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政治的に正しいフィクションしか描かれない

政治的に正しいという表現はわかりづらいかもしれない。
ポリティカル・コレクトネスの訳語だ。
かなり噛み砕くなら、団体から抗議が来ないような「正しい」表現、ということ。
わかりやすくは、差別ですね。
差別的な表現があれば、抗議が来る。
だから、差別がない作品が「政治的に正しい」。
そしてフィクションはそういう「政治的な正しさ」に支配される。

差別から離れたものでも、政治的に正しい(ポリティカル・コレクトネス)の問題は生じ得る。
フィクションを送り出す人達は、そういうのを気にしながら、抗議が来ないような作品作りをしている。

「デビルマン」はかなり異色で、あり得ない作品だ。
普通なら、政治的に正しくないという理由でデビルマンは没になりそうだ。
理由は知らないが、デビルマンは出版された。
そしてその表現の価値が受け入れられた。
「デビルマン」は永井豪しか思い浮かばなかった作品というわけではなく、タブーとして避けられるような表現を多用した作品だ。
誰もやらないから、唯一無二の作品となったのである。
そういう意味では「デビルマン」の評価は難しい。
なんの制約もなく好き勝手に書いていいならデビルマン以上の作品は書けるという作者はたくさんいるかもしれない。

何にせよ、作品が似たパターンになるのは、政治的な正しさ、を目指しているからなのです。
私の好きな「ハートキャッチプリキュア」の終盤が、世界を嫌う大悪人と、世界を愛する主人公というありきたりな構図なのは、そういうテンプレにしておけば安心ということである。
(まあ独創極まりない展開をした場合、私が喜ぶかというと、話は別だが)。
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