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主人公とヒロインと疎外

思春期とか青年期という言葉は難しいが、まあ人はいろいろ悩んだりする。
そして物語のテーマ性の背後には、思春期から青年期に掛けての悩みというのがあるのだ。

このあたりの年齢において、人は自分と世界を対立させる。
自我と世界は敵対関係である。
自分の世界と他者の世界の対立と言ってもいいかもしれない。

かなり多くの物語には、疎外のテーマが含まれる。
主人公とヒロインは、何らかの形で疎外されているのが普通である。
雑に言えば、アウトサイダーなのである。
ロボットアニメの主人公の多くはそのように設定される。
ハルヒだってシャナだってルイズだって、程度の差はあれ、アウトサイダーなのだ。

逆に考えてみよう。
疎外されないで、最初から集団の一員として溶け込んでいたらどうか?
ある意味、物語を始める意味もないのだ。
物語とは、疎外が提示され、そこからの回復を目指すものなのだから。

疎外されてない者は幸福である。
だが幸福な者は世界の中に溶け込んでいるので、みんな同じ顔なのである。
主人公やヒロインではないのだ。
主人公、ヒロインになるには、自分独自の顔を持ち、世界と対決する必要があるのである。

要するに世界の調和性の問題なのだ。
世界が調和していると、物語を語り始めることさえ出来ない。
世界の中の部品のひとつとして、何の問題もなく座っていれば、そこに「物語」はないのである。
世界から疎外され、個としてはじかれた時、物語は始まるのである。

悩んでいる青少年を揶揄して「まるで悲劇の主人公みたい」とか「まるで悲劇のヒロインみたい」と揶揄するのは、それなりに的確なのだ。
自分が疎外されているという感覚からしか、「自我」という物語は生まれないのだから。
余剰物としての「自我」を持っているのが主人公であり、ヒロインなのだ。
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