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アリバイとしての読書、アリバイとしてのアニメ視聴

ニーチェを読んだことがない人でもニーチェ思想は「理解」しているかもしれない。
マルクスを呼んでなくてもマルクス主義は「理解」しているかもしれない。
それなりの読書家で多少の教養があれば、読んでない本でも評判を耳にするだけで「あたり」が付く。
実際、読書というのは予想通りのことが書いてあるのを確認する行為、という部分もある。
ニーチェ思想を漠然と理解している人がニーチェの本を読んでみるというのは、単なる確認、あるいはアリバイだ。
読まないで語るのもなんだから、アリバイとして読みましたよ、ということだ。
われわれの読書の結構な部分が「読みましたよ」というアリバイのために費やされている。
本なんて、他人の評判だけ聞いていれば読まなくてもわかることが多いのである。

アニメ視聴だってそうだ。
見なくてもわかるアニメ。
まとめブログを眺めたり、他人の評判を聞けば、見てないアニメでも把握できる。
とはいえアニメに言及するとなれば、さすがに見ないわけにはいかないので、「見ましたよ」というアリバイのためにアニメを視たりする。

書籍でも、アニメでも、他人の評判を小耳に挟んでいれば、事足りてしまう問題。
事前の想像とは誤差があるだろうが、誤差の範囲に過ぎないとも言える。
たとえば「フラクタル」で言うなら、ジブリみたいな作風で、ナディアとかラピュタを意識したような作品らしいですよ、と他人から粗筋を説明されれば、見なくてもいいかもしれない。
アリバイとして「フラクタル」を見ることに意味があるのか?
もちろんまだ第三話までしか進んでないから、「ナディアとかラピュタみたいな」という評判を超える新鮮な感動を与えてくれる可能性だってあるが、しかし実際のところ、「ジブリの劣化版」みたいな説明でだいたい合っていて些末な誤差くらいしかないのが結末だろう。
別に「フラクタル」を特にdisっているわけではなく、アニメ全般の問題。
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