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原始的生存競争というイニシエーション

私たちの社会は(普通の動物のような)生存競争を必要としていない、はずである。

もちろん社会的な競争はする。
だがそれは、nerdとかgeekと呼ばれがちな技術的頭脳の競争だ。
純然たるマッチョは必要ない。
私たちの社会は高度に知性化されていくので、本来はすべてがnerd(geek)になるべきなのである。

とはいえ、動物の原始的本能が私たちの根底にある。
人間の普通の感覚としてnerd(geek)は変である。
運動能力を捨て去り、知性を選び取ったのが人間なのだが、でもやっぱり運動できて容姿がいい方がいい。
頭脳の実用性を最も重んじる形で現在の社会は成り立っているが、本能的に今ひとつしっくりこない。

そもそも頭脳が重要視されるようになったのは、産業革命以降である。産業革命の要因のひとつとして、技術的知性の重用というのがあったはずである、たぶん。頭脳最優先で社会を高度化させるという流れになったのは、(人類の歴史の中で)ほんのつい最近だとも言える。

ともかく頭脳中心なのが今の社会。とはいえ、あんまり据わりがよくない。だから原始的本能として、私たちはマッチョ的な生存競争をやることもある。技術的頭脳による高度化を目指す近年の社会には似つかわしくないのだが、原始的な本能の方がしっくりくるのだ。

漫画でも小説でも、原始的な生存競争を描くためのものかもしれない。

あるいは誰でも通う中学校という場所は、原始的生存競争をやらせるための収容所かもしれない。多くの人が中学校の三年間を特別なものとして扱うのは、そのあたりが原因だろう。人が中学時代を回想する場合、「素晴らしい学校生活だった」というのではなく、多くは原始的生存競争の回想になるのだ。そしてそういう肉体的なものが物語になりやすいのである。
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