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弱者に立ちはだかる壁。そこから人間を描いた「エヴァンゲリオン」と「金閣寺」

ここ五年くらいの間、今さらエヴァンゲリオンの批評など書く必要がないと思っていた。だが、2011年になって考えるに、やはりエヴァを越える作品は現れていない。個人的には「コードギアス」はかなりよかったけど、客観的に見て、エヴァを越えたとは言えない。

というわけで、エヴァンゲリオンという作品と対決していかなければならない。多大な影響を与えているにも関わらず、誰もこれを越えることが出来ない。特に越えることが出来ないのは、エヴァが提示した人間存在という課題である。テーマ性、人間というテーマについてこれだけ描けた作品は、アニメの歴史において存在しない。エヴァは、文学作品で言えば、三島由紀夫の「金閣寺」と同じくらいのテーマ性を持っている。それくらいの作品なのだ。

私はエヴァンゲリオンが好きであり、嫌いでもある。この作品のすごさに圧倒されながらも、「いやらしさ」も感じるのだ。たとえば碇シンジの弱さである。弱そうな中学生を主人公にして、その弱さと対峙させるといういやらしさ。主人公だから強くなければならない、しかし、弱いという葛藤。碇シンジのように、身長も低く運動も出来ない生徒はあんなものだと思うのだが、それを槍玉に上げていくのである。男は強くなければならない、主人公は強くなければならないという観念に訴えて、弱者をいたぶる作品だ。しかし、これは批判ではない。欠陥の指摘ではない。私が嫌悪感を覚えると書いただけの話であり、作品としては、極めてストライクゾーンを突いたのだ。強さ・弱さという課題をこれだけうまく設定して、胸が苦しいほどに圧せられる作品は他にない。

さきほど、三島由紀夫の「金閣寺」の名前を出したが、「金閣寺」も弱さがモチーフだ。まるで碇シンジのように冴えない、そして吃音の主人公。この主人公・溝口が煩悶し、世界と対決する様子が描かれるのが「金閣寺」である。「金閣寺」は要は金閣と戦うわけで形而上学的な小説だけれども、主人公の溝口の弱さはリアルだ。金閣寺に放火するだけの作品を、日本文学最高傑作の地位に押し上げている。エヴァの碇シンジや金閣寺の溝口を思うに、弱さは本当にリアルだ。長身でイケメンのスポーツマンとかが主人公だと、われわれにリアルとして迫ってこない。
余談として言えば、男子にとってリアルでないキャラ立てをして、腐女子から圧倒的な人気を博したのが「テニスの王子様」だ。あれは少年漫画ではなく、なにか別のものだろう。ああいうカッコいいテニスのお兄さんはリアルにはいるんだろうけど、フィクションとして描く場合に迫ってくるリアルではないのだ。
エヴァも「金閣寺」も、弱者ならではの迫真のリアルな感覚を描いているのだ。普通に考えれば当然だ。スペックが高い人間にとって、この世界の困難は乗り越えやすい。だが、スペックが低い人間にとっては、この世界の骨組みのひとつひとつで躓いたり、引っ掛かったり、そういう息苦しい格好で、世界と対峙するわけである。ハードルを乗り越えられないがゆえに、ハードルの構造に囚われ、それと向き合うことになるのである。

エヴァンゲリオンという作品で言えば、ハードルをクリアしていく作品ではなく、ハードルを越えられない人を描く作品なのだ。そしてそれが人間存在なのだ。越えられないハードルに手足を縛られてるのが人間なのだ。あまりにも簡単にすいすいと人生の課題を乗り越えた人間にはわかりづらいかもしれないが、エヴァの碇シンジが持っている重苦しい軛は、われわれの人生で思い当たる。視聴者は彼の弱さを責めるけれど、それが作品の上手いところで、碇シンジを批判しているうちに作品にどっぷり嵌り込む。

「金閣寺」において金閣とはなんぞや、というなら、それは本人が乗り越えられない絶対者のようなものであり、激しい憧れと渇望をもってしても届かないものである。そしてその先にはいけない。三島由紀夫の「金閣寺」を読めばわかるが、主人公は金閣寺に放火した後、金閣に背を向けて走り出す。そして炎上している金閣寺は描写されないのである。これはまさに天才三島由紀夫が知悉していたところで、燃やしたら、燃えかすしか残らないことはわかっていた。だから、主人公は放火して遠く離れたところで煙草を一服し「生きよう」と言うのである。この「生きよう」というセリフが本当の意味での問題の解決から遠いことは、「猫を殺しても猫の美しさは消えない」という柏木の言葉によって作品の中で示唆されている。

エヴァンゲリオンの話に戻そう。強さとは掟だ。掟の関係性において析出されるのが、強者と弱者なのだ。たとえばライオンがいくら強いからと言って、ライオンは強者で人間は弱者だとは言わないわけだ。ライオンが恐いとしても、それは物理的な怖さであり、ライオンが人間を支配する掟とか、そういう話ではない。強い人間はライオンとは違う。ライオンなら撃ち殺す選択肢もあるが、人間の強者を撃ち殺すわけにはいかない。アメリカのハイスクールで時々そういう事件は起こるけど、もちろん、本人も自殺するという末路なわけだ。迫り来るライオンを殺して問題解決というのとはまったく違う。人間の強さ・弱さというのは、人的な圧迫感であり、逆らえない掟のようなものである。エヴァンゲリオンにおいては、そのあたりの掟に主人公が縛られていて、それがゆえに、世界の在り方がくっきりと浮かんでくる。平凡に幸せに生きている人間よりは、弱者の方が、世界の位階秩序に精通しているのだ。その代表者が碇シンジであり、アニメの登場人物で誰も彼を越えていない。弱者代表の碇シンジに聖痕が刻まれるのは、いかにも当然である。そういう「弱者代表」という碇シンジのポジションが宗教的なテーマに繋がっていくのだ。
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