Headline


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このエントリーをはてなブックマークに追加

久々に「カラマーゾフの兄弟」を読んだ



光文社文庫から出ている亀山郁夫の「カラマーゾフの兄弟」の訳文が読みやすいと評判になっていることは知っていた。そもそも第一巻の初版は2006年9月だから、二年以上前である。

2008年秋の段階で累計100万部を越えているそうである。

以前新潮文庫版を読んでいたので、わざわざ読むことないかと思っていたのだが、再読してみることにした。かなりの分量だから、大変ではあった。とはいえ、評判通り読みやすいので、長いわりには短時間で読めた気がする。

さて。この作品のテーマ性などに関して。

放蕩ロシア人を描きつつ、そこに人間性を見いだしていこうという感じだろうか。前回読んだ時もそうだったのだが、今ひとつ私にはピンと来ない部分も。

父親のフョードルは単なる放蕩親父であるわけだ。
この父フョードルが息子たちにとって疎ましいのは間違いなく、迷惑な存在なのだが、あまり権力的な圧力を感じない。カラマーゾフは抑圧的な父権を巡る物語ではない。飲んだくれで粗暴な放蕩親父なわけである。どうも、この部分が私の琴線には引っ掛からない。

このオッサンはあまりにふざけ過ぎていて、父性の抑圧を感じないのだ。
たとえば「巨人の星」の星一徹が、息子に野球を強要しないで酒と女に狂っているだけだったら……。
「カラマーゾフの兄弟」は父親の抑圧性があまり前面に出てこないので、私としてはあまりピンと来ない。
(道徳的に抑圧してくるのが父だと思うので。フョードルはそれと少し違う)。

このあたりがこの作品の特徴なのだろう。
欲とか金とか女とか。
放蕩を描くことで人間を描く。
ロシア人の剥き出しの生き方みたいな部分に人間性の根幹を見るような、そんな感じかと思う。



あと、この作品の名目上の主人公のアレクセイは、見事に空気なのである。
「カラマーゾフの兄弟」は文学なので、これは作品の欠陥ではない。

仮にアレクセイの正義の行動で問題を次々と解決していくとなると、全然別の作品になってしまう。
アレクセイが狂言回しにすらなっておらず、単なる傍観者であるのは間抜けにも思えるのだが、これはこれでいいのだろう。問題が解決されないから文学なのだ。

通常のエンターテイメントは、

問題の発生→問題の解決

となっているが、そうでないものが多数あるのが文学。
文学とは共鳴装置なのだ。
エンターテイメント的な意味でのプロットは動かず、内面が蠢き続けるのが文学である。その蠢きに共鳴できるか、なのだ。(だから時として、全然共鳴できない場合もある)。

またアレクセイが空気的存在なのは、欲まみれの登場人物の中で人類愛を体現するためだとも言える。アレクセイが物語に深く関与しないのは、彼だけは綺麗な存在にしておくため。
ここはドストエフスキーの欺瞞だろう。

悪への強い衝動と人類愛の葛藤をドストエフスキーは抱えていて、それが作品に現れているとも言える。

ドストエフスキーのこういう二面性に関してはフロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」という論文がわかりやすい。少し引用してみる。(訳文は高橋義孝と池田紘一)。

あれやこれやの罪を犯し、そのあとで、後悔の念に駆られながら高い倫理的要求を掲げるにいたったような人間は、あまりにも安易な道を歩んだという非難を免れることは出来ない。そういう人間は倫理性の本質的部分、つまり断念というものを遂行出来なかったのである。それというのも、倫理的な生活を送る必要は、人類が生きながらえていくための実生活上の利害に根ざしているからである。上に述べたような人類のやり口は、民族大移動時代の野蛮人を思わせる。すなわち当時の野蛮人たちは、人を殺し、そうしてのちそれを懺悔したわけであるが、それもそうやって懺悔すれば再び殺人をすることが出来るというからのことに過ぎず、この場合、懺悔は、ほかならぬ殺人を可能にするためのひとつの手段だったのである。


またフロイトは次のような指摘もする。

ドストエフスキーはその作品の素材として、乱暴者、殺人者、我利我利亡者などを、特に好んで取り上げており、これが、彼自身の内部にも同じような傾向がひそんでいることを察知させるのである。それからまた、彼の生涯にみられるいくつかの事実、たとえば彼の賭博癖があげられるし、あるいはまた、未成年の少女を強姦したというあの事件(この事件については彼自身の告白がある)も、おそらくこの疑問に対する答となるであろう。この矛盾は、彼自身をたやすく犯罪者にしかねなかった極めて強い破壊欲動も、実生活においては、主として彼自身の人格にたいして(すなわち外に向けられるかわりに内に)向けられ、その結果マゾヒズムおよび罪の意識となって発現したことを見ればおのずから解消する。


主人公のアレクセイが物語から浮き上がったようにピュアなのはこういうことかと。
「カラマーゾフの兄弟」の最後のエピローグの美しさは、こういう欺瞞なのかもしれない。
このエントリーをはてなブックマークに追加
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
アクセスランキング