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親子の葛藤という設定は劇薬

親子の葛藤というのは、名作によくある設定である。主人公が父親と激しく対立している名作は結構ある。だが(名作に多い設定なのに)フィクション全体としては、使用頻度が低い設定だと思う。

たぶん親子の葛藤は劇薬なのだ。上手く嵌ればかなりの名作になるが、使い方が悪いと「痛くて読めない」という作品になってしまう。「萌え」とかなら、とりあえず入れておけみたいな要素だが、親子の葛藤関係は危険物なので、入れればいいものではない。

「名作」と「痛くて読めない作品」の違いは難しい。
たとえば「永遠の仔」という作品が一昔前にブームになったが、あれなんかは、「痛くて読めない作品」の類型だ。ただ「永遠の仔」自体はよく書けている作品だったと思う。(読んだのが昔なので細部は憶えてないのだけど)。この手の作品だと、「親のせいにするな」みたいな反発を招きがちだが、主人公達が社会人として働きつつも、過去の親からの虐待のトラウマに苦しむという設定にしたことで、反発を上手く回避していた。他の部分でも「痛くて読めない」となりそうな部分を、ギリギリのところで描けていたような気がする。「永遠の仔」は痛くて読めない類の作品をギリギリのバランスで成立させた希有な事例である。これはちょっと例外だと思う。王道的に親子が対立する作品とはちょっと違う。

では、王道的な対立とは何なのか。あまり明確には言えないのだが、シンボル性を持つということかもしれない。親とはシンボルなのである。私の親とあなたの親は同じなのだ。もちろん私の親とあなたの親は別人だし、まったくの赤の他人だが、「親」として同一人物なのである。このような混同性があるのだ。親のような顔をして赤の他人に説教するのは人間の日常的行動だが、それは「親」の混同性に基づく。

星一徹も海原雄三も碇ゲンドウもシャルルも私の父親である。
そのようなシンボル性に巻き込めないパーソナルな親子の葛藤を描くと、痛くて読めない失敗作になるのかもしれない。


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