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「現実の自分は仮の姿」という二重性がフィクションを生み出す

この世界に存在している自分は、とりあえず割り当てられた役割にしか過ぎない。
「本当の自分は別だ」という考え方があり得ると思います。

そしてフィクションは、現実を仮のものと見なす発想から生まれるのです。
今の自分は非本来的で、どこかに本来的な自分がいる、という人間的願望がフィクションを生み出します。

フィクションの物語は、多かれ少なかれ自己愛の問題があると言っていいでしょう。
まあ自己愛の定義にもよるけど、「ドラゴンボール」みたいな素朴なヒーロー願望も、ある種の自己愛かもしれません。

現実において、我々は「主人公」ではありません。主人公として世界に関わるという在り方は原則的に認められていない。主人公と世界の関係ということ自体が自己愛なのです。主人公中心に物語が動いていくというフィクションの構造自体が自己愛。
「ドラゴンボール」の素朴な自己愛がひねくれて受難者的になると「コードギアス」化する。

「コードギアス」では、非本来的な自分から本来的な自分への回帰というテーマが繰り返されます。
本当は王子様だったのに王国から追放されているという設定からしてそうですが、ルルーシュは常に非本来的な仮の姿なのです。非本来的に存在させられた受難者としての物語。
「ドラゴンボール」みたいな単純なヒーロー願望の作品と比べて、どっちがいい悪いではないですけどね。

「コードギアス」で、ルルーシュがゼロとして仮面をかぶるのは、主人公として世界と対峙するヒーロー願望。それでいて承認はされないという受難的な構図です。素顔では認められない。
(ルルーシュの素顔を認めようとしたシャーリーは殺されてしまう)。

「コードギアス」はかなり古典的な物語だと思うのです。
昔の童話とかは、非本来性から本来性への回帰というのがたくさんありますからね。古典的な作品は不幸への慰謝という側面を持っていると思うのです。そういう作品だと、現在の自分は仮の姿だという願望を背景にした構造になります。

自己愛は人間の本質なのです。「現実の自分は仮の姿で、本当の自分は別」みたいな意識は人間の本質です。もちろんそういう意識は現実では裁断されます。そして、その切り捨てられた部分を受け入れるためにフィクションは存在しています。
ちなみに言えば宗教もそうですね。
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