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友達と階級社会

「まとめいとさんとお友達になりたい」というエントリーを書きかけて、ふと筆が止まりました。21世紀は、人類史上かつてないほどの階級社会です。20世紀半ばには、人類が歴史を刻む事に平等性が確保され人と人の輪が繋がりハーモニーが奏でられるというのが信じられていましたが、それはあくまで「思想的な信念」でしかなかった。平等とは信念により担保されるものであり、自然な実態としてはあり得ないものなのです。
かつては個人に階級はありませんでした。貴族が貴族なのは「家」が貴族だからです。貴族の家の人間を貴族と称するのであり、貴族という個人はいませんでした。
21世紀に足を踏み入れたわれわれは、家制度を叩き潰しました。王様も貴族もいない自由平等な世界に思えます。しかし、そこには新たな個人のヒエラルキーがあるだけです。家という体系により位階秩序を形成することはなくなったが、ひとりひとり解き放たれた個人は、自分と他人を比べつつ、階層を見いだします。21世紀を生きるわれわれには、見えないスカウターが眼窩に嵌め込まれており、その測定値の絶対的な秩序に従いお互いの存在了解を行い、自覚するとしまいと、似つかわしいクラスタに分かれていくのです。
そして個人のフリーダムな世界は、われわれを呪縛します。かつて「家」があった頃は、家により見合い結婚をさせられていました。21世紀によって与えられた自由は、「個人」として、おまえと結婚してくれる異性がいるものなら結婚してもいいよ、ということです。20世紀思想が渇望したフリーダムとはそういうことだったのです。フリーダムな他者の目線から惨殺される位相空間に囚われ、足の先から指の先まで、新たなる階級社会に縛られているのです。
冒頭で私が提示した命題に戻りましょう。「まとめいとさんとお友達になりたい」。この私の願望は、21世紀のフリーダムな思想空間では剔抉され唾棄され嘲笑され、土にまみれた私は白眼を剥いて21世紀の重力を感じながら、虚空を見上げるしかないのです。10万アクセスあるブログと、零細ブログではクラスが違うという単純な問題です。しかし、フリーダムな空間のルールが酷であるなら、その酷なルールに従ってやればいい。5万メートル飛ばさないとホームランにならないというルールなら、フルスイングで5万メートル飛ばせばいいのです。私も一日10万アクセスを達成したら、まとめいとさんにお友達になってくれるように頼もうと思います。アノミー的に投げ捨てられたフリーダムな世界でサバイブするにはそれしかないのです。
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個人の知見より、大衆の集合知が選択されたのが最近5年くらいの流れ

個人の知見。こういうワードを使えば失笑が漏れそうな昨今である。ひとりのブロガーが特別な見識を持っているという幻想からブログの歴史はスタートした。アルファブロガーと呼ばれる者達がブロゴスフィアでスター扱いされた時代もあった。しかし、そういう評論の至福の時期はせいぜい二年あったかどうか、という短さだった。2011年現在、そういう迷妄は誰も信じなくなっている。論客という意味でのアルファブロガーは表舞台から姿を消した。一個人の見解など誰も聞きたがらない。聞きたいのは「みんなの意見」だ。大衆による集合知である。俺はこの言葉をわりとニュートラルに使っているつもりである。大衆の集合知は悪くない。趣味の分野で素人が知恵を出しあって、それなりの見解に到達する。それは素晴らしいことであり、決してなじるようなものではない。一人の個人が特別な知見を持つという幻想を崩壊させたという点で、2ちゃんねるまとめブログの功績は大きい、という言い方をしてもよい。とはいえ、俺はかつて自己表現としてホームページを始め、論客ぶったスタイルが批判されつつも、(個人サイトの狭い世界で)一定の評価を得た。そういう(間違った)経験を持つだけに、一個人の綴る筆致の強度というのを否定したくはない。インターネットの世間の傾向として、大衆の集合知を求める方向に向かっているのは明らかなのだが、あえて両方とも試す実験体のようなブログを目指しているわけである。もちろんこのブログの主軸は「2ちゃんねるまとめブログ」である。評論めいたものは、時たま書かれる程度になる。詰まれていることを確認するために棋譜とにらめっこするような、あまりにも愚昧で頑迷な試みだが、失敗の実演をする馬鹿野郎が一人くらいいてもいいだろう。たとえば、まとめた内容に管理者の見解を加えないのが、まとめブログの基本的なスタイルだが、俺はまとめよりも長文になるくらいの見解を加えていくつもりである。

悲劇は需要ある。あまりやらないのは、登場人物死亡のため続編が作りづらいから

読者を感動させるには登場人物を死なせればよい。それは衝撃的であり胸が痛いものであるが、大きなカタルシスを生み出す。登場人物の死は、古典的であり王道でもあり、とても感動を呼びやすいフォーマットだ。しかし、最大の問題は、続編を作れないことだ。商業的に作品を出すからには、売れたら続編を作りたいと考えるだろう。続編で儲けることを夢見て、作品はリリースされる。だから悲劇は物語性として王道であっても、続編の難しさから作られない。まどかマギカについては地震により第十一話以降の放映が遠のいたので言及はしづらいが、たとえばKey作品が人気を博したのは、続編を作らないという覚悟性によるものだ。絶対に続編を出さなくてもいいという条件なら、硬質な悲劇の物語は描きうる。実際のところ、不幸な女の子を死なせればいい程度だから、そう難しくはない。Key作品や、まどかマギカにおいて繰り返される「少女の死」は、何百年も前のおとぎ話から存在しているテーマである。時代を超え普遍的な物語性なのである。少女の死の先に続編はないけれど、続きがない断絶性の痛みこそがわれわれの人生と通底していて、人を深く感動させるのである。

何にせよ、まどかマギカの成功を見て真似したいと思っている会社があるなら、Keyのようなブランドを目指してみるべきだ。Keyは「続編」は作らないけど、ブランドとして継続性があり、根強い信者を形成している。続編をダラダラやりたいというラノベ作家のような発想は捨てて、毎回新しい作品を書きながらも継続性が見られファンが付いてくるのが理想なのだ。まどかマギカも下手な続編を作るよりは、Keyのような方向性を目指して欲しいものである。もちろんまどかマギカはシャフト+虚淵玄という組み合わせだから難しいが、このコンビでブランド的なものを目指してみてはどうだろう。商標的なブランドという意味ではなく、視聴者から認識される仮想ブランドですね。シャフト+虚淵玄で似たような暗い作品を出し続けて、ひとつひとつは完結させながらも、連続性を感じさせる作品群になるような……。そんなことを勝手に考えてみたりするのです。

更新頻度が高いまとめブログが嫌われる理由

まとめブログは更新頻度が高いと嫌われます。
読者に嫌われるのではなく、相互先に嫌われるのです。
まとめブログがこれだけ隆盛を誇っている鍵は、ページの上部にあるヘッドラインです。
「相互RSS」と言われます。
相互にする必要はないが、相互にするのが普通なので、相互RSSと呼ばれるのです。

普通に考えてみてください。
たとえば俺のような糞ブログが更新しまくったらどうなるか。
相互先のRSSの一番上の方に俺のブログが表示される状態が続くでしょう。
相互先から見れば、
「この糞ブログつまらないのに、いつも上の方にいるな。切ろうか」
という発想になります。

なぜこのようなことが気になるかというと、相互RSSはアクセスを送り合うシステムだからです。
更新し過ぎる糞ブログがあれば、アクセスの送り込みの問題として、そこに偏りすぎます。
満遍なくあちこちにアクセスを送りたいのに、うちのような糞ブログがRSSの上部にいつもいるのなら迷惑でしょう。

まとめブログで小ネタをまとめて末尾に「他」と付けるのはそういう理由なんですよ。
多更新にならないようにネタをひとつのエントリーにまとめるわけです。

しかし、敢えて言いたい。
更新頻度が高いのは気にするなと。
更新しすぎて相互先から切られても、それはそれで仕方がありません。
それに、地道に少しずつ更新するのは飽きませんか?
相互先から切られても、多更新が可能なら、勢いよくエントリーをたくさんあげるべきなのです。
たくさん更新するのも自由。
それをウザイと思ってRSSから外すのも自由。
お互い自由だと思うのです。

成功者が模倣者に駆逐された、それが平野綾ちゃん

平野綾ちゃんが「冒険でしょでしょ?」で登場してきた時のインパクトは凄かった。声優であの容姿レベルはあり得なかった。敢えて直接的に書くと、あの当時の声優はブスの集まりだった。ブスだから声だけの仕事の声優を選ぶのだ。もちろん平野綾ちゃん以前にもアイドル声優はいたけど、それでも平野綾ちゃんは革命的だった。ハルヒの大ヒットとの合わせ技で、あまりにもセンセーショナルだった。
そしてそういう成功事例を見れば、他人が模倣する。成功者が一人いたら有象無象の模倣者が大挙してやってくる。これがブログだったら、最初にやったところが有利なんですよ。グーグルの仕組みとして一度大手になったら、まずは下がらない。「痛いニュース」を見て俺も真似しようと思っても抜けないんですよ。ブログは先に成功することで不動の地位を手にすることが出来る。(グーグルとは「人気」ではなく「信頼性」のランクなんです)。
アイドル声優という人気商売はグーグルのページランクとは対極です。新しくて可愛い方が売れていく。もはや平野綾ちゃんの容姿は、声優の中では平均的だと言っていい。「冒険でしょでしょ?」の時点では群を抜いて可愛かったが、今ではたいして可愛くないのです。声優の容姿レベルがこれだけ上がるトリガーとなったのは綾ちゃんの成功だが、綾ちゃんは模倣者にどんどん追い抜かれてる。これが人気商売の辛さである。グーグルのページランクと違って、人気はすぐに消えていく。アイドル志望の女の子が声優に流れてくるという単純な構図だが、先駆者の綾ちゃんが一番ダメージを喰らっているのは皮肉である。
綾ちゃんは人気がある時に固定ファンをがっちり掴めなかったという失点もあるでしょう。浮動票みたいな人気は、後から出てくる可愛い子のところに全部流れていきました。三嶋プロデューサーが面倒を見ている水樹奈々さんと田村ゆかりさんはがっちり固定ファンを掴んでいます。ファンを大切にしスタイルを確立すれば、若くて可愛い子にも負けないというのが三嶋プロデューサーの証明したことです。しかし平野綾ちゃんはプロデューサーに恵まれず、谷山紀章に影響されてブイブイ言わせている間に浮動票が若い子に逃げていった。そして現状の凄惨さについては説明するまでもありません。

平野綾ちゃんの「ブレーン」は恋人の谷山紀章(知能指数90くらい)なので

「平野綾」はネットで常にバズワードだ。平野平野とやかましい。しかし、そうやって毎回騒いでいるわりには、誰も物事の本質に近づいていない。普通はある事象に興味を持ち続ければ、知識の蓄積が生じ、本質に近づくための材料を得るのだが、それが出来ていない。これを馬鹿という一言で片付けるわけにはいかない。馬鹿というより視覚的なブラインドネスの問題だ。文化圏の違うところは見てないのでわからない。視野に入らないものは見えない。すごく具体的に言うと、女性声優に興味がある人は、男性声優に興味がない。女性声優と男性声優はかなり似たキータームであるように思えるが、実は、まったく異なる文化圏である。女性声優大好きな人間が男性声優詳しくないのは普通だ。だから、平野綾ちゃんという存在を考える場合に、「谷山紀章」という有名な男性声優の名前があまり出て来ないのである。女性声優と男性声優は、ヲタの趣味のアンテナ的に完全な別領域だから、女性声優全般が大好きなヲタでも「谷山紀章」のことは全然詳しくなかったりする。
ともかくその谷山紀章だ。馬鹿を振る舞っているが本当に馬鹿である。無教養で知能指数は90くらいと推定する。GRANRODEOというユニットを組んでいて、相方のギタリストのおかげで結構売れている。平野綾ちゃんが谷山紀章と付き合っているのは、このGRANRODEOに惹かれたからなのである。問題なのは、平野綾ちゃんにはブレーンがいないことだ。水樹奈々さんと田村ゆかりさんには三嶋章夫という極めて優秀なブレーンがついている。音楽のプロデュースだけでなく、「リリカルなのは」を作ったのも三嶋章夫だ。平野綾ちゃんにはそういう存在がいない。ブレーンがいない。どうなるか。「男」の影響を受けるわけである。綾ちゃんの言動が、売れないロッカーのようであるのは、谷山紀章の本質がそうだからである。谷山紀章はたまたま相方のおかげで売れてるけど、本人の本質は売れないロッカーである。たちが悪いのは、ここまで述べたように、相方のギタリストの才能で谷山紀章のGRANRODEOが売れていることだ。だから「あれは悪い見本ですよ」と綾ちゃんに言うことが出来ない。「だってGRANRODEO売れてるじゃん」ということなのだ。
結論に入るが、<平野綾>という存在をヲタであれば誰でも「冒険でしょでしょ」の頃から知ってるし、だからそこからの不思議な奇形的な変化も知っている。(緻密に語るなら、事務所の介入の話もしなければならない。タレント活動への転身は事務所の強要である。音楽活動で成果が上がらないから、その部門を切り捨てたのが正解である)。綾ちゃんに責任があるとすれば、ハルヒ・こなたという役に恵まれて人気絶頂に見えながらも、音楽的な成功を収めることが出来なかったことだ。ヲタが求める理想的な声優として機能してなかったのが原因である。これは「男の影響」という素朴なものなのである。女が男の影響を受けて変わっていくなんて、よくある光景だとは思うのだが、ヲタがリアルに目にすることは少ないのかもしれない。もし綾ちゃんに三嶋章夫のようなブレーンが付いていたら、現在の存在はまったく違っていたものだっただろう。そう考えると残念でならない。

震災後、はじめて責任感のある人物(東京消防庁の隊長)を見て号泣した

アニメブログを四年間やって零細のままなので2ちゃんねるまとめブログの大海へと舵を取ろうとしているところだが、しばらくは今まで書いていたような批評系の文章も入れておこう。僅かな読者はいたのだから、非常に微量な需要はあるかもしれないからだ。
震災により国難の時だから、それに関して書こう。古典的な右とか左とか、そういう単純な問題ではない。箍が外れた左翼の最終進化形態であるリベラリストが政権を奪取したのだから、これまで日本の歴史において脈々と構築してきた意味が霧散するということだ。かつての価値観は一つ残らず惨殺され死屍累々だ。血肉化していたはずの世界観、人生観、死生観もすべてが浮遊し、子孫を残さなくてもいいと大勢の人が思いながらリベラルな世界の目抜き通りを歩く。好むと好むまいと関わらず、新しいフリーダムな時間と空間に生成された大地にわれわれは立っている。俺はそれに対して普通に諦めていたのだが、未曾有の大震災という出来事により、いやおうなしに、俺は、いや、あなた方も問題に直面させられているのだ。
東日本大震災が発生してからわかったのは、このリベラルな国では誰も責任感を持ってないということだった。偉い人、威張っている人はいるけれど、責任感を持っている人はいない。偉ぶりたい人間や、威張りたい人間は掃いて捨てるほどいる。本当に立派なリーダーには責任感がなくてはならない。今回の震災は、単なる災害や電力の問題だけではない。物理的に破壊されただけでなく、リーダーシップを取るべき立場の人間の責任感の無さという、この国のリベラルでフリーダムでアノミー的な状況も露呈された。
われわれは差異を敏感に感じる能力がある。犬や猫の顔の区別が付かなくても、人間の顔の美醜なら微細なところまで検知する能力がある。社会のヒエラルキーも、そういう差異への敏感な感覚から作られる。小さい頃から、そういう差異の学習は成されていく。身長が五センチ違えば、強さは相当に違う。実際は似たようなものかもしれないが、それでも明確に違うのは、われわれの本能の仕組みとして差異を鋭敏に感じるからだ。そういう鋭敏な感性から、われわれはヒエラルキーを形成するから、どこにでもボスやリーダーやお山の大将はいるのだ。リベラリストでも、権力の亡者なのだ。
絶望的なのは、国家的な危機が生じた時も、くだらないリーダーしかいないことだ。差異の戯れでたまたま上に浮かび上がった大将の情けなさに、絶望以外のどんな感情が抱けるだろう。国家的なレベルでも誰も責任を取ろうとしないアノミー的状況では、国家の滅亡を願うくらいの方がよい。そういう中で、東京消防庁の勇敢な活動や、姿勢には深い感銘を受けた。そこには、この国の偉い人達が誰も持っていない責任感があった。価値が崩壊した国では責任感など死語なのかもしれないが、古臭い感傷的な感情を呼び起こされて、軽く30分は号泣せざるを得なかった。リベラルでフリーダムな世の中になる前は、ああいう男達がたくさんいたはずなのだ。

冒険活劇なのに男性主人公が傍観者の「フラクタル」

このブログは、アニメ批評ブログから2ちゃんねるまとめブログへと大きく方向性を変更している最中だが、多少はレビュー的なものも書いておこう。突如のスタイル変更で微かな命脈が途絶え突然死を迎えるのを避けるため、過去のスタイルで少しずつ延命しながら、知らず知らず完全に新しく切り替わっていく流れにしたい。私は軍人としてブログをやっているから、昔の名前がひとつも効果を発揮しないこの現在の地形や、今までに負いすぎた戦傷の履歴、自軍の戦力・物資の乏しさなどを勘案し、このような微妙なスタイルを選択することになった。すべては苦肉の策で行っていることだから、弥縫策の縫い合わせで美しい絵面が出来上がる見込みはない。まだまだ星の巡りが悪いので、ここはゆるやかにやっていきたい。まっさらな戦場で、世界を塗り替えるようにして持ち弾をすべて乱射するには、あまりにも火力が足りない。

とりあえず「フラクタル」を批判しようと思う。「フラクタル」は第九話まで進んだが、ネットで全然盛り上がってないし、完全な失敗作だと思われる。主人公の立ち位置の決定的な失敗について話そう。立ち位置とは物語で与えられる設定であり、そして性格である。設定+性格が立ち位置を形成する。「フラクタル」の男性主人公は明らかにヘタレの傍観者である。物語に主体的に参画し事態を切り開いていくタイプではない。では、傍観者として機能しているか、というと機能していない。記憶喪失とか、フラクタルの世界に迷い込んだという設定なら、説明を聞く役割が出来るのだが、この主人公はそのあたりも中途半端である。悪い意味で傍観しているだけで第九話まで来たし、全11話なのだから、残り二話も同じ具合だろう。「フラクタル」は「東のエデン」をライバルにして作った作品らしいのだが、それこそ「東のエデン」の主人公みたいだったら、少しは楽しめた。「フラクタル」は、冒険的でない性格の主人公が冒険活劇をやるという、余りにも腑抜けた作品になってしまった。キャラクターの立ち位置がずれているから、どこまでいっても面白くならないし、視聴者は脱落を続ける。たとえば「ラピュタ」の主人公が傍観者だったら、「ラピュタ」はつまらない。そういうことなのだ。

「フラクタル」のヒロインの悲劇性についても述べておこう。ヒロイン達は、このシステムのために犠牲にならなくてはならないようで、まるで「まどかマギカ」みたいである。だが、まどかマギカが徹頭徹尾悲劇として描かれているのに対して、「フラクタル」はゆるいハーレムみたいなのを展開してしまった。残りの二話で急場凌ぎのようにエンディングまで繋げるのだろうけど、たぶん打ち切り漫画の最後でピンチが作られるみたいな感じだろう。冒険活劇として中途半端、悲劇として中途半端、SFとして中途半端、あらゆる角度から見て失敗作だと断定していい。

たとえば「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」という作品は酷評され、「やらおん!」(当時は「今日もやられやく」)から死ぬほど叩かれた。あれだけバッシングされたら100万回は死ねる。しかし「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は日常パートは楽しく見ることが出来る。「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は設定の後出しで話を進めて、その後出しがたいしたことなかったというストーリーの失敗だった。後出し設定の話作りで知られるシナリオライター吉野弘幸の負の側面が出た。「フラクタル」と「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の違いは、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は前半部で興味を惹いたのに対して、「フラクタル」は最初から設定がぼんやりしていたことだ。これは主人公の立ち位置の問題として前述した。だから「フラクタル」は批判もされないんですよ。ぼんやりしたストーリー進行だから、あくびが出るだけ。

「にゃんてな!」に登録しました

まとめブログであれば、半年で一万アクセスは誰でも達成できる、と言ったわけです。
だから、2011年9月までに、そういう状態にしようと実験してます。
まったくアクセスが伸びずに終わってしまうという悲劇もありますが、やれるだけのことはやっておきます。

まずは、アンテナへの登録ですよね。

にゃんてな! / まとめブログアンテナ
nyantenaaa.jpg

登録したわけです。

ここは逆アクセスに応じてアンテナに表示して貰えるそうです。
にゃんてなでは前日の逆アクセスに応じて記事の露出度を調整しています。これらは全てシステムにより自動化されています。
にゃんてなでは、この仕組みをシリンダ機能と呼んでいます。ブログごとのトラフィックに応じた入れ物(シリンダ)を用意する仕組みです。シリンダが大きくなればなるほどにゃんてなとあなたのブログの間で扱えるトラフィックは増大します。

現在零細のうちがここに登録する意味ないんじゃ、という懸念が生じてきましたが、トライ&エラーです。

まとめブログで一日一万アクセスは簡単ですよ

まとめブログで一日一万アクセスを目指すと書いたら馬鹿にされたので書いておく。実態として、まとめブログで一日1万アクセスはさして難しくない。誰でも出来ることだ、と言っておこう。まとめブログのアクセスを普通のブログに換算するなら10分の1にするくらいでいい。もしくは100分の1くらいが妥当かもしれない。個人が文章を書くとして、それが血で書かれたような読み応えある文章だとしても、一日一万とか十万とか安定して集めるのはかなり困難である。個人の文章はもはや価値を持たない時代だ。まとめとして編集された大衆の集合知だけが持て囃される。大衆の寄せ集めた集合知に抗うように、個性の強い個を押し出したまさに個人としての個人ブログを書いて一日一万集めるのは至難の業であり、同じ基準でまとめブログと比較されるなら、車に乗ってる奴から足の遅さを揶揄されている違和感があるのだ。まとめブログであれば、画像とか貼っておけば、それに大衆が吸い寄せられてくるが、個人として個人の文章を血で綴るような場合、どこの誰が一日一万とか十万とか達成出来るのだろう。大衆的向けの情報として価値のない個人的なテキストの読み手を探すのはとても困難だ。
文化圏の問題についても触れておかなければならない。まとめブログは文化圏として最大のものである。ネットの歴史上かつてないほど最大規模の文化圏だ。まとめブログの大海に身を投げて埋もれて玉砕し塵芥になることもあるが、うまく波に乗り相互リンク・相互RSSで大きく展開出来れば、万単位の大衆的アクセスを獲得することが出来る。競争相手とは邪魔な存在である一方、相互リンク・相互RSSの潜在的味方なのだ。テキストはこういうのが無理である。かつてテキストサイト文化というのがあった頃は、お互いのまずい文章を読み合うような関係も作れたが、今では廃坑の中の坑夫として放浪しなければならない。捨てられた領域に逗留し個としての文章を書き続けていても、横の繋がりで輪が広がることはない。人語を解する人に出会うことさえ難しい。テキストにせよ、作品にせよ、それを作るのは一個人の自由だが、伝播の問題に関して言えば、基底となる文化圏が必要である。個人としてのテキストが誰にも届かず、大衆的なまとめサイトが大人気という現状に耐え難い思いをしているからこそ、まとめブログの文化圏に版図を広げてみせ、個人のテキストの書き手だってこれくらいは出来ると証明したいのである。そして一日1万アクセス集めたら、まとめブログのアクセスがいかに無価値かを毎日書き続けるのだ。このブログを、そういうプロパガンダを行う装置の基盤にするつもりだから、ひとまず自分が実行してみせて達成してから、まとめブログを読むような大衆を啓蒙しようという算段である。アクセスに対する価値観や解釈に楔を入れるために、実践と実証によるアプローチをしているのである。半年後に俺がアクセスの少なさに血涙を流し白眼を剥いて横たわっていたら、まとめブログで一万アクセスというのは誰にでも出来ることではないスペシャルなことだと不承不承認めてやろう。
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