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フレイヤでの数千万人死亡が軽いのは「その他大勢」だから

「コードギアス R2」ではフレイヤで大勢の人が死にます。
たぶん数千万人死んだのに、妙に軽いですね。
この軽さの理由のひとつとして、詳細な描写を避けたというのがあるでしょう。
人が次々死ぬのをグロく描いたら抗議がたくさん来るかもしれない。

ただ、それを抜きにしても、アニメの根本的な問題として、人がたくさん死ぬと意外と軽いかなという気もするのです。「顔無しキャラ」がたくさん死ぬのは、物語的に扱いが軽い。

要は「アニメ的現実」の問題。
アニメ的現実では、顔有りキャラクターの命の重さが凄いのです。これはアニメのキャラクターが、作品内で何らかのシンボルとして配置されていることと関係します。基本的に主人公視点でキャラが配置され、そこから重み付けしていきます。どっかで顔無しキャラが大勢死んでも、それは(物語の重み付けとして)軽い問題です。

現実だと逆です。航空機事故とかだと一度にたくさん死ぬから、自動車事故より扱いが大きくなる。殺人事件でも、大量殺人はかなり扱いが大きくなります。殺される側からすれば、自分一人だけ殺されるのも、大量殺人で殺されるのも同じなのだけど。

でも戦争でたくさん死んだら、「その他大勢」になるのかも?
百万人とか一千万人の単位で死ぬと「その他大勢」っぽくなるのかもしれないです。

要するに「死」というものが「かけがえのない存在」を喪失することとして描かれるのかどうかの問題。物語的に顔有りの存在として描かれるかどうかなのです。アニメで大量死があると、顔無しキャラがたくさん死ぬだけで数字だけの問題になることも。現実の戦争でも、扱い方によっては数字だけの問題的になってしまうこともあるかも。

人が死んだ時の報道で、被害者の「人生」を掘り下げるように書くのは、顔有りキャラとして扱うということだと思うんです。プライバシー侵害という負の側面はあるにせよ。人生を掘り下げないと、顔無しキャラが死んだ扱いになるから。一人だけ死んだ場合の交通事故が(航空機事故などに比べて)軽く感じるのは、被害者の人生を掘り下げる報道が少ないからかもしれません。

ともかく、命というよりは、「人生という物語」を奪い取る文脈と言えばいいのかな。人が殺された時の報道で「夢を奪われた」みたいな書き方するのは、物語的技法なのです。単なる生命活動の停止ではなく、人生の未来が奪われた(物語の途中で登場人物が死んだ)ということなんです。
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