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天使ちゃんは飛び級キャラ

「Angel Beats!」はストーリーとしては破綻していると思うのだが、それでも結構売れているようだ。
「けいおん!」に近いくらいの売り上げのようだから、アニメとしては大成功の部類と言っていいだろう。
これは麻枝准(あるいはKey)の固定ファンと天使ちゃん人気によるものだと思うが、天使ちゃんについてちょっと考えてみよう。

天使ちゃんに似ているキャラをアニメの中で探すと、「機動戦艦ナデシコ」のホシノ・ルリだと思う。
そして天使ちゃんとホシノ・ルリの共通点を考えると、幼い年齢に見えながらも重要なポジションを占めるキャラということだ。
天使ちゃんのキャラを「ロリ」と言う人がいるが、そうではないと思う。
単純なロリキャラならいくらでもいるのだ。
ポジションが飛び級的と言った方がいい。

アニメで飛び級的なキャラが使いづらいのは、「あずまんが大王」が原因かもしれない。
迂闊に飛び級設定を使うと、パクリと言われる恐れがある。
だが、飛び級キャラを<神童>として捉えるなら、これはかなり古典的なのだ。
文学作品(たとえばヘルマンヘッセとか)で神童が特権的なポジションを得るのはよくある。
<神童>とはかなり王道で魅力的な立ち位置なのである。

天使ちゃんは、飛び級と設定されているわけではない。
単に身長の低い高校生と見ることも可能ではある。
だが、天使ちゃん人気を考えるに、「背の低い高校生」というよりは、優秀な神童が生徒会長のポジションに付く、という構造で受け取られていると思う。
「身長が低い」だけで人気が出るなら、いくらでも低くすればいいだろう。
そうではないのだ。
あくまで神童というイメージが得られるように、ああいう背格好なのだ。

余談を書くなら、現在放映中の「世紀末オカルト学院」はヒロインである学長の設定がよくない。
ヒロインの学長がお姉さんキャラというのでは、あまりインパクトがない。
仮にヒロインが幼いイメージで、その子が学長になるというのなら、それは飛び級的なポジションであり、アニメヒロインの立ち位置として魅惑的なものであっただろう。
「世紀末オカルト学院」は作品の質が高く、ストーリーも面白いだけに、キャラの設定が残念である。
あるいは、「世紀末オカルト学院」はアニメ的なキャラ設定を避けたのかもしれない。
「世紀末オカルト学院」はアニメノチカラ第三弾なわけだけど、第一弾の「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」が流行の萌えを意識しすぎて妙なバッシングを受けたりしたからね。


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「ブラック★ロックシューター」第一話のつかみの弱さ



ライトノベルは「つかみ」が弱ければその段階で没だ。
漫画は最初がつまらなければ打ち切りだ。
ラノベや漫画にとって、「つかみ」は死活問題であり、切迫性があるわけだ。
そして「つかみ」に成功して生き残った作品だからこそ続きが出て、アニメ化に漕ぎ着けるとも言える。

さて、「ブラック★ロックシューター」。
グッズを売るのが目的で展開されているそうで、アニメ作品は無料で配るという発想のようだ。
その第一話を見てみたが、いかにもオリジナルアニメらしい、曖昧な出来映え。
現段階ではいいとも悪いとも言えない。
50分掛けてプロローグを見せられた感じ。

第一話で何が何でも視聴者を掴まなければならないという切迫性がないから、こういうのが出来上がってしまったのだろう。
「いちばんうしろの大魔王」とか「荒川アンダーザブリッジ」みたいに第一話だけすごく面白くて、だんだんつまらなくなっていくというアニメも困るけど。
(いや、「大魔王」とか「荒川」の原作読んでないけど、たぶん序盤はすごく面白いんでしょう)。
まあ好意的に見るなら「ブラック★ロックシューター」は第一話で全力出すアニメではない……ということかな。
第二話以降は面白いのかもしれない。

シリアスな作品の主人公は視聴者の分身だからバッシングされる。日常系は自分と無関係だから好まれる

日常系の作品が全盛である時代。
理由のひとつとして、バッシングされないから、というのがあるだろう。
「けいおん!」を本気で叩いている人はほとんど見掛けない。
つまらないという意見はあるにせよ、そういう人は単に見ないだけだ。

シリアスな作品は、その世界観が憎悪されている。
主人公が世界を救うみたいな構造への憎悪。
われわれの存在の根底に触れるからアレルギー反応を起こしやすい。
そしてそういうアレルギーを回避して辿り着いた結論が日常系なのだ。
<日常系>という言葉とは裏腹に、われわれの日常とはまったく無関係なファンタジー。
完全に架空な絵空事として居直れば、誰かのアレルギーの原因にもならない。

シリアスな作品は、視聴者が自分自身に向き合うことを求める。
シリアスな作品の主人公は視聴者の分身として提示される。
そういう意味で不愉快なわけである。
主人公が何らかの道徳的課題を持って問題に向き合う構造とか、そこに描かれる「自分」というものに視聴者が付き合わされる構造とか、そういうのが嫌悪の対象となるのである。
「エヴァンゲリオン」はそれが信仰の対象となったが、一歩間違えば憎悪の対象となる作品である。

アニメオタクがシリアスな作品の粗探しをするのは、正当な反逆なのかもしれない。
「けいおん!」は視聴者に何も問い掛けてこないから平和なのだ。

なぜか「けいおん!」の原作者は空気なのだけど



「けいおん!」は原作の大半を一期で使い切っているので、二期ではオリジナルが多いことが懸念されていたが、予想通り、ダラダラしたつまらない回が結構ある。
原作に基づいて製作された一期は、四コマをベースにしているから、短い間隔でオチが来るメリハリがあって、そこに面白さがあるのだけど、二期はシナリオライターがお話を書いているので、オチがないダラダラになってしまっている。

日常系と呼ばれる作品の特徴は、たとえばライバルがいないことだ。
普通の物語では、主人公に対してライバルが立てられ、そのライバルとの対比で主人公のキャラクターや物語があったりする。
日常系では、主人公達しか出て来ない。
ライバルに勝利するという「目的」がない。
物語性が欠如しているので、コメディしかないのである。
そして、そういう世界観だからこそ、かなり力をいれてオチを作り続ける必要があるのだ。

「けいおん!」二期が安易に製作されたのは、四コマをなめているというのもあると思う。
四コマは簡単だと思われがちだが、「オチ」をたくさん考える作業は難しいはずである。
「けいおん!」二期は、担当するシナリオライターにもよるのだが、四コマ的なオチがまったく作れていない酷い回が結構ある。
物語の軸がない”日常系”でオチのない話をやってしまうと、ダラダラにしかならない。
これはシナリオライターの力不足の問題だけでなく、オチをたくさん作るという作業の難しさの問題だ。

一番悪いのは「けいおん!」の原作者のかきふらいかもしれない。
自分の作品を丸投げしたのは酷いと思う。
「あずまんが大王」のあずまきよひこのストイックさとは対極である。
あるいは「けいおん!」の場合、作者が空気で、キャラが一人歩きしているようなイメージである。
そこが人気の秘密なのかもしれない。
「俺がけいおんを育てた」と思っている大手サイトの人は結構いそうだ。
かきふらいがバッシングされてないのは、そのあたりが理由だと思う。
作者が不在なのだ。
みんなで「けいおん!」を育成したみたいな空気になっている。
だが、そういうのは、影響力のある大手に褒めて貰いたいというマーケティング的な発想から来る誤認だ。
(もちろん大手に褒められるかどうかで売り上げに影響はあるとしても)。
実際に二期を見れば、シナリオライターに作らせたお話がつまらないのは明らかである。
原作者のかきふらいが描くからこそ「けいおん!」はあるのだ。
もしくは、シナリオライターに書かせるなら、それこそ一つの回を作るのに五人使うくらいの体制が必要だった。
(いや、文字通り五人使えというわけではないが、それくらいのエネルギーを投入していれば、かきふらいの原作がなくても、一期と同等の面白さが作れたかもしれない)。
普通のアニメの感覚でシナリオライターに投げたら、ダラダラとマラソンをやるようなお話が出てきても無理はないと思う。

フィクションの受け手は天罰が無いと納得しない

作中で悪い行いが描かれたら、その後には「天罰」が求められる。
正義の味方が罰を下すのでもいいのだけれど、ともかくペナルティーが与えられる必要がある。
青年誌とかだと、悪事がそのまま放置されるというストーリーもなくはないのだけど、基本的に悪事の垂れ流しは好まれない。

読者とか視聴者は天罰を信じている病気なのだろうか?
たかが作り話の中で悪事があった場合、ペナルティーがあるかどうか目を皿のようにして監視しているというのは、変と言えば変である。

どのようないい作品でも、一部の人間が文句を付けるわけだが、天罰の問題はこれとは違う。
天罰を求めるのは、一部の視聴者ではないのだ。
ほぼ全員が天罰を求めると言ってもいいだろう。
われわれはある種の裁判員として、アニメや映画を視たり、漫画や小説を読んだりするわけである。
悪事が発生した段階で「バチが当たる」のを待つ状態になるわけだ。

結局のところ、道徳感情のない人間というのは存在しないのである。
ヤクザでも他人の悪事には厳しい。
あるいは、われわれが道徳的な潔癖を求める対象というのは限定されていて、それがフィクションということなのかもしれない。
フィクションは現実のわれわれよりも高い規範意識を持たなくてはならないのである。

余談として言うなら、「ナニワ金融道」が衝撃的だったのは、われわれが共有している物語の展開とは全然別の次元で描かれたからである。
”借金”という絶対的な規範を中心に据えて、凡百の甘っちょろい展開を唾棄するような冷徹な作品だったからだ。
まあ「ナニワ金融道」は準ノンフィクションみたいな作品だから、ありがちな物語の枠を越えることが可能だったのだけれど。

「灰羽連盟」と多動性

かなり久々に「灰羽連盟」を見てみた。

人間は、小さい頃は基本的に多動で、成長するに従って落ち着いてくる。
「灰羽連盟」はキャラクターの描き方からして、序盤の多動性と後半の落ち着き具合が対照的であり、成長物語としてしっかりした作品だ。

物語序盤で、登場人物達は妙に落ち着きがない。
オールドホームのこどもたちはもちろん、主要登場人物の女の子たちも落ち着きがない。
せわしなくて、そそっかしい。
このあたりの天然な雰囲気は、たぶん意図的だ。
序盤はそういうふわふわした世界観なのだ。

物語が後半に入っていくと、登場人物たちの仕草がだんだん落ち着いてくる。
典型的なのは、最初に巣立つクウだ。
序盤では、かなり子供っぽく描かれているが、巣立ちを迎えるあたりで妙に落ち着いた言動を示すようになる。
そしてクウが旅立ってから物語の緊迫感が高まり、登場人物達の問題に直面させられることになる。
このあたりは思春期とか青年期に至る変化を見ているようで、とても説得力がある。
レキを巡る物語が後半の主軸だが、後半の素晴らしさが際だつのは、前半で純粋な世界観を描けているから、そのコントラストが素晴らしいのだと思う。

当時としては、かなりクオリティーの高い映像だったと記憶しているけれど、今でも充分視るに堪える、センス溢れる映像作品である。
近々、映像をアップコンバートしたBlu-ray版が出るそうである。
元のままでも美的によい作品なので、アップコンバートがうまくいっていれば、さらに素晴らしくなっているだろう。


グッドエンド・バッドエンドという発想はエロゲー脳

「Angel Beats!」の最終回の問題。
なぜあのようなラストに至ったか?
あるいは、中盤以降でなぜ天使ちゃんは、「死んだ世界」の主から降りたのか。

視聴者のほとんどは、作品の序盤においては、天使ちゃんが世界の鍵を握っていると思っていたはずだ。
実際、そういうストーリーにしても不自然ではなかった。
というか、「天使ちゃんは単なる人間だった」という方が不自然だ。

ああいう展開になったのは、麻枝准がエロゲーの手法で考えているからだ。
ヒロインがいるからには、主人公との性的関係があり得るはずだと麻枝准は思い込んでいた。
もちろんアニメでセックスさせるわけにはいかないから、ああやって詰めの部分で振られるエンディングになったのだ。
Bパートはバッドエンドであり、Cパートでそれをフォローするような形になった。

そもそも、主人公とヒロインの性的関係というラインから考えることが間違いなのだ。
「Angel Beats!」は涼宮ハルヒのオマージュだが、ハルヒと比較すればわかりやすいだろう。
キョンとハルヒはセックスするのか?
キョンが自分のチンポをハルヒのマンコに突っ込むことが出来たらグッドエンド(トゥルーエンド)で、出来なければバッドエンドなのか?
違うだろう。
そういう性的な図式は「涼宮ハルヒの憂鬱」には根本的に不在なのだ。
あの世界観に、性器は存在しない。
キョンとハルヒのセックスとかあり得ないし、だからこそ、永遠に結末がないような作品なのだ。

麻枝准はエロゲーライターとして、主人公とヒロインの性的関係を考えずにはいられないのだろう。
ハルヒとキョンの関係のような<セックスレス>がラノベ(アニメ)の基本なのだが、麻枝准はそれを理解していなかった。
音無と天使ちゃんの関係が平行線のままでも物語として成立しうることを麻枝准は理解してなかった。
(というより、平行線のままの方が、天使ちゃん人気で二期でも三期でも引っ張れただろう)。
彼は「涼宮ハルヒの憂鬱」を見て、いったい何を学習したのだろうか?
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