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悪人に説得が通じないのが基本的な大前提

悪人というのは「説得不可能な存在」として現れる。現実でもそうだ。たとえば卑近な例で言えば、いじめは、「説得は不可能」だという前提で話が進む。「いじめをやめろ」と言っても絶対にやめないという前提で考る。

この場合の説得不能というのは、特別に異常な悪人限定の問題ではない。異常者とか刑務所常連でもなく、普通の中学生のワルという程度でも、説得不能なのだ。

このあたりは人間関係が構造的に持つアポリアである。いじめっ子が別にスーパーパワーを持つ集団というわけでもないのに、力のシステムの問題として「説得」が不可能になっている。この世界は力のシステムで動いているから、少し腕力が強いという程度でも強者は強者。スーパーマンと同じ。相対的な強者を無敵な存在として扱うのが力の原理。(力解釈における、小さな差の絶対化の問題)。

何が何でもいじめを止めないというのが基本なのだ。異常者として収容されたりはしない。(だからいじめの被害者が転校したりする必要がある)。頑としていじめを止めないのが正常とされているから。

注意というのは「注意する関係」の問題だ。教師が生徒に注意するなら、普段からそういう「注意する関係」があるかどうかである。問題が発生して始めて注意するというのは実は困難。

だったら「注意する関係」を継続的に作ればいいのか、というと、これはこれで問題がある。そういう関係を維持するために、何もない時から怒鳴り散らしたりすることもあるだろう。ある種のパワハラ的な問題。結局道徳とは人間関係依存だから、普段から怒り続けるか、どんな時でも怒れないか、、になる。

逆に言うと、人間が道徳を拒否し悪人として振る舞いギャング的に行動するのは、道徳的人間関係から離脱し主体性を回復する試みだとも言える。道徳的であるというのは、他人から指図されることでもあるのだ。悪人が説得に応じないのは、この種の指図の無効化ということである。「悪人」は健全な主体性を持っており、「いい子」は主体性がないという言い方も出来る。

さて、話を戻す。説得で悪事を止めさせると、(漫画とかで)物語にはなりにくい。悪人を説得して「わかった。やめよう」と言われても困る。悪人をぶち倒すのが漫画の基本だから。

ただし、その「悪人」が仲間になる展開だと、自ら謝るという構図にすることもある。そいつが自主的に謝ることで、実は悪人ではないということにする。

「自ら謝る」というのは、物語の中で、実は結構使える気がする。一端悪人として登場してから、自主的に反省するというのは、(前述したように)味方になるプロセスで多用されている。
たとえば「ぱにぽにダッシュ!」の第一話で橘玲がベッキーを殴った後に、自主的に謝るつかみとか。
「ぱにぽにダッシュ!」は女子の人間関係が男子的なので、あずまんが系の作品の中では、ちょっと違和感があるんだけどね。この系統の作品は、フラットな人間関係が多いから。
(グループを形成するときに、命令するボスがいるかいないかの問題。「ぱにぽにダッシュ!」は命令的関係だから、この種の作品としては、少し違和感がある。ただしベッキーは好きだけど)。
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