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主人公に欲がないので、アニメ批評や漫画批評は難しい

われわれはいろんな対象を批評する。
よく知らないような対象でも批評するわけだ。
人間は批評する動物だ。
しかしアニメとか漫画が相手となると「批評しづらい」という感覚をおぼえる。
最近見た面白いアニメとか、面白い漫画とか。
それを”批評”するとなると、どうも立ち往生してしまうことが多いのだ。

主人公に欲がないというのが物語の基本だから、それで批評がしづらいのかもしれない。
批評の多くは、われわれが現実を理解する言説でしかないから。
物語は、ある意味通俗的な理解を拒んでいる。
何しろ主人公には欲がないのだから、通俗性を超越しており、そういう対象を批評するのはとても難しい。

たとえば秋葉原事件の加藤が対象なら、とても批評しやすいわけだ。
彼の人生とか、欲望とか、彼が直面した壁のようなものは、われわれの世界の構成要素であり、加藤を語ることで自分たちの社会を語るというアプローチが可能になる。

フィクションの主人公は、アキバ事件の加藤のようなリアリティは持っていないし、社会問題も抱えていない。
批評がある種の俗世了解だとするなら、物語はその彼岸にあるのだ。

ともかく言いたいのは、フィクションの主人公は現実の人物とはまったく立ち位置が違う。
だから、普段の批評的アプローチの仕方では立ち往生してしまう。
日常的に批評めいたことを言っている人間でも、物語の登場人物には肩すかしを食らってしまう。

だから物語そのものへの批評はとても難しくて、「物語を見ているオタクを批評する」というサブカル的なアプローチにもなりがちだ。(私はそれはあまり好きではないけど)。
オタクなら現実の人物だし、まあブサイクな恋愛弱者だろうから、そういう彼らについては批評が可能なわけだ。
現実の中でのポジションがわかりやすいから。
ある意味批評とはポジションを説明する行為である。

批評しやすいアニメと、批評しづらいアニメがある。
「エヴァンゲリオン」は、エディプスコンプレックスをはじめとして、現実の象徴を突きつけてくるような作品だから、われわれに重ね合わせて批評しやすい。
エヴァを通して自分を語るとか、エヴァを通して現代社会について語るというアプローチが可能だからだ。

逆に言うと、多くの作品は、自分や現実を体現しているような象徴性を欠いている。
何しろ主人公に”欲がない”から、俗世的な構造性を欠いているわけだ。
そういう作品を前にすると、”作品を通して自分や社会について論評する”というのが封殺されているわけで、立ち往生してしまうのだ。
面白いとかつまらないという感想文を書くのが精一杯になる。
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