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フィクションの受け手は天罰が無いと納得しない

作中で悪い行いが描かれたら、その後には「天罰」が求められる。
正義の味方が罰を下すのでもいいのだけれど、ともかくペナルティーが与えられる必要がある。
青年誌とかだと、悪事がそのまま放置されるというストーリーもなくはないのだけど、基本的に悪事の垂れ流しは好まれない。

読者とか視聴者は天罰を信じている病気なのだろうか?
たかが作り話の中で悪事があった場合、ペナルティーがあるかどうか目を皿のようにして監視しているというのは、変と言えば変である。

どのようないい作品でも、一部の人間が文句を付けるわけだが、天罰の問題はこれとは違う。
天罰を求めるのは、一部の視聴者ではないのだ。
ほぼ全員が天罰を求めると言ってもいいだろう。
われわれはある種の裁判員として、アニメや映画を視たり、漫画や小説を読んだりするわけである。
悪事が発生した段階で「バチが当たる」のを待つ状態になるわけだ。

結局のところ、道徳感情のない人間というのは存在しないのである。
ヤクザでも他人の悪事には厳しい。
あるいは、われわれが道徳的な潔癖を求める対象というのは限定されていて、それがフィクションということなのかもしれない。
フィクションは現実のわれわれよりも高い規範意識を持たなくてはならないのである。

余談として言うなら、「ナニワ金融道」が衝撃的だったのは、われわれが共有している物語の展開とは全然別の次元で描かれたからである。
”借金”という絶対的な規範を中心に据えて、凡百の甘っちょろい展開を唾棄するような冷徹な作品だったからだ。
まあ「ナニワ金融道」は準ノンフィクションみたいな作品だから、ありがちな物語の枠を越えることが可能だったのだけれど。 このエントリーをはてなブックマークに追加
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