Headline


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このエントリーをはてなブックマークに追加

ヒロインはヲタクに割り当てられた恋人ではない

http://d.hatena.ne.jp/YUYUKOALA/20080728/Oshii_Interview

この押井守の今回の発言の細かい部分への批判というわけでもないのだけど。
アニメの監督がヲタ批判する事例がよく見られるので、ある程度ステレオタイプな意見と受け取って、批判してみようと思う。

庵野秀明とか富野由悠季にも言えるが、彼らは物語作家なので、物事を内面の問題としてとらえる。
「不細工だからモテない」という即物的な発想はしない。外的な問題を内面の問題として了解するのは、ある程度人間の基本なのだが、物語作家なら、なおさらそうなのである。

ヲタクというのは端的に言えば容姿の魅力が欠落した存在である。それを内面の問題とするのは、ある種のバッシングの場合もあるし、押井・庵野・富野のように、物語作家的な発想であることもある。

富野は人間を内面からとらえるからアムロ・レイを造形出来たし、庵野も人間を内面からとらえるから碇シンジを造形した。

たとえば碇シンジを冷静に見た場合、背が低くて運動できない中学生ならあんなもの。低身長・運動音痴の典型キャラ。低身長・運動音痴で外向的・活発な性格なら、その方が変。
万が一碇シンジの身長が急に伸びて180センチくらいになったら、あの作品は成り立たない。実際に中学生だといきなり身長伸びることあるが、それがあったらエヴァンゲリオンは成り立たない。碇シンジの身長が180センチだったらかなり不自然だから。

ともかく、それでも内面の問題としてとらえることが「物語」。我々は現実でも人間をそのようにとらえる。身長が低ければ弱虫だし、容姿が悪ければ恋愛が出来ない人格的欠陥。

これは良い悪いを超えた問題。外的なスペックを内面の問題としてとらえるのは、ある程度人間の基本だから。物語作家であればなおさらそういう思考法になる。

さて、さらに述べる。
ヲタ作品のヒロインの問題。
ヒロインがヲタにあてがわれた恋人であるというような見方があるが、これは正しい部分と間違った部分が。。。
言うなれば、誰も手に入らないアイドルのような存在なのである。ヲタ作品のヒロインは原則として主人公と恋愛しないし、男が近寄りがたい存在。古典的なアイドル性を持った存在である。

つまり、恋人としてあてがわれているというのは明らかな誤り。誰のものにもならない存在。手の届かない対象として位置づけられる。要はアイドル幻想ということ。綺麗なダッチワイフを配っているみたいに言うのは誤り。

庵野とかのヲタ批判はアイドルに触れるなという部分もあると思う。
アイドルをダッチワイフみたいに消費するなという、至極当然な要求をしているのだ。
ヲタがヲタを批判するのはアイドルファン同士の牽制。
つまりヲタアニメ監督がヲタを批判するのは、アニメ絵のアイドル産業の一環だと思う。
自分たちが売っているアイドル商品の管理の一環。
このエントリーをはてなブックマークに追加

トラックバック

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

[監督][ヲタ][批判]アニメにおけるヒロインの死と配られるダッチワイフ。

http://tsukurimono.blog70.fc2.com/blog-entry-381.html ヲタ作品のヒロインが、ある種のアイドルであって、監督によるヲタ批判はアイドルに触れるなという、アイドル商品の管理の一環という解釈は面白いと思った。 富野作品においてララァはどうだか分からないけど、確か
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
アクセスランキング