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「正しさ」への信仰

わかりやすく言えば、スネ夫が主人公になれない理由ということなんだけど。

主人公には「正しさ」が求められるわけである。
ピカレスクロマンでも、最後には制裁を受ける必要がある。
「コードギアス」や「デスノート」のように。
(「ルパン3世」みたいにコメディ色の強いものなら、主人公へのペナルティー無しでも許されるけど)。

現実だと、スネ夫的なポジションになっておくのが合理的で要領がいいということなのだろうが、フィクションでは嫌悪される。というか、すごく単純な問題として、スネ夫が主人公の話とか読んでも面白くないわけである。だから、(フィクションでは)要領悪くても「正しさ」を求めるということになるのだ。

仮にスネ夫を主人公にするなら、普段はずるい人間が改心して義侠心を見せるみたいな展開になってしまうだろう。それが「主人公の正しさ」への信仰だ。スネ夫がスネ夫のままスネ夫的に行動し続ける作品だと、著しくつまらないはずであり、誰も読みたくないわけだ。

フィクションで正義の味方が多用されるのは、「正しさ」の一番わかりやすい形だからだ。
安直と言ってもいいけど。

根本的に我々は「正しさ」を信仰している。
もっとも宗教を熱心に信仰しているはずの欧米での犯罪率の高さからしてもわかるように、正しさへの信仰と、現実の行動は別。ある意味、現実で「正しさ」を実行してないから、その補完のために人間はフィクションを作り、それを読むということかもしれない。
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