチなので、とりあえず表紙買い。
内容を読んでみると、70点の作品を書こうとして70点に仕上げたという出来映え。
フィギュアスケートに喩えるなら、難易度の低い構成をノーミスでまとめたという感じだ。

マフィアの娘で殺し屋のスキルを持つ金髪美少女が、ある日突然主人公の元にやってくる。
なにしろ殺し屋だから、感覚が普通の人とは違う。
「なんだその拳銃は?」
「これはベレッタpx4です」という具合で、会話が噛み合わない。
要は「フルメタルパニック」の相良宗介を金髪美少女にしたような具合である。
特殊な環境で育てられた人間と会話が噛み合わないという笑わせ方は、わりとあると思うので、「フルメタルパニック」のパクリだとは言わないが、新鮮さはない。

とはいえ、作品全体はバランスよく書けている。
何となくクスリと笑えるようなやり取りを繰り返すのは、(ギャグ漫画と相反するところの)ラノベ的な軽い笑いのお手本のようなもの。
全力で笑わそうとするのではなくて、ラノベ標準的に適度な笑いのあるところがよい。
いろんな意味でそつのない作品に仕上がっている。

「まおゆう」の魔王はそもそも悪人ではないので、RPGの超克みたいな話ではない

「まおゆう」の一番基本的な部分を確認しておこう。
魔王は悪人ではない。
善良で美人の学者である。
その魔王と一緒に、中世の社会を変えていこうというだけの話なのである。

単なる学者が世界を変えるというのでは面白くないので、魔王が学者という設定は「つかみ」としてはとてもよいと思う。
使っている知識や学問が未来のものなので、ある種の超能力だが、まあこれもフィクションとして楽しめる。
現実で誰かが発明するであろうものを魔王が一人でやるという構図だから、それほどリアルの歴史から逸脱はしてないはず。

ともかく、魔王は悪人でも何でもないのだから、RPG的な絶対悪の魔王を乗り越える云々、と解釈するべきではない。
RPG的な設定は、お遊びで使っているだけで、別にそれが本質ではない。
「つかみ」としてドラクエのパロディー風味にしているだけだ。

さて、魔王である美人学者が、スペシャルな知識や学問で啓蒙していくわけだ。
そして世の中が変わっていく。
魔王が主役のままでもいいのだけど、この作品は途中から、「メイド姉」に主役を譲る。
「メイド姉」は元々は農奴の少女であり、魔王に拾われてメイドとして働いていた少女である。
メイド姉が自我に目覚めていくのと同時に、魔王は主役から退いていく。
この転換点は素晴らしいし、ある意味、わかりづらい。
初読の時は、魔王がみんなを善導するパターンが続いていくと思い込んで読んでいたので、やや違和感があった。
それこそ、「ドラえもん」から突然ドラえもんがいなくなってしまうような。。。
だが、よく読み直すと、主役の受け渡しはまさに啓蒙の成果なのであり、「教え子」であるメイド姉が自立して自分の足で歩いていくという王道の教養小説であり、成長物語なのである。

この作品はドラクエのパロディーよりは、ドラえもんのパロディーの方が似合っているかもしれない。
未来から来たドラえもんが最初は導いてくれるのだけど、途中からいなくなって、そこからは自分で成長していくという。
実際のドラえもんより健全な話になりそうだ。

何にせよ、パロディー風味なのは、読んで貰う切っ掛けだと思うのだ。
パロディー無しでリライトしようと思えば、簡単なはず。
真っ当過ぎる小説になってしまうかもしれないけどね。
そういう真っ当な小説を2ちゃんねるで発表しても痛いだけなので、既存作品のパロディにしてるのだと思う。

「Angel Beats!」第八話感想



前回の第七話では天使と仲間になったと思ったら、終盤で邪悪な天使が分身として出てきて、今回第八話では、その天使と戦ったり、なんか話の本筋が見えない。

とはいえ、この作品の第一話から、天使は悪であるという意味づけはされてきたわけだ。
理由もよくわからないままに、「天使は悪」みたいなのがあったわけである。
それがだんだんなし崩しにされて、いつの間にか主人公達と溶け込んでいた。
ある意味、天使ちゃん萌えという流れでもあった。
だったら今までの話は何だったのかという疑問が起こるわけだが、第七話ラストで邪悪な天使が出てくるということで、一応、第一話に繋ぎ直したとも言える。
継ぎ接ぎだらけということだけれども。

何にせよ、理由が説明されないのがつまらない。
「理由を説明しない」ことでサスペンス的に引っ張るというのは、オーソドックスな手法なのだけど、この作品では、<天使の謎>について説明しないことが、まったくサスペンスとして機能していない。
おそらく、よくある異能系のありがちな設定なのだろうな、と予想が付いてしまうので、全然わくわくしないのだ。
(たとえばデザイナーズチャイルドでしたとか)。
1クールということなので、残りの話数も限られるが、たぶん「天使ちゃん可哀相」というような理由が用意されてるんでしょう。

登場人物たちは特殊な箱庭世界に放り込まれているわけだが、その象徴性が全然見えてこない。
世界設定は必ずしも説明しなくていいとは思うのだけど、単に学園でドタバタやってるだけ、みたいになってる。
「成仏」の扱いに関しても、そう言えばバンドのボーカルの人が成仏したなあ、という程度の感じになってしまってる。

ある意味、エロゲーのシナリオの典型なのかもしれない。
終盤に到着するまではストーリーが蛇行していても構わない、という。

とりあえず「まおゆう」を最後まで読んだ

http://maouyusya2828.web.fc2.com/
「まおゆう(魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」)」をようやく読了した。
かなり長い作品である。
シナリオ形式の作品なわけだが、普通の小説で言えば「カラマーゾフの兄弟」くらいのボリュームである。
かなり早く読んでも10時間は掛かるし、普通に読めば20時間程度というところだ。

序盤は、「狼と香辛料」のような経済小説、というか、「うんちく」の多い作品。
大雑把に言うなら、現代の技術を過去に用いるという構造の話なので、<魔王>はある種の未来人的なポジションかもしれない。
中盤あたりで、魔王は物語のメインから退き、魔王が育成した者達が活躍するような群像劇へと展開する。
このあたりは、私としてはちょっと不満だった。
意図としてはこういう展開もわからなくはないのだが、主役が物語の中心からフェイドアウトしてしまうのは今ひとつ面白くなくて、読むのがちょっと苦痛だった。
終盤の締めのあたりでは、再び魔王や勇者が出てくる話となり、ここまでに登場した様々な人物たちの思いも合わせて、大団円に着地するように展開する。
このあたりは、よく書けていると思う。

一度読んだだけでは、明快に総括出来るような作品ではないのだが、とりあえず言うならば、かなり王道な作品であると思う。
あるいは、王道にうまくひねりを加えて、新鮮さを生み出した作品だ。
このあたりは最近のラノベとも共通しているだろう。
王道は踏まえつつも、何らかの形でひねりを加えている作品がウケる。
ベタな王道は今さら誰も読まないが、それでもやはり王道が好まれるので、視点を変えて王道を描くわけだ。

やや気になるのは、「はてなダイアリー」で批評系のサイトをやっている人達がTwitterで盛り上がっているという印象が強いこと。
それを越えたクラスタに拡散しているという印象があまりない。
「Twitterで盛り上がっている」という表現は正しいと言えば正しいし、間違いと言えば間違い。
冒頭に述べたように、この作品は読み切るのに15時間くらいは要するから、本来はかなり敷居が高いかもしれない。
はてなのラノベ読み系の人達のアンテナに引っ掛かったから、これだけ長い作品であるにも関わらず、話題になっているという言い方をしてもいいだろう。
普通はこれだけのボリュームの作品を読むのはかなり根気がいるから。

ラノベに生徒会長がやたらと出てくるのは、物語では<役職>が重要だから

登場人物の本質は<役職>である。
極端に言えば、名前は無くてもよい。

古典的な童話でお姫様が出てくるとすれば、それは<お姫様>なのである。
名前はなくてもいい。
お姫様という<役職>として存在するのが重要なのだ。
役割そのものが重要なのだ。
わざわざエミリーとかシャーロットとか個人名を付ける必要はない。
そういう個人名は物語構造の本質ではない。

<商人>でも<農民>でも、<貴族>でも何でもいいが、そういうロールプレイが物語の本質なのだ。

お姫様は美しい。
王子様は白馬に乗っている。
そんなものなのだ。

ラノベやアニメに<生徒会長>がやたらと出てくるのも、物語上のロールプレイのようなものだ。
<生徒会長>とか<書記>とか<部長>とか<委員長>とか役職を振っておくと、物語が作りやすいということだ。
山田とか佐藤とか田中が漫然といるよりは、役割がはっきりしている方がよいのである。

「まおゆう」が大人気なのは、<属性>で人間が存在するのが、物語の原型に近いから

最近ネットで話題の「まおゆう」を読んでいるところだ。
「まおゆう」については説明不要だと思うが、『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』という、2ちゃんねるで書かれている小説。
本来なら、最後まで読了してから論評を書きたいところだが、いかんせんボリュームがあり過ぎるので、読みかけの段階で感想を書いておこう。

この作品の興味深いところは、キャラクターが固有名を持たないところだ。
キャラクターは「勇者」とか「魔王」とか「メイド」などの属性で語られるだけ。
商人や農民が出てきても、彼らの固有名はわからない。
考えてみると、昔はわれわれは名字を持っていなかったわけだ。
あるいは、名字が付くとしても、職業を現す名前だったりする。
つまり社会的な<属性>でわれわれは語り尽くされてしまう。
物語では、そういう<属性>を持った人物として登場し、そのロールプレイを義務づけられるのだ。
この自由な世の中に生きているわれわれだって、<属性>として存在しているわけだ。
属性を離れたところの<私>というのも無くはないのだろうけど、そういう<本当の自分>みたいなのは、蜃気楼だ。
それは形にならない未確定の夢や欲動のようなもので、<他者>との関係は築きえない。

「まおゆう」にしても、古典的な物語として見れば、あまり特殊ではないだろう。
童話に出てくる王様とかお姫様には名前がないことも多い。
<王様>は<王様>であり、<お姫様>は<お姫様>なのだ。
お爺さんやお婆さんが出てくるとしても、いちいち名前を付けないのが普通だろう。
要するに<属性>で現されてしまうわけだ。

われわれがどこかの店に行ったとして、それは<客>として<店員>に関わるわけである。
私の本名などどうでもいいし、店員の本名などどうでもいい。
もちろん名前を記入させられることもあれば、店員の名前が明示されていることもあるが、こういう場合の名前は、芥子粒のようなもので、意味を持たない。
<店員>は<店員>であり、たまたま名札が付いていても、それは意味を持たないのだ。

「新世紀エヴァンゲリオン」が永遠性を持つのは、人間の原型に触れている物語だからだ。
実はわれわれは原始人である。
産業革命以降の技術発展によって誤魔化されているが、別に進化したわけではない。
多くの人が文字を読めないような、そんな時代の人間とたいして変わらないのだ。
仮に人類が、刻々と進化している生物なら、<アダム>は猿とかチンパンジーみたいなもので、象徴性を持たないだろう。
われわれは、アダムと進化レベルで同じだというのが前提としてあるわけだ。
属性だけで物語を紡いでいく「まおゆう」も、<アダム>から紡ぎ出す「エヴァンゲリオン」と似ていて、ある種の創世記的な構造を持つのである。

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」第六巻



アニメ化も決まり、これからますます売れることが予想される「俺の妹」。

この作品は、ラノベでありながら、ここまでまったく手抜きのないシリーズである。
ラノベで人気作品だったりすると、どこかで手抜き巻があったりするのが普通だが、「俺の妹」はすべて全開でハズレ無しと言っていいだろう。

第六巻も相変わらず、手抜き無しの力強い執筆だったが、キャラの扱いにはやや不満をおぼえた。
今回は短編の連作っぽい構成だったが、最初の部分で中心になった加奈子は、いらないキャラという気がする。
ただ、あんまり人気のないキャラだからこそ、今回はページ数を割いてキャラ立てしようとしたのだと思う。
加奈子を物語からフェイドアウトさせるという選択にはならなかったのだろう。

この作品は、黒猫絡みのエピソードが少ないと、あんまり面白くない。
そもそも生意気な妹とのやり取り、という構図だけだったら、この作品はここまで人気は出ていなかったはずだ。
黒猫のユニークなキャラクターあってこそ、ネタとして楽しめるわけである。
生意気なヒロインというのは、ラノベでは基本なのだけど、いかにその生意気さをネタとして楽しめるものにするか、が重要で、黒猫は、その緩衝材として、とても機能していたわけである。
今回たまたま黒猫の登場回数が少なかったというだけならいいのだが、どうも前回からの流れで、主人公との関係に変化が生じてしまい、黒猫特有の面白さが無くなってしまったようにも思えた。
第五巻で黒猫の立ち位置が変わったことで、作品のアングルが変わらなければよいのだが……。
女の子がいろいろ出てきて、それぞれが並列に並べられるハーレム構造になっていくという懸念。
いや、仮にそうなるとしても、それはアニメ展開する商法として正しいとは思うのだけど。
黒猫とか沙織中心にオタクネタを延々とやるよりは、他に女の子を増やしてプッシュした方がいいだろうからね。

天使ちゃんは受難者なので(「Angel Beats!」第六話)

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感想を書くか書くまいか迷ったが、無益に書き記しておこう。せっかくの原作無しのオリジナルアニメ作品だから、予想屋の気分で書き殴る楽しみはあっていいだろう。この作品は、ごく普通の感覚で見ると、かなり支離滅裂に思える。特に天使ちゃんとの<人間関係>。SSSと天使ちゃんの人間関係は、致命的に破綻しており、物語も崩壊している。天使ちゃんの感情を常識レベルで想像するなら、DQNに絡まれて二度と関わりたくないというところだろう。それが<常識>である。

だがこれはフィクションである。天使ちゃんのポジションを「DQN集団に絡まれて迷惑してる子」として解釈するべきではないだろう。天使ちゃんは、おそらく<受難者>という記号として物語に登場している。ある種の主人公属性を持っている。だから、通常レベルでの理不尽な仕打ちとかは、物語的にクリアされるものと思われる。フィクションにおいて天使ちゃん的なポジションであるなら、<受難者>として破綻を抱擁する役割になるはずだ。「ゆりっぺみたいなDQNとは関わりたくない」とシャットアウトするのが現実であっても、これは現実ではないのだ。現実とは違う法則で、フィクションの車輪は回っていく。

主人公は特別な力を持ち、特別な強さを持つからこそ、「あいつとは関わりたくない」というスルーの仕方はしないし、真正面から向き合いつつ、決着を付けるのだ。「Angel Beats!」の場合、破綻した作品を介抱してやるような感じかもしれないが、たぶん天使ちゃんの包容力で解決する流れ……にするしかないのではなかろうか。少なくとも、ゆりっぺは主人公から脱落しており、狂言回しの音無は<平凡な男性主人公>のテンプレートだ。物語は天使ちゃんルートに入っていると思われるので、あとは、天使ちゃんが苦しめられ、もがきながらも、(世の中の有象無象とは違う)孤独な受難者としての包容力で、綺麗に着地するというエンディングに至るしかない。天使ちゃんは弥勒菩薩であり、イエスキリストなのである。選ばれた者としての行動をとる。人間的な因縁は<主人公の力>で乗り越えてしまうだろう、たぶん。

「Angel Beats!」第五話は破綻確定のような気もするし、天使ちゃん萌えに引き絞られた気もする


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私は原作無しのアニメオリジナル作品には全部頑張って欲しいと思っている。
漫画原作のアニメばかり、とかなったら、すごくつまらないからだ。
「Angel Beats!」だって、とても応援しながら見ているつもりだ。
とはいえ、第五話は、ちょっと評価に迷う回であった。
普通に第一話から第五話の流れを見ると、完全に迷走して破綻しているように思える。
しかし第五話で天使ちゃんが生徒会長から外され、Cパートで天使ちゃんの後任の「新生徒会長」がSSSを拘束しようとするところで、”続く”となったわけで、もしかすると、第六話から仕切り直して持ち直すという期待感も無くはない。

エロゲー的に言えば、第五話までは序盤のキャラ見せのためのドタバタだった(かもしれない)。
成仏したりしなかったり、変だったけど、あれもエロゲー序盤特有のドタバタ(かもしれない)。
第六話から「天使ちゃんルート」に入って、いい意味での麻枝准シナリオが始まるのではないかという気もする。
第五話で天使ちゃんを痛めつけたのは、これまでのKey作品を思い起こせば、天使ちゃんルートに入るためのフラグである。
逆に言うと、表向きのヒロインのゆりっぺは脱落ということになるが、どうせ人気もないのでいいのだろう。

実際、天使ちゃん萌えが、唯一残された活路なのだから、「ゆりっぺルート」はゴミ箱に捨てて、第六話から天使ちゃんルートという具合になると思われる。
もし天使ちゃんの話をきちんと構築出来るのなら、序盤のドタバタは、普通にOKとなるのではなかろうか。

まあ埒もない予測をしても仕方がない……。
いや、原作のないアニメオリジナルだからこそ「予測」する楽しみがあるのだけど、これ以上長々と書く意味はないだろう。

ちなみに、第五話までのドタバタに関して言うと、相変わらず、「どつき漫才」的な手法が多いなあと。
これはKey作品のギャグセンスがそうなのだけどね。
生理的に嫌悪感を持つ人がいるかもしれないが、たぶんそれほどネックにはならないだろう。
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