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目標と欲の違い

前回書いたエントリーの捕捉というか、その前段階の話を確認してみよう。

主人公は目標を持つ。
コメディではないまともなストーリーなら目標を持つ。
目標達成のためには熱心でアグレッシブで努力家だったりするわけだ。
でも無欲な努力家、という感じなのだな。
ただただ目標に邁進し、世俗的な欲は持たない。

ベートーベンという人物をわれわれが物語として理解する時、彼は、音楽の情熱のためだけに生きていて、世俗に関心はないと規定する。
実際本人のエピソードからして、そういうタイプなのだろう。
頑固な情熱家で、世俗には無欲というか、ある種の敵意を持っていたりする。
熱情はすごくても、欲はない、のだ。
(もちろんベートーベンの本当の実像はわからないが)。

モーツァルトとサリエリの関係を描いた「アマデウス」なんかは、サリエリの凡人らしい欲が描かれるが、これもモーツァルトを引き立てるためのものだ。
モーツァルト単体だと、あんまり主人公っぽくないので、サリエリと組み合わせることで、成り立っているわけだ。
(もちろん映画としては素晴らしくても、実際のサリエリがどうだったのかは知らない)。
この作品は、サリエリの視点からわれわれに引きつけて、批評はしやすいかもしれない。

たとえば誰でも知っているオーソドックスな作品として、「北斗の拳」の漫画批評を書こうと考えてみよう。
意外と難しいのだな。
主人公のケンシロウは目標と情熱があるけれど、無欲であり、まさに正統派の漫画的主人公なのだが、ケンシロウの無欲さが批評を拒んでいるような気がするのである。
「批評」するよりは、素直にこの傑作を楽しんだ方がよい、ということになる。
仮に批評するなら、フィクションとしての構造性がいかに優れているか、という書き方になるだろうか。

文学なら欲があるのかもしれない。
日本文学の最高峰である三島由紀夫の「金閣寺」は、人によっては読みづらいかもしれないが、欲を持ちながらも悩む青年を描ききっている大傑作だ。
決してピュアな苦悩ではなく、世俗的な欲を抱えながら、それを叶えられない人間として生きるのだな。
傷つけられた弱者が逆にマッチョ的なものを求めるような、そういう欲が放火に繋がるわけで、秋葉原事件の加藤とかあのあたりの抱える問題と通底している。
「金閣寺」なら評論は書きやすいだろう。作品そのものは取っつきにくいけれど。強者になり損ねた青年の苦悩が見事に描かれていて、それは現実のわれわれとシンクロしているから。
(ただし秋葉原の加藤のような悩みとまったく無縁な人には、奇妙な作品にしか見えないかもしれない)。

結論めいたことを言えば、現実のわれわれとシンクロ率が高い作品の方が批評はしやすいわけだ。ある種の自分語りや、あるいは社会評論の延長として書ける。
われわれの実像とシンクロ率が低いヒーローものだったりすると、フィクションとして如何に素晴らしいかという書き方が求められるので、アプローチが別になる。
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