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醜いライバル関係は描かれない

最近桐野夏生の「グロテスク」を読んだんですが、この作品は人間の醜さについて書いてます。
特に前半部は、我々の人生で思い当たるレベルの見栄とか高望みの問題などが描かれます。
(後半は少し暴走しすぎで非現実的だと私は感じましたが、でも後半部を評価する人も多いようです)。

「グロテスク」はかなり独特な作品だと言われたりするけど、そんなに特殊な作品なのか?
筆力とか力量の問題は別として、テーマの選択問題として言えば、「誰も思いつかないこと」をやったわけではない。

どうして「グロテスク」が独特な話として扱われるかというと、多くのフィクションでは、物語として面白くないことは書かないからです。現実にはよくあることでも、読んでいて不愉快になる話はフィクションのテーマにならない。(「グロテスク」はあえてそういうのをテーマにして評価されました)。

エゴの側面とピュアな側面が人間にあるとします。漫画とかで人間のエゴが描かれたら、それはピュアな側面によって一掃されるのです。エゴがピュアによって退治される。ありがちなエゴを延々と書くのって、普通はないですからね。嫌なことばかり続けて書くのは簡単なのだろうけど、普通は面白くならない。

たとえば人間の対抗意識みたいなものを考えましょう。我々の友人関係って、お互いの幸せを喜ばないようなのが多いと思うのです。でもそういう友人関係は、あんまりフィクションには出てきません。
そういう類の友人関係を描いて、誰が読みたがるのか?
(余談として言えば、現実においてよい友人関係とはあまり張り合わない関係ではないかと。ライバル意識は基本的に醜いと思います)。

漫画でライバルというと、ほとんどは主人公に承認を与える人物です。
優れたライバルが主人公を認めてくれるわけです。
(優れた人間からライバル視されることで、主人公の価値を示すわけです)。

対抗意識を持つライバルもあるけど、漫画だとそれで足を引っ張り合うことはないですからね。「スラムダンク」で桜木と流川の仲が悪くても、お互いの足の引っ張り合いを「グロテスク」風に描くことはないわけです。

フィクションで母親のエゴが描かれないのも同じ理由です。漫画やアニメの母親はみんな「無償の愛」の象徴ですよね。母親のエゴは描かれない。やはり母親のエゴを描いても、物語として全然面白くないからでしょう。

だから母親のエゴは描かれない。
こう書くと、「魔法少女リリカルなのは」のフェイトの事例とかで反論されるかもしれません。フェイトは母親から虐待されてるじゃん、とか。確かにああいうパターンなら、たくさんあるのです。母子葛藤はフィクションで極端に避けられていますが、「虐待」はテンプレとしてあります。「リリカルなのは」のフェイトは母親から虐待されているからいいのです。つまりあそこまで行くと、もはや母親との関係云々を超えてしまっているから。そういうのはいいわけですよ。幼児期に実験されて虐待されていたというテンプレキャラが多いのはそういうことです。
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