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フィクションでも登場人物は我慢する

フィクションは無制約なのか?
無制約の意味にもよるが、登場人物が「これはフィクションだから自由にやっていいんだ」となることはない。(実験的なメタフィクションならあり得るが、普通の作品では無い)。

フィクションだから我慢無しに適当にやるなんてことはない。
あんまり我慢しないですぐに喧嘩するキャラとかも結構いますが、それはそれでリアルと似たようなものでしょう。
ともかく、フィクションの基本は(リアルと同程度の)我慢である。
登場人物が(リアルと同水準で)我慢するのが大前提。

でもリアルとフィクションでは「解決」の格差がある。リアルだと何か問題があっても、それが解決されないまま生きているのが普通である。でもフィクションだと、最後に解決する。
(必ずしもハッピーエンドでなくても、主人公らしい「解決」の仕方をするわけです。リアルの私たちが問題を解決しないまま生きているのとは違う)。

あるいは、我慢というのはポジションの問題なのである。
イヤな出来事は誰にも平等に訪れる事故ではなくて、ポジションゆえの問題。
現実の人生だと、ポジション(人間関係)における我慢は覆せることが少ないので、我慢は単なる我慢となる。
でもフィクションだと、ひとまず我慢してもその後の展開で「見返す」とか「やり返す」ということになる。

現実だと「見返す」とか「やり返す」のが困難なことが多いので、ルサンチマンが人間存在の本質なのである。「見返す」とか「やり返す」のは、ルールに則って行うことが必要なのだが、普通は不可能になっている。ルールの実質を端的に言えば、立場が逆転すれば反撃してもいいということだ。普通はそんなことは起こらない。
卑俗な例えで言うと、背が低いのを馬鹿にされたことに対抗して背を伸ばすとか。ブサイクなのを馬鹿にされたことに対抗して美形になるとか。そういうのは出来ないわけだ。学歴を馬鹿にされたから東大に入ることにした、、とか現実には難しいわけだ。

まあフィクションでも単に我慢するだけの人を描いてもいいわけである。
(リアルっぽい話にしたいなら、不可能性を描いてもいい)。
でも多くの場合、フィクションで我慢が描かれたら、(その後の方で)見返すとかやり返す展開になる。
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