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久々に「人間失格」を読んだ




自意識批判とか自己愛批判は、本当はやりたくないのだ。
昔セカイ系というアホな言葉を考えた奴がいて、私の好きな「イリヤの空」とか「最終兵器彼女」を矮小化してくれたので……。いや、セカイ系という言葉が悪いのではなく、自意識の過剰とか自己愛の肥大とか、そういうレベルで何かを分析したつもりになる批評家気取りが悪いのだ。セカイ系という言葉から生まれたのは、「この作品はオナニー」という低次元の批評でしかなかった。

セカイ系という言葉自体は、作品の構造を語る概念として興味深かったのかもしれない。
だが言葉を広めた奴らが「この作品はオナニー。自意識過剰。自己愛肥大」的なことしか言えないから、とても迷惑なことになった。

私はそういう観点から作品を批評したくないのだ。

だが、「人間失格」を久々に読んでみたら、さすがに自己愛批判的なものをせざるを得なくなった。
なぜなら、この作品はそのために書かれたモノだからだ。

文学者は不幸でなければならないという固定観念の虜囚。血痰吐きながら書かないと文学ではない、みたいな妙な感性の共有。「人間失格」はその象徴的な事例。

集団的自意識というと変な言い方になるけれど。
必ずしも太宰個人の問題ではなく。「文学」の問題として。
不遇でないと文学は出来ない、という固定観念。受難者でないと文学は出来ない、という固定観念。文学者は殉教者でなければならないという固定観念。

三島由紀夫は太宰のことを嫌っていた。三島が無名の頃に太宰に会って「私はあなたの作品が嫌いなんです」と言ったエピソードもある。そして三島が有名になった後にも「太宰治の悩みは乾布摩擦で治る」ということを書いた。
しかしそういう三島も、成功の絶頂の中で割腹自殺である。たぶん三島の場合、自殺してなければノーベル文学賞を貰えていただろう。(ノーベル文学賞ってあんまり意味無いと思うのだが、ともかく三島は順風満帆な成功者だったということが言いたいのだ)。

川端康成とか芥川龍之介だって自殺だ。文学者は不幸でなければならないという強迫観念の共有は確実にあった。

2008年現在においては、「文学者は不幸でなければならない」という考えなど無い。古典的な文学青年の自意識は終わった。というか文学自体が……。

萌えがなければラノベではない、みたいなのも、正反対の意味で、同じなのかもしれない。
その時代ごとに、何らかの精神が共有され、それに則りながら作品が作られるという問題。
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