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空想とフィクションはどこが違うのか

ある意味根源的な問題で、とても難しいのだが、空想とフィクションの違いについて考えてみよう。そもそも「空想」は人それぞれであり、「フィクション」だって、絶対的な法則はないから、正解は無いのだけれど。

空想とフィクションの違いはおそらく、すごろくの上がりではないかと思う。空想をする場合、われわれはたぶんすごろくで上がったような楽しい状態を考えがちだ。何かが順調に達成されて、いろんなものを手にしたような感じだ。

フィクションはそういうものではないのだ。すごろくで上がった状態を描くのではない。やや語弊のある言い方をすれば、フィクションは未完で苦しい状態なのだ。投げっぱなしで未完性という意味ではなく、「上がり」ではないという意味で未完なのがフィクション。もちろん<目標>があり、その<達成>を目指すし、まあ最後の結末で「上がる」のも求められるけど、すごろくで上がって悠々自適みたいな、そういうものではないのだ。

フィクションで「続編」が失敗することがある。その理由の一つが、すごろくで上がった状態から始めてしまうからではなかろうか。主人公は”未完”でなければならないのに、完結して上がった後の話を描いても仕方がない。上がりを決め込んだような連中の話のどこが楽しいのか?

優れたフィクションが描ける人は、「未完」という感覚を上手く掴んでいるのだと思う。フィクションは<目標の達成>を目指し、エンディングではそうなるにもかかわらず、基本的には未完なのだ。

失敗を空想して楽しむ人はいないだろう。しかしフィクションでは失敗が必要である。針のむしろに座るような、そういう状況が必要である。そして、そういう状況だからこそ、巻き返しの<展開>があるのである。主人公が針のむしろに座るような状況になってしまったら、読者としてはハラハラする。ひとまず抜け出してくれないと落ち着かない。そして作者が物語を展開させ、主人公を危機から脱出させると、われわれ読者はカタルシスを得るわけだ。

稀代のストーリーテラーである浦澤直樹は、そういう「未完」の作り方がとても上手い。未完の連続を作り続け、手に汗を握らせる物語を作る天才である。それが高じて、作品のラストも投げっぱなしだったりするのだ。

ひとまず結論めいたことを書くと、空想とは「完成した楽しいイメージ」なのだ。何かが完成した状態をイメージすること。それを楽しむのが空想。フィクションは未完なのだ。完成を目指しながらも、そこに辿り着けない連続的なシークエンス。それが物語なのだ。
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