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「市民ケーン」を久々に観た感想




最近は著作権切れの映画のDVDが500円とか、あるいはそれ以下の金額で売られていたりする。私が今回買ったのは「市民ケーン」と「ジェーンエア」と「第三の男」が三枚セットで999円という代物である。

さて、「市民ケーン」を久々に観た。1941年の作品であり、実在する新聞王をモデルにドキュメンタリータッチで描いた映画。公開当時はこの新聞王が妨害したため、興行的には不振に終わった。しかし現在では、映画史上最高傑作とも言われる。

ともかく、久々にこの映画を鑑賞し、あらためて非常に素晴らしいと思ったわけだが、この映画をつまらんという人もいるようである。確かに昔の作品だから映像が不鮮明だったり、ストーリーに関しても「24 -TWENTY FOUR-」みたいに次々と出来事が発生して引きつけられるようなものではない。だったらどういう性質の面白さなのかと言うなら、浸る面白さである。この映画を観つつ、描かれるテーマに耽溺する、そういう時間を過ごすことだ。「スタンドバイミー」の楽しみ方だ。「バックトゥーザフューチャー」みたいな楽しみ方が出来る作品ではないですよ、ということ。

「栄光と挫折」とか「光と影」とか、そういう陳腐な表現が「市民ケーン」にはふさわしい。陳腐なテーマをとても鮮烈に描いているのだ。テーマが陳腐であるというのは、ある意味、普遍的で根源的なテーマであるということでもある。たいていは陳腐なテーマを選べば陳腐な作品に仕上がってしまうのだろうが、「市民ケーン」は、成功者の孤独みたいなものを、最高に素晴らしく描ききっているのである。

ジョン・レノンやカート・コバーンに憧れる男の子の感性と言えるのかもしれないし、あるいはメタから相対化してしまうなら、成功者に挫折を期待するワイドショー視点だとも言える。「市民ケーン」がドキュメンタリータッチであるのは、成功者の転落をゴシップ的に描いて、われわれ庶民に提供するためでもある。つまり、主人公に同一化して観るのと同時に、まさにわれわれが、小市民的な観客でしかないという立場でもあるのだ。

この作品が永遠の名作と謳われるのは、社会的な成功者と自分との関係という問題を扱っているから、でもある。社会的に大成功した人物というのは、この世界のシンボルでありアイコンだ。そういう遠い憧れを自分たちの目線に下げるとしたら、ワイドショー的な存在になってくれるのが一番で、その部分が実は「市民ケーン」の最大の共感的構造なのかもしれない。
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