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ヒロインは我が強くなければならない

平凡な人間には物語がない。
バランス感覚があり、適度に調節して妥協して、落としどころを見つけ及第点の結果を出してしまうからだ。
この不安定な時代を渡るスキルとしては結構だが、物語としては薄い。

まあそれはどうでもいい。
あくまでフィクションの物語の面白さの問題。
<物語>には濃さが必要だ。

ヒロインは妥協してはならない。
及第点の結果を求めてはならない。
我が強く、自分を取り巻く状況と対決してこそヒロインたる資格がある。

たとえば、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のような作品でさえそうだ。
ヒロインは女子中学生なのにエロゲーが好きという設定なわけだが、厳格な親はこれを否定する。
もしここでヒロインが「そうだね。まだ中学生だから18禁ゲームはやめておこう」とか妥協したら、<物語>は不成立に終わる。
あくまでヒロインの我が強く18禁ゲームにこだわるから、この作品は成立するわけだ。

我が強いというのは、必ずしも生意気という文脈でなくてもよい。
「Fate/stay night」のセイバーのように生真面目な我の強さでもいいわけだ。

物語で試合とかバトルが使われがちなのは、我の強さを演出しやすい装置だからだ。
男性主人公であれ、ヒロインであれ、<試合>に引っ張り出されれば、そこで意地を張ることになる。
たとえば「咲-saki-」の登場人物達は普段は温厚な少女達だが、麻雀卓を囲む限りは譲れないというか、我の強さで立ち向かうわけである。

現実の私たちは、戦う前から落としどころを探ったりする。
相手をなだめたり、譲歩したり、そんな具合だ。
それは正常ではあるのだが、そういうアプローチは<物語>ではないのだ。
我の強さのぶつかりあいがなくては<物語>とは言えない。
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