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ハッピーエンドのための蛇足

「ハッピーエンドでよかった」

そういう口癖を述べる輩がいる。

そういう人間の声が大きいからCパートは作られる。

何年か前、「グレンラガン」の最終回のBパートまで見て、主人公の哀愁漂う背中に漢を感じて感動しつつ、とてもハードボイルドで痺れるエンディングだったなと思っていたら、Cパートで後日譚、というか、二十年後の世界が描かれて萎えた記憶がある。

Cパートで後日譚を見せるのは、ハッピーエンドサービスだ。
ナチュラルなハッピーエンドなら、Bパートで纏めればよい。
Bパートの段階でハッピーエンドにならない時に、それを補填するのがCパートという蛇足なのだ。

「Angel Beats!」も、この作品において”転生後”は蛇足だ。
最終回のCパートはハッピーエンドサービスなのである。

よくもわるくも、「Angel Beats!」は疑似体験の集まりなのだ。
ゆりっぺと天使ちゃんの戦いは実質的には無意味で、単なる”ごっこ”だ。
第十話のユイの成仏だって、”ごっこ”である。
あの「死んだ世界」の箱庭の中だけで完結している遊戯なのだ。

転生後を描くと、キャラが崩壊してしまう。
Cパートの天使ちゃんはもはや天使ちゃんではないわけだ。

あるいは、ユイの転生後は描かれなかったが、仮に描いたら、第十話は何だったのかということになる。
この作品において転生後を描くのは、そういうことである。

それと、消えた後に「転生」するというのを最終回Cパートで確定させてしまったのもよくない。
転生は可能性の問題であり、実際は魂が成仏して消滅するだけかもしれない、という余地を残しておくべきだった。

ああやって転生するんなら、さっさと成仏した方がいいという話にもなりますからね。
だいたい人生への「思い残し」って、人生が一度きりだからだろ。
そういう条件だからこそ、人生においての運命とか不幸の重みは耐え難いのだ。
リセットできるんなら、あっさりリセットボタン押して転生するだけだよ。
転生した先でまた悪ければ、再びリセットボタン。
麻枝准がCパートで言いたかったのは、そういうことか。
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「ラブプラス+」を買って三日で飽きた



同調圧力というものがある。
おまえらが考えているのと同じ意見を私にも言わせようとする空気のことだ。
だが、なぜおまえらと同じ意見を持つ必要がある?
他人の意向を読んでそのまま迎合するのを<過剰適応>と言うのだ。
「ラブプラス」が手放しで絶賛されているのは、オタク界隈での同調圧力と、オタク連中の過剰適応があるように思われる。

6月24日に発売された「ラブプラス+」。
前作の「ラブプラス」の内容をそのまま含んで、それに追加要素があって、実売4000円程度ということなので、試しに買ってみた。
(前作の「ラブプラス」は未プレイ)。

コナミから出ている作品で、まあ「ときめきメモリアル」を劣化させたようなゲーム。
ゲーム性としてはレベルが低く、単純に自分を成長させるだけ。
シミュレーションゲーム特有の考える要素がない。
つまりゲームとしてはつまらないわけだ。
「ときメモ」は恋愛シミュレーションが嫌いな人がプレーしても、育成ゲームとして楽しめるくらいの出来映えだったが、「ラブプラス+」はゲームとしてつまらない。

まあつまらないのはいいのだろう。
恋人と恋愛するのが目的なのだ。
その部分に力を入れて、このゲームは作られている。
実際、擬似恋愛的な要素はよく出来ている。

ただ、感情移入がまったく出来なかった。
なんでゲームの中の女を恋人だと思えるのか?

三次元に近い映像なのもよくない。
二次元のアニメ美少女なら、私もどうにかなったかもしれないのに。
「Angel Beats!」の天使ちゃんに萌えるゲームならハマれると思うけど、三次元っぽいのは受け付けない。

このゲームはプレイヤーの妄想力が試される。
ゲームの画面の中の女を恋人だと信じ込む能力が必要だ。
そういう特殊能力がなければ、「ラブプラス」はさっぱり面白くないのである。
まあ、能力者の人は買ってもいいんじゃないかな。

「Angel Beats!」のゆりっぺは「抗い」を貫けたのか?

結論的に言うなら、最終回でゆりっぺは「普通の女の子」になってしまって、戦いを貫けなかった。
そして普通に成仏して終わり。
あれは変だと思うのだが、ともかく作品を振り返ってみよう。

ゆりっぺは、現実の人生で発生する事象を「神の与えた理不尽な運命」と考えているようだ。
ゆりっぺの家に強盗が入ったのは神の与えた運命である。
ゆりっぺの家に入ってきた強盗は神様が派遣したということのようである。
あの強盗がゆりっぺの兄弟姉妹を次々殺したのは、神様から指令を受けたらしい。
……何が言いたいかというと、「強盗が悪い」ではなく、「神様が悪い」という解釈なのだ。
そしてその神の与えた理不尽な運命に抗うというのがゆりっぺの思想なのだ。

「神様の与えた運命」みたいな発想は、ゆりっぺだけのものではない。
ユイが車に轢かれて障害者になったのも神が与えた運命である。
岩沢さんが親に酒瓶で殴られて脳障害になったのも神が与えた運命である。
そういう感じで、「神様が……、神様が……」というのが、この作品の発想。

ゆりっぺの戦いが破綻したのは、そもそも無理があるからだ。
「神に抗う」と旗印を掲げて天使ちゃんと戦っても、それで家族を強盗に殺された過去が変わるわけではない。
天使ちゃんに八つ当たりしているだけだ。

「神に抗う」ということで天使ちゃんと戦うのは”つかみ”としては面白かったと思う。
だが、根本的に筋違いなのだから、いずれは物語として破綻するわけで、<天使ちゃんは天使ではなかった>となるし、最終回でゆりっぺはしおらしい女の子になり、天使ちゃんと和解する。
ゆりっぺが振り上げた拳は物語的に回収出来なかった。
だから最終回では、気が抜けたように普通の女の子になり成仏(退場)するのである。

別のシナリオの可能性を考えるなら、天使ちゃんがゆりっぺの心境を理解して同情する立場になり、泣きながら身の上話をするゆりっぺを天使ちゃんが抱きしめるような、そんな展開も可能ではあっただろう。
何にせよ、「Angel Beats!」の製作者たちは「戦い」をうまく回収出来なかったのだ。
天使ちゃんと戦ったのは勘違いでした、で終わり。
ゆりっぺの「死んだ世界戦線」は冒頭の”つかみ”として役に立っただけであり、その役割が終われば、後はうやむやに退場させるだけだった。

そもそも、「死んだ世界戦線」が天使ちゃんにやってることって、たとえば第五話の、答案をすり替えて0点を取らせたりとか、そういうアホなことである。
そんな話にしている段階で、「死んだ世界戦線」は冒頭の”つかみ”でしかなく、神の与えた運命というテーマにガチで取り組むものではなかったのだろう。

「Angel Beats!」最終回の狂ったラストシーンはエロゲー脳が生み出した

やらかしてしまった、という印象しかない。
特にCパートは、これだけ酷い結末は見たこと無いと言ってもいいだろう。
天使ちゃんは昨今のアニメでは最も萌えるヒロインだったのに、製作者によってメチャクチャにされた。

なぜ、「Angel Beats!」は無惨な最終回を迎えたのか?
エロゲー脳が悪い!
エロゲー脳は、ラストで主人公とヒロインが性的に結合することを前提にしてしまう。
そういうのを描きたがるのだ。

普通の物語では、男性主人公はストイックでなければならない。
不自然なまでにストイックであることが必要だ。
性欲を持っていない、と言ってもいいだろう。
お色気には反応するとしても、奥手であり、セックスのことは考えない。
第二次成長期の前の感性なのだ。
<男根>を持たない主人公であるべきなのである。
このような不自然さは物語には必要だ。
俗物レベルの<欲>を主人公が持っていたら、作品は全然面白くない。
天使ちゃんとやりてえ、ゆりっぺは一度くらいやって捨ててえ、とか主人公が考えたら、物語は台無し。
青年誌ならいいんだけど、アニメとかラノベとか少年漫画ではNGだ。

さて、「Angel Beats!」最終回。
主人公の音無は天使ちゃんに対して<欲>を持ってしまった。
これはエロゲー脳だ!
アニメであるにもかかわらず、エロゲー脳の発想をしているのだ。
だからあのような、アニメ史上最低のラストになるのである。

エロゲーでは、主人公=プレイヤーだから、そのような<欲>も許される。
だが、アニメのヒロインはみんなのものだ。
天使ちゃんは視聴者みんなのアイドルなのである。
音無は<欲>にまみれた手つきで天使ちゃんに抱きついて、その後「死んだ世界」をほっぽり出して天使ちゃんを追い掛けていくのだから、これはもう、アニメファンとしては、断固として強制排除しなければならない主人公なのだ。
もちろん主人公の<男根>が天使ちゃんに突き刺さる場面が描かれたわけではない。
しかし<男根>的な<欲>を剥き出しにした段階で、もう実質的に、そういう物語に堕落したということなのだ。
天使ちゃんが<欲>にまみれた主人公に汚されたのを悲しむと共に、絶対にこのような作品を許してはならない。

世界観の架空性が強いフィクションがセカイ系である

セカイ系という単語は使いたくないのだが、実際使われるので、ある程度定義しておくことが必要だろう。
よく言われる「社会的プロセスを省略して……」みたいな説明はまったくの的外れだと思う。
あるいは、そういう的外れな説教の対象として、特定作品が槍玉に挙がったのかもしれない。
たいてい説教とは的外れなものだ。
わかってる人はなかなか言ってくれない。
ものわかりが悪い人に限って説教が好きなのである。

さて、だったらセカイ系と言われる作品は何なのかというと、架空性が強いフィクションなのだと思う。
もちろんフィクションは全部架空だ。
架空だからフィクションだ。
だが、架空性の強い設定というのはあるのだ。

たとえば現在放映されているアニメなら、「けいおん!!」と「Angel Beats!」の比較でもいいだろう。
両方ともフィクションであり、架空の話である。
だが、「けいおん!!」が普通のフィクションなのに対して、「Angel Beats!」は<架空性>が強い。
要するに、その作品の世界観が、<架空世界>である強さの問題である。
作品世界が、ある特殊な意図で<架空>であるのが、セカイ系なのだ。
世界観の<架空性>の強さからストーリーが物語られる時、我々はそれをセカイ系という単語で認識する。
「けいおん!!」は世界観の架空性が弱いから日常系で、「Angel Beats!」は架空性が強いからセカイ系ということである。

「Angel Beats!」の天使ちゃんは不幸にならないのか?

作家がワンパターンなスタイルを持っているとする。
それをやってもやらなくても批判される。
麻枝准の場合、「女の子を不幸にしてるだけ」とか「女の子を死なせて感動させるだけ」とか「不幸な女の子に奇跡を起こして感動させるだけ」という類の<批判>を受けるわけである。
この種の<ワンパターンに対する批判>は、それなりに正当ではあるのだろうが、しかし、ワンパターンはワンパターンでやるしかない、というのもあるだろう。
批判されてワンパターンを崩したら、もっと出来が悪くなる。

「Angel Beats!」第十二話を見て、天使ちゃんがもはや空気になっていると感じた。
もちろん残り一話あるので、そこで何らかの劇的な回収を行うのかもしれないが、天使ちゃんを普通に仲間にするために、ゆるいストーリーになってしまった、というのが現状の感想。
天使ちゃんが死んだり不幸な結末を迎えたら可哀相だけど、でも、それをやらないとKey作品にならないのではなかろうか。
天使ちゃんの不幸エンドだと、「またか」という批判を受けるだろうが、作品としての辻褄は合っていたはずだ。
天使ちゃんに萌える構造は前半部でうまく作れていたので、後半で天使ちゃんを不幸に追い込んで死なせていれば、物語としては王道だったはずである。
天使ちゃんとわかり合おうとしながらもすれ違い、不幸で痛切な死に胸が痛むようなラストが、一番妥当だったのではなかろうか。

今のところ「Angel Beats!」に二期があるという話は全然聞かないが、そう勘ぐりたくなるくらいに、天使ちゃんを<温存>してしまったという印象だ。
最終話を見ないと何とも言えないのだけど、天使ちゃんは物語的にあまり意味のない存在だった、ということにもなりかねない。

主人公やヒロインが死んだら、物語は終わりなので

すごく当たり前のことを書いておこう。
「Angel Beats!」に関して論評しようと思ったのだが、まず、基本的な事項の確認が必要だからだ。

普通の物語では、主人公やヒロインは死なない。
漫画、ラノベ、アニメでは特にそうだ。
出来るなら続編、続編、続編、続編と続けていきたいわけだから、明確な結末は付けないようにするのが当然だ。
主人公とかヒロインを死なせてしまうと、後から続編を作りたくても作れなくなってしまう。

だから、主人公とかヒロインは死なない。
物語から消滅しない。
例外もある。
たとえば「コードギアス」だ。
最終回のラストでルルーシュが生きていることが示唆されるが、物語の舞台からは消滅しているわけだ。
ある意味、隠棲して生きていると示唆されることで、物語的には消えてしまったのだと喪失感を覚えるのである。

こういう形のエンディングをやってしまったら、もう物語としては終わりであり、続編商法は使えない。
(「コードギアス」に関しては外伝としての新作が作られるようだけれども)。

ともかく、死亡とか消滅は、物語の王道でありながら、続編が作りづらいという理由で、あまり使われない。
Key作品が鮮烈だったのは、使われない王道を使ったからだ。
ヒロインを消滅させて、そこでエンディングにしてしまう。
それは王道でありながらも、使用頻度が低いため、特別な話に思えたのである。

「ロウきゅーぶ!」第五巻



第一巻が一番面白いとも言われる「ロウきゅーぶ!」。
もう買うのを止めようと思いつつも、買い続けてしまうシリーズ。

ともかく先日発売された第五巻。
完全にライトノベル的な軽いコメディ。
よく書けているし、この作者は、こういう軽めのコメディを書くセンスがあると思うのだけど、ありがちと言えばありがちだ。
第一巻の特別な面白さは、無くなってしまった。
キュートな女子小学生五人が、熱血少年漫画のノリでバスケをやるという第一巻は、ラノベとしては異色の面白さだっただけに、第二巻以降は期待はずれ。
いや、第五巻は素直に面白かったのだけど、どうも普通のキャラ萌え作品になってしまった感じ。

帯によれば、「電撃G's magazine」でコミカライズされるそうで、かなりプッシュする用意はあるのかもしれない。
ロリ的なキャラ萌えに重点を置いてるのも、アキバblogが喜んで取り上げるような作品にした方が売れると思って、こういう方向性を強めているのだろう。
私としては第一巻の路線(少年漫画展開)でやって欲しかったのだけれど。
私の需要と、他人の需要が違うという問題なのかもしれない。

不幸な出来事は回避できない理不尽な宿命という発想が「Angel Beats!」



この作品の感想を書くのは最終回を見るまでやめておこうかと思ったのだが、一応、第10話段階での整理をしておこう。
残り数話の展開は不明だが、ある程度、この作品の原理原則は見えてきたからだ。

基本的にこの作品において、学園に来る前の不幸な出来事は単なる理不尽さとして描かれている。
それは修正の効かない過去だ。
<被害者意識>があるのである。
神から理不尽な仕打ちを受けて、それによって人生を台無しにされた、という発想だ。

現実的に言えば、宿命という発想は、まあまあ正しい。
生まれついた状況で、だいたい人生は決まっているからだ。
成功して幸せを手にするとすれば、それは、そういう星の下に生まれていたからだ。
不幸になるとすれば、それは、そういう星の下に生まれていたからだ。

とはいえ、普段からわれわれが接している物語の流れは、そうではない。

理不尽な状況

解決

に至るとして、これを、「単に主人公に解決する力があっただけだ」、なんて斜に構えて相対化することはない。
才能とか、力を駆使して解決するのは<主体性>だ。
もちろん<主体性>を問い詰めたらきりがない。
<主体性>は、ある種の解釈であり、たとえば、何らかの才能で解決するとしたら、その才能を主体的に了解しているだけ、とも言える。
俯瞰して見るなら、たまたま偶発的に解決する力を持っていただけと言うべきかもしれない。

何にせよ、物語は、相対化のためにあるわけではないから、「悟空がサイヤ人でなかったらどうするんだ?」とか「桜木花道がチビだったらどうするんだ」なんてことは考えない。
あくまで彼らは主体的に存在し、主体的に解決していくわけだ。

翻って「Angel Beats!」。
ここまでの不幸話のほとんどは、抗えないものだ。
それに対するアプローチは普通の物語的な解決ではなく、「成仏」なのである。

理不尽な状況

生まれ変わった世界で満足する

成仏

ある種の宗教的な発想と言ってもいいだろう。
陳腐で素朴な意味での宗教ということだけれど。

主体的に「理不尽さ」に向き合い解決するのではなく、学園という天国で満足を与えて貰うという発想なのだ。
このあたりは、「不幸な女の子に優しくする」という構造で感動を作るKey作品全体にも言えることだ。
ある意味、「ドラゴンボール」みたいに解決したら困るわけで、古典的な不幸話ということなのだ。

「デュラララ!!」と後付け設定



現在放映中の「デュラララ!!」は原作未読で、アニメだけ見ている状態なのだが、基本的に<後付け設定>が多い作品という印象を受ける。
そしてその後付けの唐突さが、この作品の面白さなのだと思う。

<伏線>がはっきりしている作品は、要は<予定調和>である。
あらかじめ、物語の展開を仄めかしておくのが伏線だ。
伏線が薄い、あるいは、意図的にわかりづらくしている作品は、<予定調和>とは逆で、出来事が唐突に起こるから、展開が刺激的だ。

後付けが多い作品の方が、ジェットコースター的な疾走感がある。
ラノベ作品は「引き」が弱いことが多いが、それは、予定調和を求められることが多いから、かもしれない。
次々と唐突な設定が出てくるようなストーリーは出来が悪いと思われがちだから。
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