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「まおゆう」が大人気なのは、<属性>で人間が存在するのが、物語の原型に近いから

最近ネットで話題の「まおゆう」を読んでいるところだ。
「まおゆう」については説明不要だと思うが、『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』という、2ちゃんねるで書かれている小説。
本来なら、最後まで読了してから論評を書きたいところだが、いかんせんボリュームがあり過ぎるので、読みかけの段階で感想を書いておこう。

この作品の興味深いところは、キャラクターが固有名を持たないところだ。
キャラクターは「勇者」とか「魔王」とか「メイド」などの属性で語られるだけ。
商人や農民が出てきても、彼らの固有名はわからない。
考えてみると、昔はわれわれは名字を持っていなかったわけだ。
あるいは、名字が付くとしても、職業を現す名前だったりする。
つまり社会的な<属性>でわれわれは語り尽くされてしまう。
物語では、そういう<属性>を持った人物として登場し、そのロールプレイを義務づけられるのだ。
この自由な世の中に生きているわれわれだって、<属性>として存在しているわけだ。
属性を離れたところの<私>というのも無くはないのだろうけど、そういう<本当の自分>みたいなのは、蜃気楼だ。
それは形にならない未確定の夢や欲動のようなもので、<他者>との関係は築きえない。

「まおゆう」にしても、古典的な物語として見れば、あまり特殊ではないだろう。
童話に出てくる王様とかお姫様には名前がないことも多い。
<王様>は<王様>であり、<お姫様>は<お姫様>なのだ。
お爺さんやお婆さんが出てくるとしても、いちいち名前を付けないのが普通だろう。
要するに<属性>で現されてしまうわけだ。

われわれがどこかの店に行ったとして、それは<客>として<店員>に関わるわけである。
私の本名などどうでもいいし、店員の本名などどうでもいい。
もちろん名前を記入させられることもあれば、店員の名前が明示されていることもあるが、こういう場合の名前は、芥子粒のようなもので、意味を持たない。
<店員>は<店員>であり、たまたま名札が付いていても、それは意味を持たないのだ。

「新世紀エヴァンゲリオン」が永遠性を持つのは、人間の原型に触れている物語だからだ。
実はわれわれは原始人である。
産業革命以降の技術発展によって誤魔化されているが、別に進化したわけではない。
多くの人が文字を読めないような、そんな時代の人間とたいして変わらないのだ。
仮に人類が、刻々と進化している生物なら、<アダム>は猿とかチンパンジーみたいなもので、象徴性を持たないだろう。
われわれは、アダムと進化レベルで同じだというのが前提としてあるわけだ。
属性だけで物語を紡いでいく「まおゆう」も、<アダム>から紡ぎ出す「エヴァンゲリオン」と似ていて、ある種の創世記的な構造を持つのである。 このエントリーをはてなブックマークに追加
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