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フィクションにおける肉体的修行や精神的試練の消失

「ドラゴンボール」で肉体的な修行をやるとする。
われわれはそれに感情移入するわけだ。
われわれが登場人物達に修行させているような、そんな感じで、一体感を持つ。
「エヴァンゲリオン」で主人公は精神的な試練に逢着する。
われわれはその試練の重みを感じながら感情移入する。

修行や試練がなくなっているのは、マーケティングとかリサーチとか、なのだろう。
要は時代におもねった、ということだ。
今の世の中は、親や教師が子供に試練を課すような時代ではない。
今の子供には試練とか合わない、と勝手に断定したのだ。
王道的な感情移入をしやすい手法が、過去の名作に堂々と提示されているのに、それを真似しようとしない。
エヴァを真似している作品でも、主人公に試練を与えない。
あるいは、そういう作品の作者が試練を描けないのかもしれない。
「エヴァンゲリオン」は一歩間違えば、とても不愉快な作品である。
(そもそも普通に見ても、キチガイな大人達が碇シンジを取り囲んで責め立てているだけだ)。
だから、甘口にして逃げる。
だが、エヴァを甘口にしたような作品を誰が見るというのだろう。
時代がゆとりだから作品もゆとりにすればいいというものではない。
模倣、というか、王道を継承するのなら、妥協のない試練を与えなければならない。
主人公を、これ以上ないくらいの苦境に追い込むべきなのである。
そこまでやっている作品があるかどうか。。。
無いから、エヴァを超えられない。
(ゆとり教育も見直されたのだから、アニメや漫画でもゆとりは廃止し、主人公には苛烈な試練を課すべきだ)。
00年代最大の収穫と言えば、あずまんが大王の系譜に属するもの(代表的には「けいおん!」とか)である。
甘口にし過ぎたところが心地よいという名作。
だが、これらは物語ではないのである。
物語が腑抜けすぎているから、あずまんが大王系統の作品だけが名作として残ったとも言える。
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アリバイとしての読書、アリバイとしてのアニメ視聴

ニーチェを読んだことがない人でもニーチェ思想は「理解」しているかもしれない。
マルクスを呼んでなくてもマルクス主義は「理解」しているかもしれない。
それなりの読書家で多少の教養があれば、読んでない本でも評判を耳にするだけで「あたり」が付く。
実際、読書というのは予想通りのことが書いてあるのを確認する行為、という部分もある。
ニーチェ思想を漠然と理解している人がニーチェの本を読んでみるというのは、単なる確認、あるいはアリバイだ。
読まないで語るのもなんだから、アリバイとして読みましたよ、ということだ。
われわれの読書の結構な部分が「読みましたよ」というアリバイのために費やされている。
本なんて、他人の評判だけ聞いていれば読まなくてもわかることが多いのである。

アニメ視聴だってそうだ。
見なくてもわかるアニメ。
まとめブログを眺めたり、他人の評判を聞けば、見てないアニメでも把握できる。
とはいえアニメに言及するとなれば、さすがに見ないわけにはいかないので、「見ましたよ」というアリバイのためにアニメを視たりする。

書籍でも、アニメでも、他人の評判を小耳に挟んでいれば、事足りてしまう問題。
事前の想像とは誤差があるだろうが、誤差の範囲に過ぎないとも言える。
たとえば「フラクタル」で言うなら、ジブリみたいな作風で、ナディアとかラピュタを意識したような作品らしいですよ、と他人から粗筋を説明されれば、見なくてもいいかもしれない。
アリバイとして「フラクタル」を見ることに意味があるのか?
もちろんまだ第三話までしか進んでないから、「ナディアとかラピュタみたいな」という評判を超える新鮮な感動を与えてくれる可能性だってあるが、しかし実際のところ、「ジブリの劣化版」みたいな説明でだいたい合っていて些末な誤差くらいしかないのが結末だろう。
別に「フラクタル」を特にdisっているわけではなく、アニメ全般の問題。

弱者に立ちはだかる壁。そこから人間を描いた「エヴァンゲリオン」と「金閣寺」

ここ五年くらいの間、今さらエヴァンゲリオンの批評など書く必要がないと思っていた。だが、2011年になって考えるに、やはりエヴァを越える作品は現れていない。個人的には「コードギアス」はかなりよかったけど、客観的に見て、エヴァを越えたとは言えない。

というわけで、エヴァンゲリオンという作品と対決していかなければならない。多大な影響を与えているにも関わらず、誰もこれを越えることが出来ない。特に越えることが出来ないのは、エヴァが提示した人間存在という課題である。テーマ性、人間というテーマについてこれだけ描けた作品は、アニメの歴史において存在しない。エヴァは、文学作品で言えば、三島由紀夫の「金閣寺」と同じくらいのテーマ性を持っている。それくらいの作品なのだ。

私はエヴァンゲリオンが好きであり、嫌いでもある。この作品のすごさに圧倒されながらも、「いやらしさ」も感じるのだ。たとえば碇シンジの弱さである。弱そうな中学生を主人公にして、その弱さと対峙させるといういやらしさ。主人公だから強くなければならない、しかし、弱いという葛藤。碇シンジのように、身長も低く運動も出来ない生徒はあんなものだと思うのだが、それを槍玉に上げていくのである。男は強くなければならない、主人公は強くなければならないという観念に訴えて、弱者をいたぶる作品だ。しかし、これは批判ではない。欠陥の指摘ではない。私が嫌悪感を覚えると書いただけの話であり、作品としては、極めてストライクゾーンを突いたのだ。強さ・弱さという課題をこれだけうまく設定して、胸が苦しいほどに圧せられる作品は他にない。

さきほど、三島由紀夫の「金閣寺」の名前を出したが、「金閣寺」も弱さがモチーフだ。まるで碇シンジのように冴えない、そして吃音の主人公。この主人公・溝口が煩悶し、世界と対決する様子が描かれるのが「金閣寺」である。「金閣寺」は要は金閣と戦うわけで形而上学的な小説だけれども、主人公の溝口の弱さはリアルだ。金閣寺に放火するだけの作品を、日本文学最高傑作の地位に押し上げている。エヴァの碇シンジや金閣寺の溝口を思うに、弱さは本当にリアルだ。長身でイケメンのスポーツマンとかが主人公だと、われわれにリアルとして迫ってこない。
余談として言えば、男子にとってリアルでないキャラ立てをして、腐女子から圧倒的な人気を博したのが「テニスの王子様」だ。あれは少年漫画ではなく、なにか別のものだろう。ああいうカッコいいテニスのお兄さんはリアルにはいるんだろうけど、フィクションとして描く場合に迫ってくるリアルではないのだ。
エヴァも「金閣寺」も、弱者ならではの迫真のリアルな感覚を描いているのだ。普通に考えれば当然だ。スペックが高い人間にとって、この世界の困難は乗り越えやすい。だが、スペックが低い人間にとっては、この世界の骨組みのひとつひとつで躓いたり、引っ掛かったり、そういう息苦しい格好で、世界と対峙するわけである。ハードルを乗り越えられないがゆえに、ハードルの構造に囚われ、それと向き合うことになるのである。

エヴァンゲリオンという作品で言えば、ハードルをクリアしていく作品ではなく、ハードルを越えられない人を描く作品なのだ。そしてそれが人間存在なのだ。越えられないハードルに手足を縛られてるのが人間なのだ。あまりにも簡単にすいすいと人生の課題を乗り越えた人間にはわかりづらいかもしれないが、エヴァの碇シンジが持っている重苦しい軛は、われわれの人生で思い当たる。視聴者は彼の弱さを責めるけれど、それが作品の上手いところで、碇シンジを批判しているうちに作品にどっぷり嵌り込む。

「金閣寺」において金閣とはなんぞや、というなら、それは本人が乗り越えられない絶対者のようなものであり、激しい憧れと渇望をもってしても届かないものである。そしてその先にはいけない。三島由紀夫の「金閣寺」を読めばわかるが、主人公は金閣寺に放火した後、金閣に背を向けて走り出す。そして炎上している金閣寺は描写されないのである。これはまさに天才三島由紀夫が知悉していたところで、燃やしたら、燃えかすしか残らないことはわかっていた。だから、主人公は放火して遠く離れたところで煙草を一服し「生きよう」と言うのである。この「生きよう」というセリフが本当の意味での問題の解決から遠いことは、「猫を殺しても猫の美しさは消えない」という柏木の言葉によって作品の中で示唆されている。

エヴァンゲリオンの話に戻そう。強さとは掟だ。掟の関係性において析出されるのが、強者と弱者なのだ。たとえばライオンがいくら強いからと言って、ライオンは強者で人間は弱者だとは言わないわけだ。ライオンが恐いとしても、それは物理的な怖さであり、ライオンが人間を支配する掟とか、そういう話ではない。強い人間はライオンとは違う。ライオンなら撃ち殺す選択肢もあるが、人間の強者を撃ち殺すわけにはいかない。アメリカのハイスクールで時々そういう事件は起こるけど、もちろん、本人も自殺するという末路なわけだ。迫り来るライオンを殺して問題解決というのとはまったく違う。人間の強さ・弱さというのは、人的な圧迫感であり、逆らえない掟のようなものである。エヴァンゲリオンにおいては、そのあたりの掟に主人公が縛られていて、それがゆえに、世界の在り方がくっきりと浮かんでくる。平凡に幸せに生きている人間よりは、弱者の方が、世界の位階秩序に精通しているのだ。その代表者が碇シンジであり、アニメの登場人物で誰も彼を越えていない。弱者代表の碇シンジに聖痕が刻まれるのは、いかにも当然である。そういう「弱者代表」という碇シンジのポジションが宗教的なテーマに繋がっていくのだ。

政治的に正しいフィクションしか描かれない

政治的に正しいという表現はわかりづらいかもしれない。
ポリティカル・コレクトネスの訳語だ。
かなり噛み砕くなら、団体から抗議が来ないような「正しい」表現、ということ。
わかりやすくは、差別ですね。
差別的な表現があれば、抗議が来る。
だから、差別がない作品が「政治的に正しい」。
そしてフィクションはそういう「政治的な正しさ」に支配される。

差別から離れたものでも、政治的に正しい(ポリティカル・コレクトネス)の問題は生じ得る。
フィクションを送り出す人達は、そういうのを気にしながら、抗議が来ないような作品作りをしている。

「デビルマン」はかなり異色で、あり得ない作品だ。
普通なら、政治的に正しくないという理由でデビルマンは没になりそうだ。
理由は知らないが、デビルマンは出版された。
そしてその表現の価値が受け入れられた。
「デビルマン」は永井豪しか思い浮かばなかった作品というわけではなく、タブーとして避けられるような表現を多用した作品だ。
誰もやらないから、唯一無二の作品となったのである。
そういう意味では「デビルマン」の評価は難しい。
なんの制約もなく好き勝手に書いていいならデビルマン以上の作品は書けるという作者はたくさんいるかもしれない。

何にせよ、作品が似たパターンになるのは、政治的な正しさ、を目指しているからなのです。
私の好きな「ハートキャッチプリキュア」の終盤が、世界を嫌う大悪人と、世界を愛する主人公というありきたりな構図なのは、そういうテンプレにしておけば安心ということである。
(まあ独創極まりない展開をした場合、私が喜ぶかというと、話は別だが)。

人格を非難される恐れを抱いているのが王道的主人公

ドラゴンボールの孫悟空みたいな明るい性格の主人公もいるんだけど、こういう人気者タイプばかりが主人公ではない。むしろそうではない方が王道かもしれません。
(あるいは両方とも王道と言ってもいいけど)。

古典的な意味での主人公は、何らかの影を背負うことが多い。
たとえば、フィクションの主人公は、人格を非難されることが必要である。
チャラ男とかワルとか、そういう意味で非難されるわけではない。
アムロレイでも碇シンジでもそうだが、本人に著しい落ち度があるわけではなく、根暗なため他人から非難されるとか、そういうことである。
象徴的な意味で十字架を背負った存在。
最近話題の梶原一騎の作品の主人公はほとんどそうではないですかね。
星飛雄馬でも、矢吹丈でも、「空手バカ一代」でも、何でもいいけど。
自分の人間性が非難されるというマゾヒズムと、ナルシスムが絡んだ状態。
針のむしろに座ったような状態が共感を呼ぶのです。

最近のアニメはヒロインが実質的な主役で、男性主人公がヘタレな狂言回しでしかないことが多いので、何とも言えません。
「ガンダム00」とかは、主人公が負い目を背負った、かなり正統派の作品でしょう。
「コードギアス」もそうですかね。

自分の中のGOSICKが美しすぎて、アニメは楽しめない



また原作ファンの悪い病気が押し寄せようとしている。
遠い昔、GOSICKは私にとってかなり好きなライトノベルでした。
挿絵もとても素晴らしかった。
耽美的なモノクロームの絵柄は、私の中の心象風景として広がり、私のGOSICKを形作ったのです。
GOSICKは長らくアニメ化されず、そして原作も途絶えてましたが、長い端境期を終えて、アニメとしてわれわれの前に姿を現しました。
それは2011年現在のアニメとして、とても美しくて、問題のない出来ではありました。
しかし私の心象風景の中で描いていた「GOSICK」があまりにも神格化されていた。
アニメの映像は、その本来性を失って落剥し、表面だけ綺麗に取り繕ったように思えました。
GOSICKは桜庭一樹の文章とあの挿絵によって成り立っていたのです。
現代アニメ風に表現されても、それはGOSICKではない。
こういう厄介な感情を抱え始めたので、アニメは見ないかもしれませんね。
想い出は美しすぎるものです。

メリーさんはlainの再来。これだけクールで萌えられるヒロインは久しぶり



IS(インフィニット・ストラトス)原作は第一巻だけ読んで脱落した。一人称文体のコミカルな口調が笑えなかったり、私の読解力不足もあろうがラノベでロボットが戦う場面の描写が理解できないとか、いろんな意味でよくなかった。
アニメの方は第二話まで見たわけだが、私が原作で難点だと感じていた部分が消えていた。無理して笑わそうという演出にはなってないので、これはよい。一人称のあくの強さが消えて、よい感じのアニメになっている。だが、及第点は付けられるものの、それ以上は何も見いだせない。こういうのは切る対象。来週からはたぶん見ない。悪いわけじゃないんだけど、こういうテンプレアニメは死ぬほど見てるので、これ以上は受容出来ない。

メリーさん。第二話。原作未読なので、イミフな状態で見てるんだけど、メリーさんの魅力で引っ張れている。
これだけイミフに作って、製作者はずいぶん冒険してるが、それは成功してる。
わからないけど続きを見たいと思わせる力がある。
要は、萌えられるかどうかですよね。
メリーさんの不思議な感じは「serial experiment lain」を思い出させる。
lainはサイバーパンクで、メリーさんはファンタジーだから設定は似ても似つかないんだけど、歯ごたえのある萌えがいいのです。

「レベルE」第一話を見て





10年くらい前、原作は繰り返し繰り返し読んだ。
冨樫義博の作家性を最大に注ぎ込んだ作品は、普通の少年漫画とは一線を画していて、かなり異彩を放っていた。
今では押し入れのどこに入ってるのかわからない状態だが、久々にアニメという形でこの作品に接することになった。
第一話の印象としては、とても手堅く、きちんとした作り。
すごくちゃんと仕上がっている、というのが感想。
第一話であまり結論づけない方がいいのかもしれないが、原作の面白さを忠実に再現してくれそうな予感で、楽しみであると同時に、わざわざ見なくてもいいかな、という気もする。
どうせアニメにするなら、もう少しエキセントリックな演出の方がよかったかもしれない。

煮え切らないレビューになったが、だいたいこんなものなのだ。
絶賛したり酷評したりした方が文章としてはメリハリがつくが、「及第点で何とも言えない」という作品が多いのが実状である。
「原作を見事に再現しているこのアニメは大傑作」みたいな書き方をしてもよかったんだけど、実際、それほど続きを見たい感じがしないのです。
(原作で話の筋を知っていると、それほど続きが楽しみでないというのは当たり前だけど)。

「夢喰いメリー」アニメ第一話前半がイミフだったけど




原作未読なので、このアニメの第一話だけ見た感想を素直に書きます。
第一話のAパートはかなりイミフだった。
われわれの脳味噌は、ストーリーが順序通りに進むと理解しやすいようになっているわけだが、「夢喰いメリー」の最初の出だしは、かなり意図的に断片的なシーンを並べるものだった。
話の筋が追えないので、見ていて疲れたという人も多いはず。
これは計算ずくのはずで、その計算がうまくいくかどうかは知らない。
「つかみが大事」という鉄則に反した結果がどうなるか。。
一話のAパートで切った人もいるでしょう。
Bパートはなかなかファンタジックでよかった。
Aパートの日常シーンがBパートと絡んできて、ちょっと面白そうな感じではあった。
女の子が冒頭で空から降ってくる作品とは違って、日常的なAパートと幻想的なBパートの対比は、それなりに心地よかった。
とはいえ、毎回こんな感じだと見ていて疲れるから、第二話からどうなるのか、というのも注目点。

キャラクター名より属性名の方が重要

「まおゆう」はキャラを属性名で表現します。
魔王、勇者、メイド、王様、王子、村人
いないのもあるけど、まあ説明としてはわかりますよね。
これは新鮮でしたが、よく考えれば、「まおゆう」が独特なわけではなく、昔のおとぎ話はこんな感じのが多いですよね。

われわれは何らかの属性を持って存在してます。
その属性こそが「真の名前」です。
立場だったり、あるいは性格的なものだったり。
リアルでもフィクションでも、属性から展開していく。
王様なら、王様としての言動があるし、ヒステリーな性格の女がいたら、そのヒステリックな言動の繰り返しになる。
戸籍上の名前は、単なる便宜的な名札です。
重要なのは属性。
そして属性は明示されるとは限らない。
「真面目だね」とか「あいつDQNだから」とか、その人の属性を言うこともあるけれども、本質を明示的に理解しないまま無意識に了解して、その属性ならではの関わり方をしたり、あるいは人生を歩んだりします。
人生を振り返ると同じパターンの繰り返しだったと思えることがよくありますが、それは属性固有のパターンなのです。

たとえば正義の味方に悪人が近づいてくるのは、必ずしも作劇上の都合ではないです。
正義という属性を見つけたら、悪人という属性が近づいてくる。
これは属性の理としてそうなってるのです。
もちろんリアルで狙われるのは<弱い正義>だろうから、強い正義が悪人を倒すのはフィクションならではだけど。
「名探偵コナン」が殺人事件に出くわすのも、<名探偵>と死体の属性の関連性の問題。
もちろんこれは、フィクション限定の組み合わせです。
たとえば枢木スザクという頑固なキャラがいるとして、この場合、枢木スザクという名称が問題なのではなく、彼の石頭な性格的属性が何度も反復されることが重要です。
美少女は<美少女>です。
妹は<妹>。
幼馴染みは<幼馴染み>。
漫画にヤンキーが出てきたら、それは<ヤンキー>です。キャラ名はその漫画ごとに違うけれども。
キャラを記号として解するのは味気ないですが、まあそんなものですよ。
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